2-2 ステップアウト ②
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生物準備室の扉を開けたところで、西園寺アンズは何か固いものに進行を阻まれた。痛む鼻を押さえて顔をあげると、そこには心配そうな表情をした東條ヒカルの姿がある。
「東條くん!」
「西園寺さん、大丈夫? ごめんね、同じタイミングだったみたいで」
耳に降ってくるヒカルの声のトーンは穏やかで、アンズはホッとするような、ドキドキするような不思議な感覚を覚える。
「西園寺さん?」
「え? ああ、うん。大丈夫! ごめんね、前をちゃんと見てなかったの。東條くんは、大丈夫だった? あ、もしかして、またお手伝いに来てたの? 私は、生物部の案内を聞きたくて」
ゆっくりと話しているつもりだが、アンズは段々と早口になっていく。それを意識するとさらに早口になっていくような気がして、アンズは自分の顔がどんどん赤くなるのが分かった。
ヒカルは、アンズが口を閉じるまで待っていた。
「中林先生は、奥にいるよ」
静かにそれだけいうと、ヒカルは階段の方へ歩いていく。その後姿を名残惜しそうに見送って、すっかり見えなくなってから、アンズは生物準備室のドアをくぐった。
生物準備室の中では、老人姿の中林が窓の傍に腰かけて外を眺めていた。部屋の中には珈琲の香りが漂っていて、窓の外には落ち葉が舞っている。
「生徒をこき使うなんて、恥ずかしくないんですか?」
後ろ手にドアを閉めて、アンズは腕を組みドアにもたれかかる。その表情や声は、クラスに居る時とは別人のように強く、自信に満ち溢れていた。
「昨日の」
「違う。東條くんのこと。彼、生物部じゃないんでしょう? それなのに、頻繁に手伝わせてるらしいじゃないですか」
「ああ。そりゃあ、素直で優しい生徒がいたら、色々と手伝ってもらう事もあるだろう」
中林の目は、本棚の前に無造作に積まれた学術誌などの資料に向けられている。
アンズは中林の視線を見て、彼がヒカルに本棚の整理を手伝わせていたのだと理解した。
「もう。先生ったら、本の整理くらいは自分でやってください」
中林は、思わず笑みを溢した。アンズの目にはそれが、自分に咎められたのを誤魔化したためと映った。
「そうだな。そうしよう。ところで、昨日の」
「ハンターでしょう?」
中林の言葉を遮ると、アンズは彼の前へ歩いていきスマートフォンを取り出した。
アンズのスマートフォンのケースにはペンギンのキャラクターが描かれていて、ロック画面は家族旅行で観た海と灯台の写真だった。それだけをみれば、アンズは何処にでもいる女子高生の一人だ。
「ほら、三人。ちゃんと撮れてるでしょう?」
中林にスマートフォンを手渡して、アンズは窓の外に目を向ける。少し離れたビオトープに幾人かの生徒の姿を見つけると、アンズは眩しそうに目を細めた。
今日の午後からは文化祭の準備だけ。だから、どのクラスも午前中から少しソワソワしている。
転校してきてまだ日が浅いとはいえ、アンズは今だに集団に入っていくことに抵抗があった。ただ、それ以上に強い憧れもある。
アンズはふと、去り際のヒカルの背中を思い出した。普段通りの声や表情ではあったが、その背中には少しばかりの疲れや寂しさのようなものが無かっただろうか。
動画を再生して直ぐに、中林が感嘆の声をあげた。
アンズの撮影した動画は、三人のハンターを捉えていた。シルバーのスーツを身に着けた少年、ヘカトンケイル。キツネ面に白装束を纏った、キツネ。そして、ガスマスクを身に着けたインドラだ。
動画には、キツネが小学校の敷地内に現れる様子や、インドラがキツネの動向を窺っているような姿なども映りこんでいる。
中林は特に、キツネが弓を刀に変えた瞬間に注目して、その部分を何度も繰り返し再生していた。
「礼をいう。大変だったろう」
「いいえ、全然。先生には、助けてもらったもの。それより、次は何を? その三人、私が狩ってきましょうか?」
さらりと言い放ったアンズに、中林は目を向けた。アンズの目は変わらず窓の外に向けられていたが、その口元には不敵な笑みが浮かんでいる。
「そんなに、簡単な話じゃないさ」
「そう? でも、昨日のデコイ、上手に出来ていたと思います。みんな騙されてくれた。……ねえ、先生。私、もっと使ってみたいんです。もっともっと、暴れてやりたい」
鐘が、鳴る。昼休みが終わるのだ。室内に備え付けられたスピーカーから発せられているそれは、音が少し割れて聞こえた。
アンズは顔をあげ、中林へと視線を戻す。
中林は、微笑んでいた。その顔は満足気で、アンズの決意を称えているようにも見えた。




