物語が始まりました
「……ごほっ……」
「いや、ごめんごめん。おっきな口開けてたからつい……大丈夫?」
咳き込む俺の背中を優しく撫でながら謝罪を口にする見覚えのある少女。異世界に来て初めての夜で少し黄昏てた所に襲来した悪夢。すげぇよ異世界、こえぇよ異世界……まさかベビーカステラにトラウマ植えつけられるとは思わなかった。
しばらくすると息も整い、改めて隣に居る少女に視線を向ける。
「……てか、何でいるのクロ?」
「いや~偶然って凄いよね。こんな所でばったり再会するなんて、運命感じちゃうね!」
「いや、こんな所も何も、ここ人の屋敷なんだけど!?」
「ほら、つまんない話聞かされてさ、気分転換に街に出たら『数キロ』先で知り合いが空に向かって口開いてたから、『探知結界すり抜けて』ベビーカステラ放り込んじゃうって、良くある話だよ」
「よくあってたまるかっ! そんな異常事態!」
完全にロックオンしてきてるじゃねぇか!? 公爵家に不法侵入の上夜間に襲撃しといて偶然もくそもねぇよ!? 駄目だ。突っ込み所が多すぎて追いつかない。
「まぁまぁ、細かい事は置いといて」
「……細かくないよ。結構な事件だからねこれ……」
こちらの魂の叫びを聞く気は無い様で、クロはニコニコと無邪気な笑顔を浮かべながら言葉を続ける。
「ほら、ボク言ったじゃん? 困ってるなら力になるよ~って、カイトくん何か悩んでるように見えたけど、どうかしたの?」
「え? あ、いや、悩んでたと言うか……何と言うか……」
う~ん、夕方あった時もそうだったが、どうもクロのペースが掴めない。と言うかニコニコと無邪気な笑顔に毒気を抜かれて、つい流されてしまう様な気がする。
「これまで事とか、これからの事とか少し考えてただけではあるんだけどね」
「成程……よし、じゃあ『オツキミ』しながら聞こうじゃないか!」
「なんでっ!?」
言うが早いかクロのコートが波打ちながらバルコニーの床に触れ、地面から沸いて出る様に黒いござが現れる。あ、いや、良く見るとこれござじゃなくて畳だ。
そしてそれだけでは終わらず、コートの黒い影が伸びる様に月見団子を乗せる台――たしか三宝だったかな? それに変わって切り離され、畳の上に置かれる。なにそのコート? 何でも出てくるの? 物凄い便利そうなんだけど……
「さ、座って座って、月が綺麗だしゆっくりお話しでもしようよ~」
「……あ、うん」
突拍子もない展開と、愛くるしい笑顔に押されて促されるままに畳に座る。すると、クロは三宝に指を向けて軽く振るい、そこに月見団子が現れ――
「何で団子じゃなくてベビーカステラ!?」
「え? オツキミって月を見ながらお菓子食べるってやつだよね?」
「……解釈自体は間違っては無い気がするけど、致命的な部分に勘違いがあるような……」
そう、俺の目の前に積まれたのは……先程心に消えないトラウマを刻み込んでくれた悪夢の焼き菓子――ベビーカステラだった。なんで畳や三宝まで知ってるのに、肝心の団子がベビーカステラ? 何その中途半端な知識……
「ふふふ、見くびって貰っちゃ困るよ。なんと、このベビーカステラはオツキミ用の特別製! 食べてみれば違いがすぐに分かるよ!! ほらほら~」
「わ、わかった。分かったから……食べるから」
両手にベビーカステラを持ってにじり寄ってくる姿に少々トラウマを刺激されつつ、観念してベビーカステラを口に運ぶ。
「ッ!? これは……」
口に入れたベビーカステラは見た目こそ普通のベビーカステラだったが、中には確かな弾力を感じるもっちりした生地と日本人にとって舌に馴染むほのかな甘み――餡子が包まれている。
成程、いわばこのベビーカステラは中に団子を包みこんでいると言う訳だ。この小さな一欠片の中に、団子を団子のまま内包させるのは並々ならぬ職人芸――
「じゃあ、普通の月見団子で良いだろ!! 何でベビーカステラでコーティングしてるんだ!? 何なのそのベビーカステラに対する執念! 恐怖しか感じねぇよ!? てかそこまでする程執着してるのに、何で名前間違って覚えてたんだよ!?」
「元気だね~でも、そんな一息に喋ると疲れちゃうよ? ほら、飲み物も用意してるから、ちゃんと異世界の飲み物だよ」
「ああ、ありがと――ぶっ!?」
叫ぶ俺の姿を笑顔で見つめていたクロが差し出してくれた湯呑みを受け取り、突っ込みで乾いた喉を潤す為に飲んで――即噴き出す。
「大丈夫? 一気に飲むと危ないから、ゆっくり飲まなきゃ」
「ごほ、ごほ……なんで……コーヒー……」
「え? 異世界ではお菓子食べる時に飲むんでしょ?」
「……」
ちょっと、クロに中途半端な異世界の知識を植え付けたであろう過去の勇者達、一発殴りたいから目の前に出てこい。
新年に月見と言うのも可笑しなものだと思ったが、こちらの世界では天の月――日本で言う所の年末年始が最も月が大きく見えるらしく、時期としては絶好とも言えるらしい。
もっとも――畳に座り、湯呑みに入ったコーヒーを片手にベビーカステラを食べる月見は、異世界とか関係なく間違ってるとは思うけど……
「……ふ~ん。なんて言うか、人間って種族は相変わらず変な事を悩みたがるもんだね~」
「魔族から見ると、そう感じるものなのか?」
先程までの騒がしかった様子とは打って変わり、どこか長い歴史を知る様な落ち着いた雰囲気を纏ったクロと月見をしている内に、自然と先程まで考えていた事を打ち明けていた。
自分が何をしたいか分からない事、異世界に来て自分の意思と関係なく訪れた変化への期待と不安。楠さんの問いには上手く答えられなかった筈の話が、クロ相手だと不思議と自然に口から零れる。それは彼女が持つ独特の雰囲気がなせる技なのかもしれないが、何となくクロの声は穏やかな安心を与えてくれる。
そして一通り俺の話を聞き終わったクロは、湯呑みを傾けながら静かに言葉を紡ぐ。
「ボクはね、目標や夢がある人間が、無い人間より優れてるとかってわけでも無いと思うよ。持ってない事が駄目な訳じゃない、欲しいって願う気持ちが駄目な訳じゃない……たださ、手を伸ばさないのは勿体ないんじゃないかな?」
「勿体ない?」
「うん。カイトくん――人間の一生は、ボクから見れば一瞬みたいに短いものだよ。たった100年以下、いっちゃえばそれだけの時間しかない。なのにいちいちこんな細かい事でまで、理由立ててああでもない、こうでもないって悩んでたら、悩むだけで一生なんて終わっちゃうよ。ならそんなのは適当に切り上げちゃってさ、楽しんだ方がずっと得だと思うな」
「……楽しむか……」
その楽しみ方が分からない。何かが欲しいとは思っているけど、具体的に何が欲しいか分からない。
「……昔の知り合いに、カイトくんと似たような事言ってる子がいたよ。自分は空っぽなんだってね」
「空っぽ?」
「そう、周りの願いだとか期待だとか、そんなものばかりが積み重なって……いつの間にか誰かに示された道しか歩けてない。中身の無い空っぽの自分が出来てしまったんだって言ってたね~それが嫌な訳ではないし、期待に応えたいとも思うけど、時々自分の本当の気持ちはどこにあるんだろうって考えちゃうって言ってた」
「……確かに、少し似てるかもしれないな」
「うん。だからかな? ボクはカイトくんみたいな子、凄く好きだよ」
「へ?」
優しく告げられた言葉に驚きながらクロの方を向くと、まるで世界の全てを見通す様な金色の瞳が真っ直ぐに俺を見据えていた。決してそれは睨みつけられるみたいな不快なものではなく、まるで母親の様な優しく暖かな肯定の眼差しに見えた。
「……君は、まだ生まれたばかりで何も知らない雛鳥なんだよ」
「雛鳥?」
「そう、羽が欲しい――でもその生やし方が分からない。空を飛びたい――だけど、飛び方が分からない。悩むって事は、願うって事と同じだと思うよ。カイトくんの中には、まだ君自身が見つけられてないキラキラした願いが宿ってる。今はまだ、空っぽで良いんだよ。今までそれを見つけられてないのは、恥ずかしい事でも悪い事でも無いよ」
それはまるで子守唄を歌うみたいに、心の奥底に響く優しい声。それでいいんだと、悩む必要なんてないんだと包み込む様な――
「っと言う訳で、宝探しをしよう!」
「……はい?」
あれ? おかしいな? 今感動的な話の流れになるとこじゃなかったの? 何でまた突拍子もない事言い始めてるの? 自由なの? ねぇ、自由なの?
「うんうん。ボク、カイトくんの事気に入ったし、それが良いね」
「えと、意味が分からないって言うか……何で俺の後ろから両脇に手を回してホールドしてるの? 何でコートがでっかい翼みたいな形になってるの? 物凄く嫌な予感がするんだけど何する気!? てか力強ッ!?」
「大丈夫、大丈夫。ちょっと空の散歩するだけだから!」
「その説明に何一つ大丈夫な部分を感じな――ぎゃあぁぁぁぁ!?」
自然な動きで後ろからがっちりホールドされ、抗議の声も空しく巨大な翼へ変わったクロのコートが動き、直後に景色が一気に下へ吹き飛んでいく。
思わず目を閉じるが、強い風の抵抗を感じる事は無く、むしろ風は優しく頬を撫でるみたいに感じる。
「ほら、カイトくん。見てみなよ」
「え――ッ!?」
綺麗な声に誘われ閉じていた目をゆっくりと開くと、それ以上言葉を発する事は出来なかった。
見えるのは空に浮かぶ大きな月と、大地で輝く星の様に見える営みの光。絶景――それ以外の感想は出てこない程、壮大で美しい光景。
「カイトくん。世界は広いよ」
「え?」
「長い年月を生きたボクでも知らない事や分からない事はいっぱいある。君の知らない物、見たことがない景色――君の一生を全部使っても、全てを知る事なんて出来ない程にね」
「……」
「せっかくこの世界に来たんだし、探してみよう。ここで、君が心から大事だって思える『宝物』を……自分が何がしたいか、その答えが見つからなくてもいい。ここから去る時、何がしたいかは分からなくても『何をしてきたのか』、『何が見つかったのか』を答えられる様に……だから、今は空っぽで良いんだよ」
その言葉と共に、クロが俺を抱えていた手を離す。落ちるっ!? と思ったのは一瞬で、俺の体は急速に落下するのではなくゆっくりと広大な大地に向けて降下していく。
相当な高度から降りているのか、視線を地上に煌く星に向けると――視線の先、俺の少し前には優しく微笑みを浮かべ、両手を広げているクロの姿が見えた。
地上に煌めく星の光を背に受け、輝く銀色の髪を風になびかせ、優しく吸い込まれる様な金の瞳でこちらを見つめる慈愛に満ちた姿は、女神と錯覚する程美しく目を離す事が出来ない。
「羽が欲しい――でもその生やし方が分からない。空を飛びたい――だけど、飛び方が分からない。そう、君はまだ何も知らない無垢で愛しい雛鳥……」
それなりに距離は離れている筈なのに、風の音に紛れることなくその声は真っ直ぐ俺の耳に届く。
「だったら――ボクが、教えてあげるよ! 君が知らない物を、君が見たことない景色を、この世界を!」
「ッ!?」
拝啓、お母様、お父様――勇者召喚に巻き込まれ、異世界にやってきました。
「この優しい世界は、ボクは、君の来訪を祝福する!」
だけど――異世界は平和で、俺自身は何の変化も無く、変わる勇気も生まれてはきませんでした。
「だから、ここから、この異世界から探し始めよう! 見つからなかった君自身を!」
だけど――奇妙な出会いがあって、滅茶苦茶に振り回されて、訳も分からないまま今までの常識は叩き壊されてしまいました。
「今から、この瞬間から始めよう! 今までと違う事を!」
だけど――思い返してみれば、この非常識な魔族との出会いが一番大きな変化の瞬間でした。
「君が――主人公の物語を!!」
そう、異世界での――大変で滅茶苦茶な、それでいて優しく暖かな――物語が始まりました。