第1話:悪魔のレシピと、消えた白米
「だめだ……。これでは人類がダメになる」
深夜午前2時。料理研究家、設楽膳治は、薄暗いキッチンの床にへたり込んでいた。彼の前には、怪しく黄金色に輝くどんぶりが一つ。
そこにあるのは、極厚の豚バラ肉をニンニク醤油とメイプルシロップで煮込み、さらに上から市販のポテトチップスを砕いて散らし、仕上げにマヨネーズをこれでもかと一蹴りした代物だ。
一口食べた瞬間、脳内のドーパミンが爆発した。しかし、同時に強烈な罪悪感が膳治を襲う。
「美味しい。悪魔的だ。だが……明日の朝の生放送で、爽やかな笑顔を浮かべながら『主婦の味方!5分でできるヘルシー夜食です!』と紹介できるわけがないだろう!」
膳治は頭をかきむしった。
彼の肩書きは「カリスマ料理研究家」。テレビやSNSで「誰でも簡単」「体に優しい」をモットーに、数々の神レシピを生み出してきた男だ。しかし、世の中にはすでに「簡単で美味しいレシピ」が溢れかえっている。もはや食材の組み合わせは出尽くしたと言っても過言ではない。
毎日の新メニュー開発。それは膳治にとって、終わりのない、そして出口のないデスゲームだった。
翌朝。睡眠時間2時間でスタジオに滑り込んだ膳治は、プロデューサーの insistence(強い要望)により、急遽「来週の特集は『白米が無限に進む、究極のズボラおかず』でお願いします!」と告げられた。
「無限に進む……だと?」
自宅兼スタジオのキッチンに戻った膳治は、冷蔵庫の前に立ち尽くした。
「無限」という言葉を軽々しく使うテレビ業界が恨めしい。数学的に言えば、白米を無限に消費するためには、地球上の全米倉を空にするほどのおかずでなければならない。
「よし、まずは王道からだ」
膳治はちくわを取り出した。縦に切り込みを入れ、そこに大葉と明太子、そしてカマンベールチーズを詰め込む。それを豚肉で巻き、甘辛い照り焼きのタレで絡めた。
「どうだ!」
試食する。美味い。いや、美味すぎる。白米が進む。2口で茶碗一杯が消えた。
しかし、膳治は首を振った。
「普通だ。これでは、ネットの海に転がっている『バズレシピ』の二番煎じに過ぎん。私は料理研究家だぞ! 誰も見たことのない、かつ、一歩間違えれば狂気を感じるほどの新しさが欲しい!」
そこから膳治の暴走が始まった。
「白米が進む」の定義をゲシュタルト崩壊するまで考え直した結果、彼の脳は完全にバグを起こしていた。
「要は、塩分と旨味の暴力だ。なら、いっそのこと……」
彼はフライパンにバターを熱し、そこに「イカの塩辛」を投入した。激しい磯の香りがキッチンを満たす。そこに、何をトチ狂ったか「チョコレートシロップ」を3滴垂らした。カカオのコクが塩辛の生臭さを消し、深みを生み出すはず――という、限界を迎えた脳が弾き出した方程式だった。
「いでよ! 漆黒のイカチョコソテー!」
小皿に盛り付けられたそれは、どう見ても魔界の沼の泥だった。
膳治は震える手で箸を伸ばし、泥を口に運ぶ。そして、すかさず白米をかきこんだ。
「……ッ!!」
膳治の目がカッと見開かれた。
味がどうこうではない。脳が「これは食べてはいけない危険物だ」と警報を鳴らし、そのショックを和らげるために、身体が本能的に白米(解毒剤)を求めている。確かに白米は進む。爆発的に進む。
「できた……! これが、本能が恐怖する究極のおかず……!」
その時、背後から冷ややかな声が響いた。
「先生。それ、テレビでやったら放送事故です」
いつの間にかキッチンに入り込んでいたマネージャーの美咲だった。彼女は膳治の「魔界の料理」を一瞥し、深い溜息をついた。
「主婦層が求めているのは、冷蔵庫に余っているもので作れて、子供が喜ぶ料理です。イカの塩辛にチョコをかける家庭がどこにありますか。あと、先生、顔が完全にマッドサイエンティストになってますよ」
美咲の冷徹なツッコミにより、膳治の魔法は解けた。我に返って泥のソテーを見ると、あまりの生臭さに吐き気がした。
「うわあああ! すまない! 私は何を……! 締め切りが近付くと、どうしても食材を錬金術のように組み合わせてしまうんだ!」
「いいから落ち着いてください。あと3時間で次のWEB連載の撮影ですよ。テーマは『火を使わない、子供が喜ぶ夏野菜おやつ』です。早くしてください」
美咲はそう言い残し、リビングへ戻っていった。
「火を使わない……夏野菜のおやつ……」
膳治は絶望のズンドコに叩き落とされた。
おやつ。それは甘く、愛らしく、子供たちの笑顔を引き出すものであるべきだ。そこに「夏野菜」という、子供たちの天敵(ピーマン、トマト、ナス)を融合させろというのか。しかも火を使わずに。
「ナスをどうしろと……生で食えというのか……。いや、待てよ」
膳治の脳内で、再び危険なシナプスがつながり始めた。
「ナスを薄切りにして……砂糖水に漬ける。それを電子レンジでチンして、冷やす。そうすれば……ナスのコンポートだ! 食感はまるで洋梨のようになるはず!」
膳治は狂ったようにナスを刻み、耐熱容器に放り込んだ。砂糖と、少しのレモン汁。ラップをしてレンジのボタンを叩く。
ピー、ピー、ピー。
加熱が終わったナスを取り出す。見た目は、少し透き通った紫色の物体。
冷水で一気に冷やし、恐る恐る口に含む。
「……あ、美味い」
ナスの独特の苦味が消え、レモンの酸味と砂糖の甘味が染み込んで、本当にフルーツのようになっている。これなら子供でも食べられる。火も使っていない。
「美咲さん! できた! 奇跡が起きたぞ! ナスが洋梨になったんだ!」
膳治が歓喜の声を上げてリビングに飛び出すと、美咲はスマホを見つめたまま、淡々と言った。
「あ、先生。さっきクライアントから連絡があって、テーマが『夏野菜』から『やっぱり余りがちな豆腐』に変更になりました。よろしくお願いしまーす」
膳治はその場に崩れ落ちた。彼のキッチンには、大量の「洋梨になったナス」と、新たな苦悩の種である「豆腐」が虚しく残されていた。
料理研究家、設楽膳治。彼のメニュー開発という名の、終わらないコメディ(悲劇)は、明日も、その次の日も続いていく。




