11
商店街を歩く人の影はまばらで、いくら屋根があって駅からも近いとはいえ、雨が降れば客足は遠のいてゆく。
空のどんよりとした暗さのせいもあるだろうが、元々繁盛しているとは言い難いので、活気を失った商店街はどこか気だるげな空気を漂わせていた。
柚香は当初の予定を変更して、いつものようにぶらつくことにした。
「寧々、どっか行きたいとこある?」
最近はすぐにお気にいりとなったパン屋やたい焼き屋に行きたがる寧々だが、今は何も考えていなかったようで首を振った。
「どこでもいーよ」
そう言われると困る。一人だと本当にただ歩いているだけでもいいのだが、寧々はそれだとすぐに飽きるし疲れるだろう。
「じゃあ、たい焼き屋さんに行って、ソフトクリーム食べようか」
「たべるー!」
「半分こだよ」
「うん!」
寧々はこのところ一番の上機嫌ぶりを見せた。その理由が、柚香にちゃんと相手をしてもらっているからなのだと思えて、それだけの好意を向けてくれていることに、嬉しさを感じながらも、純粋に喜べない辛さがあった。
本当に無意識ではあったが、あのぬいぐるみを見つけて以来、忙しさを言い訳に、寧々とまともに向き合うことを避けていたのかもしれない。
しかしあのことと寧々自身は全く関係ない。よしんば寧々が母のことを知っていたとしても、それは寧々からすれば不可抗力なのだ。それがわかるくらいには、柚香は寧々という存在を一人の大切な人間として認識するようになっている。
そういえば、母の写真を寧々に見せてはいなかったが、ひょっとすると、知っていると言い出したりするのだろうか。
でも、あまり四歳の記憶力を宛にするべきではないか。
そんなことをつらつらと考えていた時だった。
「ゆずちゃん?」
寧々の声がとても近くから聞こえてきて、そこへ意識を向けた柚香は、鼻にくっつきそうなくらいの距離にソフトクリームがあって、驚いてのけぞった。
溶けかけているソフトクリームの雫が、ポタリと地面に落ちる。
「ゆずちゃん、どしたの?」
心配そうな目で、寧々が見つめてくる。
先に食べていいと渡していたバニラ味のソフトクリームは半分程減っていて、寧々が柚香と交代するために、既に何度か声を掛けていたのだとようやく気づく。
「何でもないよ。ありがとう。早く食べないと溶けちゃうね」
にこりと笑った柚香は、また雫が落ちないように注意しながら急いで食べた。手持ちぶさたなのか、寧々がぼんやり眺めてくる。
柚香はバッグからウェットシートを取り出した。それを見た寧々がさっと両手を開いて差し出したので、ベトベトの手を拭いてやる。
たい焼き屋の狭い飲食スペースを出ると、またぶらぶらと歩いた。
考えごとをしていた柚香が黙っていると、手を繋いだ寧々も何も言わずに付いてきていた。
雨は止む気配がなく、商店街は更に人の気配が減っている。
普段は二、三分もすればしゃべり出す寧々が静かで、それはきっと眠たいからとか疲れたとかではないのだろう。何かをじっと我慢しているような沈黙だった。
「寧々」
「なぁに?」
「これから行かなきゃいけないところがあるんだけどね、寧々そこで大人しくしていられる?」
寧々は言われたことの意味を考えるようにじっと見つめてきてから、こくりと頷いた。
「じゃあ行こうか」
本当は今日はもうやめておくつもりだった。でも気になって仕方なくて、それが寧々にまで伝わってこんな状態にさせてしまうくらいなら、さっさとけりをつけたほうがいい。
実際は何もわからないままに終わるのかもしれなかったが、それでも確認せずにはいられない。
柚香は一つの店の前で立ち止まった。
商店街の創業当時から建っているであろう、古い木造店舗。目立たぬ簡素な書庫のような佇まい。周囲がどれだけ賑わっていようが、人気がなくなろうが、ここだけはいつも別の時代に繋がっているかのような静けさがある。
見慣れた光景に緊張が走った。
その扉を開けるのは勇気がいったが、寧々や通行人に不審がられてはいけないという思いが働き、柚香は何気なさを装って手を伸ばす。
引き戸を引いた後、チリチリと扉に付けられたドアベルが鳴った。
入口からでも見えるレジと作業台。そこにいつものように椅子に座ってその人はいた。
「いらっしゃい、柚香」
「……こんにちは、佐和さん」
いつもの会話。いつもと変わらぬ表情の彼女。
しかし柚香の表情はいつもと違った。それに気がついた佐和が顔を曇らせる。
「どうしたの? 何かあった?」
心配そうに立ち上がった佐和は、柚香の隣にいる寧々が視界に入り、軽く目を見張った。不安そうに佇む小さな子に微かに笑いかける。
「こんにちは、寧々ちゃん」
寧々は返事をせずに柚香の後ろに隠れた。そんな寧々に屈んで目線を合わせた柚香は、優しく話しかける。
「寧々、ここでちょっとだけ絵本読んで待っててくれる?」
「……どっか行くの?」
「ううん、行かないよ。でもあのお姉さんとちょっとお話がしたいから、その間だけ絵本読んで待っててほしいの」
どこにも行かない。という言葉だけはきちんと理解した寧々は頷いた。
「ちょっとだけ?」
「うん、ちょっとだけだよ」
本棚にあった児童本を買って寧々を椅子に座らせようとする。すると佐和がカウンターの奥にある座敷に寧々に連れていって、そこで読んでいるといいと言ってくれた。
佐和はきっとまた柚香にとって辛いことがあって、そのことで相談か愚痴を言いに来たのだと思っている。ただ純粋に心配そうな表情を見て、柚香は聞きたかったことが喉の奥に引っ込みそうになった。
「何かあった?」
柚香を椅子に座らせた佐和は、心配そうではあっても、いつものように冷静な様子を崩しはしなかった。今までずっとそのことに安心感を覚えていたのに、今日はそれが腹立たしくなってしまった。
「佐和さんだったんだね」
「え?」
柚香は俯いていた顔を少しだけ上げた。
「四年……五年前? お母さんが亡くなる前に一緒に旅行に行った友達」
目を瞬かせて柚香がなぜいきなりそんな話を深刻そうにするのかがわからないという顔を、佐和はした。
そしてその顔のままゆっくりと頷く。
「そうだよ。智香子さんとは友達だった」
写真で見て、既に知っていたはずなのに、柚香は衝撃を受けていた。驚きではなく、出所のわからない悲しさのせいだった。
少しだけ、おかしいとは思っていた。
佐和はいつも物静かで、社交的な性格では決してない。客から話しかけられればきちんと話しはするが、自分から客に話しかける人ではないのだ。
それなのに柚香には自分から話しかけて、何かと気にかけてくれていた。今の柚香と佐和の関係は佐和が築いてくれたものなのだ。柚香はそれを自分のことを気に入ってくれたからなのだと思っていた。
でもそうじゃなかった。佐和は亡くなった友人の子供を気にかけていただけなのだ。
「柚香、言わなかったのは深い意味なんてないよ。あの時、柚香がこの店に通い出した頃は、まだ智香子さんが亡くなってから間もなくて、そんな頃にお母さんの友達だって名乗り出るのは、立ち直ろうとしていた柚香の邪魔をするんじゃないかって思っただけなんだ。それからずっと言うタイミングを失っていただけ」
佐和は悪気などなかったというように、困った顔をした。柚香がただ教えてくれなかったことに拗ねているのだと思っているのだ。
教えてほしかった。母も佐和も皆が柚香を子供だからと除け者にする。子供だからこう考えるはずだと決めつけるのだ。
「……一緒に旅行に行くくらい仲がよかったなら知っている?」
胸の中で渦巻きそうになる負の感情を押さえつけて、柚香は口を開いた。
これを聞くために、ここに来たのだ。
「お母さんが本当は、寧々と寧々の母親の存在を知っていたのか」
食い入るように柚香は佐和を見つめた。
いつも冷静な佐和のどんな反応も見逃さないように。少しの嘘も許さないように。
誤魔化すのではないかと思っていた佐和は、ただ言葉を失っていた。
驚いたのではなく、答えるべき言葉を見つけられなかったかのように。
彼女らしくなく目をさ迷わせた。
確定した。
悪い予感は当たってしまった。
「なんで……!」
気がつくと柚香は叫んでいた。
なんで母は教えてくれなかったのか。
なんで佐和は教えてくれなかったのか。
なんでそんなことになっていたのか。
いろんな疑問が吹き出してきた。
「……皆、わたしにだけ黙って仲良くしていたの?」
絞りだすように言った柚香に、佐和がはっとした。
「違う! 柚香、そうじゃなくて」
「何がそうじゃないのよ!」
自分から聞いておいて、柚香はその答えを拒絶した。想像以上に頭の中が掻き回されて、どうすればいいのかわからなくて、とにかく、宥めるための言い訳を耳にするのだけは嫌だと強く思う。
佐和の背後、不安そうにこちらを覗き見る寧々と目が合った。
「寧々!」
体を跳ねさせて動揺する寧々に近づいて靴を履かせると、柚香は急いでこの場から逃げようとした。
「待って、柚香。そうじゃないんだ」
佐和の呼び止める声もほとんど聞こえていなかった。手を引いている寧々の足取りが危うげなものであることも気づかず、店を出て早くそこから離れようと、前だけを見て足早に歩く。走り出さない理性だけが残っていた。
商店街は先程と変わらず静かで、人も少ない。
のんびりと歩く通行人の隣を俯いて通り過ぎていく。
寧々が何かを言ったような気がしたが、微かな雑踏や雨音と共に耳を通りすぎていった。
悲しくてやるせなかった。
自分の存在がやはり母にとって、それほど大きくはなかったのだと突きつけられた気がした。
母も祖母も父親も佐和も。誰もが柚香に隠して物事を進めていく。子供だからと何も決めさせてはくれず、そのくせ自分たちの都合に振り回して。
そうして柚香に隠せなくなくなってから、申し訳なさそうな、気まずそうな顔をして告げるのだ。選択権など与えずに。
でも、決めさせてくれないのが辛いのではない。
誰もわかってくれない。
柚香はただ話しをしてほしかっただけだ。たとえ何かを決めることはできないのだとしても、重要な者ではないかのように、理解することができない者かのように扱われるのが、嫌なのだ。
そしてこんなことを言ったとしても、誰もがそれは違う、柚香は大切な存在だと答えることがわかっていることが辛いのだ。柚香にはわからない。なぜそれが大切にしているということになるのか、どうしてもわからないのだ。
孤独がお腹の底に沈んでいく。
それはこの数ヶ月で何度も柚香の中に降り積もっていた。一時は忘れていられても、ふとした瞬間に思いだし、少しずつ厚みを増していく。
雪のように白くもなく、閉じられた場所に降るそれは、段々と柚香を圧迫した。
でもこんなこと、祖母も佐和も友達も、誰も知らない。
柚香がこんな想いを抱えていることを知っているのは、柚香自身だけなのだ。
これは寂しさじゃない。そんな相対する感情が存在するものではなかった。なぜなら、いつか誰かが、この気持ちを理解してくれるわけではないのだから。
ふっと思考が止まった。
柚香は違和感を覚えて瞬きをする。
立ち止まり、周囲を見回してから、ようやく手を繋いでいたはずの寧々がいないことに気づいた。
その瞬間、時間が止まり、なぜか夢の中にいるかのような、そんな不思議な感覚がした。
すぐに身の内を通り過ぎていったそれを気のせいにして、柚香は寧々を探す。顔見知りの多い商店街の中だったせいもあるだろうが、心配してはいても、あまり慌ててはいなかった。
振り返ると寧々はそこにいた。
ぽつんと立って柚香をじっと見つめている。小さな眉を下げてあまりにもまっすぐな視線で。
その黒い瞳に溢れるほどの一つの感情が詰まっているように見えて、柚香は動くことができなくなった。
雨音が止んでいる。
人の声も、足音も、店から漏れる音楽も、全ての雑踏がとても遠くから聞こえているようだった。
動かない寧々の真横を、親子連れが通り過ぎようとしていた。
その中に寧々と同じ背丈の子供がいて、柚香は誘導されるようにして目を向けた。
子供の母親らしき人と年嵩の女性がとても楽しそうにおしゃべりをし、そして蚊帳の外に置かれた小さな子供は、悲しげにそんな母親をじっと見つめていた。
寧々と同じ表情だ。そう思った直後、柚香ははっと息を飲んだ。
表情ではなく、顔。それをとてもよく知っている。あまりにも自分とよく似た小さな女の子が、そこにいた。
揺れる瞳を母親に向けたまま、女の子は黙って立ち止まる。当然のように柚香の母親によく似た女性は、それに気づかず、歩きながら笑顔でおしゃべりをしていた。
女の子は黙ったまま動こうとせず、ひたすら母親を見つめて、自分の存在を思い出してくれるのを待っているようだった。
二人の距離がどんどん離れていき、やがて柚香の横を通りすぎた後、母親は隣を歩いていたはずの子供がいないことにようやく気がついた。
振り返り、その姿を認めて安堵するも、すぐに目を吊り上げて駆け寄る。女の子の前で立ち止まった途端に彼女は怒鳴った。
「どうしてちゃんと付いて来ないの!」
女の子の顔がくしゃりと歪んだ。
「もう!」
呆れを滲ませた声を出すと、母親は女の子の小さな手を掴んで、引っ張るように連れていく。俯いた女の子の目から、ぼろぼろと涙が零れていた。尖らせた口が小さく、だって、と動く。
ありふれた光景だった。
よくある親子の姿。
でも柚香は泣きたくなった。この子の悲しみが自分のものであるかのように思えた。もう遠い昔に忘れ去っていたはずの感情が甦ってくる。
幼い子供の頃、あんなことはよくあった。母親の関心がどれだけ自分に向いているか、忘れられてはいないか、試そうとして怒られて、そして世界に取り残されたような恐怖と悲しみに、涙が止まらなくなった。
きっと親からすれば、些細なことだっただろう。それでも幼い自分にとっては、大切な人からいらないと言われたかのようで、悲しくて悲しくて仕方がなかった。
あれは自分だ。幼い日の自分。
柚香は突き動かされるように寧々を見た。
あの、溢れるほどの感情を閉じ込めた目で、泣くことも訴えることもせず、変わらずただじっと柚香を見つめていた。
その感情を知っている、と思った。
思い出したのではなく、ずっと知っていたのだ。
たとえそれがほんの一部であろうとも。母親を亡くしたばかりの少女の足元にも及ばない薄っぺらい感情だとしても。
柚香はあの感情を知っている。
寧々が何を望んでいるのか、知っているのだ。
「寧々!」
衝動的に呼んだ声に、寧々はびくりと震えた。見上げた瞳に微かな期待が宿る。
それでも動こうとしない寧々に向かって、柚香は駆け出した。
なぜわからなかったのだろうか。わかっている気になって譲歩して、諦めて受け入れたのだから、それでいいのだと思っていたからだ。
あの小さな体が必死に伸ばしていた手は、ただ繋いでもらいたいがためのものではないのに。
柚香は両手を前に出した。それを見て考えるよりも先に動いてしまった、そんな仕草で寧々が走り出す。疑り深く柚香を見ながら、期待に泣きそうになりながら。
「寧々」
抱き締めた体に、同じくらいの強さでしがみつかれる。
それがあまりにも温かかったからか、柚香が感じたのは後悔よりも安堵だった。だからこそ、また泣きたくなる。
柚香にとってはずっと諦めであったものが、寧々にはそうではなかったのだ、きっと。この子は初めから手を伸ばしていて、今もまだ抱きついた手を離すまいとしてくれている。
寧々に何かを言おうとして何も言葉が出てこなかった。
体に顔を押し付ける柚香の様子がおかしいと感じたのか、寧々が不思議そうな声を出した。
「ゆずちゃん?」
返事をしない柚香に戸惑いを滲ませる。
「ゆずちゃん、どうしたのー? イタイイタイの?」
あんな顔をしていたくせに心配そうに尋ねるから、首を振って柚香はようやく顔を上げた。
「大丈夫だよ。痛くないの。あのね、一人で行っちゃってごめんね」
寧々は大きな瞳を更に大きくして柚香を見つめると、小さくうん、と頷いた。
「……ゆずちゃんイタくないの?」
「もう大丈夫だよ。もう、おうちに帰ろうか」
「うん……帰る」
柚香は立ち上がって天井を仰いだ。ガラス越しの空は青く澄んでいた。
雨が上がっている。
商店街の入口から覗く外の風景は、雨雲をいつの間にかどこかへやってしまっていた。
柚香は寧々の手をぎゅっと握った。
「もう、お姉ちゃんの手、離しちゃ駄目だよ」
願うように言うと、寧々は真剣な目で柚香を見つめた。
初めて自分から言った言葉だった。周囲からそう呼ばれていても、はっきりと認めたことは一度もない。意地だったのか、最後の心の砦だったのか、もうわからない。
ただ今は、何よりも大切なことように思えた。この一人ぼっちで取り残されていた子に、姉だと認められることが。
寧々はとても大事な約束事のように、目に涙を溜めて、力強くうん、と頷いた。




