第15話「少女の旅立ち」
「お、お姉ちゃん……」
意識がフロラに戻った途端、力なく崩れる姉に駆け寄り、体を受け止めた。
「ひさしぶりね……フロラ」
しっかりとヒトの自我を持ち、優しい目つきで微笑んでいる。
「ずっと心配してたんだよ。お姉ちゃんがいなくて凄く寂しかったんだからね」
言いようのない感情の奔流が、涙に形を変えて両目から溢れ出した。
「フロラは泣き虫さんね。私との約束忘れたの?」
「忘れてなんかないよ! だって……だって……」
泣くことを必死に堪えていた。ここにたどり着くまで壮絶な経験がフロラを襲った。それでも、泣かなかったのは――強く生きる、とアリンダと約束を交わしたから。どんなに辛くても、涙を流すことを我慢していた。
「お姉ちゃんがわたしの前に……戻ってきてくれたのが、嬉しくて……」
小さな子供のように息を詰まらせ、声を上げて泣いた。
アリンダはフロラの頬に手を添えて、目をみつめて言った。
「こうしてもう一度、フロラとお話が出来たのは、あなたのおかげなのよ」
「どうしてもお姉ちゃんを助けたかったからだよ」
途切れなく流れる涙を、アリンダの指が拭う。
「フロラの声はちゃんと届いていたわよ。こうしてまた自由になれるなんて夢にも思っていなかったわ」
「やっと自由になれたんだし、一緒に暮らそうよ。そうだ、旅をするっていうのもアリだね」
泣きながらフロラが述べた提案にアリンダは唇をほころばせるだけだった。
「……できることならそうしたいけれど……無理なの」
わかっていたけど、現実を認めたくない。アリンダは既に死んでしまっており、このようにフロラと会話を交わしているのはもはや奇跡なのだ。
「嫌だよ……無理とか言わないでよ……」
現実だということを受け止められない。
「本当は、成長するフロラを最後まで見守りたかったわ……。どうやら、その役目は彼女になりそうね」
名前を出さなくても彼女が誰なのかは見当が付く。
「……彼女なら安心してフロラを任せられるわ」
濁りのない澄み切った瞳で、アリンダはフロラの傍らに添えられている剣を見た。《彼女》からの反応は無かったが言葉にならない意思の伝達が届いたのか、アリンダは安心しきった顔で笑った。
フロラはただ泣き続ける。
「最後にお願いがあるの……」
アリンダの透明な声が、フロラの聴覚を揺らした。
「なに……?」
「フロラの手で私を殺して」
「こ、ころすって……な、なんで、そんなこというの?」
「まだ私は解放されていないわ。あいつを始末したところで、心臓を奪われた以上、人形であり、所有物なのよ。私はね、人形のまま死にたくないの。辛いことかもしれないけれど、フロラが私を殺してくれることで、ようやくこの呪縛から解放されるわ。……だから、私を殺して頂戴」
刻一刻とアリンダの死は近づいている。一度死んだ者が、甦ることはない。奇跡と言える今この瞬間が永遠に続くことを祈っても世界はそれを許さない。
もはやアリンダに時間はない。
姉の頼みでも、さすがにこれだけは実行できない。
「お姉ちゃんを……殺せるわけ……ないでしょ……」
途切れ途切れの言葉に、嗚咽が混じり、掠れた声は聞き取るに堪えなかった。
「そう言ってくれるのはとても嬉しいわ……でもね、私はそれが本望なの……」
「無理だよ……無理に決まってるでしょ……」
「ワガママを言わないで……」
「うっ……」
心臓を切り裂く激しい痛みがフロラを苦しませる。命の灯火が消えかける今、悩んでいる猶予はないが、最愛の姉を自らの手で眠らせることに大きな躊躇いが生じてしまう。
刻限が迫りつつある中、鈴をふるわすような澄んだ声で《彼女》が囁いた。
『――アリンダの望みを聞き入れるんだ。このまま悩み続けていれば、彼女はオーフィリアから解放されないまま、この世から去るだろう。死んでも尚、後悔と未練が残ってしまう。それは彼女の本望ではない。鎖に繋がれた呪縛を断つことができるのはフロラしかいない。……彼女を、自由にさせよう』
「……」
大粒の波がとめどなく流れ出る。震える手、小刻みに揺れる体でフロラは、漠然と床の上で光る剣を見つめた。
「……うっ……うっ……」
左手を伸ばし、それを掴む。瞳が涙で滲み、アリンダの顔がぼやけて見える。もう二度と会えない姉の姿を、声を、思い出を、記憶に深く深く刻み込む。
両手を逆手にしてぐっと剣を握り、上に持ち上げる。
「フロラ……あなたは強い子よ……あなたならきっと奇跡を起こせるわ……」
「……任せて……」
懸命に笑顔を作るフロラに、アリンダは万感の想いを贈った。
「あなたが私の妹で良かった。――ありがとう」
大きく頷いたフロラは奥歯を強く噛み締めながら、純白の刃を――姉の胸に突き刺した。
――最愛の家族を、親友を、仲間を、失くしたフロラに残ったのは白い剣だけだった。
空が染み付くように青く、緑の匂いがする風が吹き渡り、草が涼しげな音を立てている。
一本の長剣を大地に突き立てて、その前で悲しみに暮れることなく、穏やかな表情でフロラは祈るように手を合わせている。
アリンダの清く、美しい遺体を『都』なんか放っておけるわけもなく、フロラはヴァン・アレンの仲間が眠る地まで持ち運び、土葬したのだ。
ここならきっと皆が天に召されるアリンダを迎えてくれるはず。死して尚も孤独なのは可哀想だ。アリンダは立派なヴァン・アレンのニンゲンであり、彼らと共に空からフロラを見守ってくれる。
託されたこの命を無駄にしてはならない。
瞼を開けて、無言で姉の墓を見つめているフロラは、小声で「いってくるからね」と呟いた。それから腰を上げて、仲間達の墓に目を向けた。一瞬だけ、青く澄んだ瞳に、旅に出るフロラに皆が笑顔で手を振っているのが映った。その中に、母親の姿を見かけ、静かな笑みで満足を示していた。
今思えば、テミスの一挙手一投足には意味があった。
自分の娘達が『混血』であるが故に、世界を救う使命を託されてしまう。
アリンダはきっと何らかのきっかけで自身の力に気付き、その使命を果たそうと街から離れた。
『混血』であってもテミスにとっては大切な子供。
ニンゲンの希望だろうと命の危険に晒したくないのが親心だ。
おそらく希望を全てアリンダに託し、フロラは普通のニンゲンとして育てたかったんだろう。だから頑なに地上の出入りを禁じていた。街の住民もテミスの意思を汲み取って協力していたに違いない。
『混血』だと魔人に気付かれると確実にフロラの命を狙ってくる。だからフロラの存在を地下で隠蔽し続けていた。フロラが、幸せに生きる唯一の道だったのだろう。
「母親って偉大だよね」
母の一途な深い愛情に感極まった声で嘆息をする。
「こうしてレナちゃんと巡り会えたのも、お母さんのおかげだよね」
魔人に捕獲され、死の直前に北へ向かうことを告げた。その方角には《彼女》が地の底で眠っていることを知っていたのだ。
「でも、レナちゃんの居場所をなんでお母さんは知ってたんだろう……」
その疑問に答えたのは《彼女》だった。
『アリンダが教えたのだろう』
「お姉ちゃんが?!」
『……本当の事を言うと、私は一年ほど前にアリンダと会ったことがあるんだよ。同じ『混血』だからかもしれないが、私が眠る地を感じ取り、私と対面した。アリンダは私に語りかけるだけで剣を抜こうとはしなかったが』
「ほぇ~初対面じゃなかったんだね……」
衝撃の告白にフロラの口から気の抜けた声が出た。
『隠すつもりはなかった……。ただ言うタイミングを逃していただけだ』
「で、お姉ちゃんとはどんな会話をしたの?」
『――妹のことをよろしくお願いします。そう告げて、去って行ったよ。多分だが、アリンダは自分の運命の行き先を悟っていたんだろう。自分の命はそう長くない、自分では世界を救えないのだと……』
《彼女》との邂逅、それは偶然ではなく、必然だったのかもしれない。自分に迫る運命を危惧し、アリンダはフロラの面倒を、《彼女》に託すことを決意した。
『アリンダは何らかの形で母親と会い、私の居場所を伝えた。このような結末を迎えるとはその時のアリンダは考えもしなかっただろうな』
「だろうね。皆がいなくなっちゃうなんて……誰も考えないし、考えたくないよ」
一陣の風が不意に吹き、フロラの髪を靡かせる。
風が吹く方角に眼差しを送る。青の紺碧をまだらにしている白い雲がゆっくりと東の方向へ流れていっている。
「この先に、何があるんだろうね……」
左手を目の上にかざして綿毛のような雲を見上げる。
『フロラの知らない世界が待っているんだ』
世界中を旅し、自分の目で、この世界の現状を知らねばならない。これから自分の足で進むべき道を切り開き、待ち受ける運命と対峙して、成長するんだ。
託された望みを胸に刻み込む。
ニンゲンとして、『混血』として、まだ見ぬ未来へ、果てしない大きな夢を抱く。
パートナーを右手に携え、背中を思いっきり伸ばすと声を張り上げて叫んだ。
「よし、出発だ!」
淡い陽の光が降り注ぐ大地を力強く蹴り出すと、気持ちよく流れる雲を追い掛けるようにして一人の少女は全力で走り出した。
旅立つ希望を見送る仲間を背にして――。
一旦この話はこれで終わりになります。
いつか…続きを書いてみようと思います。




