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NULL-最も公平で理不尽な監獄-  作者: gongon


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第三十九話 片鱗

 柔術は、待っていた。


 レイとリン。


 二人の間にある距離が消える、その瞬間を。


 先に動いたのは――。


 どちらでもない。


 そう見えた。


 リンの足が床を擦る。


 同時に、レイの身体が沈む。


 拳。


 レイの顔面へ向かう。


 速い。


 だが、レイは避けなかった。


 左腕を上げる。


 受ける。


 鈍い音。


 腕ごと頭が揺れた。


 それでも前へ出る。


 リンの懐へ。


 組む。


 柔術はそう思った。


 レイの距離だ。


 だが。


 レイは組まなかった。


「……?」


 左手でリンの右腕を押した。


 ただ、それだけ。


 掴まない。


 引かない。


 投げない。


 拳の軌道だけを変えた。


 そして。


 空いた場所へ。


 右拳。


 リンの胸へ。


 当たる。


 浅い。


 倒すほどではない。


 レイ自身も、そうするつもりはなかった。


 拳が当たった瞬間。


 レイはもう次へ動いている。


 右手でリンの肩を押す。


 左足を、リンの足の外へ。


 身体を入れ替える。


 リンの正面から消えた。


 背後ではない。


 横。


 リンが振り向く。


 その時には。


 レイは離れていた。


 柔術は目を細めた。


 今のは。


 何だ。


 打撃。


 違う。


 組技。


 違う。


 投げ。


 していない。


 何もしていない。


 それなのに。


 最初と最後で。


 二人の位置が変わっている。


 リンが中央。


 レイが外。


 だったはずだ。


 今は。


 レイが中央にいる。


「……」


 柔術は自分の足元を見た。


 無意識に。


 半歩。


 下がっていた。


 レイがこちらを見たわけではない。


 攻撃を仕掛けたわけでもない。


 ただ。


 位置を取った。


 それだけだった。


 リンが再び前へ出る。


 今度は速い。


 一歩。


 いや。


 踏み込んだ時には、もう拳が出ている。


 レイは下がらない。


 右。


 左。


 肘。


 三つ。


 レイの腕と肩に当たる。


 最後の肘だけを。


 レイは掴んだ。


 リンの腕が止まる。


 柔術の目が鋭くなる。


 極める。


 肘関節。


 その角度なら。


 壊せる。


 だが。


 レイは壊さなかった。


 腕を捻る。


 リンの肩が回る。


 身体が横を向く。


 それだけ。


 レイは手を離した。


 その瞬間。


 膝。


 リンの脇腹へ。


「っ……!」


 初めて。


 リンの口から息が漏れた。


 レイは追わない。


 また。


 位置を変える。


 柔術には分かった。


 今の関節技は。


 関節技ではない。


 リンの身体の向きを変えるためだけに使った。


 壊せた。


 おそらく。


 少なくとも、壊そうとはできた。


 だが。


 レイは選ばなかった。


 情けではない。


 迷いでもない。


 必要がなかった。


 柔術は。


 少しだけ。


 笑った。


 面白い。


 レイは変わっている。


 最初に見た時。


 あれはレスリングだった。


 低い姿勢。


 強烈な踏み込み。


 相手の腰。


 脚。


 重心。


 そこしか見ていなかった。


 投げる。


 倒す。


 抑える。


 そのための身体だった。


 今は違う。


 レイは。


 何も決めていない。


 リンが距離を詰める。


 レイが拳を出す。


 リンが払う。


 その腕を掴む。


 だが投げない。


 リンが引く。


 追わない。


 代わりに。


 足を踏む。


「!」


 リンの動きが一瞬止まる。


 レイの肩が胸に当たる。


 リンが後ろへずれる。


 レイが前へ。


 一歩。


 リンが下がる。


 一歩。


 また。


 中央が。


 レイのものになる。


 柔術は気づいた。


 攻撃の数ではない。


 有効打でもない。


 リンの拳は。


 まだレイに当たっている。


 速さも。


 技術も。


 リンが上だ。


 それなのに。


 少しずつ。


 本当に少しずつ。


 戦っている場所そのものが。


 レイの都合のいい形へ変わっている。


 リンも気づいた。


 表情が変わる。


 踏み込む。


 強い。


 先ほどまでとは違う。


 床を蹴った力が。


 脚。


 腰。


 背中。


 肩。


 腕へ。


 一つになって走る。


 拳。


 レイの顔面。


 レイは避ける。


 間に合わない。


 頬に当たる。


 首が回る。


 だが。


 倒れない。


 レイの右手が。


 リンの手首を掴んでいた。


 殴られながら。


 掴んだ。


 リンが腕を引く。


 レイは引かない。


 押さない。


 身体を沈めた。


 リンの肘が伸びる。


 肩が前へ出る。


 レイの左腕が。


 その脇を通る。


 腰。


 入った。


 投げる。


 柔術はそう思った。


 だが。


 また。


 投げない。


 レイはリンの身体を。


 半回転だけさせた。


 そして。


 手を離す。


 リンの正面。


 そこには。


 柔術がいた。


「……!」


 初めて。


 柔術が大きく動いた。


 横へ。


 リンも止まる。


 レイだけが。


 止まっていた。


 三人の位置が。


 変わっている。


 柔術はレイを見た。


 偶然か。


 違う。


 レイは。


 今。


 リンを自分の前から退かせ。


 柔術の前へ置いた。


 投げる必要はなかった。


 倒す必要も。


 極める必要も。


 ただ。


 動かせばよかった。


「……お前」


 柔術が呟く。


 レイは聞いていない。


 リンだけを見ている。


 いや。


 違う。


 柔術は。


 そこで初めて気づいた。


 レイの視線はリンにある。


 だが。


 身体は。


 こちらも見ている。


 足の向き。


 肩の角度。


 立つ位置。


 常に。


 二人を同時に捉えている。


 最初は違った。


 レイはリンだけを見ていた。


 自分を忘れないよう。


 時折。


 確認していた。


 今は。


 確認すらしない。


 見る必要がない場所に。


 自分で立っている。


 柔術は笑わなくなった。


 レイとリンが再びぶつかる。


 拳。


 肘。


 肩。


 掌。


 レイは打たれる。


 まだ。


 リンの方が上手い。


 当然だ。


 だが。


 レイは同じ攻撃を。


 同じようには受けない。


 一度目は避ける。


 二度目は受ける。


 三度目は掴む。


 掴んだ手で投げると思えば。


 押す。


 押すと思えば。


 引く。


 引いたと思えば。


 自分から離す。


 何をしている。


 柔術は考えた。


 レスリングではない。


 打撃でもない。


 柔術でもない。


 技術が混ざっている。


 違う。


 混ぜているのではない。


 混ぜるには。


 元の形が必要だ。


 レイには。


 それがない。


 拳は。


 殴るためではない。


 相手の顔を上げるため。


 掴むのは。


 投げるためではない。


 身体の向きを変えるため。


 関節を取るのは。


 極めるためではない。


 動きを止めるため。


 投げるのは。


 倒すためではない。


 場所を変えるため。


 すべてが。


 途中で終わる。


 いや。


 違う。


 目的を果たした瞬間に。


 終わっている。


 技を完成させる必要がない。


 一本。


 KO。


 投げ。


 そんなものを。


 レイは見ていない。


 その瞬間。


 その場所。


 その姿勢。


 誰が立ち。


 誰が動けるか。


 それだけを。


 少しずつ。


 選び始めている。


 リンの拳が走る。


 レイは受ける。


 腕が弾かれる。


 リンが踏み込む。


 レイはその踏み込みに合わせて。


 身体を寄せた。


 胸と胸。


 近い。


 リンの肘が上がる。


 レイは肘を押さえる。


 腰を入れる。


 今度こそ。


 投げた。


 リンの身体が浮く。


 だが。


 床へ叩きつけない。


 途中で。


 落とした。


 リンの足が床に着く。


 体勢が崩れる。


 そこへ。


 レイの拳。


 リンは腕で受ける。


 その腕を。


 レイが掴む。


 関節。


 リンが身体を捻る。


 逃げる。


 レイは追わない。


 手を離す。


 逃げた先へ。


 足。


 リンの足首を払う。


 崩れる。


 倒れない。


 リンは踏ん張る。


 その瞬間。


 レイはもう。


 リンの背後にいた。


「……」


 柔術は。


 息を止めていた。


 何だ。


 今のは。


 打。


 極。


 投。


 全部あった。


 だが。


 一つとして。


 最後まで使っていない。


 なのに。


 リンは。


 完全に位置を失った。


 レイが中央。


 リンが外。


 そして。


 柔術は。


 二人から最も遠い場所へ。


 追いやられている。


 いつの間に。


 柔術は自分の足元を見る。


 また。


 下がっていた。


 今度は。


 半歩ではない。


 何歩も。


 自分で。


 レイから距離を取っていた。


 柔術の背中に。


 冷たいものが流れた。


 恐怖ではない。


 まだ。


 あれは自分より弱い。


 寝かせれば。


 殺せる。


 関節の知識も。


 絞めの技術も。


 自分が上だ。


 打撃ならリン。


 投げならレイ。


 寝技なら自分。


 そうだ。


 そのはずだ。


 なのに。


 柔術は。


 レイから目を離せなかった。


 レイ自身は。


 何も分かっていない顔をしている。


 ただ。


 戦っている。


 ただ。


 その瞬間に必要なことをしている。


 だからこそ。


 柔術には見えた。


 これは。


 まだ完成していない。


 技術ですらない。


 名前もない。


 形もない。


 ただの。


 片鱗。


 リンが。


 ゆっくりと振り返る。


 レイを見る。


 その呼吸は。


 少しだけ。


 乱れていた。


 一方。


 レイの頬は腫れている。


 腕にも。


 赤い痕がある。


 明らかに。


 多く殴られているのはレイだ。


 それでも。


 柔術には分かった。


 戦況は。


 もう。


 最初と同じではない。


 ほんの少し。


 傾いている。


 リンでもない。


 自分でもない。


 レイの方へ。


 柔術は。


 静かに腰を落とした。


 待つのを。


 やめた。

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