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NULL-最も公平で理不尽な監獄-  作者: gongon


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38/47

第三十八話 間合い

 2人の距離は一瞬で縮まる。

 その後接触することなく2人は弾けたように後ろに下がる 

 遠い。

 レイは、そう思った。

 リンは目の前にいる。

 手を伸ばせば届くようにも見える。

 踏み込めば、組める。

 腰に腕を回せる。

 脚を取れる。

 少なくとも――今までのレイなら、そう判断していた距離だった。

 だが。

 一歩。

 レイが前へ出る。

 その瞬間、リンの右足がわずかに動いた。

 後ろではない。

 横でもない。

 ほんの数センチ。

 重心の位置を変えただけだった。

 それだけで、距離が変わった。

 ――遠い。

 レイは足を止めた。

 リンも動かない。

 二人の間にあるのは、せいぜい二メートルほどの空間だった。

 だが、その二メートルが妙に広い。

 レスリングに、こんな感覚はない。

 相手が目の前にいるなら、触れる。

 触れたなら、掴む。

 掴んだなら、崩す。

 それがレイの知る戦いだった。

 もちろん、相手も逃げる。

 距離を取る。

 タックルを切る。

 だが、それはあくまで攻防の中にある。

 今、リンとの間にあるものは違った。

 何もしていない。

 なのに。

 入れない。

「……」

 レイは腰を落とした。

 左足を前へ。

 両手を低く構える。

 いつもの形。

 何千回。

 何万回。

 繰り返してきた姿勢。

 身体が、ようやく落ち着く。

 リンはそれを見ていた。

 構えは変わらない。

 いや。

 そもそも、構えているのか。

 レイには分からなかった。

 両腕は自然に下がっている。

 肩にも力はない。

 拳を強く握っているようにも見えない。

 それでも。

 隙がない。

 レイは床を蹴った。

 一気に距離を潰す。

 低い。

 速い。

 リンの腰へ向かう。

 いつものタックル――ではない。

 途中で止めた。

 フェイント。

 リンの反応を見る。

 だが。

 リンは動かなかった。

「……!」

 レイの身体が、一瞬だけ固まる。

 その瞬間だった。

 ドン。

 鈍い音がした。

 視界が揺れる。

 レイの身体が後ろへ跳んだ。

 遅れて、胸に痛みが走った。

「っ……!」

 何をされた。

 見えていた。

 見えていたはずだ。

 リンの右拳。

 大きく振ったわけではない。

 肩を引いたわけでもない。

 踏み込んだようにも見えなかった。

 ただ。

 気づいた時には、胸に拳があった。

 レイは胸を押さえた。

 骨は折れていない。

 呼吸もできる。

 だが。

 重い。

 拳で殴られたというより。

 何か大きなものに、正面からぶつかられたような感覚だった。

「今のは……」

 リンは答えない。

 レイは口元を拭った。

 血は出ていない。

 少し離れた場所で、柔術が二人を見ていた。

 座ってはいない。

 寝てもいない。

 ただ、立っている。

 こちらへ来る気配もない。

 まるで。

 待っている。

 レイは一瞬だけ柔術を見る。

 そして、すぐにリンへ視線を戻した。

 あいつを忘れることはできない。

 だが。

 今、目の前から目を離せば。

 また、来る。

 リンが一歩前へ出た。

 レイの身体が反応した。

 下がる。

「……?」

 自分で、自分の動きに驚いた。

 なぜ下がった。

 まだ何もされていない。

 リンはただ、一歩進んだだけだ。

 それなのに。

 身体が勝手に距離を取った。

 レイは奥歯を噛んだ。

 違う。

 怖いからじゃない。

 そう思った。

 だが。

 身体は正直だった。

 あの距離に入れば、殴られる。

 それを。

 一度で覚えてしまった。

「間合いだ」

 リンが言った。

 初めてだった。

 戦いが始まってから、リンが口を開いたのは。

「ま……あい?」

「お前にはないのか」

 レイは答えなかった。

 言葉は知らない。

 だが。

 意味は分かる。

 この距離だ。

 何もないはずの空間。

 それなのに。

 入った瞬間、攻撃が届く。

「ある」

 レイは言った。

「名前を知らなかっただけだ」

 リンの目が、わずかに細くなった。

 レイは再び構える。

 今度は。

 リンではなく。

 二人の間を見る。

 距離。

 足。

 肩。

 腰。

 呼吸。

 レスリングでも見てきた。

 相手の重心。

 踏み込み。

 反応。

 違うのは。

 目的だけだ。

 組むためではない。

 殴られないために見る。

 レイは左へ動いた。

 リンも動く。

 同じだけ。

 右へ。

 リンも動く。

 距離が変わらない。

 レイは少しずつ円を描いた。

 リンも中心を譲らない。

 柔術だけが。

 その円の外にいる。

 三人。

 だが。

 今、この瞬間だけは。

 二人だった。

 レイが踏み込む。

 リンの肩が動く。

 レイは止まる。

 何も来ない。

 フェイント。

 今度はリンが試した。

「……」

 レイは笑った。

「そういうのもするんだな」

 リンは答えない。

 次の瞬間。

 レイが飛び込んだ。

 速い。

 今度は止まらない。

 リンの拳が走る。

 レイは頭を振った。

 拳が頬を掠める。

 熱い。

 だが。

 入った。

 レイの左手がリンの右腕を掴む。

「捕まえた」

 右腕を腰へ回す。

 リンの身体が浮く。

 投げる。

 そう思った瞬間。

 肘が落ちてきた。

「ぐっ!」

 レイの肩に突き刺さる。

 力が抜ける。

 リンは身体を捻った。

 離れる。

 再び。

 距離。

 レイは肩を回した。

 動く。

 壊れてはいない。

「組んでも、終わらないのか」

「当たり前だ」

 リンが言う。

「お前もそうだろう」

 レイは少し考えた。

 そして。

 笑った。

「そうだな」

 もう一度。

 向かい合う。

 今度は。

 最初とは違った。

 レイには見えていた。

 二人の間にあるものが。

 空気ではない。

 空白でもない。

 互いの攻撃が届く境界。

 リンの拳。

 自分の腕。

 リンの踏み込み。

 自分のタックル。

 それぞれが届く距離は違う。

 なら。

 その境界は一本ではない。

 何本もある。

 レイは右足を前へ出した。

 リンの指が動く。

 もう半歩。

 肩が動く。

 ここだ。

 レイは止まった。

 拳が来ない。

 さらに。

 ほんの少し。

 前へ。

 リンの身体が動いた。

 拳。

 レイは下がった。

 空を切る。

「……」

 リンの目が変わった。

 レイは見逃さなかった。

「ここか」

 レイが言う。

 リンは何も答えない。

 だが。

 それで十分だった。

 見つけた。

 リンが殴る距離。

 正確には。

 リンが「殴れる」と判断する距離。

 なら。

 そこを使えばいい。

 レイは踏み込む。

 リンが打つ。

 下がる。

 拳が空を切る。

 もう一度。

 踏み込む。

 拳。

 下がる。

 三度目。

 リンは打たなかった。

 レイも入らない。

 静止。

 二人の間で。

 何かが変わった。

 先ほどまで。

 この距離はリンのものだった。

 今は違う。

 レイも。

 ここにいる。

 リンが前へ出た。

 今度はレイが下がらない。

 拳が来る。

 レイは身体を沈めた。

 だが、タックルではない。

 右足を大きく踏み込む。

 腰を回す。

 右腕を振った。

 拳。

 リンの頬を狙う。

 リンが首を傾ける。

 避けた。

 レイの拳が空を切る。

 だが。

 リンの表情が変わった。

「……お前」

「なんだ」

「レスリングじゃないのか」

 レイは自分の拳を見た。

 握っている。

 殴った。

 教わったことはない。

 正しい形かも分からない。

 ただ。

 届くと思った。

 だから。

 殴った。

「知らない」

 レイは言った。

「でも」

 もう一度、構える。

「使えるなら、使う」

 リンはしばらくレイを見ていた。

 そして。

 初めて。

 構えた。

 左足が前へ。

 重心が沈む。

 背筋は真っ直ぐ。

 両腕が上がる。

 その姿を見た瞬間。

 レイの皮膚が粟立った。

 今までとは違う。

 これまでのリンは。

 まだ。

 待っていた。

 レイは理解した。

 間合いとは。

 距離ではない。

 相手が何をするか。

 自分が何をするか。

 その全てを含んだ。

 見えない領域。

 そして。

 今。

 リンの領域が。

 広がった。

 レイは腰を落とす。

 呼吸を吐く。

 柔術は動かない。

 まだ。

 見ている。

 待っている。

 その理由を。

 二人はまだ知らない。

 リンの足が。

 床を擦った。

 レイの指先が。

 わずかに開く。

 二人の間にあった二メートルが。

 消えた。

 先に動いたのがどちらだったのか。

 レイにも。

 分からなかった。

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