エピローグ 月明かりの庭
美術室は、いつもと変わらない匂いがしていた。
絵の具と、紙と、静かな時間の匂い。
けれど今日は、少しだけ違って感じる。
月奈は自分の席に座った。
目の前には、コンクール作品。
月明かりの庭。
木々の影。
石灯籠。
白く浮かび上がる小径。
そして。
その先に立つ人影。
何度も描き直して。
何度も迷って。
それでも消さなかった場所。
月奈は静かに筆を取った。
鉛筆の線の上に、色を重ねていく。
夜の深い群青。
庭の静かな緑。
石灯籠に落ちる淡い光。
そして。
人影のまわりに滲む、月の白い光。
少しずつ。
ゆっくりと。
絵が“完成”していく。
迷いはもうなかった。
「……できた」
小さく呟く。
そこにいるのは、ただの風景ではなかった。
誰かを待っているようで。
誰かに出会えたような。
そんな“時間”そのものだった。
月奈はしばらく絵を見つめる。
そしてふと、扉の方を見る。
「終わったか」
聞き慣れた声。
朔夜が立っていた。
いつも通りの顔。
けれど、少しだけ違う距離。
月奈は小さく笑う。
「はい」
朔夜はゆっくりと歩み寄り、キャンバスの前に立った。
何も言わない。
眼鏡の奥の目が、ただ静かに、絵を見つめている。
長い沈黙のあと。
「いい絵だな」
短い言葉。
けれど、それで十分だった。
月奈は少しだけ目を伏せる。
「ありがとうございます」
朔夜の川の絵も、もう完成していた。
次は、見せてもらう番だ。
静かな時間が流れる。
夕方の光が窓から差し込んでいた。
その光の中で。
キャンバスの月明かりが、ほんの少しだけ揺らいで見えた。
月奈は思う。
この庭はもう、ただの記憶ではない。
過去と今が重なってできた景色だ。
そして。
隣にいるこの人も。
過去ではなく。
今の自分が選んだ人だ。
「……さっくん」
「ん?」
月奈は少しだけ笑う。
「これからも、見ててくれる?」
朔夜は一瞬だけ黙って。
それから、眼鏡のレンズに夕焼けの光を映したまま、いつもより少し柔らかく言った。
「ああ」
それだけでよかった。
月奈はキャンバスに視線を戻す。
月明かりの庭。
その中にいる“誰か”は、もう一人じゃない。
これから先も。
ずっと続いていく景色だった。
窓の外で、夕焼けが静かに夜へと溶けていった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。




