第十章21 『六枚舌』
――ルグニカ王国未曽有の危難、国家滅亡の危機。
「――――」
寝台の上、体を起こした状態でそれを聞いたスバルは、まず自分の頬を引っ張る。痛い。つまり、これはちゃんと現実であり、夢の続きではない。
すなわち――、
「悪夢の続きですって言われた方がマシなぐらい、なんだそりゃが続きすぎる……俺、もしかして呪われてんのか? ショッキングなことが多すぎるぞ……」
「その場合、呪われてるのはスバルだけじゃないかしら。安心するのよ」
「ちっとも安心できないけど、一緒に呪われてくれてありがとう。愛してる」
「ベティーもかしら」
自分の頬を引っ張っていた手を下ろし、代わりにその手でベアトリスの頭を撫でる。
ベッド脇で運命共同体を主張してくれる頼もしいパートナー、彼女も現在の状況についてスバルより多くの説明を受けているわけではないらしい。
そうなると、この場で情報を多く持っていそうな『白羊』と、それからラッセルに今度こそ色々聞きたいところだが――、
「――『ショッキング』。驚いたであるとか、動揺したといった意味、でしたか」
「え? ああ、そうそう、それで合ってる……合ってるけど、なんで? 俺の地元の言葉って、オットーぐらいしか一発で読み解けないんだけど」
「いえ、大したことでは。ただ、近頃のロズワールから送られてくる手紙には、たびたびそうした見慣れない言葉がまじっていまして。……暗号解読もひと手間はかかるものなのですから、悪ふざけはやめてもらいたいものですが」
「ロズワールと、手紙のやり取り……なのよ?」
スバルが口にした単語、それに反応できた理由を明かしたラッセルに、ベアトリスが丸い瞳を細め、わずかに警戒心を高める。
普通、身内の名前が出たら少しは安心材料になって然るべきだと思うが、そこをそう簡単に受け止められないのが、実にロズワールである。
と、どうやら同じことを思ったらしく、ラッセルは「やれやれ」と肩をすくめ、
「ロズワールがナツキ殿や陣営の方々とどう接しているのか、他人事ながら不安にならざるを得ませんね。一応、自己弁護させていただくと、彼とは古い友人なのです。かれこれ、もう十五年ほどの付き合いになりますか」
「十五年……! それは、だいぶ長い付き合いだな。え、じゃあもしかして、白鯨の討伐のときに力を貸してくれたのは……」
「ああ、あれでしたらご心配なく。商売と友誼とは全く異なる線上にあるものです。あのときナツキ殿に協力したのは私自身の判断であり、そこにロズワールの介在する余地はありません。むしろ、頼まれたら断っていたのでは?」
「ふん、どうやらロズワールを正しく評価しているようかしら。ツーカーのベストフレンドだなんて言われたら、今すぐ出ていくところだったのよ」
「けなした方がベア子の信頼が稼げるところが、ロズワールって感じ……」
とはいえ、今のラッセルの回答は、スバル的には喜ばしいものだった。
クルシュたちが計画していた白鯨討伐、それに同盟として加わるために、スバルが自発的に考えて口説き落としたのが、アナスタシアとこのラッセルだ。
そのラッセルを引き込んだ交渉が、ロズワールのお膳立てだったとしたら、結果は同じだったとしても、自己評価にちょっとケチが付く。
「あ、あのっ、『銀狐』……お話を進めた方がいいんじゃないでしょうか」
と、そこにそう口を挟んだのは、話題の外側に立たされていた『白羊』だ。
気遣うような上目をラッセルに向ける彼女は、話の円滑な進行を促そうとしたようだが、その一言に余計な気になる要素が加わってしまう。
「――『銀狐』、ね。その辺りのこと、詳しく聞かせてもらえると思っていい?」
「無論です。こうしてナツキ殿をお迎えできたのですから、私どもの方から胸襟を開いて、そちらの協力を仰ぐ姿勢を見せなくては。ただ、その前に」
「……前に?」
「ナツキ殿が、危険分子でないか確かめさせていただきたい。――そう、『チェック』というのでしたか、あなたの故郷では」
それもロズワールの手紙から学んだのか、綺麗に整えられた顎の髭を撫でて、ラッセルがその笑みを深めてスバルを見る。
知らず、スバルの喉が鳴ったのは、急速に口内に渇きを覚えた反動だ。――危険分子と言われ、最初に脳裏を過ったのは『黒狗』の語った、スバルの大罪司教疑惑。およそ、この世の罵詈雑言を全て言われて当然の連中と、同列扱いされた屈辱だった。
しかし――、
「ラッセルさん、どうやって証明すればいいかはわからねぇけど、その疑いは間違ってる。俺が大罪司教だとか、そんな話は……」
「言葉での弁明に意味はない。それが魔女教の恐ろしさだ。あなたもご存知のはず」
「――――」
「――ですので、どうぞこれを」
揺るがず冷たい指摘、それに俯きかけるスバル。そのスバルの視界に、部屋の入口からこちらに歩み寄ったラッセルが、ふと差し出してきたものがある。
それを目にし、スバルは息を呑んだ。そこにあったのは――、
「……ケータイ?」
掠れた呟きを漏らし、スバルは手渡されたケータイをまじまじと見つめる。
間違いなく、ケータイ電話だ。それも、他ならぬスバルが愛用していたガラケーで、もうずいぶん前に手放してしまった、元の世界からの数少ない持ち込み品。
手放した経緯は忘れもしない。それこそ、目の前のラッセルに、白鯨討伐の協力の見返りとして差し出した品物だった。――それも、ケータイには魔獣の接近を報せるセンサーのような効果があると、それが嘘にならないよう巧みに言い換えた形で。
「いや、あの、ラッセルさん……これはその、言い訳の余地もないと言えばないんだけど、悪気があったとかではなく、必要に迫られてしたことで、悪いか悪くないかで言ったらめちゃめちゃ俺が悪いんだけど……」
「どど、どうしたかしら、スバル、めちゃめちゃしどろもどろなのよ」
「まさかこんなところで置き去りにしてきた罪の象徴と出くわすとは思わなくて……で、でも! この罪で俺を大罪司教扱いするのはさすがにいきすぎというか、奴らと違って俺はちゃんと謝罪の用意はできるというか!」
「――いえ、結構です。確認が取れました。あなたはナツキ殿に相違ありません」
大罪司教は謝れない。――否、口先だけで「ありがとう」とか「ごめんね」とかいう大罪司教もいるが、心から反省して謝ることができるものはいないはずだ。
なので、それを根拠に大罪司教説を否定しようとしていたスバルは、その思いがけないラッセルの答えに「え」と逆に動揺させられる。
「確認も何も、俺はケータイ持たされただけ……あ、ケータイって単語を知ってたから? それが俺の無罪証明に?」
「いいえ、違います。私の手に渡る以前に、ナツキ殿がこれをどこでどう見せびらかし、どれほどの相手に名前を広めていたか、私どもでは把握できませんので。ですから、そうした外的要因ではなく――私自身の目で、確かめました」
「目って……商人の勘、みたいな?」
「完全な間違いではありませんね。加護です。『目利きの加護』と申しまして、私の目は見たものの価値、それを見定めることができるのですよ」
自分の目を指差し、『目利きの加護』を明かしたラッセルが、その指をスバルの手の中にあるケータイに向け、「そして」と言葉を継ぎ、
「その『ミーティア』は、ナツキ殿の手にある間だけ、価値が跳ね上がります」
「――っ」
「おそらく、ナツキ殿以外には使いこなせない代物なのでしょう。私や他のものが手にしたところで、その『ミーティア』は何ら輝きを放たない。ですが、あなたの手にある間は違う。もっとも、それが沈黙してずいぶん長くなりますが……」
「……たぶん、バッテリー切れだろうね。でも、まだ俺の手の中では光ってる?」
「ええ、眩いばかりに」
「そうか。もし復活させられるとしても、それができるのは俺だけだからか……」
懐かしすぎる感触と重さを手に味わいながら、スバルは言われた言葉を噛みしめ、ラッセルがそれを真偽判定に用いた理屈を噛み砕く。
ケータイはスバル以外には使えない。故に、手にしたスバルの手元でそれが輝くなら、それは当時とスバルが変わらぬ存在であることの証明――、
「……あれ? ってことはもしかして、ラッセルさん、ケータイが自分じゃ扱えないって最初からわかってて……」
「確信したのは報酬として譲っていただいたあとです。私や部下の手元ではまるで価値を持たない。いつか追及する機会があれば、さぞ驚いてもらえるものと思っていました」
「そんなの、騙された方が悪い……は、スバルには通用せんかしら」
「よくおわかりのようで」
対等な交渉の場面で、スバルは嘘をつかずにラッセルにケータイの価値を信じ込ませた。それはあの場に同席したクルシュの『風見の加護』が証してくれる――のだが、ベアトリスの言う通り、スバル側が罪悪感を持つのはまた別の話だ。
とはいえ、まさかの再会を果たしたケータイが、スバルの身分を保証してくれるとは思わなかった。そう言いたいところだが、これで問題解決とはまだ言えない。
「これは言いたくないけど、今ので証明できるのはあの話し合いのときの俺と、今の俺が同じだってことだけだ。もし、その前から、俺が、俺が……俺が、魔女っ、魔女教ッ」
「ええっ、もしもの話ですごく辛そうですっ」
「それだけ身も心も拒否ってるのよ。気持ちはわかるかしら」
「とにかく! あの前から俺が魔女教だったら? あまつさえ、大罪司教なら?」
自分でも嫌な仮定だが、疑いを晴らすなら完全な潔白であることが望ましい。たとえ最悪の想定でも、スバル自らが口にすることに意味がある。
あるいはそれを、少しでも信用材料に受け取ってもらえれば儲けものだが――、
「あの前、と仰いますと……王選の始まりが宣告された前後ですね」
「ああ、そう」
「王選の始まりというと、ナツキ殿が王城でかなり大胆な啖呵を切られたという」
「あ、ああ、そう」
「居合わせたものの多くからかなりの反感を買ったそうですが、幸いにして周囲の暴発はなく、結果的により評判を下げたと聞いております」
「そ、そう……?」
「その状態のナツキ殿に、魔女教が成り代わるのですか?」
「そうですね……あのときの俺は、魔女教にも見放されますね……」
人情に縋ろうとしたら、無慈悲な正論の畳みかけでスバルの心が折られた。
実際、王城でのスバルのやらかしを知ったあとに利用できると思って接触してくる魔女教は馬鹿だし、その前に接触されていたのだとしたら、城でやらかすスバルが馬鹿である。――つまり、スバルはスバルの行いの愚かさによって、自らの潔白を証明した。
「俺の精神的な成長以外に、あのイベントがあってよかったと思うことあるんだ!?」
しかも今の話を聞く限り、やらかしたあとのユリウスとの模擬戦は、ユリウスの『名前』が喰われた関係上、なかったことになっているらしく、その場合の王国騎士たちからのスバルへのヘイトがとんでもないことになっていそうだ。
今追われているのも、まさかそれが一端を担っているのではあるまいか。
ともあれ――、
「じゃあ、ラッセルさん目線で、俺は無実?」
「ええ。私目線では、ナツキ殿は数々のご活躍も含め、今このルグニカ王国において最も頼りにしたい人材であると、そう言って過言ではありません」
「お、おお、おおお……救われた……! 今、俺の心が救われた……!」
「なんでこの男の言葉でそんな感極まるのよ! スバルを一番に信じてるベティーが、こうしてすぐ傍にいるかしら! エミリアたちもなのよ!」
「いやそれはもちろん嬉しすぎて滅だけど、身内に信じてもらえてるのと、外の人に信じてもらえてるのだと感慨深さが違うんだよ。難易度の違いっていうかさぁ」
「ふん、ベティーは機嫌を損ねたかしら。次に何かで疑われたとき、スバルの味方をするまで五分のペナルティなのよ」
「ベア子が味方してくれない五分間……!? 俺、耐えられるかな……」
顔を背け、頬を膨らませるベアトリスをベッドの上に引き寄せ、掻いた胡坐の中にスポッと収めると、スバルは「で」と改めてラッセルを見る。
ラッセル側の、スバルへの見極めは完了した。ならば次は、いよいよスバル側から切り込んでいく流れだ。
「そろそろ聞かせてくれ。王国が大変って話も大事だが、その大事な話をする前に、ラッセルさんたちの素性を。ただの王都の偉い商人ってんじゃ、ないんだろ?」
もちろん、ここまでの話なら、仕事のできる商人という括りでギリギリ何とかなる。だがしかし、ラッセルは最初に言った。――王国は存亡の危機にあり、それは自分たちの長年の仇敵によって引き起こされた、と。
「国を滅ぼしかねない相手と長年の仇敵なんて、一介の商人が口にすることとはとても思えねぇ。ラッセルさんが『銀狐』って呼ばれてたのもそうだ。そこの『白羊』ちゃん共々、本当は別の仕事がある。それは――」
「――『六枚舌』」
「――!?」
ぐっと前のめりになり、ラッセルの口を開かせようとしていたスバルは、しかし予想外の方向からの声に驚き、そちらを振り向いた。
声を発したのはラッセルでも、『白羊』でもない。それはこれまで、スバルたちの話し合いに黙って耳を傾け、機を窺っていたらしい人物――、
「ラチンス、いつから起きてた?」
「しばらく前だ。こんだけ話し声がしてて、いつまでも寝てられっか。さすがに、ラッセル・フェローがお出ましってなったときは、声が出そうになったがな」
そう答えたのは、長椅子で体を起こしたラチンスだ。下水で汚れた服を脱がされ、肌着だけの体を毛布でくるんだ彼の様子に、ひとまず無事そうだとスバルは安堵する。
「狸寝入りの盗み聞きはいいとして……さっきの、なんて言った? ろく……?」
「『六枚舌』、だ。言っちまえば、ルグニカの裏っかわで暗躍してる諜報集団……実在するのは疑っちゃいなかったが、まさか商業組合の代表が頭たぁな」
「諜報集団って……それ、スパイ組織ってこと!?」
ラチンスの説明が頭で噛み砕かれた途端、スバルは思わず声を跳ねさせる。
スパイ――それはフィクションではたびたび登場することがあっても、ノンフィクションでは遭遇する機会などまずないものの筆頭だ。忍者もカテゴリーとしては近いが、それは実物をお目にかかったし、何ならその恐ろしさも味わった。
しかし、まさかここにきて――、
「つまり、ルグニカ王国の暗部を取り仕切る影の首領、それがラッセルさんの正体だったってことか!」
凝然と目を見張り、スバルは改めて姿勢正しく立つラッセルを見やる。
そのスバルの過剰な反応に、ラッセルはわずかに眉を上げたあと、それからゆるゆると首を横に振って、
「あまり大きな声で吹聴されませんよう。――ナツキ殿の、命に関わりますので」
と、忍者に引き続き、スパイの恐ろしさも味わわされそうな答えを口にした。
△▼△▼△▼△
「元々、『六枚舌』は王国の防諜活動のために、『亜人戦争』を機に組織されました。内戦が長引いた背景には、亜人たちの諜報能力の高さを侮った経緯がありましたから」
「あー、ありそう。俺の友達にも、壁とか地面に擬態できる奴がいるし」
「ええ、そうした特性や加護、あるいは『ミーティア』……それらの知識を備え、対応可能な実行力を有する専門組織が求められた。『六枚舌』が発足したのはそれが理由で、私は現在の長官の立場にあります」
「長官……! こっち側で聞くのは初めての肩書きだ……!」
「いちいちスバルが感極まるのは何なのかしら。この連中の怪しさはちっとも変わっちゃいないのよ。むしろ、深まってるかしら」
「いや、お前の言う通りだよ。でもこの場合、怪しいというか、謎が深ければ深いほど味わいを増すのが特務機関ってヤツだから……」
むくれるベアトリスの頬を指で押しながら、スバルはちらとラッセルを窺う。
変わらぬ姿勢、変わらぬ表情で応対してくれているラッセルだが、その正体が諜報組織のトップと知ると、彼の佇まいや圧迫感にも説得力が生まれる。
実際、その『六枚舌』発足の歴史も納得だ。――擬態できるスバルの友人とはプレアデス戦団のヒアインのことだが、『亜人戦争』では多くの亜人が王国との戦いに参加していたとのことだ。そして戦争で役立つのは、戦闘力だけではない。
「時に、ラチンス殿は『六枚舌』の存在はどちらで? お父上からでしょうか」
「あ? あの親父が、王国の機密を家族だからってべらべら喋るかよ。ただ、そういうもんはあって当然だと思ってたのと、時たま噂で聞いてたことのある単語が繋がったってだけだ。テメエが代表とは塵ほども思っちゃいなかったしよ」
「そうでしたか。やはり、リッケルト・ホフマン殿は忠臣の鑑だ。その後、お父上と連絡は取り合われていないのですか?」
「……オイ、諜報屋の悪い癖が出てっぞ。今はテメエが話す番で、オレの方がああだこうだ話してやる場面じゃねえだろ。調子に乗ってんじゃねえ」
「仰る通りですね。これは失礼いたしました」
四白眼をさらに鋭くするラチンスに、ラッセルが芝居がかった一礼をする。が、そのやり取りからも、下水道でラチンスが明かした素性――彼の実家が本当に王国貴族である、ということは立証されたらしい。
その返答を受け、ラッセルは「改めて」とスバルの方に視線を戻し、
「機密に関わる詳細までは語れませんが、我々の至上の目的は国防にあります。私も含め、所属するものたちは立場を伏せ、身分を偽り、防諜に従事する。王都の商業組合の代表という肩書きも、事実を隠すための隠れ蓑というわけです」
「隠れ蓑にしちゃ、ちょっと偉そうすぎるんじゃない? 組合長って」
「表向き必要な権限と発言力、その兼ね合いを考えた結果ですよ。心配されずとも、王都の有力者が片端から組織の一員というわけではありません」
「――でも、今はその方がマシだった状況らしいのよ」
「ええ、恥ずかしながらそれも仰る通りです」
ゆるゆると首を横に振り、ラッセルがベアトリスの指摘に神妙な顔をする。その顔がどこまで彼の本心か知れないが、ようよう本題に切り込めそうだ。
現在のルグニカ王国を襲う危難――それはスバルたちが追い込まれ、エミリアたちにまで魔の手が伸ばされた事実と無関係ではないはず。
その中心にいるというのが――、
「――『愛し子』。それが目下、我々の……いえ、王国最大の敵の名です」
「そいつらが、王選をぶっ壊そうとしてるってことでいい?」
「間違いではありません。ですが、彼らが壊そうとしているのは王選ではなく、王国そのものと言った方が正確ではありますね」
「王国そのもの……その影響が、今の王都の混乱ってわけか。……そういや、さっきは長年の敵みたいなこと言ってたけど、それって?」
「そうですね。記録によれば……三十年以上前から暗躍していたとの記録が」
「さんじゅ……っ!?」
予想だにしない数字を淡々と出され、スバルがぎょっと目を剥いた。
五年十年は想像していても、三十年までは予想していなかった。そもそも、『六枚舌』が『亜人戦争』後に作られた機関であるなら、発足から約四十年のはずで。
「そっから三十年って……ほぼ、できてからずっと戦ってるじゃん……」
「ええ。ですので、『六枚舌』の歴史は『愛し子』との暗闘の歴史とも言えます。ただ、『愛し子』は実態の知れない相手でして、我々は後手に回る一方……かろうじて、国内を好き放題にされないよう留めるのが手一杯の体たらくでしたが」
「は、王国肝煎りの組織ってはずが、情けねえ話だな。やられっ放しかよ」
「返す言葉もありません。実際、王国の各地では領主や有力者の突然の変心や、他国に情報を渡す利敵行為など枚挙に暇がない。私が長官を継いでからの十数年も、状況を打開する有効打はなく、対処療法が続きました。――ですが、状況が変わった」
「変わった?」
「ええ。――『白羊』と『黒狗』です」
そう言われ、スバルは黙ってラッセルの背後に控えていた『白羊』を見る。
一緒に名指しされた『黒狗』はこの場にいないが、彼女たちがラッセルの率いる『六枚舌』の陥った袋小路を脱させたと。
いったい、どうやったのかと疑問視するスバルに、『白羊』は自分の胸に手をやると、その愛らしい顔立ちをわずかに緊張させながら、
「わたしは、元々『愛し子』の一人だったんです。『黒狗』も、同じ境遇で」
「――っ! 敵の一員を、寝返らせたってことか!?」
「いくつかの偶然が味方した事態ではありましたが。ただその結果、我々が長年敵対していた『愛し子』……その裏を知る機会に恵まれたわけです」
「はい。……と言っても、わたしも全部をちゃんと知れてたわけじゃなくて、話せることと話せないことがあったんですけど」
「いや、だとしても得られるものはでかいだろ。よく決断できたな……」
気後れした様子でいる『白羊』だが、そこはラッセルの評価と食い違っていそうだ。
なにせ、三十年も進展のなかった戦いを動かす鍵となる人材なのだから、砂漠でオアシスを見つけたに等しい感慨が『六枚舌』にはあったはず。
そう思ったスバルの感想に、『白羊』はわずかに視線を落とし、
「――。ですね、自分でも驚きでした。わたしにそんな勇気があったなんて。……それなら、もっと早く……」
「――?」
「あっ、いえっ、何でもないですっ! とにかく、そういう立場でしてっ」
パタパタと手を振った『白羊』に、スバルは微かに眉を寄せ、口をつぐむ。
しかし、その気になる点を突っ込む前に、「オイ」とラチンスのガラの悪い声が飛ぶ。
「裏切ったなんて話、信用できんのか? いい加減、テメエらが邪魔臭くなった敵とやらが、いいように操るために送り込んだ罠かもしれねえぞ?」
「でしたら、我々はとっくに潰されている方が自然でしょう。すでに『白羊』たちがこちらに加わって一年以上……その間、阻止した『愛し子』の暗躍は片手では足りない。これほど貢献する意味もないでしょう」
「……あるかもしれねえだろ。警戒が足りねえってオレは」
「――ご心配なさらず。彼女たちの裏切りの防止策は打ってあります。それを以て、彼女たちは私の信用を買った……いえ、勝ち取ったのですよ」
視線鋭く、ラチンスとラッセルの二人が見合い、見解を飛ばし合った。
スバルとしては、ラチンスの言い分もわかるが、ラッセルには勝手に抜け目のない印象を強く抱いている。ラチンスにはどうしても路地裏のチンピラだった頃のファーストインパクトが抜けないので、明確に役者の箔が違う感じだ。
「って考えるのは、助けてもらっといて薄情か……?」
「回数だけで言うなら、ここで保護されたのは髭の手柄かしら。下水道で助けられたのをカウントしても、チンピラと髭でイーブンなのよ」
「確かに。さすが、俺のベア子は算数ができる――」
「――あの、ナツキ・スバルさん」
胡坐の中に囲ったベアトリスと一緒に揺れながら、どちらに肩入れするか迷っていたスバルは、その『白羊』からの呼びかけに「んぁ?」と変な声が出た。
だが、彼女は真剣な様子でスバルを見つめたかと思うと、深々と頭を下げた。
そして――、
「わたしたちが『愛し子』から抜け出せたのは、あなたたちのおかげなんです。ですから、ずっとお礼を言いたくて……ありがとうございますっ」
「え、どういたしましてだけど、何のどれが理由でされたお礼?」
「もちろん、魔女教の、『怠惰』の大罪司教の討伐ですっ!」
「……ペテルギウスの?」
目を丸くして、そう聞き返したスバルに、『白羊』は「はいっ」と力強く頷く。
過去の黒歴史の象徴たる王城の一件や、ケータイ絡みの白鯨討伐の一件といい、やたらと王選開始当初の出来事を掘り起こされる日だ。
しかし、まさかペテルギウス・ロマネコンティを倒したことを褒められこそすれ、直接的な感謝を『白羊』に告げられた理由はわからない。
「まさか、あのクソ野郎の『指先』だったとか言わないよね?」
「ゆび……? それは違うんですけど、でもっ、その影響でママがバタバタしてまして、わたしたちはそのどさくさに紛れて……だったんです」
「ん? ん? ん? 待って待って、またよくわかんなくなった。ペテルギウスがいなくなった影響でバタつくママ? そのどさくさって、いったい……」
「――わたしも、ずっとその正体を知りませんでした。いつも、会うときは違う姿だったし、ちゃんとした話ができたことも……でも、やっとわかったんです」
混乱を表明するスバルだが、興奮気味に語る『白羊』もまた、自分の昂る感情をコントロールできないでいるようだ。彼女はスバルの質問に答えるのではなく、ずっと、自分の内側に抱え込んでいた秘密、その蓋を開くように目をぎらつかせ、
「わたしが……わたしたち『愛し子』が、ずっと従わされていた相手、それは」
「ま、待ってくれ、まだ感情が追いつけてなくて……」
「――カペラ・エメラダ・ルグニカ」
「――ぁ?」
不意に、鼓膜を打った不穏な響きに、戸惑っていた思考が一気に冷え切った。
処理し切れずにいたたくさんの情報と感情が、まるで水を打ったように静まり返り、息を詰めたスバルは、まじまじと『白羊』を見つめる。
その視線に彼女は頷き返し、今一度、その薄い唇を動かし、はっきり言った。
「――『色欲』の大罪司教、カペラ・エメラダ・ルグニカ。それがわたしたち『愛し子』に自分をママと呼ばせて、従わせていた悪い人ですっ」
「――。――――。――――――――。マジかよ」
その、『白羊』が口にした名前を受け止め、処理するのにかなりの時間がかかった。
噛み砕き、咀嚼し、呑み込んで、また反芻して、それを繰り返す。
「――――」
そうしてスバルが押し黙る間、ラッセルが「『白羊』」と『白羊』を呼んだ。
彼は、その声に微かに咎めるようなニュアンスを込めて、
「順序立てて話すつもりでした。その名前を出すのは、いささか性急でしたね」
「あっ、ご、ごめんなさいっ。き、気持ちが焦ってしまって……」
「話すつもりではありましたが、情報の扱いは慎重に。手札はあなたの命と同じ。この一年で、何度も教えてきたはずですよ」
「は、はい……」
しょんぼりと肩を落とし、『白羊』がラッセルの言葉に目を伏せる。
が、その落ち込んだ『白羊』には申し訳ないものの、スバルの方はそのお説教時間のおかげで、受けたショックで働かなくなっていた頭が働くようになってきた。
――『色欲』の大罪司教、カペラ・エメラダ・ルグニカ。
魔女教の大罪司教はいずれも最悪の一言で言い表せるのだが、カペラの性質の邪悪さは、他の大罪司教と比べてもとびきりスバルの嫌悪の対象だった。
奴と出くわしたのは、水門都市プリステラの都市庁舎での戦い一度だけだが、正直、会わなくていいなら二度と会いたくない相手の筆頭と言える。
そのカペラの名前を、あろうことかこのタイミングで聞くことになるとは。
「ママ、それに『愛し子』……」
「まとめて並べられると、うげえって気持ちになる単語の組み合わせかしら」
「しかも、あいつが言いそうってのも想像がつく。……『白羊』ちゃんが逃げ出したくなるわけだぜ」
眉間に皺を寄せ、唇を曲げたスバルにベアトリスが気遣わしげな目を向ける。
幸い、ベアトリスはカペラの実物を見ていないが、それでいいとスバルは思う。大罪司教はどれもベアトリスの情操教育に悪い。カペラは特に、と言いたい。
「ママ……カペラは、色んなところから色んな子を集めて、その子たちを全員自分の子ども扱いするんです。自分のことは、母と思うようにって。でも……」
「邪悪、ヤバい、モラハラ、全部想像がつくよ。……癖は抜けない?」
「なかなか、ですね……。みんな、体に覚えさせられているので」
苦笑、というには痛々しすぎる笑みを浮かべ、『白羊』が過去をそう語る。
『愛し子』を離反し、カペラの支配下を逃れても、いまだに恐怖の対象のことを『ママ』などと呼んでしまうのは、それだけ味わった苦境が大きかった証だ。
そして、その地獄のような立場から抜けるのに、スバルたちがペテルギウスを討ったことが役立ったというなら――、
「よかったよ。『白羊』ちゃんが抜けられて」
「ナツキ・スバルさん……」
「あ、でも、『黒狗』の奴は感謝が足りないと思う。あいつ、俺と可愛いベア子も丸っと焼き焦がすつもりだったっぽい。恩を仇で返そうとしてる。謝らなきゃ許さん」
「許さんのよ」
ビシッと指差したスバルに合わせ、ベアトリスも同じ動きで『白羊』を指差す。その突き付けられた二本の指と、スバルとベアトリスが同時にしたウインクを見て、『白羊』は目をぱちくりさせたあと、小さく笑い、
「はい……っ。わかりました。必ず、『黒狗』には謝らせますねっ」
「そうしてくれ。しかし、相手はカペラ……『愛し子』ってのは魔女教の中にある部隊名みたいなもんか? ペテルギウスの『指先』とか、レグルスの『花嫁』みたいな……」
「その扱いを聞かれたら、シルフィにぶん殴られるかしら。あんまり迂闊なこと言うんじゃないのよ。ただでさえスバルはシルフィによく思われてないかしら」
「俺もレグルス倒すのに結構貢献したんだけどな……まぁ、エミリアたんを推してくれる子が増えるのは歓迎だから、いつか推しトークで盛り上がらねぇとだ」
今も、ロズワール邸で待機しているメンバーの一人であるシルフィは、元々はレグルスの花嫁だった女性だが、現在はエミリアの強固な支持者となっている。そう考えると、スバルが追われ、エミリアまで囚われた陣営の窮地なので、屋敷の居残り組だと、シルフィとリューズ、それにリューズの複製体のメイエルズが心配だ。
そちらは、王都の外側で動ける人員――ロズワールに、期待するしかない。
「そっちの心配もするとして……『白羊』ちゃんの認識だと?」
「……少なくとも、わたしは自分にその認識はありませんでした。魔女教徒とも、お会いしたことはありません」
「そ、っか……魔女教徒とは別動隊とか、大罪司教ごとの私兵みたいなニュアンスか? なんにせよ、愛しい子なんて、嫌な呼び方しやがる」
坊主憎けりゃ袈裟まで憎いではないが、カペラが関わっていると思うと、どんなものにもケチを付けたくなるのがスバルの心情だ。
「――――」
ちらと、スバルは反射的に、隣の寝台で眠るクルシュの方を見た。
スバル自身の腕や足のことはともかく、クルシュの体に流し込まれた『龍の血』もまた、カペラが残した爪痕だ。プリステラには、奴の手で姿を変えられ、氷の中で眠り続ける人々が大勢いる。――『暴食』と同じく、『色欲』は人の人生を壊しすぎる。
「それに、ラッセルさんたちが三十年も尻尾を掴めなかったってのも納得だ。あいつは姿かたちを好き放題に変える。だから……」
「これまで、正しく捕捉されたことがなかった。それが明らかになったのも、プリステラでその姿を晒し、権能を振るった『色欲』の大罪司教の情報と、『白羊』たちの知る存在との人物像が一致して、ようやくです」
「陰謀暗躍、やりたい放題かよ……」
「ええ。諸侯や有力者の心変わりや利敵行為も、何のことはありません。――全員、入れ替えられていたのでしょう」
「そういうことが、できる奴だな。本当に最悪の――」
と、ラッセルの推測に首肯し、その悪質さを吐き捨てようとして、スバルは気付く。
今の推測が発展すると、とんでもなく恐ろしいことを肯定することになる。そしてそれは紛れもなく――静かで徹底的な侵略にして、王国存亡の危機だ。
「オイ、オイ、オイ、まさか……」
「――最悪なのよ」
同タイミングで、スバルが察したのと同じ考えに至ったのか、強張った顔をしたラチンスが声を震わせ、その先の可能性を言葉にできない。
ベアトリスもまた、スバルの胡坐に収まった肩を縮こまらせ、身震いする。
「ラッセルさん……」
「ええ。お三方の想像は正しい。故に、王国最大の危難」
答えを聞くのを恐れながらも、それでも聞かざるを得ないスバルの問いに、すでにその衝撃との戦いを済ませ、先の段階に進んでいるラッセルが深く頷く。
そして、『六枚舌』の長官であり、王国を守る使命を帯びた男が告げる。
「王国の『賢人会』、ならびに上級貴族の大半は『愛し子』を率いるカペラ・エメラダ・ルグニカにより入れ替えられ、竜歴石はかの『色欲』の手にある恐れが高い」




