6
叩きつけられたと思った。
なのに何故か体に痛みはない。
ごぼりと水が喉に入りもがいた瞬間、何故か苦しさが消えた。
苦しさにゴホゴホと水を吐けば、息ができる。
「どうして……」
呆然とした凛に見えたのは、自分を包む光る球体だった。
それのせいなのか、息ができる。
不思議そうに喉をペタペタと触っていると、だんだんと球体は水の奥底へと落ちていく。
どこまで落ちるのかわからず、まるで底なし沼のようだ。
そしてカッと強い光に包まれたと思った瞬間に視界へ入ったのは、立派な屋敷だった。
ぽかんと口を開けた凛は、そこでようやく頭がまわりだす。
「本当に、神様……?」
どう見てもこの世のものとは思えない。
「神様の生贄になるんだ」
ただ死ぬだけだと思っていたけれど、どうやら違うらしい。
ふと屋敷の前に人影があることに気づいた。
玄関先には一面に白い花が揺れている。
水の中で揺れるそれは、とても幻想的だった。
ふわりふわりと球体が玄関先につくと、そのまま消えた。
どういう原理なのかわからず不思議に思ってしまう。
「早いな」
滑らかな低い声が聞こえてそちらへ目をやり、凛は息を呑んだ。
そこにいたのは美しい男だった。
見た目は二十代半ばくらいだろうか。
銀色の髪に紫雷の瞳。
髪は高い位置でひとつに結んでいる。
神と言われれば納得するほど美しい顔の左目から頬にかけて蔓に花の咲いた、青い刺青が彫られていた。
女性用にも見える白地に青い花模様がたもとにいろどられた着物は華やかで、浮世離れしている。
「迎えにいくつもりだったのだが」
凛を見て、男はわずかに首を傾げた。
「以前も思ったがずいぶんとみずぼらしいな。あの村だからか?」
無表情に告げられた言葉に凛はカッと頬が熱くなるのを感じた。
たしかに凛はボロボロの着物を着ているし裸足だ。
今はぐっしょりと濡れているからわからないけれど、髪も肌も痛んでいる。
この美しい男の前にいることが、ひどく恥ずかしく思えた。
そして目の前の人物が自分を捧げる神様ではないかと、ようやく気付く。
「は、はじめ、まして。り、凛ともうし、ます」
慌てて凛はその場で地面に膝をついて頭を下げた。
「顔を上げろ」
降ってきた声に、恐々と顔を上げると怪訝そうな顔をしている。
何だろうと思っていると、何かに気づいたように小さく頷いた。
「水華だ」
「水華様……」
綺麗な名前だと思う。
失礼にならない程度にそっと見上げていると「立て」と言われたので、慌てて立ち上がった。
すると「おい」と水華が背後へと声をかける。
何だろうと思っていると、水華の足元から二匹のたぬきがぴょこぴょこと二足歩行で現れた。
それに思わず目を丸くする。
世間知らずの凛だってわかる。
たぬきは二足歩行はしない。
「かわいらしいお嬢さんですね」
「本当に」
たぬきの口から言葉が飛び出し、ますます驚きで目が丸くなった。
「壺と峰だ。ここのことは二人に訊け」
「「よろしくお願いいたします」」
「よ、よろしく、お願いします」
ぺこりと頭を下げられて、慌てて凛も頭を下げた。
声の様子から、少し小柄な方がメスで壺。
大柄な方がオスの峰だろう。
くるりと水華が背を向けて玄関へと入っていく。
どうしたらと思っていると、低い声が投げかけられた。
「さっさと来い」
「は、はい」
「さあさ、なかへどうぞ」
壺にうながされ恐る恐るなかへ入れば、そこはとても広かった。
床は磨き上げられた板張りで、凜のいた小屋が十個ははいりそうだ。
「あ、あの、私汚れてて」
「かまわぬ。風呂にいれてやれ」
後半は壺にかけた言葉だった。
「ええ、ええ。お迎えにあがるまえにいらっしゃるなんて」
迎えとはどういうことだろう。
壺の言葉に不思議に思いつつも歩くのをためらっていると、今度は後ろから峰にうながすよう足をぽんぽんと叩かれた。
それにためらいながら歩き出す。
屋敷のなかもずいぶんと広かった。
きょろきょろと見まわしていると、濡れ縁へと出る。
「わあ」
おもわず凛は感嘆の声を上げた。
濡れ縁の外は玄関先と同じく一面の白い花。
どことなく見覚えがあると思いながらも、凛の目はさらにその奥へと吸い寄せられていた。
庭の先は真っ青だった。
魚が泳ぎ、頭上から光がそそいでキラキラしている。
「水の、なか?」
「そうだ」
「た、滝のなか、ですか?」
「滝つぼのなかではなく神域のなかだ」
神域ということは神様の領域ということだ。
そんなところにいるのだと思うと、恐れ多かった。
「あの境目から外に出ぬようにしろ、溺れるぞ。それに他の奴らの縄張りに入ったら面倒だ」
「か、神様は、たくさんいらっしゃるの、ですか?」
「おおまかには私を含めて五人だ。私は水を司っている」
淡々と答える水華は少し怖い。
けれど凛は孫一のように怒鳴られるほうがもっと怖い。
(神様と同じように、私を怒らない)
今まで凛に優しくしてくれたのは祠の声だけだ。
なのでどんな顔をしていいかわからず俯くしかなかった。
「先に部屋に案内した方がいいか。着替えが必要だろう」
ふむと一瞬考えるように足を止めて、再び水華は歩き出した。
部屋とはどういうことだろうか。
「ここを使え」
案内されたのは広い部屋だった。
襖には派手になりすぎない青い花の模様が描かれ、かわいらしい。
ピカピカに磨き上げられた鏡のある鏡台は、楓が欲しいと話しているのを聞いたことはあるけれど、はじめて見るものだった。
窓はないけれど広いので閉塞感はない。
凛は目を丸くして水華を見やった。
「あの、こ、こんなところ」
「何だ、気に入らぬか」
「い、いえ、素敵です」
「ならいい。風呂に入れてやれ」
水華の指示に、峰がさあさと凛を促す。
壷が着替えをと用意を始めている。
とまどいつつも足は一歩踏み出した。
「ああそうだ。飯はよく食え」
背後からの言葉に肩越しで振り返ると、すでに水華はこちらへ背を向けていた。
やっぱりとまどってしまう。
壺に連れて行かれた湯殿も広々としていた。
ヒノキの香りが温かい湯とあいまって、体を弛緩する。
「気持ちいい」
膝を抱えてちゃぷちゃぷと揺れる水面を凛は眺めた。
湯につかるなんてはじめてだ。
髪も体も壺に洗い方を教わったのでさっぱりしている。
「生贄って、こんなことしてもらえるものなのかしら」
てっきりすぐに殺されると思っていたのに、とんだ好待遇だ。
「殺す準備かしら……。生贄ならみずぼらしいのは嫌よね」
だったら殺されるのは、もう少し先なのかもしれない。
凜は水華を思い出して、睫毛を伏せた。
「喋り方、神様と一緒だったな」
硬質な喋り方は、幼い頃に聞いていた大好きな声と同じ口調だ。
凜は忘れたことはない。
花嫁にしてもらいたかったと今でも思う。
「もう本当に、祠にはいけないのね」
ぽつりと一粒、水面へ涙が落ちた。
入浴を終えたら、やはり壺が髪の手入れを教えてくれたので四苦八苦しながらも手入れをした。
おかげでだいぶ色艶が増している。
次はこちらだと別の部屋へと連れて行かれれば、また広い部屋へとたどり着いた。
今度は卓上台がある。
「お座りください。お食事にしましょう」
おそるおそる座れば、峰が料理を持って現れた。
手際よく台に並べられている料理は湯気が立っていて、どれもおいしそうだ。
「峯さん、が作ったんですか?」
人ではなくたぬきだからか、いつもより滑らかに話しかけられた。
人がよさそうな、ほっこりとした雰囲気だから二匹のことは怖くない。
「料理は二人で作っていますよ。さあ、どうぞ」
うながされて箸を取った。
箸など母親と住んでいた頃以来だから、おぼつかない。
けれど疑問が浮かぶ。
なぜ生贄にこんな立派な食事を出すのか、不思議でならない。
(もしかして水華様は私を食べるのかしら)
それなら理解できる。
食べるなら丸々と肥えていたほうがいいはずだ。
今の凛のなかにあるのは、水華の生贄になって村に災厄がかからないようにしなければということだ。
村になにかあれば祠も危ない。
祠を守るためだ。
(生贄として満足してもらわなきゃ)
台の上には米や汁物、煮物などが並んでいる。
そっと里芋を口に入れると、よく味が染みていておいしかった。
「おいしい……」
「それはようございました」
優しげな声音にほっとして、ちまちまと食べ進める。
けれど水華の姿がないことが気になった。
「あ、あの、水華様は……」
「水華様は気が向いたときしか召し上がられないんですよ。食べなくても大丈夫なので嗜好品になるんです。食べたい気分のときだけ召し上がっています」
「嗜好品……」
本当に神と呼ばれるものなのだ。
凜はぽかんとしたあと、手元の食事を見下ろした。
つまりこれは、凜のためだけに準備したということだ。
「あの、これ」
「食べたいものがあれば言ってください。凜様のお口にあわせますので」
「り、凜様なんて!」
思っても見なかった呼び方に、凛はおもわず腰を浮かせた。
あわあわと箸を持ったまま両手をせわしなく上下させる。
「ここにいる以上、凜様は凜様ですよ」
壺がころころと笑う。
峰もうんうんと頷いているので、様づけをやめてほしいとは言いだしにくい。
どうしようと思っているあいだにも「冷めてしまいますよ」と言われて、慌てて食事を再開させた。
そのせいで様づけを止めるタイミングを見失ってしまったのだった。
「あの、水華様は水の神様、なんですよね?」
「そうですよ。龍神様です」
「龍神様、ですか」
まさかの単語に凛は目を瞠った。
龍神という言葉は聞いたことがある。
とても神聖な神様だと。
「そんな、すごい神様が……」
何故、凛なんかを生贄にと思う。
すごい神様という単語に、壺が嬉しそうに胸を張った。
「水華様を含めた五人の龍神様がいらっしゃるんですよ。といっても四人の龍神様と調停役の龍神様ですね」
「ち、調停役、ですか?」
「四人の龍神様が道を誤らないように、唯一諫められるお方なんですよ。四人のお方は皆様、同じくらいの力をお持ちですからね」
つまり四人より高位の龍神らしい。
神様が五人もいるものなのだと不思議になった。
「そして一番美しいのが水華様です」
それは納得できると凜は頷いた。
白と青の優美な姿は浮世離れしていて、いっそひれ伏したくなる。
硬質な美貌は表情が変わらないので凛は少し怖気づいたけれど、孫一達のように大口を開けて目を怒らせないことに安心した。
(水華様は何だか怖くないわ。不思議)
自分を食べるかもしれない相手なのに、何故か恐れはまったくわいてこなかった。




