第三十八話 三途の川
前回までのあらすじ!
究極の精霊魔術を侍が刀でスパーン!
なんでも斬るよー!
銀の翼で空をつかみ、銀竜シルバースノウリリィが風すらも追い抜いて星空と大地の狭間を飛行する。
夜明け前ということもあってか、もはや景色は速度に溶けていた。森も草原も砂漠でさえも、瞬きをする間に通過する。
リリィはこの速度域のことを亜音速と呼んでいたか。
この速度に達すると、さすがにおれでも足の五指だけで立つことはかなわない。片膝を落とし、両足の五指と右手で銀の鱗をつかんでいなければ、哀れ空の藻屑だ。
もっとも、リリィ自身も亜音速に達すると、自身をあまり操舵できていなさそうだ。
ふと寒気を感じ、おれは口もとを左手で塞いだ。咳込むと、掌には薄ら赤い血が混ざっていた。
「……糞。このぽんこつが……」
身体から力が抜けてゆく。
鼻先から翼までを流線型にしていたリリィが、ゆっくりと大きな翼を広げた。とたんに速度はみるみる落ち、それに乗じて高度も下がってゆく。
『喀血ですか?』
「ああ」
『時間のようですね。ここまで来ればハイエルフたちも簡単には追っては来られないでしょう。減速しつつ降下します』
「……すまねェ」
咳込み、また喀血する。
湖の畔。リリィが一度だけ大きく空をつかみ、両足を大地につけた。
おれが背中から降りると同時、前足で抱えていたダークエルフをその場に極めて適当に転がし、リリィが女性体へと人化する。
そうして赤の懸衣をまとい、着物の背中に入り込んだ銀色の髪を両手で広げながら、大あわてでおれのほうへと走ってきた。
ライラはどうやら気絶をしているらしい。わりと乱暴に転がされたというのに、ぐったりとして動かない。
無理もねえ。いきなり空に連れ去られ、エトワール公の精霊魔術で殺されかけ、聞いたこともねえ速度域に連れ込まれ――。
おれの視線を遮るように、リリィが顔を近づけてきた。
「マスター、今エリクシルを」
「頼む」
あ、だめだ。呟いた直後にそう思った。
膝が力を失って折れ曲がる。背中から倒れかけたおれの羽織をつかみ、リリィが寸前で止めてくれた。
「オキタ!」
リリィはおれの背に手を回し、ゆっくりと湖畔におれを座らせたあと、片手でおれを支えながら懸衣の胸もとにもう片方の手を入れて、自らの胸を探り始めた。
「あ、あれ? あれれ?」
「どーしたー……」
しばらく胸をまさぐったあと、リリィがへの字口で涙目をこちらに向ける。
「す、すみません。エリクシルの小瓶を落としてきちゃいましたぁ……」
ふっと気が遠くなった。
終わった。おれたちの冒険はここまでだ。
よお、死神。度々呼び出してすまねえな。今度こそ終わりのようだ。どこへなりと連れて行ってくれ。
おれはリリィの腕の中で瞳を閉じて囁く。
「………………へ、ちょっくら逝ってくらぁ……」
「ちょ、ちょっと、早々にあきらめないでください! マスター? マスターってば!?」
呼吸すらままならないおれの身体を、リリィががくがくと容赦なく前後に揺する。
やめて、やめて。ほんと逝っちゃう。
おれはかろうじて薄目を開けた。
「……つってもおめえ……こりゃもうしょうがねーだろ……。ぐッ、がはッ!」
喀血がリリィの頬を赤く染める。
リリィは己の頬に付着したおれの血を懸衣の袖で拭うと、眉根を寄せて目を閉じ、なんとも言えねえ味のある表情をした。
「まあ、元を正せばわたしの体液ですから、ここで流せば問題はないのです……が……」
「……あ~……そういやそうだったな……」
やっぱり帰れ、死神。おまえさんに用はねえ。
リリィの手を借りて、よっこらせっとばかりに上体を起こす。
「ただ、少々問題がありまして」
「……んぁ?」
リリィが頬を染めて、もじもじと両手を胸の前で摺り合わせた。
「おぼえておいででしょうか。名もなき国に入ったばかりの頃に交わした盟約を」
遠のきそうな意識で思い出す。
「あ~……ぐっ、か……ごぼっ! ……そ、か……」
そうだ。おれは、リリィがおれのために自らの身を削る行為を禁じたのだった。
「はい。どのみち小瓶の中のエリクシルはもう残り少なくなっていましたから、遅かれ早かれこのことは話し合わなければならないとは思っていました」
「……ど……すりゃいい……?」
やべえ……。心の臓が動いたり止まったりしてやがるのがわかる……。
あ、ちょっとそこで待ってて、死神。まだ逝くかどうかわかんないから。
「あ、あの、それは、その――」
リリィは両手で口もとを覆って、上半身をもじもじと左右に回している。
早くして欲しい。わりと本気で今にも逝きそうだ。
「えっと……先ほど申し上げました通りなのですが……ええ、あぁ~……やん……」
早く。視界が狭まってきやがった上に耳鳴りまでしてやがる。
「エ、エリクシルは……その、ですね?」
「……」
「じ、実のところ、血液だけではなく、た、た、体液でも精製されておりまして――その、つまり、ですね? あの……その……」
あ、やばい。今一瞬だけ視界が消滅したぞ。つか、空がぐるんぐるん回ってやがる。
もう身体動きそうにない。
リリィがごくりと喉を動かして、真っ赤な顔でなぜか居丈高に言い放った。
「わ、わたしと接吻がしたければ命じなさいませっ! シルバースノウリリィはそんなに尻軽な銀竜ではありませんからっ!」
「……ぁ……ぁ……っ……」
聞こえてはいた。
聞こえてはいたが、もはや声すら発することができず、おれは支えてくれていたリリィの手から背中を滑らせ、気づけば地面におねんねしていた。
そこで見た景色はとても不思議だった。
湖と思っていたはずの光景が大きな大きな川になっちまっていて、その向こう岸で浅葱色の羽織を着た集団がおれのほうを見ていたんだ。
おれは妙に懐かしい気持ちになって、足を踏み出した。
知っている気がする。あいつらのことを。
それにしても、耳もとで叫ぶ声がやかましいな。
「あ、あれ? わ、わーーーーーーーーっ!! オ、オキタッ!! こ、呼吸! 呼吸してください! さん、はい! さん、はい! ……わあ、だめだぁ!」
リリィが倒れたおれの口内に人差し指をねじ込む。
「噛んで! ほら、噛んでくださいってばぁ!」
聞こえてるんだよ? 聞こえてはいたんだ。でもな? おれはあの川を渡りてえな~って思ってるわけよ。
浅葱色の羽織集団は、なんかこっちに石をぶつけようとぶん投げてきていやがるけれど。
来るなってなんだよ。寂しいこと言うなよ。
おれ、嫌われてんのか? 最後の戦いに参戦しなかったからか?
「ああん、もう~~~! ――痛くしますよーっ!?」
リリィがおれの頭に足を添え、顎をもう片方の手で持って、強引に頭と顎を押した。
「えいっ!」
「ンがッ!?」
当然、おれの歯はリリィの人差し指を噛み潰し、とろりとした温かい血液を口内で溢れさせた。
直後、おれは全身をぶるりと震わせ、からくり人形のように上体を跳ね上げる。
「おっ、おおぅ!? おう?」
湖畔だ。向こう岸は見えねえし、もちろん新撰組の姿もねえ。
危ねえ。正気を失って三途の川を渡っちまうところだった。
ドラ子の雑感
さっきまですっごくかっこよかったのにぃ~……。




