不可避の敗北
「……………………」
地面に私の傷口から零れた赤い染みが広がる。
「……なるほどな」
椿芽さんが、やはり私の血で顔を濡らしながら、ぽつりと呟くように言った。
薄く開いた唇は、まるで朱を引いたようで……なんだかとても綺麗だ、などと、わたしは場違いな印象を抱いたりしてた。
「………………」
「……これが――」
再び椿芽さんが唇を開く。
「これが――お前の技、か」
わたしの『くるくる』を受け、『地面に引き倒されたまま』の姿勢で。
わたしの肩口の傷から零れた血は、椿芽さんの頬と……そこから伝って地面を塗らしている。
こうして椿芽さんを投げ倒す、一瞬前に切りつけられた傷は、決して浅くはないし……痛くないわけでもない。
だけど、重傷ということでもないし、ましてや致命傷なんかじゃない。
「実際に受けてみたのは初めてだが……確かに摩訶不思議な感覚には違いない」
「椿芽さん……! どうしてこんな……」
「…………」
「きゃっ……!」
油断があったといえば事実かもしれない。
椿芽さんは、わたしが押さえ込むようにしていた両腕を弾くようにして蹴り上げ……。
すぐさまに立ち上がり、距離を離した。
「椿芽さぁんっ!」
「詰めが甘いな、勇」
そうして……再び、わたしにその刀の切っ先を向ける。
自分の血で赤く濡れたその鋼のきらめきが、なんだかものすごく、不思議に――。
そして、やっぱり綺麗だ、なんて風に……思えた。
「もっとも引き倒してからの展開などは教わってはいないか? それでも締めるなり叩くなり蹴り付けるなり……どうとでもやりようは――」
「椿芽さんッ!!」
わたしはたまらずに叫ぶ。
「……名を呼びつけたところで敵は倒れんな」
「なんで……ッ! なんでこんなこと……ッ! なんでわたしが椿芽さんと……ッ!」
言葉が上手く出てこない。
胸になにか、とんでもない異物が詰まって、せき止められてるみたいに。
「二手……だな」
「え?」
「確かにお前のその技は脅威だ。どうして投げられたか……いつ捕まったのかも見えない。理解すらさせてもらえないのだからな。理屈はわからんが……」
「つばめ……さん……?」
「しかし……理屈など判る必要もない」
「………………」
まだ――やるんだ――。
「お前にも見せたことはあるだろう。鳳凰院流……七の段、奥義……無刹を」
「そ、それって……」
あの……いつか、興猫ちゃんを追い詰めた……。
まるで興猫ちゃんの行動を、あらかじめ全部『判っていた』ように動く……動ける、技……?
「並みの相手であれば、一手先を読むのが限度、というところだが……お前のように経験の浅い相手なら、二手……いや、三手は読めるか」
「つ、椿芽さん……」
アレを……わたしに……!?
「いや……本来なら……無刹を使うまでもないくらいだがな。ふふ……奥義、を用いられたなら……礼を返さねば、な」
本気……なの……!?
「いくぞ……」
「…………!」
椿芽さんの眼が、ぎらりと……殺気、を持つ。わたしは反射的……ただ、反射的に構えた。
刹那――!
「え……」
わずか一瞬の先に……わたしは椿芽さんの姿を完全に見失った。
そして――。
「あ……」
「……取った」
その次の瞬間には……椿芽さんはわたしの目の前に居て――。
「簡単なものだな? 羽多野勇……」
その刀の冷たい刃先が……わたしの喉元にぴたり、と押し当てられていた。
「あ……あ……」
最初に感じ得られたのは……ただ、冷たくするどい刃先の感触。
わずかに斬られた喉元の皮膚から伝う……新たな傷口から零れる、一筋の自分の血のくすぐったさ。
「まるで話にもならない。戦いの緊張も……盛り上がりすらも、ない」
それから……どっと、激しい恐怖が襲ってきた。
(ほんとうに……斬るつもり……だった……!?)
心臓が早鐘のように打ち……全身の毛穴から冷たい汗が噴出す感触……。
視界がぶれ……全部の景色が白黒になったかのようにすら思えてしまう。
「………………」
椿芽さんは刀を引き、くるりと背中を向ける。
「……今のは情けではないぞ。知らぬままに死なれても……わたしが困る」
ゆっくりと……また、距離を広げる。
その……一見、無防備にすら見得る背中が離れていくのを見ながら、わたしは……。
「………………」
ぺたり……と、その場に座り込んでしまった。
「つばめ……さぁん……」
椿芽さんが、ぴたりと足を止めた。
「……立て」
背中のまま……苛立った声を、する。
「やだ……やだ、よ……椿芽さぁんっ……!」
「立て……と、言った」
「うっ……うぅっ……!」
わたしは……自分が涙を零しているのに気づいた。
怖いとかそういうのじゃなく……哀しかった。
なんでこんな……こんなことをしなくちゃ……されなくちゃいけないのかって……。
それも、あの椿芽さんに……。
「………………」
椿芽さんは黙ったまま距離を広げて……そこでようやく振り返った。
「……一度は見せてやった。立たぬのなら……そのまま斬る」
「やだ……やだよぅ……。なんで……なんでこんなこと……」
「……理由が必要なのか」
「ううっ……うっ……」
「お前は――」
「つばめ……さん……?」
「お前は……わたしから全てを奪おうとする」
「え……?」
「いや……既に奪っている」
「そんな……!?」
わたしは……涙も忘れて、立ち上がり……椿芽さんを見た。
「わたし……そんなこと……!」
「……立ったな」
椿芽さんが小さく笑み……構える。
「椿芽さん……!」
「……名を呼んでも……敵は倒れぬ、といった」
「………………」
「多少は覚悟、なるものができたと見るかな」
「乱世さん……」
「………………」
「乱世さんの……こと……?」
「………………」
「乱世さんのこと、なんですか……!?」
「……黙れ」
「乱世さんのことなら、わたしは……!」
「黙れッ!!」
「……!」
「そうか……。私を……この鳳凰院椿芽を……ただ嫉妬に狂った……色情の、哀れなおんな、と見るか……」
「そんなんじゃありませんっ! わ、わたしは……!」
「ふふ……。いいさ。お前程度の価値観の女なら、そう見られてもな。肯定してやるよ」
「椿芽さぁんっ!」
「だが……そんなレベルの話では、ない……!」
「…………」
「乱世の体温などは……貴様にくれてやる。だが……あいつを奪っていくことが……私にとって、どれだけのことをもつことか……」
「え……?」
「誇りも……! 名も……! 剣の道も……! 過去も……! 未来も……! そして……おんなとしての意味も……! 全てを奪うことに等しいとも知ればいい……!」
「つばめ……さん……?」
どういう――こと――?
もちろんそれは……椿芽さんにとって、乱世さんが……それだけ重い存在――。
重要な人だっていう意味にも取れる。
そういう意味なら……わたしは、椿芽さんに恨みを買われても仕方がないっていえるのかもしれない。
(だ、だけど……)
わたしは……。
わたしは、乱世さんと……そんなに深い関係にすらなってない。
そうなりたい……そうなったらいいって……そうは思ってる。
思ってるけど……わたしは、そうなれてすらいない。
ずきり、とした痛みが胸を抉る。
(乱世さんは……わたしのことを……)
まだ、なんとも――。
「ふ……余裕か、それは」
「え……?」
「それとも……わたしを蔑む……憐れむ嗤い、か?」
「わ、わたし……!」
笑ってなんか……!
「……どうとでも思えばいい。私はお前を……斬ればいい。ただ……斬れば……!」
「椿芽さん……」
それに――。
それだけじゃない。
椿芽さんの言葉には……そういう……。
乱世さんを好きとか……愛するとか……そういうことだけじゃない、重さ……。
わたしの知らない、知りえない……なにかがあるように思えた。
「次は容赦なく、首を落とす。首さえ落とせば……」
「つばめ……さん……?」
「首を落とせば……私の……この私の……!」
一瞬だけ……椿芽さんの表情に、苦悩のようなものが見えた。
だけど……。
「………………」
それも……ほんとうに一瞬、だった。
一瞬……ただ、一瞬……。
あとは――。
「無刹を……啓く。それで……全ての道筋は決定される……!」
あとは――ただ、殺気――。
わたしへの――殺気――。
「……………………」
「お前がこの小豆長光の一太刀から逃れる術は……総じてふたつ」
「……………………」
「私の『読み』を外してそれをかわすか……」
「……………………」
「無刹の読みよりも多く……手数を増やして私を凌ぐか」
「……………………」
「ふっ……。いずれ、お前の技量では無理か……」
「……………………」
「いくぞ……」
椿芽さんが……足を踏み出す。
わたしは――。
「鳳凰院流奥義……無刹……!」
「見得る……ッ! お前の全ての『手』が……!」
わたし、は――。
「見得――――!」
わたしは――――。
「勇……貴様ッ……!」
「………………」
「貴様……私、に……!」
「つばめ……さん……」
「私に……」
「つばめ……さぁん……!」
「わたしに……斬られると……ッ!」
「やめましょう……もぉ、やめましょうよぉっ……! こんなのぉっ……!」
わたしは……。
そのときわたしがしたのは……ただ、泣くだけ……。
恥も外聞もなく……ただ、情けなく……みっともなく、涙を零すだけだった。
「い、勇……っ……!」
「もう……もぉ、やだぁっ……! やだよ……こんなの……!」
「き、貴様っ……!」
「わたしが……わるいなら……言ってくださいよぉっ……! こんなことじゃなく……言ってよぉっ……!」
「ば、ばかな……? 諦め……? 覚悟……? ちがう……ちがう、のか……。何手を読んでも、お前は……お前は……?」
「つばめさぁぁんっ!!」
「全てこの私に……斬られると……ッ!!」
わたしは……椿芽さんに歩み寄ろうとする。
触れれば……触れて、お互いに顔を見られれば……見られて話せれば……きっと……。
きっと、椿芽さんも……こんなこわいこと、なんかしなくて……!
「え、ええいっ……!」
椿芽さんは刀を収めてそのまま……私から離れようとする。
「椿芽……さん……」
「そうは……もう、そうは終わらない……終えられないのだ……!」
「つばめ……さぁんっ!」
「そういう……話では……ないっ! わ、わたしは……お前にっ……!」
「だめ……だめぇ……! 椿芽さん……!」
「次は……斬るっ! お前が……そうしたって……斬るっ! そんな風にしてみせたって……構わず斬るっ!」
「椿芽さぁぁぁぁぁぁんっ!!」
椿芽さんは……そのまま……。
「忘れるな……ッ!」
そのまま……わたしの前から走り去って……いなくなって……。
「つばめ……さぁん……」
いなくなって……しまった。
「いや……いやぁ……っ。つばめさん……こんなの……いやだよぉ……」
わたしはその場にへたりこんだまま……。
「いやああああぁぁぁぁぁぁぁぁっ……!!」
そのまま……やっぱりただ、泣き続けた……。




