■第54話「空白に飲まれる前に」
夕方だった。
空は赤く、街はゆっくりと夜へ沈んでいく。
人の流れも穏やかで、騒がしさは少ない。
それは、いつも通りの光景だった。
だが。
カイルは、違和感を感じていた。
(……薄いな)
何かが、薄い。
音が、軽い。
風が、弱い。
人の気配が、遠い。
すべてが、ほんの少しだけ“足りない”。
「……なあ」
グレンが歩きながら言う。
「さっきから変じゃねえか?」
「何がだ」
レイヴンが答える。
「いや、なんていうか」
言葉を探す。
「ぼーっとする」
「集中できねえ」
ナナが小さく言う。
「削られてる」
「何がだよ」
「認識」
その一言で、空気がわずかに変わる。
セラが笑う。
「いいね」
だが、その声は少しだけ遅れている。
カイルは立ち止まる。
振り返る。
街を見る。
人がいる。
動いている。
だが。
“いない”。
(……違うな)
見えている。
だが、存在が薄い。
その時だった。
ふっと。
一人の人間が、視界から消える。
さっきまでそこにいたはずの人間が。
「……今」
グレンが言う。
「消えたよな?」
「見えてなかっただけだ」
レイヴンが言う。
だが、その声は確信がない。
ナナが言う。
「違う」
「消えた」
その断定が、重い。
セラが楽しそうに笑う。
「いいね」
カイルはゆっくりと前を見る。
違和感が、はっきりと形を持ち始めている。
これは、戦闘ではない。
干渉でもない。
“侵食”。
空間が、少しずつ削られている。
存在が、少しずつ薄くなっている。
「……おい」
グレンが声を上げる。
「なんか、足元おかしくねえか?」
見る。
影が、薄い。
いや。
影が、遅れている。
動きと、合っていない。
レイヴンが眉をひそめる。
「……ズレてるな」
ナナが言う。
「同期が外れてる」
「何とだよ」
「現実」
その言葉で、理解する。
自分たちが、ずれている。
セラが笑う。
「いいね」
その瞬間。
音が、消える。
完全に。
人の声も、風も、何もない。
グレンが叫ぶ。
だが、聞こえない。
口は動いている。
だが、音がない。
カイルは動かない。
ただ、見る。
その先。
そこに、立っていた。
「……また会ったね」
柔らかい声。
だが、今度ははっきりと聞こえる。
“空白”。
前に現れた存在。
同じ場所にいる。
だが。
周囲は、完全に変わっていた。
色が薄い。
輪郭が曖昧。
遠近が不明確。
空白が一歩前に出る。
だが、距離が分からない。
近いのか、遠いのか。
「ちょっと早いけど」
軽く言う。
「試してみようと思って」
カイルを見る。
真っ直ぐに。
「君が、どこまで“残れるか”」
その言葉が、静かに落ちる。
次の瞬間。
グレンの姿が、薄くなる。
「……っ!」
何か言っている。
だが、聞こえない。
レイヴンも同じ。
輪郭が、ぼやける。
セラも。
ナナも。
全員が、少しずつ消えていく。
「……おい!」
グレンの声が、ようやく届く。
「なんだこれ!」
空白が言う。
「簡単だよ」
「君たちは、“ある”前提で動いてる」
一拍。
「でも、ここは“ない”」
その言葉で、理解する。
ここは。
“存在が保証されていない”。
だから。
薄くなる。
消える。
ナナが必死に言う。
「……維持できない」
レイヴンが歯を食いしばる。
「……くそ」
セラが小さく笑う。
だが、その声も薄い。
グレンが叫ぶ。
「カイル!」
カイルは、動かない。
ただ、空白を見ている。
その状態で。
(……なるほど)
分かる。
戦いではない。
削る。
消す。
存在そのものを。
空白が言う。
「君はどう?」
「消える?」
カイルは、少しだけ考える。
そして。
「消えないな」
短く答える。
空白が、少しだけ目を細める。
「……やっぱり」
カイルは一歩踏み出す。
その瞬間。
空間が揺れる。
色が戻る。
音が戻る。
グレンの輪郭が、少しだけ戻る。
「……っ!」
空白が言う。
「それ、面白いね」
カイルは止まらない。
もう一歩。
踏み出す。
さらに戻る。
レイヴンが息を吐く。
ナナの目がはっきりする。
セラが笑う。
「いいね」
空白が少しだけ後ろに下がる。
距離が、初めて分かる。
「……干渉してる」
小さく呟く。
「“ない”に対して」
カイルは何も言わない。
ただ、進む。
そのたびに。
空間が戻る。
世界が戻る。
存在が戻る。
グレンが叫ぶ。
「戻ってる!」
空白が笑う。
「いいね」
今度は、本当に楽しそうだった。
「じゃあ」
一拍。
「やろうか」
その言葉で。
空気が変わる。
完全に。
夕焼けが、消える。
夜でもない。
昼でもない。
何もない場所。
ただ、空間だけがある。
カイルと。
空白だけが。
そこにいる。
グレンたちは、遠くにいる。
見えるが、届かない。
ナナが言う。
「……分断された」
レイヴンが笑う。
「なるほどな」
セラが楽しそうに言う。
「いいね」
カイルは、前に立つ。
空白と、向かい合う。
空白が言う。
「これで」
一拍。
「邪魔はない」
その言葉が、静かに落ちる。
カイルは何も言わない。
だが。
立っている。
それだけで。
成立している。
空白が、少しだけ笑う。
「楽しみだな」




