第1話 雨の奥
この物語に、華やかな英雄は出てきません。
牙を向く自然があり、それを抑えようとする影があり、
守られている側は、その影の正体を知りません。
知らないまま、日常を続けます。
正しさも、勝利も、きれいな着地も、ここでは保証されません。
鎮めても、また歪む。
終わっても、完全には戻らない。
それでも誰かが、誰にも命じられないまま動いている。
『青を返す -Adjuster of Distortions-』は、
その影の側から見た、静かで苦い物語です。
英雄には、なりません。
それでも、歩き続けます。
雨が、街を打っていた。
ただの雨ではなかった。
視界を潰し、排水を溢れさせ、低い屋根を連続して叩く。
環象社が発表したランクはC。
拡声器が、同じ文面を反復する。
「ただちに避難を。特殊部隊が対処に向かっています」
人々はそれを信じて動いた。
守られている側にとって、それで十分だった。
高台の廃ビルで、一人の女が立っていた。
目は布で覆われ、白い装甲の房が風に揺れている。
刀は鞘の中にある。
彼女は雨そのものを見ていたわけではない。
その奥で、何かが暴れている感触を測っていた。
「……またか」
短い声が、雨音に溶ける。
雨の中心で、別の気配が動いていた。
小さく、鋭く、感情の波を孕んでいる。
鎮めているのか、暴れているのか。
遠くだが、はっきり分かった。
彼女は一歩も踏み出さなかった。
今は、自分の番ではない。
それでも、指先が鞘に触れる。
触れて、止める。
雨は、徐々に刃のような軌道を失い始めていた。
誰かが、内側から刈っている。
丁寧ではない。
だが、確実に収束へ向かっている。
廃ビルの女は、その気配を最後まで追った。
名前を呼ぶことはない。
呼ぶ手段もない。
ただ、雨が弱まるのを確認して、背を向けた。
下の街では、防災無線が続いている。
「降雨が収束に向かっています。旧組織の対応により、まもなく避難解除の見通しです」
誰かが安堵の息を吐く。
誰かが、エージェントのおかげだと言う。
雨の中心にいた小さな影は、すでに見えなくなっていた。
大鎌のような輪郭だけが、水煙の奥で一度だけ揺れた気がした。
廃ビルの女は、それを見ない。
見る必要がない。
彼女は棟の内側へ戻り、湿った空気の中に立った。
布の下で、何も映らない眼が開いていることなど、誰も知らない。
遠くで、別の歪みの予兆がした。
今度は雨ではない。
今は、まだ来ない。
青は、まだ戻っていない。
それだけを、雨の匂いが残していた。




