エピローグ
それから数か月が過ぎ、季節は冬を越えて春となっていた。それまで様々な事があった。まず、エリオは戴冠を終えて正式に王位を継ぎ、民衆の先頭に立って戦ったルーテシアは、その功績を称えられて栄誉騎士の称号を得ていた。アリアの助言でフロスブルグにあった廃校が薬学院の分校として整備され、それに伴って焼け野原と化していたフロスブルグの再建が飛躍的に進んでいた。徐々にフロスブルグを出ていった人々が戻ってきている。ロディス城と城下街もだいぶ落ち着きを取り戻していたが、エリオとシェルリの結婚式はまだ行われていなかった。
シェルリはずっと想っていたエリオと結婚できる事に無上の幸せを感じていたが、同時に今のままの自分ではエリオに申し訳ないという気持ちが強く、少しでもエリオにふさわしい女の子になる為に努力する事に決めたのだ。
「シェルリは本当に戻ってくるのかな? 本当は僕の事が嫌いになって出ていったのではないか……」
エリオは玉座の上で呟いていた。それを側で聞いていたルナリオンは呆れていた。
「王子、本気でそんな事を思っているのですか?」
「シェルリを信じているけど、心配はしているよ」
「しっかりなさいませ、王子! シェルリ様はそんな回りくどい事をするようなお方ではありません! 嫌いなら嫌いとはっきり言います!」
「そ、そうか、そうだよね」
エリオはルナリオンに怒られてたじろいでいた。
「くれぐれも、国民の前ではそんなお姿は見せないようにお願いします」
「わかっているよ」
一国を背負う者の側近としてルナリオンの態度は厳しいが、エリオだって人間なのだ、好きな女の子と離ればなれになって心配になるのは仕方がなかった。
春爛漫、快晴のこの日は薬学院の入学式であった。ロディス本校とフロスブルグ分校、両校の入学予定の生徒が薬王局に集まっていた。薬王局の中でも最も大きい広間に、一五〇人程の生徒が並んでいる。誰もが薬学院の制服を着て、羽根付の丸帽子を被っていた。この中にはシェルリもいた。そのすぐ横にはミースとリリナも並んでいる。ルーテシアやエレーナの姿もあった。
壇上にまず上がったて来たのはニイナだった。
「あー、今度フロスブルグ分校の院長になるニイナ・エインだ。特に何もないんだが、おめでとうとだけ言っておこう」
生徒たちがそれだけなのかと思っていると、ニイナは思いついたように言った。
「おっと、重要な事を思い出した。女生徒諸君は、いつでも院長室に遊びに来ていいぞ、美味しいお茶とお菓子を用意して待っているからな」
それを聞いた女生徒の間から、嬉しそうな声があがった。生徒をお茶とお菓子で歓迎するという気さくさに、ニイナの株が急上昇だ。ただ一人、ニイナをよく知るシェルリだけは苦笑いを浮かべた。
「あの人、とんでもない罠を仕掛けてる……」
この時シェルリは、獣を餌で釣って檻に閉じ込める罠を思い描いていた。
次にニイナに代わって壇上に昇ったのはアリアである。アリアが出てきた途端に、ミースは声を張り上げて手を振った。
「お母さーん!」
それにアリアは笑いかけて手を振り返した。
「こら、ミース! 静かにするって言うから連れてきてあげたのに」
「へへ、ごめーん」
リリナの方は静かにしていたが、アリアを見る目には特別な輝きがあった。
アリアは、ミースとリリナを引き取ったのだ。今やミースとリリナはシェルリの本当の家族になっていた。
壇上に上がったアリアは、厳しい表情で話し始めた。
「本校の院長となったアリア・フェローナです。難関の試験を乗り越えてここに集まった皆さんにお願いがあります。いまだに広がり続けている墳血症の駆逐に力を貸して頂きたいのです。様々な事情が重なり墳血症への対策が遅れた為、事態は良くありません。薬学院に入ったばかりの生徒にも頼らなければならない状況なのです」
アリアはここで言葉を切った。生徒たちがどのような反応を示すのか、壇上の上からじっくり伺っていた。誰もがアリアを真剣な眼差しで見ていた。
「皆さん、どうかよろしくお願いします」
アリアは薬王局の薬師達と共に、墳血症の駆逐に全力を尽くしてきたが、手を打つのが余りにも遅すぎた。ディオニスの悪意がもたらした影響が、今もロディスに影を落としていた。薬師達にとってこれからが本当の戦いであった。
ロディス城から遠く離れた森の中、打ち捨てられた山小屋
に彼はいた。薄汚れたベッドに横たわる男の姿は悲惨の一言に尽きた。墳血症に蝕まれ、もはや瀕死の状態だ。鼻腔、目、耳、そして口、あらゆる場所から血を垂れ流し、時々鼻から逆流する血液を噴き出し、喉に下ろうとする血液を吐き出していた。ベッドの傍らにある小机には眼鏡が置いてある。レイスレイであった。
彼は世話する者もない孤独の中で地獄の苦しみを味わいながら死のうとしていた。
彼は、机の上にある薬の入った小瓶に手を伸ばす。それは彼自身が調合した、墳血症の症状を遅らせる薬だった。その薬瓶に指先が触れると、彼は手を引いた。病気の進行を遅らせても苦しみが増すだけだ。レイスレイの胸の奥から押し出されるように、乾いた笑いが出てきた。虫の息なので、笑っていると言うよりは短く呼吸をしているようにしか見えない。
――わたしに最もふさわしい最後だな。
朦朧とする意識の中で彼はそう思った。かつての師を陥れ、墳血症の特効薬を闇に葬った。死を間際にして、レイスレイはアリアに対して本当に申し訳ない事をしたと思うと同時に、死によってこれ程まで心変わりしてしまう人間という生物の極端さが可笑しかった。レイスレイが再び笑おうとすると、喉に口内で出血した血が流れ込んだ。血を吐きだし、しばらくは激しく咽ていた。少し落ち着いてから目を開けると、視界は赤く染まっていて、ほとんど見えなかった。目蓋や網膜から染み出た血で瞳は真っ赤であった。彼が目を閉じて意識を失う寸前、部屋の淀んだ空気が動いて冷たい風が入ってくるのを感じた。
気を失ってからどれ程の時が経ったのだろうか、レイスレイには分からなかった。夢か現実か分からないぼやけた世界の中で、彼は声を聞いた。
「安心して、必ず助けてあげますからね」
そうだ、遠い昔にもそんな声を聞いた事があった。レイスレイは幼い頃に記憶を辿り、高熱を出した自分を母親がつきっきりで看病してくれた事を思い出した。必ず助ける、という女の声は、レイスレイに安心感と何とも言えない心地よさを与えた。これが死後の世界だと言うのなら、なかなか悪くないと彼は思った。
レイスレイが目を覚ましたのは、紛れもない現実の世界だった。部屋の中には窓から陽光が差し込み、かなり暖かい。外からは小鳥のさえずりが聞こえてくる。レイスレイが気を失ったときの肌寒い空気とは明らかに違っていた。その温度差は、レイスレイがかなり長い間眠っていた事を示していた。
彼は自分の両手を見てそれを動かし、自分が生きている事を確かめた。
「馬鹿な、あの状態から生き延びるなど考えられん」
レイスレイが辺りをよく確かめると、様々な痕跡が見つかった。血に塗れていたはずの枕のカバーとベッドのシーツは新しいものに変わっていて、ベッドの下には血を多量に吸ったガーゼが山となっていた。それでレイスレイは、誰かが自分を看病して病気を治したのだと知った。ふと側の机の見ると、底に青い薬が少しだけ残った薬瓶が置いてあった。震える手で薬瓶を取り、レイスレイはそれを額に当てると目じりから涙を零した。やがて嗚咽し声を上げて泣きだし、そして彼は言った。
「先生! アリア先生! ……申し訳……ありませんでした……」
フロスブルグの薬売り……終わり




