2-3 Envy ⑥
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適度に手を抜きつつ、面倒になったところで力を込めて、淡路は相手の腕を机に倒す。
前に座っていた少年が机を叩いて悔しがると、周囲には歓声とどよめきとが巻き起こった。
十一人目だと、屋台の方から声がする。
淡路は今、ヒカルのクラスのたこ焼き屋の前で、腕相撲に興じていた。
淡路はとっくに飽きているのだが、予想以上に盛り上がってしまった上に、周囲をぐるりとギャラリーに囲まれて動きが取れなくなってしまったのだ。
淡路の耳には、あと四人で店の経営権を獲得すると、ひそひそ話が聞こえてくる。そんなものは頼まれても要らないのだが、ここまで盛り上がってしまった以上は、何処かでオチをつける必要があった。
一番良いのは、接戦の上で淡路が負けることだ。ただそのためには、接戦に持ち込めるだけの相手が必要なのだが。
次の相手らしき少年をみて、淡路は困ってしまった。いいところが瞬殺で、接戦を演じられるような見た目ではない。こういう時に、担任や力自慢の体育教師などが出てきてくれると非常に助かるのだが、現実は中々に厳しかった。
十二人目と、屋台の方で声がする。
歓声が上がって、淡路はさらに動けなくなってしまう。
「助っ人! 呼んできたよ!」
女子の集団が、ぞろぞろと現れた。その中心には、看板を肩に担いだ南城の姿がある。南城は無理やり連れてこられた様子で、少し不機嫌そうな顔をしていた。
淡路と南城とは、目を合わせた瞬間に互いに何かを感じ取る。
「おや、南城先生じゃないですか!」
「これは、淡路さん。部外者は立ち入り禁止ですよ。どうされました?」
「嫌だなあ。未来の弟に会いに来たんですよ」
「現在は他人ですし、そんな未来がくるとも限りませんし」
「あはは。南城先生は、本当に冗談がお好きですねえ」
アハハと、二人は声を揃えて笑う。
「それでは、私はこれで」
さっさと帰ろうとする南城を見て、周りにいた女子生徒が必死に引き留めた。
南城は、クラスの見回りがあるからと生徒に言い聞かせている。
「そうですよ。僕も、女性相手では少し気を使いますし……」
南城は、淡路が挑発したことに気付いた様子を見せていたが、彼の予想通り簡単には乗ってこなかった。
淡路はここで生徒側に働きかけることも可能だったが、ヒカルの義兄を名乗ってしまった以上は、自分が悪者になるような手段は避けたいと考えた。
勿論、淡路には、南城に負ける気などはさらさら無かったが、他に目ぼしい対戦者も現れ無さそうなところを見ると、この辺りを落としどころにするのが良いだろう。
さてどうやって乗せようかと、淡路はスマートフォンで何かを確認するような素振りを見せる。
「あれ、アオイさん」
しまったと、淡路は慌てた様子をして見せた。
連絡が来ていたことにようやく気付いた素振りで、淡路はチャット画面をスクロールする。相手はアオイでなく、ボットだ。
南城が明らかに反応したので、淡路はそそくさとスマートフォンをしまい込む。
屋台の方へ声を掛けて、淡路は急ぎの用事が出来たので帰ると告げた。すると彼の予想通り、周りからは惜しむ声が上がる。
「もう少し、だめですか? あと一回とか。東條君も、まだ来てないですし」
メガネの女子が、おどおどと淡路に申し出た。
「いやあ。僕もヒカル君に会いたかったんだけど、急用で……」
「じゃあ、あと一回だけ! ねえ、先生も」
今度は、南城の周りの女子が騒ぎ出した。
「これが最後だから! 先生。お願いします」
南城の担いでいた看板を剝ぎ取って、女子達が南城を机の元へ押してくる。
最後の一回と皆が強調し始めたことで、それは本来の勝ち抜き戦のルールではなく、特別に用意された一戦のような雰囲気が出来つつあった。
南城は促されるまま、淡路の前の席に腰を下ろす。
南城は、淡路の下手な嘘を見抜いていた。全て分かった上で、アオイの名前を出せば乗ってくるだろうという淡路の短絡的な考えに苛立って、敢えて勝負しにやってきたのだ。
淡路は、南城に微笑みかけた。それは、友好的な意味ではなかった。
淡路は不意に、南城の遥か後方に、校舎にもたれて立っているアオイの姿を見つける。
(あんた、なにやってるの?)
アオイの冷めた目が、問いかけている。
(愛しています)
淡路が、熱っぽい目で返す。彼にはアオイの「うるさい」という声が聞こえたように思った。
生徒に促されて、淡路と南城とは手を組み合わせた。瞬間、互いに、相手にある程度の武道経験があることを察する。
進行役の生徒が二人の手の上に手を被せて、これが最後だと強調し観客を盛り上げた。
「レディ……っ!」
「南城先生」
盛り上がりを完全に無視して、二人の前には北上が現れた。
南城は気配なく現れた北上を見て、驚きを隠せずにいる。
「お宅の生徒が、随分探していました」
「あ、ああ」
「遊んでいないで、行ってください」
北上の声は、普段通り冷淡だ。
南城はムッとした顔で何か言い返そうとしたが、直ぐに冷静に戻った。彼女は素早く看板を担ぐと、人ごみを抜けて走り去っていく。
「あれ、じゃあ、不戦勝ですか」
淡路が立ち上がると、先ほどまで南城のいた席に、今度は北上が無言で腰を下ろした。
これは淡路にとって予想外だったが、周りの歓声が尋常ではなかったので、仕方なく席に戻り北上と手を組む。
進行役の生徒が組み合った二人の手の上に手を重ねて、開始を声高に宣言する。
「淡路さん」
――刹那。
淡路は、自分の拳が机に叩きつけられたのを辛うじて目で追った。
「あまり、うちの教員を揶揄わないでやってください」
立ち上がると、北上はスーツの前裾を直して去っていく。
歓声は、遅れて起った。
ようやくヒカルや彼のクラスメイト達も到着したようで、屋台の周囲では騒ぎが大きくなっている。
巻き起こる、北上コール。しかし当人は、既に校舎の中へ消えている。
「肝に、銘じておきますよ」
ヒリヒリと傷む甲を眺めて、淡路は苦笑した。




