第二話 知らない音
「起きろレイ」
低い声で目が覚める。
まだ眠い。
いや、眠いなんてもんじゃない。
身体が鉛みたいに重い。
昨日の壁レスリングと首相撲のせいだ。
首なんかもう自分のものじゃないみたいに痛ぇ。
「……あと五分」
「死ぬぞ」
その一言で目が覚めた。
クソが。
俺は舌打ちしながら上半身を起こす。
薄暗い部屋。
打ちっぱなしのコンクリート。
鉄臭い空気。
いつもの景色だ。
「今日は何やるんだよ」
「調整だ」
オッサンが短く答える。
調整。
その単語がこの施設でまともな意味だった試しがない。
⸻
レスリングルームに入った瞬間、
嫌な予感がした。
マットがない。
床が剥き出しのコンクリートになっている。
「おい……」
「靴を脱げ」
「絶対痛ぇやつじゃねぇか」
「脱げ」
逆らっても無駄なのは知ってる。
俺は裸足になる。
冷たい。
ジワッと足裏から熱を奪ってくる。
太いロープを投げて寄越した。
「腰につけろ」
「何すんだよ」
「走る」
「それは見りゃわかる」
「息をするな」
は?
「……何言ってんだオッサン」
オッサンは無言で俺の後ろに回る。
次の瞬間、
首に腕が巻き付いた。
「がッ……!?」
頸動脈。
視界が一瞬白くなる。
「走れ」
「無理……ッ!」
「動け」
背中が重い。
振り返る余裕はないが、
タイヤだ。
しかも複数。
俺は裸足のままコンクリートを蹴る。
肺が焼ける。
脚が動かない。
首が締まる。
腕は緩まない。
「レイ」
低い声。
「組まれた時、人間は息ができなくなる」
俺は歯を食いしばる。
「苦しい時、人間は思考を止める」
オッサンの声だけが妙にはっきり聞こえる。
「だからお前は、苦しい時に動け」
背中を蹴り飛ばされた。
前のめりに転がる。
顔面がコンクリートに叩きつけられた。
痛ぇ。
鼻の奥に鉄の味が広がる。
「立て」
鬼かよ。
俺はフラつきながら立ち上がる。
「……いつか絶対殺す」
「良い目だ」
オッサンが笑った。
「それを忘れるな」
壁にもたれながら睨み返す。
「てかさ、いつまでオッサンって呼ばせんだよ」
「なんだ急に」
「名前くらいあんだろ」
オッサンは少しだけ黙った。
汗で濡れたタオルを首にかけ、
ゆっくりこちらを見る。
「イヴァンだ」
「……イヴァン?」
「イヴァン・カレノフ」
低い声だった。
なんていうか、
その名前は妙にこのオッサンに似合っていた。
無骨で、
重くて、
少しだけ寂しい響き。
「じゃあイヴァンって呼ぶわ」
「好きにしろ」
「いややっぱオッサンでいいや」
「貴様……」
イヴァンの眉間に皺が寄る。
その顔がちょっと面白くて、
俺は吹き出した。
「ハハッ……!」
イヴァンは深くため息を吐く。
「お前は本当に減らず口だなレイ」
「レスリングしか知らねぇガキを十年も閉じ込めたんだ、これくらい許せよ」
「閉じ込めてはいない」
「は?」
「お前は何度も逃げようとした」
イヴァンが少し笑う。
「だが毎回、五分以内に私が捕まえた」
……それはそう。
「一回くらい見逃せよ!」
「レスリングが下手になる」
「意味わかんねぇよ!」
⸻
トレーニングが終わる頃には、
身体中が終わっていた。
汗が止まらない。
肺がヒューヒュー鳴ってる。
俺は壁にもたれ込みながら水を飲む。
「……トーナメントって何人出んだよ」
「知らん」
「は?」
「私はお前以外を見たことがない」
俺は顔を上げる。
「見たことないって……どういう意味だよ」
「そのままの意味だ」
イヴァンはタオルで汗を拭く。
「私はお前だけを育てろと言われた」
「他を見るな、他を知るな、レスリングだけを教えろとな」
……気味が悪い。
本当に、
この施設には何人いるんだ?
⸻
食堂へ向かう通路。
今日は妙だった。
普段通らないルートを歩かされている。
「なんでこっちなんだよ」
「工事だ」
絶対嘘だ。
イヴァンって嘘下手なんだよな。
その時だった。
――ガンッ!!
金属を叩くみたいな音。
俺は反射的に足を止める。
壁の向こうからだ。
「……なんだ今の」
「気にするな」
イヴァンの声が少し強くなる。
また歩き出す。
――ドォン……
今度は重い衝撃。
床が微かに震えた。
投げ技?
いや違う。
レスリングじゃない。
呼吸音も聞こえる。
「シュッ……シュッ……」
静かすぎる。
気味が悪い。
俺は壁を見る。
鉄扉。
小さな覗き窓。
だが黒い板で塞がれていた。
見えない。
「……他にもいるんだよな」
イヴァンは答えない。
代わりに歩く速度を速めた。
⸻
食堂に着く。
テーブルにはいつもの地獄。
肉。
魚。
山盛りの米。
スープ。
「食え」
「毎回思うけど量おかしいだろ……」
「身体を作れ」
俺はため息をつく。
「いただきます」
イヴァンが少しだけ笑う。
「その挨拶、私は好きだ」
「はいはい」
肉を噛む。
薄味。
でも、
今日は妙に静かだった。
頭の中で、
さっきの音がずっと鳴ってる。
ガンッ。
ドォン。
シュッ……。
レスリングじゃない。
知らない音だ。
⸻
夜。
眠れなかった。
薄暗い天井を見つめる。
すると。
――ドンッ!!
どこか遠くで音がした。
次の瞬間。
短い悲鳴。
男か女かもわからない。
すぐに静寂。
……なんだよ今の。
俺はベッドから起き上がる。
耳を澄ます。
何も聞こえない。
気のせいじゃない。
絶対に聞こえた。
⸻
翌朝。
通路で、
黒服の職員達とすれ違った。
重そうな袋を運んでいる。
袋の端から、
赤黒い液体が垂れていた。
俺は立ち止まる。
「……何があった?」
職員は無表情のまま答えた。
「適性試験です」
それだけ言って歩き去る。
袋が床を擦る音だけが残った。
俺はその赤黒い跡を見つめる。
背筋が冷えた。
トーナメントは、
まだ始まってすらいない。




