茜色に夢を
目の前に現れた景色はそれは素晴らしいものだった。
眼下に広がるのは多くの屋根を連ねる住宅街や部活動に励む学生が駆け回る学校の校庭。
街中を走る車などは豆粒のように小さかった。
でも、見えるのはそれだけではない。
奈良の象徴とも言える、東大寺や奈良公園はもちろん、視界の端には和歌で有名な若草山も見えた。
そして、奈良の街並みの先に見えるのは、大阪と奈良を隔てている生駒山。
山の上にはどこまでも続くと思わせる雲ひとつない青空が広がっている。
まさに絶景。俺は一時、疲れも忘れて、食い入るようにその光景に見入ってしまった。
「すごい」
登る前はこの山をそんなに高い山とは思わなかった。
もちろん、登り始めてからは、その高さも果てしないように思えていたものの、実際には四百メートル半ば程度だ。
富士山と比べれば、その高さは五分の一。
富士山と比べるのは筋違いかもしれないが、まぁ簡単に言うと、この山は素人でも簡単に登れる高さなのだ。
でも、この光景はどうだろう。山登りに費やした体力が些細なものに思えるほど、綺麗だった。
ここまで登ってよかったと心の底から感じた。
自然と文化が調和した姿は俺の心にそれほどまでの深い感銘をもたらしたのだった。
「どう、来てよかったやろ?」
「ああ。本当に」
「ここは高円山。隣の若草山に比べたら、知名度は下やけど、その分、とても落ち着くところ。だから、ウチは好き」
夏希はそう自慢げに語って、座り込む俺の手を引っ張りあげた。
まだ見せたいものがあるらしく、もう少し歩いて欲しいと頼まれた。
俺はさっきの光景に興奮したせいか、いつの間にか疲れが和らいでいることに気がつく。
だから、文句はなかったし、そう遠い距離でもなさそうだったので、素直についていった。
ほんの少しだけ歩くと、開けたところの中心地に出る。
すると、山の頂上付近全体を見渡すことが出来た。
そこでようやく、所々に転がる石板の正体を理解する。
それは、見慣れた一つの文字をかたどっていた。
「この石、『大』の文字に並んでいたのか」
「そう。ここはお盆になると、大文字送りがされる場所やねん。京都のと比べると歴史は浅いけど、大きさはそんなに負けてないんとちゃうかな。戦没者の慰霊の為って言われてるけど」
「そうなのか。一度見てみたいな」
「……とっても、綺麗やったよ。何時もは闇に包まれてるだけやったこの山が、ぼんやりと炎で浮かび上がる姿は本当に幻想的やった。また、見てみたいなぁ」
夏希はほんの少し、寂しそうに目を細めた。そして、小さくため息を吐く。
そんな何処か遠くを懐かしむように見る夏希の瞳は、また儚げに複雑な色を宿していた。
まるで出会いたての頃、松葉の下で絵に描いたように。
俺は何と声をかけていいか迷った。
けれど、俺がかつて美しいものに見えていたそれは、いつしか彼女の垣間見せる弱さなのだと理解していた。
いつもは明るく笑う夏希が持つ、暗い影。
だから、本当の夏希は月か太陽か、どちらなのだと、尋ねた時にこう答えたのだ。
どちらも夏希ウチである、と。
今ならその意味がわかる気がする。
だからこそ、声をかけなくてはならなかった。
「夏希。俺さ」
「ん」
「そん時、また奈良に来るよ。だから、一緒に見てくれないか。美味しいものでも食べて。また絵を描こう」
「……優輝さん」
俺は努めて明るい声で、夏希の肩をポンと叩いた。
夏希にはやっぱり、笑っていて欲しいから。
夏希の明るい笑顔は今の傾きかけた太陽には絶対に……いや、真昼の太陽ですら叶わないあたたかさがあるのだ。
それを失ってしまいたくはなかった。
そんな俺の思いが通じたのかわからないが、夏希は軽く目を見張った後、困ったように笑った。
影は既にどこにも見当たらない。
しかし、返ってきた言葉は意外にも謝罪だった。
「ごめん。優輝さん。ありがとう。でも、その頃ウチはここを離れてる。一緒には見れへん」
「何処かに行くのか?」
「そんなトコ。せっかくのデートのお誘いやけど」
ウチってば、罪な女。と夏希は、およよと崩れ落ちる真似をして見せた。
しかし、石板が熱かったのか、あちちっと大慌てですぐに立ち上がる。
俺は思わず、プッと吹き出してしまった。
夏希はペロリと舌を出して、お茶目に俺をからかう。
そうして、ちょっとシリアス気味だった空気を夏希はいとも簡単に払拭してしまった。
俺の緊張も解けて、気がつけばグゥと腹の虫が鳴き出す。
まだ五時過ぎだが、山登りで体力を消耗したせいか、いつもよりお腹が減っていた。
流石、夏バテとは無縁な俺の胃だ。
「優輝さん、疲れたやろ? ちょっと、何か食べよう!」
「ああ、賛成。すごい腹減った」
「ふふっ、ちょうどお腹に溜まるもの持ってきて良かった」
「だな」
俺はリュックを下ろすと、中身をゴソゴソと漁った。
そして、山に登る前に購入した「柿の葉寿司」をビニールから取り出す。
何でも奈良の名物らしく、夏希に勧められて買ったのだ。
初めはご飯もので、少し遠慮したけれど、今となれば嬉しい限りだ。
夏希には従っておいて良かったと思う。
「すごい。柿の葉の香り」
箱を開けた途端、ふわっと香るのは柿の葉の芳醇な香り。
夏希がはしゃいだ声を上げる。
柿の葉だからと言って、別に実の甘い匂いがするわけではなく、少しクセのある香ばしさが特徴的だった。
俺は嫌いじゃない。むしろ、酢の匂いと混じり合い、食欲を煽られた。
綺麗に箱に詰められた寿司を一つ取ると、ワクワクしながら葉を開いてみた。
この柿の葉寿司は鯖と鮭の二種類があるらしく、俺がとったものは綺麗なピンク色をした鮭の寿司だった。
試しに、一口ぱくり。
「おっ、これ美味しい」
意識せず、素直な言葉が口に出た。
大きさも食べやすく、思っていたほどクセはない。
これなら何個でもいけそうだった。
お次は鯖を手にとって、早速そちらも食べてみる。
夏希も俺の隣で、幸せそうに柿の葉寿司を頬張っていた。
でも、確かにそんな顔になるほど美味しいのだ。
俺も今、鏡を見れば同じような顔をしているに違いない。
まぁ、俺の場合はそんなの、ただ気持ち悪いだけだろうが。
そんなこんなで、俺たちはいつの間にか箱の中を空にしていた。
もう一個、と夏希と同時に箱に手を伸ばしかけて、何も掴めないことに気がつく。
思わず、顔を見合わせて笑ってしまった。
お腹も一杯で、幸せな気分だった。
「あー、美味しかった!」
「ほんまやなぁ。ウチも久々に食べたけど、こんなに美味しかったっけ? って思ったもん。きっと、優輝さんと食べたからやな」
夏希はそう言って、ポンと自らのお腹を叩いた。
俺は恥ずかしげもなく言われた言葉に、照れくさくなる。
やっぱり夏希の素直な言葉には未だに慣れなかった。
その照れを隠すように、リュックを漁っていると、ふと持ってきたスケッチブックが目に付いた。
そして、もう一度顔を上げて、眼下に見える景色を眺める。これはいい機会かもしれない。
「夏希、ちょっといいか?」
「ん? 絵、描くの?」
「まぁ、そんなところだ。少し時間がかかるかもしれないが……」
「そんなん、気にせんとって! ウチ、優輝さんの絵、好きやし。楽しみに待ってる」
出会った当初こそ、退屈そうにしていた夏希だったが、今では絵を描くと言えば、たちまち目を輝かせた。
スケッチブックをのせた俺の膝の隣に自分の膝を並べると、ワクワクしたように手元を覗きこんでくる。
正直、それだけくっつかれると少し描きづらかったが、これだけの反応を見せられると、何も言えない。
俺は夏希のサラサラとした髪が時々肌をくすぐるのを感じながら、白い紙の上にもう一つの世界を丁寧に創り上げていった。
ここまで登ってきた山道には俺と夏希の想い出を。
広がる街並みには古代より受け継がれてきた想いを。
赤く染まってきた空にはこれからへの想いを存分に込める。
このスケッチブックに描くのは決して、ありのままの姿ではない。
見えないけれど、大切にされてきた無数の想いと共にこの景色はある。
俺は何とかして、それを描きたかった。
俺なんてまだ未熟だけど、それでも今出来る精一杯をここには残しておきたいのだ。
これを俺の一生の宝物にしていたい。
その思いは強欲かもしれないけど、俺の偽りようのない純粋な願いだった。
「夏希、なんで俺は絵を描くことを始めたと思う?」
「えっ……好き、やったから?」
「まぁ、それはそうだけど。好きになったキッカケ、みたいな」
「えー、どうやろ。美術の授業が楽しかったから、とか?」
夏希は俺のわかりづらい質問にも真剣に首を捻ってくれた。
答えは自信なさげだったものの、それだけ本当に悩んでいてくれたことがわかる。
俺は自分の言葉の足らなさに歯がゆい思いをした。
もっと上手く言葉を選べたら格好がつくのに、これでは情けないだけだ。
「もちろん、それもキッカケの一つだ。でも、一番は逃げたかったからだよ」
「逃げる? それって……」
「無価値な自分から。否定される現実から。キャンパスの上にもう一つの世界を創ることで、その世界に逃げ出したかったんだ。俺の創った世界ならきっと、俺の思い通りにいく。少なくとも、俺の価値を見出せるかもしれなかったから。そんな、どうしようもなく子供じみた理由だった」
男の子ならきっと一度は抱く英雄願望。
それは何処までも自己肯定感が低かった俺にも例外なくあったのだ。
とはいえ、自分の創った箱庭でしか輝けない、小さなものであったけど。
でも、どうしようもなくその光に俺は魅せられてしまったのだ。
そして、麻薬のように溺れた。現実逃避という一時の快楽の為に、無責任に世界を生み出していたのだ。
だから、結果出来あがったのはハリボテでしかなかった。
他者には何故か評価されたけど、俺自身では夢を見ることを終えてしまった世界には何の価値も見出せなかった。
「けど、ここで描いた絵は違ったよ」
そう。この奈良で、夏希と出会って描いた絵はそんな感じではなかった。
今、この輝かしい瞬間を、また湧き上がる想いを何時までも取っておきたくて、絵という手段を選んだ。
それは俺が出来る唯一のこと、しかし何処か虚しさを感じていた絵を描くということに、価値を見出せた瞬間だったのだ。
現実逃避という目的を持たない、絵の世界は心の底から楽しかった。
気がつけば、無我夢中で手を動かしていた。
大して生きる目的もなかったモノクロの世界が夏希という光を得て、今は色鮮やかに彩られている。
夏希が見せてくれた世界は本当に美しかったのだ。
「だからさ、夏希には言っておかなくちゃならない。……ありがとう。本当に、ありがとう。俺に新しい夢を与えてくれて。絵を描きたいと思わせてくれて。綺麗なモノをたくさん見せてくれて、本当に感謝してる」
「ええっ? そんなん、とんでもない。優輝さんが夢を見つけれたのは、優輝さん自身が頑張ってたからやろ? ウチは何もしてへんって」
「いや、俺だけじゃ今頃はきっと、駄目になってた。それは確信してる。だから、やっぱり夏希のお陰だよ」
俺が微笑みかけると、夏希は顔を真っ赤にして俯いた。
真正面からこういう言葉を言われると、夏希ですらも恥ずかしいらしい。
夕日に照らされた横顔はちょっぴり決まり悪そうだった。
俺はそれがまた可笑しくて、クスクスと笑ってしまう。
すると、夏希は怒ったように、俺の肩をペシリとはたいた。
「もう、優輝さんだっていつも同じ感じやのに!」
「ごめんごめん。夏希のそういう反応って、何だかいつも新鮮でさ。つい」
互いに一頻り笑いあった後は、心地の良い沈黙がその場におりた。
俺は粗方描き終えた手元の絵に視線を落とすと、目の前の夕焼けと見比べる。
俺も自分の持てる力の全てをぶつけたつもりだったけれど、やはり本物の迫力には敵わなかった。
真っ赤に燃える太陽はゆっくりと山の中へと消えていく。
東の空を振り返ってみれば、既にそちらは藍色の闇が迫ってきていた。
様々な色が混ざり合った夕暮れの空。いつ見ても、美しかった。
「なぁ、夏希」
「ん?」
「千三百年前の人も、今の俺たちみたいにこんなに綺麗な空を誰かと見上げてたのかな」
普段なら言えない気障な言葉。
けれど、今だけはそれを恥ずかしいとは思わなかった。
まるで今の瞬間、彼らと心が繋がったかのように、本当にそうであるような気がしたからだ。
夏希もそんな俺を笑うことはしなかった。
「うん、間違いない」
夏希は頷いた。疑いもなく、ハッキリと言いきった。
そして、夕陽のその先を見据えるかのように、夏希は細く小さな手を伸ばした。
一瞬、躊躇うように手が震える。
しかし、次の瞬間には何かを掴むように、その手は閉じられた。
「優輝さん、ウチ応援してるから。優輝さんの夢をずっと、ずっと。例え……」
夏希は言葉を一度切った。
桜色の唇がキュッと引き締められ、今にも泣き出してしまいそうな表情になる。
気がつくと、夏希の瞳から大粒の涙が溢れ出していた。
夏希自身は泣くまいとしているようなのに、涙はいくら夏希が拭えど止まらない。
やがて、夏希は嗚咽を漏らしながら、俺のシャツに縋り付いた。
俺は理由を聞くことすら出来ずに、ただただ日が完全に沈むまで、その背を撫で続けていた。