天使が二人、漆黒の夜に羽ばたいた。
あの時。
「助けて」と言わなかったら、俺は今頃なにをしていただろう。
*
その男は言った。
「きみは、ヒトがヒトを助けるのに明確な理由が必要だと思うのかね?」
仰向けに寝転がって、立ち上がれもしないくせに男の口調は威圧的だ。
「必要だと思っているならその質問に価値は無いし、必要無いと解っていて訊いているのなら質問自体が無意味。つまりやはり価値が無い」
寝転がったまま、男はこちらに顔を向けた。
「で、きみはどちらの意味で価値が無いのだね?」
俺は答えなかった。答えられる状況ではなかった。
なんせ、猿轡をされて両手は後ろで縛られている。もちろん足も縛られている。
「ああ、助けに来た礼を探しているのなら結構だ。上司が部下を助けに来るのは当然が過ぎるというもの。どうしても礼がしたいというなら、普段からもうちょっと優しく接してほしい。きみの性格だと無理かもしれないが」
俺は段々と腹が立ってきた。
ずりずりと、這うようにして寝転がる男に近づいてイク。
「なんだ。なにか言いたいことがあるならさっさと言いたま…っ!」
自由になるのは顔の位置だけ。したがって、俺は思い切り男に頭突きをかました。当然、俺も痛くて涙目になる。ああ、縛られているだけでどこにも怪我はしていなかったのに。たんこぶで労災は降りるだろうか。
「なにをするんだ、きみは。言いたいことは口で言いたまえ」
寝転がったまま頭を両手で抑え、そこでやっと男はこちらの今の状態に気が付いたらしい。
「そうか。その状態ではなにも言えないな。いや、気が付かなくて悪かった。そう睨むな。生きていれば、誰にでもうっかりの十や百、あるに決まっているだろう。それともきみは、自分はうっかりしたことなど一度も無いとでも言うのかね?」
十と百では十倍違う。いや待て、いいからさっさと縄を解け。
口ほどに物を言った視線はちゃんと通じたらしく、徐に上半身を起こした男はやっと俺に自由を返してくれた。
縛られていた両手をさすりながら、俺は男を睨みつけた。そうして、数時間ぶりに口を開く。
「……タスケニキテイタダイテアリガトウゴザイマス。ミニアマルコウエイデス」
「なんだ、その絵に描いたような棒読みは。礼なら心を込めて言いなさい」
「あいにく、込めるほど心の持ち合わせがないもので」
「そんなことで寂しくないのかね、きみは」
「いえ別に。誰かさんと違って頭は寂しくありませんし」
「失敬な。誰の頭頂部が寂しいと言うのだね」
「誰も頭頂部とは言っていませんがそういう意味でもいいです」
「それはどういう意味だね」
「だからそういう意味です」
「つまりああいう意味かね」
「たぶんそういう意味です」
不毛な会話だ。馬鹿らしくなってきた。
座り込み、立てた膝の上に両腕を乗せて、俺は壁に寄りかかった。縛られっぱなしで肩が凝っている。向かいの男は胡坐をかき、俺にびしっと人差し指を向けた。行儀の悪い男だ。
「常々思っていたのだが、どうもきみは私に対する尊敬の念が足りないのではないかね?」
「足りない以前に持っていません」
「部下としてはどうかと思うな。上司に対して尊敬の念が無いというのは」
「そちらこそ、上司ならもう少し上司らしくなさってはいかがですか。無駄に威圧的なだけでは、部下は付いて行きませんよ」
「私のどこが威圧的だ。まあ、確かに抑えようとしても湧き水のように清らかに流れ出る威厳が、威圧的に見える部分はあるかもしれないが」
「そうやって頭頂部も湧き出てくると良いですね」
「だからさっきからどういう意味だね」
「だからさっきからそういう意味です」
「だからそうかつまりああいう意味か」
「ええつまりそういう…ってもういいです。しつこいです」
「きみがああ言えばこう言うからだろう」
反駁された言葉を無視して伸びをする。こきこきと音がする。やれやれ。ため息をついて、俺は立ち上がった。
「戻りましょう。ヨジュンが心配しています」
「待ちたまえ」
鋭くかけられた声に振り返る。彼はまだ胡坐をかいたままで、強い視線を俺に向けていた。
「…なんでしょう」
「見て判らんのかね。久しぶりに本気で走ったりしたから、私はまだ足ががくがくで動けないのだ。正直、息も絶え絶えだ。立ち上がれない。そう、まるで生まれたてのイルカのように」
「イルカと並べるのは彼らに失礼ですし、そもそもイルカは立ち上がる動物ではありません。……でもまあいいです。仕方がないですね」
俺は、身体ごと上司に向き直った。右手をあげる。
「じゃ、立ち上がれるようになったら戻ってきてください」
あげた右手を振った。
「冷たい! きみは私に冷たくないかね!」
「なに言ってんですか、今更」
言って、すたすたと歩いていく。まだなにか文句を言っているようだが、一切振り返らなかった。どうせ、放っておいてもすぐに来る。
外に出ると、辺りは真っ暗だった。拘束されていた時間はおよそ二時間といったところか。目隠しをされていたのでここがどこかは判らなかったが、移動時間からしてさほど遠くに連れて来られたわけではなさそうだ。
閉じ込められていたのは、いかにもという雰囲気の廃寺。なるほど、これではそうそうヒトは近寄らないだろう。この時間ならなおのこと。
「やれやれ。本当に置いて行くとは。きみの血は赤くはないのかね」
「…さぁ。墨汁でも流れてるんじゃないですか。ここ日本ですし」
予想していた通り、置いてきたばかりの上司がすぐ後ろにいる。まったく、なにが立ち上がれないだ。
「置いてきた意味がありませんでしたね」
「ふっ。きみではまだまだ私には敵わないということだよ」
その言葉を否定はしない。肯定もしたくないが。
ふと、上司のまとう空気が変わった。
「きみ、怪我は?」
「たんこぶだけです」
「それはきみの責任だ。それで、首尾はどうだね?」
「まず間違いありませんね。ト‐〇〇一は近くに潜伏しています」
「ふむ。ご苦労だった」
上司はうなずいて、ふわりと浮き上がった。
「帰るとするか」
「はい」
言って、俺も浮き上がった。
天使が二人、漆黒の夜に羽ばたいた。




