第十話 距離
バチン――。
遅れて、
痛みが来た。
「……ッ!?」
視界が揺れる。
頭が跳ねる。
たった一発。
それだけなのに。
身体が理解できない。
熱い。
頬が熱い。
何された?
「ジャブだ」
ボクシングが言う。
小さく揺れながら。
「軽い挨拶」
軽い?
ふざけんな。
今ので頭が揺れたぞ。
俺は反射的に距離を取る。
だが。
その瞬間。
「逃がさねぇよ」
バチン!!
また。
左。
今度は鼻。
「――ッ!!」
熱い。
視界が滲む。
鼻血。
クソッ。
見えねぇ。
速すぎる。
なんだこれ。
拳ってこんな速ぇのかよ。
⸻
ボクシングは、
静かに呼吸していた。
(当たる)
内心、
驚いていた。
レスリング。
もっと鈍いと思っていた。
もっと、
真正面から来ると思っていた。
だが違う。
デカいくせに、
重心移動が速い。
低い。
そして。
怖い。
特に踏み込み。
一歩が深い。
(組まれたら終わる)
本能が警告している。
ボクシングは、
今まで誰かに掴まれたことがない。
ロープが止める。
レフェリーが割る。
クリンチは終わる。
だがここは違う。
組まれたら。
潰される。
だから止まれない。
揺れる。
動く。
距離を保つ。
それがボクシング。
⸻
「ッラァ!!」
レイが踏み込む。
低い。
速い。
ボクシングの目が開く。
(速ぇ!!)
反射的にバックステップ。
ギリギリ。
指先が、
腿を掠める。
冷や汗。
今の。
あと少しで触られてた。
「クソ……!」
ボクシングが初めて声を荒げる。
レイは止まらない。
前へ出る。
だが。
「遅い」
バチン!!
ジャブ。
また頭が揺れる。
今度は右。
反射で目を閉じる。
その瞬間。
バチバチバチ!!
左。
右。
左。
見えない。
速い。
脳が追いつかない。
レイの身体がふらつく。
(倒れる)
ボクシングは確信した。
だが。
倒れない。
「……は?」
レイは、
まだ立っていた。
鼻血を垂らしながら。
目を細めながら。
低い姿勢のまま。
(なんで倒れねぇ?)
ボクシングの呼吸が乱れる。
普通なら。
普通の人間なら。
もう脚が止まる。
だがレイは違う。
首。
背中。
腰。
全部が異様に強い。
頭を揺らされても、
身体が崩れない。
(化け物かよ……)
⸻
レイは混乱していた。
見えない。
拳が見えない。
なのに。
少しずつわかってきた。
コイツ。
近ぇと打てない。
いや。
打てる。
でも威力が落ちる。
だから離れる。
距離を取る。
なら。
離さなきゃいい。
イヴァンの声が頭をよぎる。
『レスリングだけを信じるな』
意味わかんなかった。
でも今なら少しわかる。
レスリングは、
組んでから始まる。
なら。
組むまでを考えろ。
レイは、
初めてボクシングを観察した。
肩。
呼吸。
脚。
揺れ。
リズム。
(……左の後、
必ず右に流れる)
⸻
ボクシングは気づかない。
いや。
気づけなかった。
レイが変わり始めていることに。
「終わりだレスリング!」
踏み込み。
ジャブ。
最短。
最速。
今までで一番綺麗な拳。
だが。
その瞬間。
レイが前へ出た。
避けない。
受けながら。
突っ込む。
「――ッ!?」
ボクシングの目が開く。
ジャブが頬に刺さる。
それでも止まらない。
近い。
近すぎる。
「マズ――」
ドン!!
肩。
レイの肩が、
ボクシングの胸に突き刺さる。
空気が抜ける。
世界が傾く。
「捕まえた」
低い声。
背筋が凍る。
ボクシングは反射的に下がろうとする。
だが遅い。
レイの腕が、
脚に絡みついていた。
シングルレッグ。
逃げられない。
(組まれた!!)
初めての感覚。
恐怖。
ボクシングの呼吸が乱れる。
脚が浮く。
「ッッ!!」
無理矢理拳を振るう。
後頭部。
肩。
何発も殴る。
だが。
離れない。
レイは組んだ瞬間、
別の生き物になっていた。
重い。
低い。
崩れない。
「うおおおおッ!!」
レイが吠える。
持ち上がる。
ボクシングの身体が宙に浮く。
(終わる――)
本能が理解した。
次の瞬間。
ゴッッッ!!
コンクリート。
背中から叩きつけられる。
肺の空気が全部抜けた。
「――がッッッ!?」
呼吸できない。
視界が白い。
レイは離れない。
上を取る。
肩で潰す。
首を押さえる。
重い。
重すぎる。
「どけ……!」
動けない。
呼吸が浅い。
酸素が足りない。
レイの腕が、
さらに圧を強める。
「ぐ……ッ」
ボクシングの身体が痙攣する。
その瞬間。
『LCS警告』
機械音声。
『酸素濃度低下』
『頸部圧迫を確認』
『戦闘継続率低下』
レイは止まらない。
イヴァンのレスリング。
逃がさない。
潰す。
削る。
ボクシングの視界が暗くなる。
(これが……レスリング……)
怖い。
近距離の恐怖。
逃げられない。
殴れない。
距離がない。
「ッ……!」
最後に、
無理矢理拳を振るう。
だが。
力が入らない。
『戦闘継続不可能』
『LCS判定――』
空間全体に、
低い電子音が響く。
そして。
無機質な機械音声が告げる。
『第一試合終了』
『試合時間――一分四十二秒』
『決まり手――シングルレッグからのテイクダウン、
及び頸部圧迫による戦闘継続不能』
『勝者、
育成個体No.14』
『戦闘思想――レスリング』
静寂。
レイは、
しばらく動けなかった。
息が荒い。
頬が痛い。
鼻が熱い。
頭が揺れる。
でも。
生きてる。
勝った。
その瞬間。
黒服達が入ってくる。
ボクシングの身体を回収する。
まるで物みたいに。
レイはそれを見て、
初めて理解した。
コイツは死ぬ。
俺が負けてたら、
俺がこうなってた。
⸻
モニタールーム。
沈黙。
一光は、
静かにモニターを見ていた。
『勝者、
レスリング』
文字が浮かぶ。
イヴァンは小さく息を吐いた。
だが。
一光は笑っていない。
「……純粋じゃない」
低い声。
イヴァンが見る。
一光はモニターを睨んでいた。
「ジャブを避けるためじゃない」
「受けながら入った」
「学習した」
「適応した」
一光の指が震える。
「レスリングが、
ボクシングを理解し始めてる」
イヴァンは静かに言う。
「生き残るためだ」
「それが気に入らない」
一光が立ち上がる。
「私は格闘技を見たいんだ」
「なのにアイツらは、
人間みたいに変化する」
イヴァンはレイを見る。
血だらけで、
息を切らしながら、
まだ立っている。
「違う」
イヴァンが低く言う。
「元から人間だ」
一光は黙る。
そして。
少しだけ笑った。
「……だから面白いのか」
モニターの中。
レイが初めて、
拳を握り直していた。
レスリングなのに。
まるで。
殴ることを覚え始めたみたいに。




