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第十六話 栗花落紫苑

 栗花落紫苑(つゆりしおん)の部屋は、床が見えている。

 物が少ない。机の上には医学書が積まれ、その脇にノートが何冊も重ねてある。壁にはカレンダーが一枚。他に飾りはない。

 その日の午後、紫苑はベッドに腰かけ、膝の上にアルバムを広げていた。

 栗花落紫苑は二十一歳。医大の三年生で、代行者(だいこうしゃ)の家系である栗花落家の長女だ。黒髪を腰まで伸ばしている。

 アルバムの最初のページは、幼稚園のものだった。

 園庭で、二人の女の子が並んで写っている。片方は歯を見せて笑っていて、もう片方は、その袖を掴んで半分隠れるようにしている。

 次のページ。小学校の遠足。バスの前の集合写真で、二人は並んで立っている。運動会。玉入れの籠の下で、二人とも空を見上げている。修学旅行。旅館の浴衣姿で、片方が片方に寄りかかって眠っている。

 どの写真にも、二人で写っていた。

 紫苑はページをめくった。

 中学のアルバムになる。

 入学式。二人が写っている。

 体育祭。紫苑しか写っていない。表情がない。

 文化祭。紫苑はカメラを見ていない。

 紫苑はページをめくった。めくった。めくった。

 どれだけめくっても、それは変わらなかった。


 ◇


 二人の出会いは幼稚園だった。

 紫苑は先頭に立つ子供だった。何をするにも自分が決めて、自分が最初に飛び込んだ。

 桜(さくら)はその逆だった。大人しくて、声が小さくて、みんなが遊んでいるのを離れたところから見ていた。混ざりたいのに、声をかける勇気がない。

 紫苑は、そういう桜の手を取って、一緒に遊んだ。

 砂場で泥だらけになるまで団子や山を作った。木に登って、枝が折れて、二人で落ちかけた。それで二人とも母親に叱られた。叱られているあいだ、桜はずっと泣いていて、紫苑はずっと前を向いていた。

 桜は、紫苑が連れていってくれる場所が好きだった。自分一人ではいけない場所、自分一人では見られない景色があった。

 紫苑にとって桜は、いつも後ろをついてくる妹のような存在だった。

 二人はいつも一緒にいた。

 小学五年の、紫苑の誕生日に、桜が包みを差し出した。

 中身は髪飾りだった。淡い紫の、小さな花をかたどったもの。

「これね、春紫苑(はるじおん)っていう花なの」

 桜は言った。

「紫苑ちゃんの名前と、ちょっと違うけど。でも似てるから」

 紫苑はおしゃれに興味がなかった。髪も結ばず、伸ばしたままにしていた。

 その日から、紫苑は毎日それをつけた。

 二ヶ月後、桜の誕生日に、紫苑は包みを差し出した。

 中身は髪飾りだった。淡い桃色の、小さな花をかたどったもの。

「……桜だよ。見ればわかるでしょ」

 紫苑は桜のほうを見ていなかった。窓の外を見ていた。耳が赤くなっていた。

 桜が笑い出した。

「なに」

「ううん」

 桜は包みを胸に抱えて、笑い続けた。

「なんでもない」


 ◇


 中学一年の、六月の朝だった。

 雨は降っていなかった。前日の雨が乾ききらずに、道路の端に水が溜まっていた。

 紫苑と桜は並んで登校していた。

「一時限目、英語の小テストだよね」

 桜が言った。

「うん」

「わたし、現在進行形のところ全部やった」

 紫苑は横を見た。

「範囲、そこじゃない」

「えっ」

「過去形。先週やったとこ」

「……嘘」

「嘘じゃない」

 桜が足を止めた。両手で顔を覆う。指の隙間から呻き声が漏れた。

 紫苑は笑った。

「何点取れるか楽しみ」

「いじわるぅ」

 そこに、一台の乗用車が突っ込んだ。

 紫苑の視界の中で、車体が歩道に乗り上げた。まっすぐだった。曲がろうとも、止まろうともしていなかった。

 紫苑の足は動かなかった。

 膝から下が地面に固定されたように、一歩も出なかった。目だけが、近づいてくるものを追っていた。

「危ないっ‼︎」

 紫苑の身体が、横から突き飛ばされた。

 紫苑はアスファルトに肩から落ちた。落ちた勢いのまま転がり、顔を上げる。

 桜が、宙にいた。

 十数メートル先まで飛んで、それから落ちた。

 車は、速度を落とさなかった。

 ブレーキの音は、最後までしなかった。

 紫苑の世界から、音が消えた。

 身体を起こす。膝が滑る。もう一度起こす。

 紫苑は走った。

 道路に、点々と続くものがあった。それをたどった。

 たどった先に、桜がいた。

 紫苑の喉から声が出た。言葉になっていなかった。膝をつき、手を伸ばし、伸ばしたところで手が止まり、また伸ばし、また止まった。

 紫苑は自分の髪を掴んだ。掴んだまま、叫んだ。

 救急車が来て、桜を乗せて、走り去った。

 紫苑は道路に座り込んだまま、動かなかった。

 桜は、一命をとりとめた。

 骨折は治った。内臓の損傷も治った。傷も塞がった。

 だが、意識は戻らなかった。

 一ヶ月が過ぎた。三ヶ月が過ぎた。半年が過ぎた。

 医師は植物状態という言葉を使った。

 紫苑は病室に通い続けた。

 髪が伸びた。爪が伸びた。背も伸びた。看護師が定期的に髪を切り、爪を切った。桜の身体は生きていて、成長していた。

 意識だけが、戻らなかった。

 その冬、紫苑は廊下で医師の白衣の襟を掴んだ。

 医師は五十過ぎの男で、紫苑の頭ひとつ分は背が高かった。

「治せないの?」

「……現状では」

「じゃあ何のために医者やってんの?」

 襟を引いた。医師の身体が前へ傾いた。

「治せないなら医者じゃないでしょ。看護師さんが髪切って、爪切って、それだけじゃん。あんたら何もしてないじゃん」

 紫苑の手が震えていた。

「起こしてよ……。起こしてって言ってんの。起こしてよ!」

 看護師が二人がかりで紫苑を引きはがした。

 医師は襟を直した。それから一度、紫苑を見た。

 何も言わなかった。言い返しもしなかった。

 その夜、紫苑は病室で桜の手を握った。

 温かかった。脈があった。指が、少し動いた気がした。

 紫苑は、その手を額に当てた。

 それから紫苑は、二つのことに時間を使った。

 一つは、父から受け継ぐ代行者としての訓練。栗花落家に伝わる迅雷の鎌(じんらいのかま)を扱えるようになるための鍛錬で、これは小学校に入った年から続いていた。

 もう一つは、勉強だった。

 友人を作らなかった。恋人も作らなかった。遊びにも行かなかった。放課後は病院か、机の前のどちらかだった。同級生たちが青春を謳歌する中、紫苑は問題集を解き続けた。

 紫苑は京都市内の医大に進んだ。町を出て、大学の近くに部屋を借りた。それでも週に一度は電車を乗り継いで戻り、病室の丸椅子に座った。

 遷延性(せんえんせい)意識障害(いしきしょうがい)について学んだ。回復例の報告を読み漁った。論文を取り寄せた。海外の症例も調べた。


 ◇


 去年の十一月の、深夜だった。

 机の上に、英語の論文が広げてある。取り寄せたもので、付箋が十枚近く貼ってあった。脇に医学辞書が二冊。マグカップの中身は、とうに冷めている。

 紫苑は指で行を追っていた。

 十四年後に反応が出た患者。二十年後に言葉を発した患者。

 症例は、あった。

 紫苑はページをめくった。

 その患者が何をされていたのか。どんな処置が、どれだけの期間。

 書いてあった。読んだ。

 読んで、紫苑は指を止めた。

 自発的な回復だと書いてあった。処置との因果関係は認められない、と。

 つまり、再現できない。

 紫苑はもう一度、最初から読み直した。二度読んで、同じ結論に行き着いた。

 論文を閉じた。

 机の端に、似たような束がまだ積んである。紫苑はその一番上を取った。要旨に目を通し、結果の項を開く。同じことが書いてあった。

 三本目も同じだった。

 紫苑は椅子の背に身体を預けた。

 天井を見た。

 時計は三時を回っていた。

 明日は一限がある。そのあと病院へ行く。電車を乗り継いで三時間かかる。

 紫苑は身体を起こし、四本目を手に取った。


 ◇


 そうやって、時が流れた。

 桜を治す手立ては、見つからなかった。

 紫苑はアルバムを閉じ、膝から下ろした。

 立ち上がり、机の脇に立てかける。

 椅子の背からコートを取って袖を通した。

 鏡の前で髪飾りの位置を直す。淡い紫の、春紫苑の花。

 紫苑は部屋を出た。


 ◇


 丹野瀬(たんのせ)総合病院の四階、その西の端が桜の病室だった。

 紫苑は扉を開けた。

 ベッドに、桜が眠っている。肩まで伸びた髪に、淡い桃色の髪飾りがあった。

 紫苑は窓際のカーテンを少し開け、それから丸椅子を引いてベッドの脇に座った。

 掛け布団の上に、桜の手が出ていた。

 爪が切ってある。先週来たときより短い。誰が切ったのかは、考えるまでもなかった。

 紫苑は桜の髪に手を伸ばした。桃色の花に触れ、位置を直す。

 それから自分の髪飾りに触れた。指の腹で、花びらの縁をなぞる。

 紫苑はしばらく、桜の顔を見ていた。

 桜の胸が、ゆっくりと上下している。

「明日」

 紫苑は言った。

「絶対あんたを迎えに来るから」

 紫苑は桜の手を取った。両手で包む。

「待ってな、桜」

 包んだ手を、そのまま額に当てた。

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