陽炎の如く
姉の突然の訪問をきっかけに、まるまる一日の予定が狂ってしまった昨日。
夕方にはゲリラ豪雨が襲い、結局、夏希としていた出掛ける約束は流れてしまった。
もちろん、俺のことを考えてくれていた夏希はそれを咎めることはしない。
それどころか、俺を元気付けようとしてくれて、俺としては個人的な事情に夏希を巻き込んでしまったことを余計に申し訳なく思っていた。
というわけで、昨日の謝罪も含めて、今日は思う存分甘やかしてやろうと、蒸し暑い中外へ出たのだが。
「いらっしゃいませー! 本日はどのようなものをお求めでしょうか?」
「えっ? ……ええっと」
目の前にはニコニコと営業スマイルを浮かべる女性店員さん。
俺は何て答えて良いのかわからずに、正直戸惑っていた。
ここは可愛らしい小物やアクセサリーの並ぶ雑貨店。
こんなところへ入るのは、昔姉に荷物持ちをさせられた時以来である。
俺には到底似合わない場所だが、今日は夏希に連れられて、店内へと足を踏み入れていた。
だが、ここにきて俺はある問題に直面していた。
「彼女さんへのプレゼントでしょうか?」
「いえ、違うんです。その」
俺は困り果てて、夏希へと視線を向けた。
しかし、夏希は宝石のようにキラキラと輝く商品に夢中でこちらに気がつく様子はない。
俺は本格的に店員さんの質問にどう答えようものか頭を抱えた。
そんな俺を急き立てるように、店員さんは俺に訝しげな表情を向けてくる。
でも、仕方がなかった。
そう。直面した問題とは夏希と俺の関係性を語る言葉が見つからないということである。
随分と今更ではあるが、俺と夏希は友人や恋人という説明では相手に納得させられないほど年が離れているのだ。
というか、そんなことを答えれば、間違いなく犯罪者認定されてしまいそうだ。
では、年の離れた妹という選択肢が浮かぶが、俺と夏希は十歳以上も違う。
その時点でかなり苦しいわけだが、その上俺と夏希は絶望的なまでに似ていない。
押し通せば無理ではないにしろ、苦しすぎるのだ。
だから、俺は店員さんの何気ない質問に答えるのに窮していた。
「姪っ子の……付き添いです」
「姪っ子さん?」
絞り出したのはそんな答えだった。困り果てたあげくに何とか出た言葉だったが、中々上手い答えではないかと思う。
だというのに、店員さんは相変わらず首を傾げたままだった。
何かボロが出ていたかと内心で焦るものの、そうではないらしく、店員さんはキョロキョロと周囲を見回していた。
俺もつられて周囲を見て、重大なことに気がつく。
「あの、姪っ子さん……」
「あれ、いない?」
夏希はいつの間にか店内から姿を消していた。
慌ててショーウインド越しに外に視線を向けると、こっそりと店を離れていく夏希の姿を見つけた。
どうやら、俺の反応が面白かったらしく、からかうつもりだったらしい。
俺は呆れ果てて、ため息をついた。
「すみません。あの子、店の外へいつの間にか出てたらしいです」
「そう、ですか。またお越しください」
店員さんはキョトンとしながらも、最終的には再び営業スマイルを浮かべた。
何も買わずに出て行く客など、面倒なだけだろうに、一生懸命な子だ。
俺は若干の後ろめたさと共に店を出ると、夏希に追いついた。
ポンと肩を叩くと、夏希は無邪気にクスクスと笑っていた。
それだけ戸惑う俺の反応が面白かったらしい。
夏希は悪戯っぽく、尋ねてきた。
「で、結局何て答えたん?」
「姪っ子」
「えー、残念! そこは恋人でもええねんで?」
「あのなぁ、そんなこと答えたら俺は刑務所行きだ。社会的に死ぬ」
「もう、冗談やって」
そんな、ウチも優輝さんのことはロリコンとは思ってへんよ、と夏希は疲れた声で答える俺を笑い飛ばした。
でも、俺たちは知り合ってまだ五日目なのだ。
もし俺がロリコンだったらどうしたんだ、と思わず聞きたくなってしまう。
だが、それを冗談でも言えなかったのは、夏希は俺に対して絶対的な信頼を向けていたからだった。
まだ何も知らない出会った時から、情けない姿まで見られてしまった今もまだ、夏希は俺のことを見放さずに懐いてくれている。
つまり、俺もまたそれに応える義務があった。
だから、そんなセクハラ紛いのことは冗談でも言うのは憚られたのだ。
「おーい、優輝さん?」
そうして、少しの間思考の海に沈んでいると、夏希がいつの間にか目の前で手を振っていた。
俺はそれで我に返って、慌てて顔を上げる。
一度物事を考え出すと周りが見えなくなるのは俺にも姉にも共通する悪い癖だったりする。
俺は軽く謝っておいた。
「ごめん。それより、さっきの店は気に入らなかったのか? あんまり見てなかったと思うけど」
「うーん、もしかしたらあるかなと思って、入っただけやから。元から期待が薄かったというか」
「あるかなって、何か目的があって探してるのか。てっきり、手当たり次第入ってるものだと……それで? 何をご所望で?」
言われてみれば、夏希の好きそうとは言えない明らかに古い渋い店やちょっぴり子供っぽすぎるおもちゃを並べる店、あとは土産物屋にも入ったので何かを探していたのなら納得だ。
それなら俺も手伝おうと、目的を聞き出す。
だが、夏希は迷うように目線をそらして、口籠った。
「あー、うん。ありがとう。けど、秘密」
「なんで?」
「それも秘密」
夏希は頑なに言おうとはしなかった。何を聞いても「秘密」と返すだけで、いろんなお店へと足を運ぶ。
俺はそれを疑問に思いながらも、文句は言わずにその後をついて回った。
目的を話してくれないとはいえ、今日の主役は夏希だ。
色んな店を見て回るのも思いの外楽しいので、不満はない。
なのに、夏希はというと時間が経つにつれて、徐々に不機嫌になった。
それは俺に対してというか、店の品揃えに苛立ち、焦っているみたいに見える。
流石に訳を聞くべきだろうか。いや、無理に聞き出さない方が良いかもしれない。
俺がそんな葛藤をしていると、夏希はふと思い切ったように口を開いた。
「あの、優輝さん。聞きたいことがあるんやけど」
「俺に答えられることなら、なんでも」
「あのさ、優輝さんは何が好き?」
「何って……食べ物とかか?」
「何でも。思いつくものを言ってって」
「そうだなぁ」
そう言われてみると、中々思いつかないものである。
小さい頃なら、あれが好き、これが嫌いというのがハッキリとしていたが、大人になるにつれ、その境界は曖昧になっていった。
嫌いを無くす努力をさせられ続けていたからかもしれない。
おそらく、それが大人に必要なスキルだから。
俺は少し考えた後、思いついたものをパラパラと上げていった。
「うーん、食べ物ならラーメンとかかな。甘いものとかも基本、好きだし、動物なら熊。あとは絵を描くこととか、邦ロック聴いたりとか。ゲームも結構好きだし、スポーツもサッカーとか、テニスとか見るのは好き。色は最近赤を選んでることが多いな。あとは……」
「へぇ、意外」
他に何かあったかと首を傾げる俺に、夏希はそんなことを呟いた。
わりとありがちな好みだと思うのだが、夏希には違って聞こえたのだろうか。
インドア派だと公言している俺だから、スポーツに興味があることが意外だったのかもしれない。
しかし、夏希はそれ以上の言葉を続けることはしなかった。
代わりに考え込むようにうーんと唸って、とことこと先を歩いて行ってしまう。
俺は相変わらず困惑しながらも、その後をついて行った。
「なぁなぁ、本当に教えてくれないのか?」
「だって、恥ずかしいし……秘密の方が面白いと思うから」
「じゃあ、なんだって俺の好みなんか聞きたがるんだ?」
「ちょっと参考にさせてもらっただけ。ほら、今の男の人がどういうものが好きなんか、わからへんし」
夏希は恥ずかしそうに、頬をほんの少し染めて俯いた。
その様子に俺も流石にピンとした。これはもしや、あれだ。
好きな男の子でもいるんじゃないんだろうか。
だから、その子の為にプレゼントを選んでいる。
それなら、俺の意見を聞く意味も、何故秘密にしているのかにも説明がつく。
俺はそう勝手に納得して、思わずニヤつくのを止められなかった。
しかし、夏希はそんな俺の表情を見て、ギョッとしたように慌てて首を振った。
「あっ、優輝さん絶対何か誤解してる!」
「いやいや、隠さなくても良いだろ? 別に普通のことだし」
「だから、根本的に違う! 確かにその人のことは好きやけど、別に恋愛的な意味じゃなくて、親愛的な意味での好きやから!」
って、なんで言い訳がましく聞こえるん?! と夏希は一人でツッコミ、混乱していた。
俺は夏希の必死な様子に、流石に自分の仮説が違っていることは察していた。
けれど、ここまで取り乱す夏希も珍しくて、ついついからかってしまう。
気がつけば、夏希は目に薄く涙を浮かべて、拗ねたようにそっぽを向いていた。
「もういい! そうですよ。ウチは恋に恋するだけの、寂しい独り身です。ウチなんて、どうせ誰にも見向きもされへんし!」
「いやいや、ごめんって。そんなことは言ってないだろ。それに、夏希は美人だし。かわいいし、綺麗だし。絶対に男子同士で争ってて、手が出せないパターンだから」
「お世辞は結構。さよなら」
「おいっ、ちょっと! ごめんって」
俺はぷりぷりと怒り、立ち去ろうとしてしまう夏希を追いかけた。
流石に言いすぎたかと反省しながら、謝りながら必死にその背に追いすがる。
周囲の人はそんな俺を気味の悪いものを見るような目を向けていたが、それにも構わずに足を動かし、声をはりあげる。
それに対し夏希は一度も振り返らずに、スタスタと結構なスピードでどんどんと離れていく。
俺も小走りになっているのに、不思議と追いつけなかった。
「夏希っ」
声をかけてみるものの、夏希の足は止まらない。
だが、もう少しスピードを上げてみようと、足を踏み出してみたところで、不意に角から飛び出してきた子供にぶつかりそうになった。
慌てて足を止め、何とか衝突を避けたものの、また距離が開いてしまったと、すぐに顔をあげる。
しかし。
「あれ?」
夏希の姿が何処にもなかった。
何処かの角を曲がってしまったのかと路地を覗き込んでみても、やっぱり姿は見当たらない。
一体、ほんの一瞬目を離した隙に何処に行ってしまったのか。
俺は必死にキョロキョロと周囲を見渡した。
ここで迷子になってしまったら、土地勘のない俺が夏希を見つけることはかなり難しくなるだろう。
最悪、夏希は俺のホテルを知っているし、絶対に会えないというわけではないが、あの様子じゃ夏希の機嫌を余計に損ねてしまいそうだ。
「参ったなぁ」
俺は陽炎が立ち上る道の真ん中で立ちすくみ、思わず頭を掻いた。
そういや、夏希の連絡先を俺は知らない。
あんな性格なので、向こうから聞いてきそうなものだが、そうしないということは今時珍しくケータイを持っていないのかもしれない。
俺にはふと、夏希と俺の繋がりがあまりに脆く儚いものに思えた。
どちらかが拒絶すればあっという間に崩れ去ってしまう、たった五日間の契約。
距離的にはまだそう離れてはいないはずなのに、そう思うとより夏希が遠くへ行ってしまったかのような感覚に陥った。
「優輝さん」
だからだろう。背後からかけられた声に酷く安堵した。
呼びかけられた方を振り返ってみると、夏希は諦念と哀しみと安心とが入り混じったかのような、何とも言えぬ表情で、唇だけの笑みを浮かべていた。
ともすれば今にも泣き出してしまいそうな夏希の様子に、俺はいつの間にか追い抜かしていたことに対する疑問も、心配の言葉も喉元で消え失せてしまった。
「夏希」
「ウチは怖かった」
突然の告白。不安の吐露。
しかしそれは、奇しくも俺が先ほど抱いていた感情と同じものだった。
いや、それ以上なのかもしれない。夏希の肩は震えていた。
すると、いつもは眩いばかりに輝く彼女が、今はとても儚い存在に思えた。
「優輝さんとウチを繋ぐものが何もないってわかった瞬間、とても怖かった」
「夏希……」
「だから、何か目に見える繋がりが欲しかった」
そこで、ようやく俺は夏希が何かを必死に探していた理由を悟った。
夏希はおそらく、俺自身にプレゼントしようとしてくれていたのだ。
俺はそのことに気がついて、ますますバツが悪くなる。
ああ、からかうべきじゃなかったと後悔が押し寄せた。
「ごめん」
「ううん。優輝さんにそのつもりがなかったことは知ってる。気にせんとって」
夏希は優しい。またすぐににっこりと笑ってくれた。
俺はその優しさが染みて、なんと言っていいかわからなくなる。
でも、少し迷った末に、夏希の白い華奢な手を取った。
そして、不思議な色を含んだ夏希の瞳をジッと覗き込む。
夏希はそんな俺に不思議そうな表情をしていたが、俺は構わず言い切った。
「なぁ、夏希。俺、絵を描くから」
結局のところ、俺にできることといえば、それくらいしか思いつかなかったのだ。
しかし、それが今の俺に持てる最大の武器でもあった。
だから、俺は夏希に提案した。
「それ、俺と夏希の繋がりにならないか? それを見たら、きっと思い出せるだろう? 今日のことも」
現に松の木の下で描いた夏希の姿や、春日大社での朱と白の光景は俺の心の中にも鮮烈に刻まれている。
写真ほどの写実性はないけれど、絵でしか感じ取れないものだってきっとあるはずだ。
夏希は当初、突然の俺の提案に目を丸くした。
しかし、次第に意味を理解して言ったのか、笑みを深める。
そして、最後には満面の笑顔で大きく頷いた。
「うん。ありがとう優輝さん」
それを見て、俺は安堵する。
だってそれは最早。陽炎の如く、頼りないものではなかったから。