1533年6月。隣の領地の市の数確認のために時間がかかる間市に出す料理教室が館で開かれている。
五万石になった。
川内の一万五千石に、薩摩北西部の三万五千石が加わった。
普通なら、まずやることは決まっている。
家臣団の配置。
城や砦の確認。
年貢の割り直し。
軍の再編。
ところが八郎が最初に言い出したのは、それらではなかった。
「料理教室をします」
広間が止まった。
「……料理教室?」
元領主たちも、武士たちも、庄屋衆も、商人衆も、同じような顔をした。
父が眉をひそめる。
「八郎」
「今、五万石になったんやぞ」
「はい」
「だから料理教室です」
「だから、がつながらん」
和尚が腹を抱えて笑い出した。
「はっはっは。五万石の初手が炒め飯か」
「笑い事じゃありません」
八郎は真面目な顔で帳面を広げた。
「うちの主力は飯です」
「飯を売ります」
「材料を仕入れます」
「その仕入れで証文を消します」
「利益も出します」
「それが今、一番回っている仕組みです」
商人衆がうなずく。
「確かに、先週だけで三十九万文動きましたからな」
「はい」
八郎は続けた。
「今回加わった三万五千石分の領地に、市がいくつあるかはまだ分かりません」
「ですが、人はいます」
「人がいれば飯は売れます」
「飯が売れれば、米、魚、野菜、薪、炭を買えます」
「買えば、その分だけ借金を消せます」
元領主の一人が恐る恐る聞いた。
「つまり……領地を治めるために飯屋を増やすと?」
「はい」
「まず飯屋です」
広間がまた静まる。
母が苦笑した。
「本当は親鳥をどう美味しく食べるか考えてほしいって話やったのにね」
「はい、母上」
八郎は申し訳なさそうに頭を下げる。
「本当はそれも大事です」
「親鳥は硬いですけど、うまく料理できれば新しい仕入れになります」
「でも今は、それより先に料理を広げる方が大事です」
三郎が腕を組んだ。
「つまり、味を極める前に、とにかく店を増やすんか」
「はい」
「まず出します」
「まずいとか、高いとか、遅いとか、態度が悪いとか、全部一回言われます」
「それを聞いて直します」
四郎が笑った。
「文句言われる前提なんやな」
「言われます」
八郎は即答した。
「十三の市を一気に動かした時も、文句だらけでした」
「でも、動いたから帳面が出ました」
「帳面が出たから、仕入れも利益も見えました」
「見えたから借金を消せました」
和尚が目を細める。
「つまり、まず煙を立てよ、ということか」
「はい」
「飯の煙です」
父が呆れたように笑う。
「領地経営の合図が飯の煙か」
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それから数日、館はおかしな場所になった。
広間の隣では、女たちが混ぜ飯を作る。
庭では男たちが薪を割り、大鍋をかける。
台所では三郎と母が、マグロの煮付けの味を見ている。
「少し濃い」
「いや、市で出すならこれくらいでええ」
「冷めた時にどうなるかやな」
別の場所では炒め飯の練習。
「火が弱い!」
「焦げてます!」
「焦げる前に混ぜろ!」
団子の組は、砂糖の量で揉めていた。
「甘すぎたら高くつく!」
「でも甘くない団子は売れん!」
そこへ八郎が顔を出す。
「両方作ってください」
「安い団子と、高い団子」
「客に選んでもらいます」
「また増やすんかい!」
皆が笑う。
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十三の市には、それぞれ弟子をつけることになった。
元から八郎の飯屋で働いていた者。
新しく雇われた者。
元捕虜だった者。
庄屋衆の若者。
寺の下働き。
ごちゃ混ぜである。
料理を教わる者が増えれば、当然、失敗作も増える。
焦げた炒め飯。
薄い汁。
硬い団子。
煮崩れた魚。
それでも八郎は捨てさせなかった。
「まかないにしてください」
「食べて、感想を聞いてください」
結果、館のあちこちで飯が配られた。
帳面係にも。
警備の武士にも。
大工にも。
そして、まだ様子見で残っている元捕虜たちにも。
「俺ら、この前まで攻め込んだ側やぞ」
「なんで飯の味見しとるんや」
「でも、うまいな」
「この汁はもう少し塩あった方がええ」
そんな声まで出る。
八郎はすぐに帳面係へ言った。
「書いてください」
「元捕虜組、汁は塩強め希望」
「なんの帳面やねん!」
父が突っ込むと、広間中が笑った。
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元領主たちは、その様子を呆然と眺めていた。
「ここは……館か?」
「飯屋の本店ではないのか?」
和尚が笑って答える。
「どちらでもある」
「そして、どちらでもない」
「八郎にとっては、借金を消すための台所じゃ」
元領主は黙った。
戦で負けた時よりも、今の方が恐ろしかった。
この三歳児は、刀で人を従わせていない。
飯を食わせ、仕事を作り、帳面を合わせて、人の居場所を作っている。
だから人が離れない。
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夜になり、八郎は疲れた顔で母の膝に寄りかかった。
「母上」
「何?」
「五万石って、思ったより料理が要ります」
母は吹き出した。
「そこなの?」
「はい」
「人が増えるということは、食べる人が増えるということです」
三郎が笑う。
「ほんま飯屋の考え方やな」
和尚がうなずく。
「じゃが、それでええ」
「米俵を見る殿は多い」
「腹を見る殿は少ない」
八郎は眠そうに言った。
「殿じゃありません」
「飯屋です」
その場にいた全員が、もう何度目か分からない言葉を返した。
「誰も信じてません」
こうして、薩摩五万石の改革は、軍議ではなく料理教室から始まった。




