第十章36 『大馬鹿』
今話から、『リコリス』の名前を『ベラリス』に変更しています。
派生作品に同名キャラクターがいたのを失念していて、キャラクターが混同される的な意図しない深読みが発生しかねない状況だったためです。それに伴い、以前の話数の方も名前を修正します。
申し訳!
――クルシュ・カルステンの胸中は、焦燥と自責の渦巻く坩堝となっていた。
それが、外部からの干渉によって肥大化された衝動であることに自覚はない。だが、仮に自覚があったとしても、クルシュの内なる黒い蟠りは変わらなかっただろう。
肥大化ということは、なかったものを植え付けられたわけではない。それは本来、時間をかけて大きくなるはずのものが、その時間を省かれて肥え太っただけ。
すなわち、その『後悔』はクルシュの内で、着々と育ち続けていた咎なのだ。
「――――」
その、飼い馴らせない衝動を抱えたまま、クルシュは無音の歯噛みを響かせる。
カチと、口の中で歯と歯が噛み合った反応はある。にも拘わらず、音は閉じた口の外側どころか、自分自身の頭蓋の中にすら発生しなかった。
本来あるべきものが取り除かれた世界は、ひどく据わりの悪い違和感をもたらす。そして相手は恐ろしく正確に、その違和感の隙間に刃先をねじ込んできていた。
「――――」
手の中の騎士剣を翻し、横合いから迫る獣の牙めいた斬撃を打ち払う。無音だ。
そのまま、足を止めた斬り合いが発生、一合、二合、十合と鋼と鋼が衝突し、衝撃と共に烈火の如き火花が中空に無数に花開いた。無音で。
無音、無音、無音が積み重なる。――息遣いも、心の臓の鼓動も、踏み込む靴音も打ち合った剣戟も、好戦的な面構えの敵がした舌なめずりも、何の音も聞こえない。
それが、城内を単独で行動中だったクルシュを襲った、突発的な異常戦闘だった。
「――――」
――クルシュがその異常に対応できたのは、『龍の眼』の恩恵に他ならない。
力の解放中、空気中を漂う細かい塵さえ見分けられるこの眼のおかげで、クルシュは背後からの『無音』の奇襲をとっさに防げた。防いでから、気付いた。――この敵がフェリスをさらった下手人なら、彼の今の窮地は防げたものだったのだと。
クルシュがこの『龍の眼』を使いこなせていれば、今の状況は避けられたのだと。
「それなら、フェリスは今も……」
込み上げる悔しさの一部が唇からこぼれ、それが音になった事実に目を見張る。
瞬間、微かに乱れたこちらの足捌きに追いつき、大刀――片刃の裁ち鋏のようなそれを振るった相手の一撃が、避け損なったクルシュの左肩を浅く切り裂いた。
「く……ッ」
「とろいぜぇ、クルシュ・カルステン。ちゃぁんと俺を見てねえとなぁ!」
ぐいっと顔を近付け、嘲るように言い放つのは短い青髪の小柄な男だ。
クルシュより矮躯の男は、その身の丈ほどもありそうな片裁ち鋏を軽々と扱い、狭い通路を縦横無尽に跳ね回りながら、『龍の眼』を宿したクルシュと拮抗している。
敵の狙い、思惑、一瞬で湧いた様々な疑問、それを鋭く問おうと口を開き――、
「――――」
またしても、クルシュの声は音にならない。
一瞬だけ戻った周囲の音が再び遮断され、クルシュは完成された絵から一部を削られた不完全な世界に逆戻り。もうこれを、何度も何度も繰り返されている。
ただ音がないだけなら、『龍の眼』の視覚に頼ってもう少し上手く事を運べる。だが、消えた音を不規則に戻され、無音から突然音の情報を豪雨のようにもたらされると、それを全く無視して戦い続けることは、今の自分には不可能だった。
「そら――そらそ――らそら――そら――らぁ!」
音が、くる、こない、くる、こない、くる、こない、くる。――それを繰り返す。
音の鳴る剣戟があり、音の鳴らない破壊があり、音の鳴る仕損じがあり、音の鳴らない有効打があり、意識の一部は常に情報の取捨選択に奪われ、剣先に百が宿らない。
結果、負わされる傷は増え、反撃の機会にはまるで届かず、クルシュは『龍の眼』を宿して以来、初めての苦戦、劣勢を強いられていた。
「こんな――」
情けなくこぼれた細い声は、その先を相手の力に消され、音にならない。「こんなはずでは」だったのか、それとも「こんなことでは」だったのか。
それは敵にも、何よりクルシュ――自分自身にもわからないことで。
「しぶってぇ女だなぁ! どうせ俺に負けてキャンキャン泣くことになんだからよぉ、手間かけさせてねえでとっととおっ死ね! うるせえんだ、何もかもぉ!」
男が苛立ち紛れに片裁ち鋏を振り回し、周囲の床や壁を容赦なく切り刻んだ。
その男の声には音があり、その乱行には音がない。その事実が奏でる不協和音が、クルシュの心を掻き乱す。あまりにもちぐはぐで、耐え難い。――自分自身も、含めて。
「フェリスを――」
「――だぁめぇだぁ」
どこへやったのか、という問いは掻き消され、音の鳴らない剣戟が再開する。
振るわれる片裁ち鋏を払い、打ち返し、叩き落とすも、手応え以外で感触を測れない。そうする間にも、男は「チぃッ」と苛立たしげに舌打ちし、
「うるせえうるせえてめえらうるせえ、延々うるせえ、黙れようるせえ、息すんなうるせえ、瞬きすんなうるせえ、髪なびかせんなうるせえ、足踏みすんなうるせえ、剣振んなうるせえ、心臓鳴らすなうるせえ、何か感じんなうるせえ、命がうるせえ」
「――――」
「キャラキャラ笑ってんじゃぁねえよぉうるせえ! 母親面ぁしやがってうるせえ! 生まれてんじゃねえよ生きてんじゃねえようるせえうるせえうるせえぇぇぇ!!」
男は目を血走らせ、クルシュに無関係の怒りの怨嗟で、無音の中を猛然と荒れ狂う。
その暴獣じみた剣嵐を『龍眼』の力を借りて捌きながら、心当たりのない悪意の斬光を浴びせられ、クルシュは臍を噛んだ。
敵意に悪意、殺意でさえ大いに結構だ。――それが自分に向けられたものなら。
そうですらないから、それにすら値しないから、自分は――、
そして、フェリスは――、
「――――」
そんな感情の奔流、その爆発に心が真っ白になりかけた瞬間だ。――不意の青い光が、音のない鍔迫り合いをするクルシュと男を同時に撫ぜていった。
「――――」「あぁ?」
敵の次の手という危惧は、目の前の男も同じ疑問を浮かべたことで消える。
今の光は男にとっても想定外のもので、驚いたのはお互い様。そしてそれは、直後、息のかかる距離で睨み合った二人の足下からきた声も同じだった。
聞こえたのは、遠くから血を吐くような、魂のこもった絶叫で――、
「――死ぬな、馬鹿!! 何考えてんの、ふざけないでよ!!」
「――――」
聞き覚えのある、耳に馴染んだ声が聞こえた瞬間、全身が総毛立つ感覚があった。
生じたのは安堵、次いで即座の使命感、それに後れを取った不安と恐れ――その湧き上がった全部をねじ伏せて、クルシュは渾身の力で目の前の男を突き放した。その挙動にとっさに後ろに飛んだ男を目掛け、剣が一閃――百人一太刀が放たれる。
逃げ場のない剣風が通路を薙ぎ払うのに、「チぃッ!」と舌打ちする男が片裁ち鋏を振るい、天井を斬り破って上へ逃れた。避けられた。――だが、空隙は生まれた。
「フェリス――!」
振り切った剣を下に向け、床へ猛然と連撃を叩き込む。
剣先が風となり、白い石材へと星を描くような切れ目が刻まれる。――そこへ、真上の天井が斬られ、視界から消えた男が唐竹割りの一撃を落としてくる。無音で。
その一撃を、頭上に掲げた剣で受け、男の赤い双眸と『龍の眼』が交錯する。
「邪魔を――」
するな、と声の後ろが切り取られたが、構いはしない。結果は同じだ。
持ち上げた足が力強く床を踏み、直後、切れ目の入った足場が瓦解、クルシュと男が鍔迫り合ったまま、斬り開かれた地下へと落ちる。無音で。
「――――」
――落ちた先、広がっていたのは予想以上に大きな、城の地下空間だった。
『憂鬱の魔人』の暴れた痕跡は地下にも色濃く残っており、夜会を開く会場にも、鍛錬する練兵場にもできそうな広大な空間に、ぽつんといくつかの人影――その中に、壁に腕を留められたフェリスと、血溜まりに伏すスバルが、いた。
「――――」
――瞬間、膨れ上がった感情を、赤と黒以外の言葉で表現する術が浮かばない。
爆発的に込み上げた感情の嵐に、理性的な思考や判断の全部が彼方に吹っ飛ばされる。――と、その隙を突かれ、身を回した男の蹴りをもろに浴びた。とっさに上げた膝で受けるも、落下の軌道を強引に曲げられ、壁に向かって飛ばされる。
突き出した足を壁につき、足裏を滑らせながら激突の衝撃を和らげ、着地。
正面を見れば、円状の空間の反対側に片裁ち鋏の男が立ち、その男との間、部屋の真ん中に黒いドレスの女と、何故かその女と手を握り合った『白羊』の姿が。倒れたスバルは左に、壁に留められたフェリスは右に。――状況が、あまりに見えない。
そのクルシュと同じ困惑を覚えたのだろう。男が片裁ち鋏で強く床を打ち据え、
「おぉいぃ、どうなってやがんだぁ、ベラリス! なぁんで『遠回り』が解けたぁ!」
「リボーン! 『遠回り』が解けてすぐにきてくれるなんて……もしかして、わたしのことがそんなに欲しいの? 好きなの? わたしも!」
「話のできねえ女だなぁ! 聞かれたことに黙って答えろやぁ!」
「黙ったら答えるのだってできないでしょう。うっかり者のリボーンには、しっかりした子がついてないと。例えば……そう! このメルティとか!」
「メルぅ……?」
疑問に答える気があるのかないのか、そう言ったドレスの女が『白羊』の肩を掴み、男の方へとずいと押し出す。それぞれ、リボーンとベラリスと呼び合った二人に挟まれ、『白羊』は微かに目を見張ったが、その表情がすぐに冷然とした微笑になる。
そして――、
「はじめまして、リボーン。わたしはメルティ、ママに選ばれた『愛し子』の一人です」
「なぁにが『愛し子』だぁ。ベラリス、あっさり騙されてんじゃぁ……」
「――ママ、いつもありがとう。世界で一番愛してる」
低く、紡がれたその『白羊』の声に息を呑み、リボーンの表情から怒りが抜けた。代わりに差し込んだのは、強い恐れの感情と、それを感じた自分への恥辱だ。
聞いていた通り、『愛し子』とその母親との関係性は、歪な育まれ方をしている。
その誤った絆の紡ぎ方に、思うところがあるのは認めよう。――だがそれは、赤と黒の感情で思考を塗り潰されたクルシュに、彼らへの斟酌の余地など与えない。
床を蹴る。敵は正面、奥にリボーン、手前にベラリス、それと『白羊』――、
「メルティはわたしたちの仲間よ! リボーンとお似合いだと思うから推せるわ!」
こちらに背を向け、リボーン相手にベラリスは満面の笑み。――それは良し、本音だ。
その肩の腕を振りほどいて、くるりと身を翻した『白羊』がクルシュと相対。彼女は手の中で短い筒状の道具を伸縮させ、一本の撃杖として握り込む。
そうして『白羊』が、その黄色い双眸にキリリとした意思を込め――、
「――わたしは『愛し子』の一人、あなたの敵です、『翠麗』さんっ!」
言って、修練の窺える動きで撃杖を構え、その杖先を迫るクルシュへと向け、立ちはだかる姿勢を見せた。しかし――それは、悪しだ。
「――嘘の風が吹いているぞ、メルティ」
「――はいっ」
瞬間、腰をひねって反転する『白羊』――メルティと踏み込みを合わせ、クルシュの一閃と彼女の撃杖の一撃が、斜め十字を描いて繰り出される。
それは真っ直ぐ、無防備に立ち尽くすベラリスへと迫り――、
「あら?」
剣風と杖撃の重ね打ちが、ドレスの女を真っ向から吹き飛ばしていた。
△▼△▼△▼△
――『風見の加護』が嘘と真を見極め、メルティの言葉の偽りを看破した。
言葉が嘘であるなら、その立ち位置自体が何らかの意図を持ったものだろうと。事実それに合わせ、メルティはクルシュと共にベラリスへの痛打を見舞った。
「――だが、驚いた」
常日頃の言動に嘘はないが、遠慮がちというか臆病な振る舞いで、彼女は人と関わることに恐れを抱いているように見えていた。――しかし、その評価は誤りだった。
メルティは勇敢で、肝の強く据わった人物だ。自分などより、よほど。
その上で――、
「次は卿の番だ」
吹き飛んで倒れたベラリス、その向こうに立つリボーンへと剣気を向ける。片裁ち鋏を肩に担ぎ、剣呑な目つきをしたリボーンは舌打ちし、
「馬鹿共がぁ、知らねえぞぉ、俺ぁ」
それは、仲間をやられた怒りにしては、やや意味の通らない発言だった。だが、その真意を確かめるより、次の戦いを始めるよりも先に――、
「――クルシュ様! 敵より、スバルくんを!」
呼び声にハッとさせられ、クルシュは壁に留められたフェリスを見る。
彼の両腕を頭の上で串刺しにしているのは、リボーンの片裁ち鋏の片割れだ。しかし、腕を貫かれて吊るされた痛々しい姿でも、フェリスが叫ぶのは自分のことではない。
「ナツキ、スバル、様を……」
そうだ、スバルが倒れている。彼の手当てを――否、敵の排除を優先すべきでは。そもそも自分が駆け寄って何ができる。必要なのはフェリスの治療だ。なら、順番はフェリスの解放が先で当然で、どうしてこんな当たり前の判断もできない。愚かで察しが悪く、あまりにも足りない。これでどうして『戦乙女』などと呼ばれたものに――、
「――っ」
強烈なまでの自己嫌悪、どす黒い感情が唐突に胸の内で爆発した。
剣を落としそうだ。膝が震えそうだ。嗚咽がこぼれそうだ。いきなり何がどうした。どうしてか、急に頭の中が、胸の奥が、心の大事な部分が壊れそうに、なって。
「愛に障害って付き物よね。――敵と味方に分かれるのも、燃えるわ」
そう、呟く声が聞こえた。
地面に仰向けに横たわり、胸の前で手を組む女――ベラリスが、傷の痛みに声を掠れさせながら、痛み以上の何かのために熱情に彩られた声を発する。
そしてその声は、クルシュの内の黒い蟠りを抑え切れない形で覚醒させる。
――死にたい。いっそ、消えてなくなりたいと、自分で自分を呪い出す、クルシュ・カルステンに相応しくない激情が。
「だからぁ、言ったんだよぉ!」
「――ッ」
膝の折れそうな、心の屈しそうな衝動に圧し掛かられ、潰れかけるクルシュへとリボーンの刃が叩き込まれる。反射的に立てた剣がその軌道に割り込んだが、へっぴり腰の構えに防ぐだけの力はなく、衝撃に真横に吹き飛ばされる。無音で。
「これ、『決壊』が強まって……っ。スバルさ――」
弾かれたクルシュを庇い、敵との間に割り込んだメルティの語尾が消える。呼びかけの隙間に挟まった無音の違和感は、初見のメルティを戸惑わせるには十分だった。
そしてその戸惑いに容赦なく付け入り、刃が勇敢な彼女の腹部を串刺しにする。
「――――」
力なくその場に崩れ落ち、メルティの手から撃杖が転がり落ちる。無音で。
バッと血が流れ、痛みに顔を歪めてメルティが泣き叫んでいる。無音で。
倒れたメルティの傍らで、リボーンが片裁ち鋏を振り上げる。無音で。
「――――」
無我夢中で、振り下ろされるトドメの刃の前に飛び込んだ。無音で。
『龍の眼』が視せる軌跡をなぞり、仲間を守らんと剣を振るった。無音で。
剣閃が縦横無尽に跳ね回り、苛立った顔のリボーンとの剣戟が続く。無音で。
「――――」
無音、無音、無音。集中、集中、集中。不乱、不乱、不乱。克己、克己、克己――。
「――――」
自分を責め苛む声がする。またしても、『お前』は間違えたと、呪う声が。
フェリスの声を聞いて、彼を助けるために地下へと臨んだ。だが、クルシュが駆け付ける以前に、メルティは『愛し子』の懐に潜り込み、信頼を得ていた。何らかの策が動いている最中で、彼女たちなりの成功の絵が見えていたはずの行動だ。
そこに予定外のクルシュの介入があって、メルティは方針転換を余儀なくされた。
その結果が、今、地面に倒れた彼女だ。少し離れたところに伏せったスバルだ。壁に留められたフェリスであり、防戦一方の自分だった。
「――――」
自分がこなければ、上手く運んだのではないか。このふた月も、マクマホン邸も、水門都市プリステラも、クルシュ・カルステンがしくじった何もかもが。
「――――」
黒い蟠りが大きく広がって、戦いの最中なのに、無力感が心を覆い尽くしていく。
やがてそれが全身を覆ったとき、自分は剣を持てなくなるだろう。それ以前に、『龍の眼』の力に見放され、あの刃に命脈を絶たれる方が早いか。
そこに、いっそ、遅いか早いかだけの違いしかないのなら――、
「――顔を上げろ! クルシュ・カルステン!!」
刹那、無音の世界に飛び込んできた必死の声が、止まりかけた腕を再動させる。
弾いた。往生際悪く。弾かせた。潔さなどなく。何がそうさせたのか。
それは――、
「まだ間に合う! まだ誰も終わってなんてない! 終わらせてなんてあげない!」
そう大口を開けて吠えるのは、黄色い瞳に怒りを宿したフェリスだ。
何故か、彼の声はこちらまで届く。鼓膜を震わせた。それが剣を振るわせたが、全身をおびただしく浸す黒い蟠りも、その声に勢いを増していく。
「――――」
他の誰でもない。一番顔向けできないのが彼だ。言ってはならない言葉で傷付け、償う術もないまま罪業を放置し、解消できない罪悪感で潰れかけている。
そんな弱く愚かな自分に、しかし、フェリスは声を張り上げる。
「スバルくんも『白羊』ちゃんも戦ってる! 諦めないで戦って! 戦って……お願い! 私にも戦わせて!」
浴びせられる声に支えられ、打ち付けられる暴刃に何とかかろうじて抵抗する。抵抗しながら、声にならない声が、フェリスの訴えに喉の奥で詰まる。
戦わせてほしいと、フェリスはそう言った。――その真意が、明瞭に伝わった。
そして、それをするなど無理だと、心が即座に悲鳴を上げた。
「無理じゃない。無理なんかじゃない。できます。――クルシュ様なら!」
「――――」
弱気を表情か瞳から読んだのか、折れかける心を掬い上げるような励ましだった。
それはきっと、自分でなかったなら、魂を奮い立たせる激励だったかもしれない。だのに、かけられた期待に応えられない無力感が、かえって自分から力を奪う。
フェリスの、真っ直ぐな忠愛に応える資格は、クルシュ・カルステンにしか――、
「――とっくにわかってます! 記憶なんて戻ってないんでしょ!?」
――刹那、呼吸が止まった。
△▼△▼△▼△
言った。とうとう言ってしまった。
これを言えば、自分が一番見たくない顔を彼女にさせるとわかっていたのに。
「――――」
琥珀色と金色、二色となった双眸を見開き、クルシュが愕然とこちらを見ている。その視線から目を逸らしたい気持ちを堪え、フェリックスは身をよじった。
自由を取り戻すためではない。お腹から声を出すために。
「わかってましたよ! 私が、どれだけあなたと一緒だったと思ってるんですか! それぐらい、最初から全部お見通しですよ!」
嘘だ。――気付いたのは、このふた月があったからだった。
最初は、フェリックスの決断に心から悲嘆に暮れた彼女の姿が痛々しくて、まともに物なんて考えられなかった。時間を空けて冷静になり、『六枚舌』で一緒に行動したふた月があったから、抱くことのできた疑念だった。
「でも、私は臆病で卑怯な弱虫だから、怖くてそれを確かめられなかった」
きっとそれも、フェリックスが犯した数え切れない罪業の一つなのだろう。
「――――」
フェリックスの訴えを聞きながら、クルシュが片裁ち鋏を打ち払う。
彼女からの返事は聞こえない。というか、どういうわけかクルシュと鋏男との戦いの音が、フェリックスの耳には一切届いてこない。無音だ。
でも、こっちの声が届くのは、言えば言うほど曇っていくクルシュの顔でわかる。
痛めつけたくなんてない。追い詰めたいなんて考えたこともない。――でも、その荒療治が必要ならば、傷に指を突っ込むことだって療治だと割り切る。
そうでもしなきゃ、こんなフェリックスを信じるなんて賭けに出た大馬鹿の、付ける薬もかける魔法もない大馬鹿の、こぼれ落ちかけた命を救えないのだから。
「できないできないって、頭がしっちゃかめっちゃかですよね? 自分には無理だって、目の前が真っ暗ですよね。――でも、一つ、考えを正します、クルシュ・カルステン」
それは、クルシュが他者と言葉を交わすとき、好んで使った言い回し。
それをあえて口にしながら、フェリックスは揺れる琥珀と金の二色を見据え――、
「――できます。あなたと私なら、できるんです」
ああ、なんて愚かな感情論、道理の通らない運命論だ。
イヤだイヤだ、本当にイヤだ。直視したくない。認めたくない。受け入れられない。
これでは丸きり、どこかの大馬鹿とやっていることが同じだ。――勝手に信じて期待して、その信頼を盾に脅しをかけてくる大馬鹿と、何にも変わらない。
でも、しょうがない。仕方ない。他に打つ手がない。
他ならぬその大馬鹿が、一秒が惜しい崖っぷちに勝手に立っているのだから――フェリックスの心に火を付けた、大馬鹿の手法をそのまま採用するしかない。
「――クルシュ様!」
そのフェリックスの訴えに、眼差しに、クルシュの表情が大きく歪んだ。
唇が動き、音にならない言葉を紡いで、言おうとする。――できない、と。
「――できます!」
聞こえない。だから言われてない。そんな暴論を押し通し、貫く。
嘆きも、怒りも、切望も、全部まとめてあとで面倒を見る。命の前では全て些事。
できない? その理由は? ――かつてのクルシュ・カルステンじゃないから?
「いつかのあなたじゃない! 今、ここにいるクルシュ様に頼んでるの!」
「――――」
「助けましょう! あなたと、私で! 殿下の愛した、この王国を!!」
声に、二色の双眸が真っ直ぐにフェリックスを見た。――その瞳に、火が灯る。
白い剣身が天へ向けられ、無音の世界で逆巻く風が刃となり、形作られる。
それは『戦乙女』クルシュ・カルステンの代名詞、かつて自領を襲った『大兎』の群れを薙ぎ払い、その進路を変え、多くの領民を救った救済の一閃。
――渾身の百人一太刀が、クーゲルシュライバー城の地下に放たれた。
△▼△▼△▼△
――剣を振り切る最後の最後の瞬間まで、躊躇いは尾を引き続けていた。
「――――」
息は音にならず、声は音にならず、剣閃とその結果もまた、音にならない。
ただ、放たれた刃の結果は見届けた。それがクルシュ・カルステンを忘れていながら、『戦乙女』を騙ろうとした自分のせめてもの責務だった。
――自分を責め苛み、呪う黒い蟠りは、今もこの胸の内で蠢いている。
それがクルシュの手を、足を、重たくすることは変わらない。負の感情は際限なく大きくなって、きっと今頃、クルシュの全てを覆い尽くしてしまうはずだった。
しかし――、
「クソったれがぁ! てめえもあの野郎も、正気じゃぁねえなぁ!」
踏み込みと剣閃、環境音をことごとく聞かせない中に、リボーンの声が響き渡る。
彼の手にした片裁ち鋏を斬り払いながら、返す言葉もない所業をしたと実感する。――これを、かつてのクルシュ・カルステンならしただろうか。
わからない。そして、今はそのことに意味なんてない。
フェリスに期待され、信じられ、応えたのは、このクルシュ・カルステンなのだ。
そしてその自認は正の感情の奔流となって、胸の内の黒い蟠りに負けないぐらいの活力で、クルシュの心身を満たし、リボーンにも抗わせた。
そうして、クルシュが敵を引き付ける間に――、
「ホント、大馬鹿すぎるから、スバルくんって一回死んだ方がいいんじゃない?」
「おいおい、冗談でもそんなこと言うなよ。考えたくもねぇよ、死ぬなんて」
鋼を交えるリボーンの向こうで、憎まれ口を叩き合う二人の声が聞こえてくる。
かろうじて、瀕死の状態から掬い上げられた少年と、その命を掬い取った『青』とが、互いに血溜まりの上、抱擁するように身を寄せ合っている。
片膝を立てたスバルを、フェリスが後ろから抱きしめるように。――ただそれが、愛情表現の抱擁でないことは、お互いの不本意そうな顔からも一目瞭然。
事実、そうせざるを得なかったのだ。――フェリスの治癒魔法は、発動するために相手の体に触れる必要がある。
「むしろこれ、お前の方がはるかに無茶しすぎだろ」
「お互い様でしょ」
そう言って、脇腹にナイフを生やしたスバルを、クルシュに腕を斬り落とさせ、両手の肘から先を壁に残したままのフェリスが、鼻で笑った。
――それは、正気でないと言われるのも当然の、大馬鹿二人の言い合いだった。




