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15 つぎに吹く風

 深く息を吸い込むと、日焼けした体の中へ、潮の香りが流れ込んだ。

 履いていたサンダルを脱ぎ捨て、砂浜に足を沈める。

 素足の裏に感じる柔らかさと、生き返ったような解放感。

 二、三回足踏みをした後、静かに地面を蹴り、走り出す。

 追いかけてくる波の音。頬を打つ潮風。

 砂に足を取られ、バランスが崩れるが、それでも風を切り前へ進む。

 よろけたっていい。つまずいたっていい。前へ、前へ――。

「はぁっ……」

 膝に手をつき、呼吸を整える。

 柔らかい日差しに気がつき、顔を上げると、蒼い水平線の向こうから朝日が昇るのが見えた。


「本当に陸上やってたんだ」

 羽菜の背中に声がかかる。穏やかな波の音を聞きながら、羽菜はゆっくりと振り返る。

「凌空……」

 堤防の下に立っていた凌空が、砂を踏みしめ、羽菜のもとへやってきた。

 こんなふうに、広い空の下で、凌空の顔を見るのは久しぶりだ。

 凌空が羽菜のそばで立ち止まる。微妙にあいた二人の隙間を、海風が吹き抜ける。

「今日……帰るんだろ?」

 ぽつりと凌空がつぶやいた。

「……うん」

 小さくうなずき、凌空を見る。凌空は真っ直ぐ前を見て、しばらく黙り込んだ後、途切れそうな声で羽菜に言った。

「おれは……お前のこと、笑ったりしない」

「え?」

「なんだそんなことくらいでって、笑ったりしねぇよ」

 昨日、羽菜が言った言葉だ。凌空は、ちゃんと聞いていたんだ。

「そんなに落ち込むほど、大事な物があるって、すごいと思う。おれにはそんなもん、ないから」

 羽菜は黙って凌空を見る。凌空は海の向こうに昇る朝日を、じっと眺めている。

「もしかしたら、オリンピックに出れるかもしれないしな」

「まさか。ムリだよ」

 苦笑いした羽菜に、凌空がゆっくりと振り向く。

「じゃあ、地区大会で三位くらい?」

「なにそれ。超中途半端」

 羽菜の隣で、凌空が軽く笑った。

 笑えばいいのに。もっと。笑うとすごく可愛いのに。

 そんなことを思っていた羽菜の耳に、凌空の声が響く。

「辞めないで続けろよ。これからも」

 凌空の言葉が、じんわりと胸の奥に沁みこむ。

「すごくかっこよかった。羽菜が走ってるとこ」

 朝の光があたりを包む。海も砂浜も目の前にいる凌空の頬も、やわらかな色に染まる。

 どうしよう。ものすごく嬉しいのに。凌空に返す言葉が見つからない。


 素足を砂の上で一歩動かす。少し背伸びをして、凌空に顔を近づける。

 朝日の当たるその頬に、そっと唇をつけて、すぐに離した。

 いけないことをしてしまった気分で、凌空のことを見上げると、凌空はきょとんとした顔で羽菜のことを見ていた。

「なにした? 今」

「キ、キス……かな?」

 へへっと笑ってごまかした。もう笑うしかない。

 すると凌空は、顔も耳も赤くして、あわてたように顔をそむけた。

「バ、バカじゃね? お前」

 あ、もしかして、すごく照れてる?

「あのさ、凌空って……意外とアレなんだね? もっと遊んでるかと思った」

「なんだよ、それ! 意味わかんねーし」

「キスとか、したことないの? 女の子と」

 ふてくされた顔で、凌空が振り向く。

「お前はあるのかよ?」

「あんまりないけど」

「は? あんまりってことは、何回あんだよ? 一回か? 二回か?」

 必死になって聞いてくる凌空がおかしくて、羽菜は吹き出すように笑った。

「うそうそ。初めてだってば!」

 笑い出した羽菜の隣で、凌空があきれた顔でため息をつく。

「ねぇ、凌空。今度会ったときはさ」

 真面目に言うのは恥ずかしいから、このまま冗談みたいに言ってしまおう。

「もっとちゃんとしたキス、しようね?」


 空が昨日より高くなった。

 夏が終わり、新しい季節が動き出す。

 立ち止まっていた場所から、最初の一歩を踏み出せば、また次の風が吹き始める。

「……バカじゃねぇの? お前」

 つぶやくように言った凌空の手が、隣に立つ羽菜の手を、ぎゅっと握りしめた。


 砂浜の上を、凌空と手をつないで歩く。

 脱ぎ捨てられた羽菜のサンダルが、遠くに見える。

 このままずっと歩いていたいけど、そんなことはできないって知っている。

「来週、優海に会いに行く。櫂さんが連れてってくれるんだ」

「え、ほんとに?」

「琴子さんは、優海の好きなパン作ってくれるって。それ持って行く」

「そっかぁ……」

 凌空の自転車の後ろから、振り向いていつまでも手を振っていた、優海の姿を思い出す。

 だけど、また一緒に暮らせたらいいね、なんて、そんな言葉は簡単には言えない。

「おれ、仕事でも探そうかなぁ……」

 凌空がそう言って空を見上げる。

「いつまでも、琴子さんたちに甘えてるわけにはいかないし。高校辞めて、働いて、この町出て、また働いて、大金持ちになってさ」

「大金持ちになんて、なれないよ」

「なれるかもしれないじゃん」

 空を見たまま、凌空が小さく笑う。

「そしたらでかい家建てて、優海と暮らす。誰にも文句は言わせない」

「凌空……」

 砂の上に立ち止り、その手をちょっと引っ張るようにして、つぶやく。

「そうなったら、あたしのことなんて、忘れちゃうかもしれないね?」

 振り返った凌空が羽菜を見る。

 潮の香りが鼻をかすめて、なんだかせつない気持ちになる。

 すると凌空は、つないでいた手を高く上げ、それをぱっと離した。そして羽菜に向かって、いたずらっぽく笑って言う。

「そうだな。きっと忘れちゃうな。おれ、記憶力悪いから」

「ちょっ、ひどいじゃん! 凌空っ!」

 羽菜の前で凌空が、おかしそうに笑う。

 青く染まり始めた空の下で、キラキラとした海と波を背にして。

 やっぱり凌空には笑っていて欲しい。これからもずっと、こんなふうに。


「羽菜ちゃーん! 凌空ちゃーん!」

 名前を呼ばれて顔を向ける。浜の上の堤防から身を乗り出すようにして、琴子が手を振っている。

「朝ご飯、四人で食べようよ! サンドイッチ作ったよ!」

 琴子の声を聞いていると、今日も明日も明後日も、こんな毎日が続くような気がしてしまう。

 本当は帰りたくなんてない……そんな気持ちが頭をかすめ、あわてて琴子から視線を移す。

 すると琴子の隣で、羽菜たちを見下ろしていた櫂が、何でもわかっているような顔つきで、ふっと笑った。


 朝ご飯を食べた後、櫂の運転で駅まで送ってもらった。

 海から続く坂道をのぼった先の、ロータリーもない小さな駅。

 琴子と一緒にこの駅に降りた時は、不安でいっぱいだったことを思い出す。

「じゃあな」

 運転席から降りた櫂が、持っていた荷物を羽菜に渡しながら言う。

 琴子は見送りには来なかった。「きっと泣いちゃうから」って、羽菜の前で笑って言っていた。

 そして凌空も来なかった。「おれも泣いちゃうから」って冗談ぽく言っていたけど、もしかして本心だったのかもしれない。

 だけど羽菜もそのほうがよかった。二人に見送られたりしたら、きっと自分も泣いてしまう。

「うん。じゃあね」

 そう言って荷物を肩にかけ、櫂に背中を向ける。なのにどうしても一歩が出ない。

 頭の上から照りつける日差し。乾いたグラウンド。一緒に走った仲間たちの顔。

 これから戻るその場所が、楽しいことばかりじゃないってわかっているから。

「羽菜」

 うつむいて、立ち止まっていた羽菜に声がかかった。ゆっくりと振り返ると、櫂が羽菜に向かって真っ直ぐ手を伸ばした。

「忘れ物」

 頭にのった櫂の手が、ふわふわと羽菜の髪をなでる。

 その感触を味わいながら、静かに目を閉じると、自然に顔がほころんだ。

「よし。行ってこい」

 髪をなでていた櫂の手が、とんっと羽菜の肩を押す。

「うん。行ってくる」

 今度はためらわずに一歩が出せた。

 ほんの少しの優しさをもらうだけで、こんなに大きな勇気が出ること。いつか自分も、誰かにしてあげられたらいいって思う。

 櫂に向かって笑顔で手を振る。櫂は、凌空が優海を見ていた時と同じような、穏やかな顔つきで、羽菜に小さく手を振った。


 海の見えるホームに一人で立つと、昨日とは少しだけ違う風が羽菜に吹いた。

 琴子にも凌空にも、そして櫂にも、きっと新しい風が吹き始める。

 目を閉じて、グラウンドに立つ自分を想像する。きっと走れる。前みたいにはいかないと思うけど、またスタートラインから、やり直せばいいだけだ。

 ホームにアナウンスが流れ、目を開けた。停まった電車のドアが、羽菜の前で静かに開く。

 肩にかけた荷物をぎゅっと握りしめ、風に背中を押されながら、羽菜は次の一歩を踏み出した。

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― 新着の感想 ―
[良い点] とっても爽やかな読了感です。 皆、新しい一歩を踏み出していくんですね。
2023/10/20 12:55 退会済み
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