1. その猫、昨日うちにいました
「ご覧ください! 二百年前の巨匠ロランドが、晩年に描いた傑作です!」
春の競売、午後二時。父の画廊の奥で、競売人が十三枚目の額を壇に上げた。もっとも、その口上は父のものだ。父は蝋で固めた口髭を撫で、金色の額の横に立っている。
高い窓は磨り硝子で、午後の光が細かな埃を浮かべている。かすかな絵の具の匂いのなか、金色の額だけが、その光を独り占めにしていた。
「犬の巨匠が、晩年にただ一度だけ描いた猫でございますよ?!」
扇の陰から、ほう、と声が上がる。最前列の老婦人が身を乗り出す。
「二百年、当家の蔵でお守りしてきた品でございます。犬の絵を揃えた収集家にも、猫だけはございますまい。くっくっく」
額の白猫は、昨日、私の寝台で寝ていた猫だった。
左耳の欠けた白猫、ムッシュ。私が描くときは寝台を占領し、売られるときは金色の額に収まるらしい。ずいぶん立派な寝床に移ったものだ。
「フォルチュネ子爵家の蔵より、皆様のお手元へ。――二百金貨から、お声をどうぞ」
競売人の槌が上がった。私は女中と壁際に並び、膝の上で手を重ねている。指の間に汗がにじむ。
蔵出しの娘を見たい客がある、と父に連れてこられた。見られるのは私の顔だけのはずだ。絵まで連れ出されているとは聞いていない。
後ろの壁際には、右目の片眼鏡を押さえる男がいる。
「三百金貨」
老婦人が銀の握りの杖を掲げた。会場の扇が揃って止まる。
私は椅子から立ち上がる。見間違いであってほしくて、猫の左耳をもう一度確かめた。背に垂らした黒い三つ編みが揺れる。
膝の上で重ねていた手が、冷えている。立つと決めてから声が出るまでに、脈を三つ数えた。唇を開いても、息ばかりが先に出る。
「お父様、その名画の猫、昨日うちにいました」
会場が静まり返る。父は顔をしかめ、口の端を上げて笑った。
「なっ! 何を言い出すんだ! ……娘の悪ふざけです。皆様、どうかお続けを。ほっほっほ」
「その絵、わたしが描きました」
父が私へ手のひらを向ける。座れ、の形は蔵でも見慣れていた。言われるより先に、膝が折れそうになる。
「お前の名前では売れん! 座れ!」
それでも、椅子には戻らない。壇へ近づけば、猫のひげまでよく見える。あの細い線を引いたときの息の止め方を、私の体は覚えている。
私はベレニス、二十一歳。画商子爵の娘で、九年、絵だけを描いてきた。
この猫を父に渡したときも、絵は蔵へ戻るものと聞いている。三百金貨の話は、今が初耳だ。その値段と、自分の手が描いた猫が、うまく結びつかない。
「黙れ。客の前だぞ」
父の声は、蔵で聞くときより一段高い。高い天井に跳ね返り、私のところへ戻ってくる。
「耳の欠けも、窓の傷も、わたしが見て描いたものです。昨日のムッシュは、今も同じ耳をしています」
「蔵にあった絵を見たのだろう! それだけで作者を名乗れるか」
「蔵で見たのは、画布の裏です。表は、わたしの筆です」
壁際から長身の男が進み出た。片眼鏡を押さえ、額と私の手を順に見る。その視線につられ、私は握り込んでいた指を開く。
「では、誰にも見せていない下絵を、ここで描けますか?」
「鑑定士殿、これは余興では――」
「余興にしては、三百金貨は高すぎます。――画板を」
競売人が槌を置き、画板を運んだ。私は絵の具の染みた指先で木炭を取る。握り慣れた細さに触れると、ようやく息が胸まで入る。
窓辺の体、伏せた耳、丸い腹。木炭がかさかさと鳴る。最後に尻尾を左と右へ伸ばした。
「まあ、二本! 二百年前の猫は、尻尾が二本あったの?」
老婦人が杖を膝に立て直す。競売人は、また上げた槌を下ろせずにいる。
鑑定士が額を磨り硝子の窓へかざした。光を受けた白い腹の下から、右へ伸びる細い線が透ける。
「薄い白の下に、尻尾がもう一本あります。塗り潰した一本が、光に透けています」
「迷ったんです。左に振るか、右に振るか……」
私は右の線を指す。木炭の先を絵に触れないようかざし、余った一本の形を示した。消す前の先端は、ここだ。何度も筆を止めた場所だから、指は迷わない。
「こちらを鉛白で消しました。猫が起きる前に描こうとして、尻尾だけ決められなかったんです」
「ほほほ。巨匠も、猫を待たせると困るのね。そちらの尻尾は、私にも見えるわ」
「夫人、二本の尻尾は、巨匠が迷った跡でございます!」
「巨匠が迷って、娘が決めたの?」
下絵を額の隣へ置く。消した尻尾の先まで、同じ位置に合った。描き損じた線まで役に立つなんて、昨日は思いもしないことだ。
「くっ! 猫の尻尾くらい、誰でも二本描ける!」
「では子爵、猫を一匹」
鑑定士が木炭を差し出す。父はひったくるように受け取った。
別の画板に四つの足と長い鼻が現れる。父が耳を尖らせても、鼻は短くならない。私は口を結び、画板の端を見る。
「……犬ですわね」
「猫だ!」
客の夫人が扇を開いた。父は画板を伏せ、木炭の粉を指から払う。伏せるまでが、描くよりずっと速い。
「子爵、その犬も三百金貨で売るの?」
「売りません!」
木炭の粉を払った手で、父は作者札を叩いた。
「練習の絵だ。練習の絵が、たまたま売れただけだ!」
「では、お父様。どうして名前を消してまで売ったのですか?」
「消した? お前は一度も名前を入れなかった」
父が額の下辺を指す。そこにはロランドの作者札だけがある。私の筆が届かなかったのは、その場所だけだ。
「入れるな、と仰ったのはお父様です」
「言った! 練習だからだ!」
口髭の端が、ぴくりと跳ねた。私はそこから目をそらさずに息を吸う。
「では、練習の絵はどこへ行ったのでしょう。蔵には……一枚も戻っていません」
「練習の絵に名は要らん!」
「練習の絵に三百金貨を付けたのは、どなたです?」
鑑定士の片眼鏡に、父の丸い顔が映る。父は私へ向き直った。いつもなら目を伏せる距離で、今日は口髭の端までくっきり見える。
「わしが売ってやったからだ! 蔵の絵を売るのは、蔵を預かるわしの仕事だ」
「では、描いた者の名前は、どこに置けばよろしいのでしょうか?」
「名前には払わないわ。絵には払う。さっきから、その絵の話をしているのよ、子爵」
「夫人! お買い上げの三枚も、当家の口上で――」
「それも、絵に払ったのよ」
父の指が作者札から離れた。夫人たちの目は父を通り越し、私の木炭を握る手へ向く。顔を見せるために連れてこられたのに、今は誰も、顔を見ようと言わない。
金色の額に映る指には鉛白が残っている。今朝、袖で拭いても落ちなかった。隠しかけた手を、私はそのままにしておく。
老婦人の杖が床を打つ。競売人が、その乾いた音に顔を上げた。
「三百金貨、取り下げるわ。――作者から買います。作者の名前で」
「落札、でございます――か?」
老婦人は父に返事をしない。金平糖の缶を開け、かすかな甘い匂いとともに、私へ一粒差し出す。
「今日いちばん面白かった人に」
「夫人、娘は当家の――」
「あなたの娘の話はしていないわ。作者の話をしているの」
私は木炭を持ち替え、一粒を受け取った。金平糖の角が、粉でざらつく指に当たる。父の口髭だけが震えている。
槌は下りず、三百金貨を数える者もいない。父が売ろうとした絵は、鑑定士の手に残った。
老婦人は額と下絵を見比べる。最後に目を留めるのは、白い猫を描いたほうの手だ。私は金平糖をそっと握り、空いた指を伸ばす。
「署名を。下絵に、あなたの名前を」
鑑定士が画板を私へ向ける。猫の足元には余白がある。私はそこに、ベレニス、と木炭を走らせる。
初めて、人前で、自分の名前を書いた。筆を持つときより、手が震えている。
字は猫の尻尾より曲がっている。鑑定士はそこを見て片眼鏡を外し、私の高さまで顔を下げた。
淡い青の目が、字と私を順に見る。片眼鏡を外した顔は、競売場で見た誰よりも若い。画板へ逃がしかけた視線を、私はどうにか踏みとどめる。
「君の絵を――前から知っている。やっと、作者に会えた。ふふっ」
「そ、そうなのですね。初めまして、鑑定士様。――その〈前から〉を、いつか聞かせてくださいませ」




