第二十九話 縄張り
第三回戦開始から二時間が経過していた。
NULL PROJECT研究棟は異様な静けさに包まれていた。
研究員達は誰一人として席を離れない。
モニターを見つめている。
六つの画面。
それぞれに生存者達が映し出されていた。
戦いはまだ起きていない。
それが逆に不気味だった。
誰もが予想していた。
第三回戦開始直後。
誰かが襲い。
誰かが死ぬ。
そう思っていた。
しかし現実は違う。
六人は散った。
施設全域へ。
まるで獣が縄張りを探すように。
それぞれの場所へ。
そして最初に動いた男。
ライは一人で歩いていた。
研究棟西区画。
長い廊下。
窓はない。
白い壁だけが続く。
足音だけが響く。
ライは焦らない。
急がない。
戦う相手を探しているわけでもなかった。
ただ歩く。
必要なら戦う。
必要がなければ戦わない。
それだけだった。
モニター室。
若い研究員が呟く。
「何考えてるんだ……」
誰も答えない。
分からないからだ。
ライは感情を表に出さない。
怒りも。
喜びも。
恐怖も。
ほとんど見せない。
だから読めない。
何を考えているのか。
何を望んでいるのか。
まるで機械だった。
だが。
実際は違う。
ライの脳裏には一人の男がいた。
汗臭いジム。
熱帯の空気。
天井で回る古い扇風機。
傷だらけの拳。
潰れた脛。
そして。
自分を育てた師。
『待て』
師は何度も言った。
『強い奴ほど待て』
『焦るな』
『追うな』
『獲物が来た時に殺せ』
ライはその教えを守っていた。
二十年。
ずっと。
だから探さない。
だから走らない。
相手は来る。
その時に戦えばいい。
それだけだった。
やがて食堂へ辿り着く。
誰もいない。
静かだった。
ライは冷蔵庫を開く。
肉を取り出す。
温める。
座る。
食う。
戦いが始まっているとは思えない光景だった。
その時。
食堂の扉が開いた。
ライが顔を上げる。
入ってきたのは柔術個体だった。
相変わらず本を持っている。
ライを見る。
ライも見る。
沈黙。
モニター室の研究員達が息を呑む。
始まるのか。
ついに。
しかし。
柔術個体は普通に冷蔵庫へ向かった。
飲み物を取り出す。
そしてライを見た。
「腹減ったのか」
ライは肉を咀嚼しながら答える。
「ああ」
柔術個体は頷く。
「そうか」
それだけだった。
二人は戦わない。
柔術個体は飲み物を持って出ていく。
ライも肉を食い続ける。
第三回戦中とは思えない。
だが。
その空気は平和ではなかった。
互いに理解している。
今は戦わない。
それだけだ。
必要になれば。
次の瞬間にでも殺し合える。
そんな距離感だった。
一方。
人工降雪エリア。
レイは雪原を歩いていた。
誰もいない。
雪だけが降っている。
イヴァンと最後に話した場所。
気付けばここへ来ていた。
第三回戦は始まっている。
なのに。
自分は何をしているのだろう。
レイは苦笑する。
ライの顔が浮かぶ。
リンの顔が浮かぶ。
柔術。
剛。
バートル。
ほんの数日前まで。
ただの対戦相手だった。
だが今は違う。
名前を知っている。
笑ったこともある。
話したこともある。
たったそれだけなのに。
不思議なほど重かった。
「面倒くせぇな……」
雪へ向かって呟く。
ボクシングの時は違った。
No.00の時も違った。
勝つか負けるか。
それだけだった。
だが今は違う。
相手が格闘技じゃない。
人間になってしまった。
その時。
イヴァンの言葉が蘇る。
『人間だから迷う』
レイは鼻で笑った。
本当にその通りだった。
レイは居るはずのないイヴァンが居ないことを確認して苦笑しながら地下区画へと歩いていく
地下区画。
施設最下層。
使われなくなった研究設備。
薄暗い照明。
古い機械。
そこで巨大な影が足を止めた。
バートル。
モンゴル相撲。
その前方。
通路の先。
一人の男が立っている。
剛だった。
二人の視線が交わる。
言葉はない。
必要もなかった。
モニター室の研究員達は誰一人として声を出さない。
ただ見ている。
画面の向こうで向かい合う二人を。
やがて空手が口を開いた。
「お前もか」
バートルは少しだけ笑う。
「ああ」
短いやり取りだった。
だがそれだけで十分だった。
二人とも理解している。
ここで離れることもできる。
別の相手を探すこともできる。
第三回戦はトーナメントではない。
逃げることも選択肢だ。
だが。
二人とも動かなかった。
剛は真っ直ぐバートルを見る。
バートルも目を逸らさない。
理由は単純だった。
二人とも。
そんな生き方を教わっていない。
戦うべき時に戦う。
ただそれだけだ。
空手はゆっくりと息を吐いた。
バートルは首を鳴らす。
骨が軋む音が地下通路へ響いた。
まだ構えない。
まだ踏み込まない。
だが重心だけが落ちていく。
それだけで十分だった。
もう戦いは始まっている。
モニター室。
研究員達は固唾を呑む。
第三回戦開始から二時間。
誰も戦わなかった。
それは平和だったからではない。
互いを知ってしまったからだ。
名前を知った。
顔を知った。
好きな食べ物を知った。
ほんの少しだけ。
相手を人間として知ってしまった。
だから最初の一歩が重かった。
誰もが迷っていた。
格闘家として。
そして人間として。
その中で。
最初に決断したのがこの二人だった。
剛が前へ出る。
バートルも応じるように歩き出す。
距離が縮まる。
互いの呼吸が聞こえる距離まで。
地下区画の空気が変わった。
研究員の一人が無意識に息を呑む。
次の瞬間。
剛の足が床を蹴った。
バートルの身体が沈む。
第三回戦最初の戦闘が始まった。




