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「目を覚ましたようですよ」
近臣の耳打ちに、彼は執務室を飛びだしました。
寝台の上で目を開いている女性は、今まで彼が観察しつづけてきた人とはまるでちがっていました。
身体はすみずみまで綺麗にみがかれ、真っ黒だった肌は象牙のようになめらかでした。髪は短く切られていましたが、なににも染まらない純粋で気高い黒は目を惹きつけてやみません。頬はほっそりとしているものの、彼の予想どおり、恐ろしいほど造作が整っていました。
彼は寝台の横に置かれた椅子に座りました。けれど、彼女が気づいたようすはなく、じっと虚空を見つめています。
彼は悩んだ末、そのうつくしい横顔に話しかけました。
「気分はどうですか」
すると、彼女はゆったりと顔をこちらへ向けました。思わず見とれてしまうような動作でした。
今にも折れそうな白い首は痛々しいし、こけた頬は哀れになるほど影を落としているのですが、それでも彼女は優雅であり、そして凛とした視線を彼へとよこしました。
視線があった瞬間、彼はやはり、と実感しました。身体に稲妻が走り、息を止めて相手に見入ってしまいます。
彼女は彼の顔を観察したあと、柳眉をひそめました。それさえも計算されたような動きでした。
「……お前が、私を拾ったのか」
近臣が硬直するのがわかりました。彼女は声さえも玲瓏で、天の国の楽器を奏でているかと思うほど、うるわしい響きをしていたのです。
彼が感動に浸っていると、彼女はまたゆっくりと視線を前へ戻しました。はっ、として彼は答えました。
「はい」
それでふたりの間の会話は終わってしまいました。しん、と重苦しい沈黙が部屋中を満たします。
彼は彼女の横顔を見つめていました。この世の人間とは思えないほどうつくしい女性でした。世の中の男すべてを虜にできると彼は思いました。同時に、これが神なのかと震えました。
うっとりとしながら彼が横顔をながめつづけていると、彼女の赤く色づいたくちびるがそっと開きました。
「拾ってくれたことには礼を言おう。人の食事を見るのは久しかった」
今度は彼は我を忘れることなく、すぐに返事をしました。
「たいしたことではありません。お気に召してくださったのならよいのですが」
彼女はちらりと彼を見ると、またすぐに正面を向いてしまいました。どうやら気に入ったわけではないようです。
彼は連れてきた近臣以外、全員を部屋から退出させました。近臣はいちおう剣の腕が立ちますし、そもそも彼女に剣を突きたてる必要などないと彼はわかっていたのです。護衛は必要ありませんでした。
「お聞きしたいことがあるのです」
彼が言うと、彼女は目をふせました。長いまつげが頬に影を落とします。
「あなたは、我々が捜し求めていた女神ですか」
彼女は長いあいだ、まぶたを閉じていました。しかしやがてゆるゆると瞳をあらわにすると、顔をこちらへ向けて告げました。宝石のような瞳が彼をするどく射ぬきます。初めて見たときと同じ銀色を、彼はしっかりと受けとめました。
「私は神などではない」
「いいえ、貴女が女神です」
彼は反射的に否定してしまいました。すると彼女がはっきりと眉をひそめます。不機嫌な顔もうつくしいのですが、うつくしすぎて恐ろしささえもありました。
「人の分際でおごるな。神は安易に姿を現すものではない」
「ですが、貴女が月の女神です。私にはわかります。私の祖先が、私の中で訴えている」
耳の奥で、わめき声がわんわんとくりかえし鳴り響いています。彼女と出会ってから、ずっと知らない声が彼に訴えつづけてくるのです。それは喜びであったり、ねたみであったり、信仰であったり畏れであったり、さまざまな想いがうずまいて彼を包みこみます。血や肉に刻まれているとはこういうことなのだと、彼はようやく知りました。
「星の長よ」
彼女は冷ややかに言いました。
「お前たちが捜していたものは、もうこの世界には存在していない」
彼は瞠目しました。
「どういうことですか」
彼の問いかけに、彼女は目を眇めました。このひれふすような高貴さを持ちながら、どうして神ではないと言えるのでしょう。
「月は兄である太陽に燃やされてしまったのだ。そして永遠に地に堕ちた」
だからもう存在しない、と彼女は告げたのでした。




