第十章20 『羊鏡狗面』
――赤。
それ一色が、スバルの視界を埋め尽くしていた。
「――っ」
突如現れた道化師マスクの男、所属も思惑も何一つわからないその人物は、はじめましてとさようならの挨拶代わりに、巨大な火球をスバルたちへと見舞ってきた。
押し寄せる熱の気配に肌を炙られ、薄暗かった下水道が真昼のように明るくなる。
しかしそれは、狭い水路を逃げ場のないサイズに広がって迫る炎をはっきり視認させるという、ある種の絶望を掻き立てるだけの結果に留まっていた。
クルシュを背負い、日に一度ずつのE・M・TとE・M・Mを使い切ってしまったガス欠寸前のスバルには、これをどうにかする手立てがなく――、
「クソがぁ!」
と、荒々しく吐き捨てる声がして、次いで聞こえたのは粘性を感じさせる水音だ。
視界の端、傍らにいたはずのラチンスの姿がない。スバルと同じく、道化師マスクの登場に驚いていた彼は、迫る炎にスバルより早く反応した。――躊躇なく、唯一の逃げ場である通路脇の下水に頭から飛び込んだのだ。
「スバル! ベティーたちも――」
「いや――」
そのラチンスの緊急判断を見て取り、ベアトリスがスバルのジャージの裾を掴む。そのまま彼女はその非力さと軽い体重で、力一杯スバルを下水に引っ張ろうとした。
だが、スバルはそのベアトリスの行動に、足を踏ん張って抵抗する。その思いがけない反応に、「スバル!?」とベアトリスの声が裏返るが、
「信じろ、ベアトリス」
「――――」
目を見張り、ベアトリスが言い切ったスバルを凝然と見る。目と目が合い、その特徴的な紋様の浮かんだ丸い瞳を震わせ、ベアトリスは息を詰めた。
そして、彼女が何かを言うよりも、すぐ眼前まで炎塊が迫りくる方が早い。
その圧倒的な火力は、立ち尽くしたスバルとベアトリスを、背中のクルシュごと容赦なく焼き尽く――さない。
「――っ」
炎が迫り、肌が炙られ、全身の水分が一気に蒸発する。――と、そう思われるほどの熱波がスバルの前髪を焦がしたかというところで、不意に消失する。
まるで手品のように、目の前で太陽を隠されたが如く、下水道の明度が一瞬で落ちた。あるのはスバルたちの手元のランプと、通路に落ちたラグマイト鉱石の欠片が生み出す弱々しい光と、消えた炎が焦がした熱を持った下水の空気だけ。
――否、あるのはそれだけではなく、
「――なんでだ?」
「あ……?」
「なんで? どうして? 今このとき、そこをその場所を……動かなかった?」
ぼやっとした暗がりに、道化師マスクの白い仮面が浮かんでいる。
首を傾げ、仮面を傾けた道化師マスクは困惑顔――実際、奴は最初に見せた、いかにもな悪役風の仮面をいつの間にか付け替え、目の部分がバッテン模様になった違った表情のものを顔に張り付けていた。
その悪ふざけを腹立たしく思いつつも、スバルは焦がされた前髪を息で吹いて、
「お前は、クルシュさんに用があるって前置きした。なら、俺たちごとクルシュさんを焼き殺そうとするなんておかしいだろ」
「――。く、くく、くはははは、それだけか? それだけでそれ以外なしで踏みとどまったっていうのか? 相方の大精霊まで巻き添えにしかねなかったのに!」
「……だが、賭けには勝った」
「なーんて自信家だ! さすが王選候補者の一の騎士! これまでもここまでも、そうやって自分の決断力と洞察力を信じて道を切り開いてきたってわけだ! すごくて素敵で恐れ入る! 全くもって妬ましい!」
声高に称える言葉と裏腹に、全くスバルを評価していない声で言いながら道化師マスクが盛大に手を叩く。空気を割るような大きな拍手が下水道に空しく響く中、歯噛みしたスバルは相手の称賛ヅラをした悪罵を黙って受け止めた。
それも全ては、徒に相手を刺激しないためだったが――、
「今のは、スバルの賢さがお前の思惑を上回った結果なのよ。それを棚に上げてチクチクと人格攻撃しようなんて、いかにも間抜けな振る舞いかしら」
言い返さなかったスバルに代わり、険を込めた目つきのベアトリスが相手に噛みつく。それを受け、道化師マスクは「たはー!」と頭に手をやると、
「健気だねえ愛だねえ、精霊と契約者ってのはガチッと嵌まった鍵と錠前だ。お互いがお互いの存在なくして成り立たない。だーかーらーこそ! 絆は毒にも薬にもなーる!」
「話の通じない奴なのよ……大罪司教を思い出すいやらしさかしら」
「待て待て待て待て、勘弁して容赦してくれ。言うに事欠いて大罪司教! あんなのと一緒にされちゃたまらないし、そもそもそう疑われてるのはそっちの方だろ?」
「疑われてる? 何に……」
「大罪司教って、だ! 上じゃその噂で持ちきりなんだぜ、ナツキ・スバル。中身が『怠惰』の大罪司教かもしれない! どうしましょう何しましょう、って大わらわだ!」
「――っ」
ひらひらと手を振りながら、嬲るように告げる道化師マスクが仮面を元の表情の仮面に付け替える。いちいち癪に障る態度だが、それに言及する余裕もない。
それほど、大罪司教扱いされるのはスバルの心の大きな負担となっていた。
「俺が、大罪司教……」
「馬鹿げた邪推にも限度があるのよ。だったら、これまでスバルが魔女教をコテンパンにしてきたのはどういうことになるかしら。仲間割れの同士討ちとでもいうのよ?」
「さーあ、知らないわからないどうでもいい! 誰も真実なんて興味はなくて、ただ自分にとって都合のいい情報を自分が有利になるように自分好みに演出して広めようって思惑があるのかもしれない。そういうヤツって……ムカつくよなぁ?」
道化師マスクは話している最中も、大げさに身をゆらゆらさせて落ち着きがない。ただ、最後に付け加えられた一言だけは、目の前の奇人の本心に聞こえた。
それを感じつつ、スバルは大きく息を吸い、大きく吐いてから、
「結局……」
「うん? ううん? んん~?」
「お前の狙いはなんなんだ。クルシュさんを連れてこうとしてることはわかる。けど、それは何のためで、誰のためなんだ。そのナリで王国兵なんて信じねぇぞ」
王国兵に追われているだけでなく、大罪司教扱いされているという事実に、大罪司教アレルギーのスバルは蕁麻疹が出そうだが、いったん後回しだ。
そうして問題を目の前の道化師マスクだけに集中すれば、湧くのは当然の疑問。
クルシュの身柄の確保を目的としている。しかし、王国兵の仲間ではない。――そうなると、自然と思いつくのはスバルたちを嵌めた連中の仲間という推測。
正直、クルシュのことを抜きにしても、あれほどの魔法を使いこなす相手に、ガス欠状態のスバル&ベアトリスでは正攻法での勝ち目はない。
何とか情報を引き出し、時間を稼ぎ、突破口を見出さなくては――と、そのときだ。
「――? お前、なんだそれ?」
「んん~? なんだどうした時間稼ぎなら……げげっ」
眉を顰めたスバルの指摘に、自分の体を見下ろした道化師マスクがそう呻く。
スバルが指摘したのは、体型がすっぽり隠れる道化師マスクの黒衣――その懐の内からうっすらと透けて見える、光の点滅だった。
その点滅する光の存在に、スバルは思い当たるものがある。
「もしかして、『対話鏡』じゃないか?」
「あー! いー! うー! そんなわけあんなわけなーいだろ? 言っておくが! オレの腹がピカピカしたところでお前らの命運が変わったりは――」
「ますます光が強くなってるかしら。よっぽど、大事な用事があるようなのよ」
「ぬぬぐぐぐ……! お前ら! そこで! その場所で! ちょーっと待ってろ!」
そう唾を飛ばす勢いで言い放ち、道化師マスクがその場でスバルたちに背を向けた。そのあまりに堂々と隙を見せる姿勢に、思わず呆気に取られる。
後ろを向いた道化師マスクは、ごそごそと懐から取り出した何か――おそらく『対話鏡』を手に、鏡越しに誰かと話し始めた様子だ。
隙だらけの背中を向けても、スバルたちなど脅威ではない。そう言われているようで腹立たしいことこの上ないが――、
「今しかねえ。オイ、引き上げろ……!」
ジリと、動くことだけ決めたスバルの耳を、その潜めた声が打った。
ちらと声の方を見れば、それはすぐ真横を流れる下水の中――そこに、黒い水面から頭を出したラチンスが浮かんでいて。
「チン! お前、ずっと下水の中にいたのか!?」
「迂闊にアイツの気を引きたくなかったんだよ! あと、水の中に鎖が沈んでやがって、そいつが足に絡んでやがって上がれねえ……」
「それで溺れ死んでたら、最悪の死に方だったかしら」
「うるせえな! さっさと手ぇ貸せ!」
と、下水の中から声を上げるラチンスに、スバルは一瞬どうするか迷う。
当然、引き上げるのを手伝いたいのだが、クルシュを背負うスバルの両手は埋まっている。となると、ベアトリスを頼ることになるが、その体重と腕力でラチンスを引き上げられるかは疑問だ。むしろ、下水被害者が一人増えるだけの恐れもある。
それならいっそ、重力に干渉するムラクを利用し、並行して突破口を――、
「あー、クソったれチクショウめ! オレはちゃんとやってる! 少し派手だし独断してないとも言わないが、指示を無視とか逸脱とか人聞きの悪いことはしてない!」
「――っ」
声を荒らげ、道化師マスクが地団太を踏み、『対話鏡』の向こうにそう訴える。
その後、対話相手に何を言われたのか、彼は「わかったわかった!」と根負けしたような投げやりな返事をして、それから――、
「おいそら、落とさず受け取れ!」
「ああ? って、ベア子!」
「――危ないのよ!」
振り返り、嘆息気味に肩を落とした道化師マスクがいきなり何か投げてきた。それが『対話鏡』なのが見て取れた瞬間、スバルはベアトリスの名前を呼ぶ。
前述の通り、クルシュを背負うスバルの手は空いてない。だから、緩い放物線を描いたそれを受け取れたのは、慌てて両手を伸ばしたベアトリスだった。
「お、落とすとこだったかしら。お前、何考えて……」
「その鏡の向こうが、お前らと話したり言葉を交わしたりしたいんだと!」
「俺たちと?」
不貞腐れたような道化師マスク、その言葉にスバルとベアトリスが顔を見合わせる。
それから二人はおずおずと、道化師マスクが怪しい素振りをしないか警戒しつつ、ベアトリスの手元の『対話鏡』を覗き込んだ。
すると、その鏡面には道化師マスクの対話相手の姿が浮かび上がっており――、
『――あっ、映りました! あの、わたしの顔は見えてるでしょうか?』
「――――」
そう言って、鏡に映った相手の姿を見て、スバルは反応に困った。
まさかここで、道化師マスクから手渡された『対話鏡』に像を結んでくるのが、幼い顔立ちをした少女であるとは思いもよらなかったから。
知った顔の少女ではない。年齢は、スバルより一つか二つ下だろうか。
高い位置で左右に結われた長く艶やかな紺色の髪に、丸く大きな金色の瞳の主張が強い少女だ。鏡の狭い縁の中、整った顔立ちにどこか頼りなさを覚える雰囲気の少女は、白いシャツの襟元をきっちりとした細いタイで飾り、漆黒の上着を羽織った装い――華やかさより実用性を重視した、黒のスーツ姿で鏡越しにこちらを見ている。
その少女の真剣な眼差しと状況のギャップが、スバルを大いに混乱させた。
「お前……いや、君は?」
『ええと、わたしは『白羊』と呼ばれています。そちらにいる『黒狗』……仮面の男の人が大変なご迷惑をおかけしたんじゃないかと……ごめんなさいっ』
「ご、ごめんって……」
『白羊』を名乗った少女が、そう言っていきなり鏡の向こうで深々と頭を下げた。勢いで鏡の前から姿の消える少女に、スバルの頭の情報処理が追っつかない。
道化師マスク――少女に『黒狗』と呼ばれた男は、明らかな危険人物だ。だが、その『黒狗』と同じ側であるらしい少女は、こうしてスバルたちに頭を下げた――あべこべというかちぐはぐというか、わざと混乱させにきているとしか。
「……はっきり言って、あんたたちのことをどう思えばいいのかわからない。ただでさえ自分の立場も曖昧で、頭も心もてんやわんやなんだ。判断材料をくれ」
『判断材料、ですか?』
「敵なら敵って言ってくれたらいい。――ぶち破るから」
「いつも通り、かしら」
スバルがそう宣言すると、隣のベアトリスもふてぶてしい顔で頷く。
事前確認の通り、今のスバルとベアトリスはマナ不足も甚だしいガス欠状態で、手札はボロボロの有様だ。しかし、それをわざわざ宣言する必要はない。たとえ手札に役がないブタの状態でも、ハッタリをかますのが異世界を生き抜くコツなのだ。
『――――』
そのスバルたちの言葉に、鏡の向こうで『白羊』が目を見張っていた。
顔に出やすいタイプなのだろう。極力、表情の変化を抑えようとする努力は見られるのだが、彼女の目の動きや表情筋は明らかにそれに向いていなかった。
そしてそのことは、毎朝鏡に向き合っている彼女も自覚のあるところらしく、
『ズバッと言われるんですね。……怖いと思わないんですか?』
「思うよ。でも、ピンチが自分の手元にあるならマシなんだ。まごついてる間に、自分の手の届かないところにピンチが転がってくよりずっといい」
『――。もう一度、ごめんなさい。『黒狗』があなたたちにちょっかいをかけたのは、こちらの不手際と、わたしを思ってのことなんです』
「なーんか、勝手で独りよがりなこと言われてる気がするな、くはははは」
身内の過ちを謝罪する『白羊』に、仮面を付けた『黒狗』は文字通りの知らん顔。
そんなフォローし甲斐のない『黒狗』を余所に、鏡の向こうの少女の視線が動く――それは『白羊』の方から見えている、スバルの背中に意識が向いた証で。
それを裏付けるように、『白羊』はスバルの背で眠るクルシュを見つめながら、
『わたしたちは、クルシュ・カルステンさんの身柄を保護……いいえ、確保したいと思っています。その方のお力が、必要なので』
「クルシュさんの、力……? それってまさか、左目のことか?」
ちらと、スバルは背負ったクルシュの眼帯に覆われた左目を意識する。
彼女に発生した明らかな異変、あるいはその『龍眼』が目当てで狙われることは十分に考えられる。わざわざ『白羊』が保護から確保に言い直したのも、ただ身の安全を保障するという表現が正しくないと、そう彼女が思ったからだろう。
しかし、そのスバルの予想を裏切り、『白羊』は『左目?』と不思議そうにして、
『目のことは何も聞かされていません。わたしたちに必要なのは、クルシュ・カルステンさんの持っている、『風見の加護』の力』
「――加護」
『はい。そのお力が必要なんです。――『愛し子』との戦いのために』
と、そう聞き覚えのない単語を、強い決意と覚悟と共に口にしたのだった。
△▼△▼△▼△
――『愛し子』との戦い。
『白羊』はその戦いのために、クルシュの加護が必要だとそう言った。
クルシュの左目に宿った『龍眼』とは無関係に、その身柄の確保を目的としていると言われ、スバルは話の焦点の行き違いを感じる。
そもそも、ここで全く知らない敵の存在をちらつかされるとは思ってもみなかった。
「また混乱が始まりつつあるが……その『愛し子』ってのは?」
『わたしたちの敵です。たぶん、ナツキ・スバルさん、あなたにとっても……です』
「……それは、今の差し迫った状況と関係してるって意味に思っていいのか?」
『――はい。今の王都の混乱の裏で、糸を引いている人たちです』
はっきりと、この事態の核心的な敵だと断言され、スバルは息を詰める。
正直、『白羊』のその宣言は今のスバルにとって何よりもありがたい。誰が敵で、何が目的なのかさっぱりわからず、混乱の只中にいたというのが実情だ。欲しい情報をわかりやすく提示してくれたというだけで、『白羊』への好感度が上がるくらい。
ただし――、
「その『愛し子』とやらとの戦いにクルシュさんが必要で、そのために俺たちと接触したってんなら、あの仮面野郎が交渉役なのは人選ミスが過ぎるだろ……」
『い、いえっ、あのっ、今の王都はだいぶ物々しい感じになってまして、『黒狗』くらい腕が立たないとうっかり出歩くのも危ないというか……』
「そーれーに、たまたまの偶然尾けた相手が当たりだったってだけで、オレが交渉役に選ばれたわけじゃなーいー。だから『白羊』のせいとか思うなよ? お前ら」
「なんでそれで偉そうにできるのよ。まさか、今のフォローのつもりかしら? だとしたら、センスじゃなくて人の心への理解が足りないのよ」
「くはははは、ドブ臭いドレスのチビッ子め。そのお口を閉じて塞いでやろうか」
脅し目的の大炎と言動のせいで、ベアトリスの『黒狗』への敵意は強い。小馬鹿にするような『黒狗』の反論もあって、スバルもまるで好感を抱けない相手だ。
それに加え、今の『黒狗』の発言には気になる部分もあった。
「今、尾けたって言ってたか? それって……」
「目敏い抜け目ないヤツだな、騎士様! そうともそうだとも! 標的を闇雲に探すなんて時間と体力と人生の無駄だろう? だからオレは別の手を使った。つーまーり、見つけてくれそうなヤツのあとを尾けたんだ! 今は臭い水の中にいる」
「臭い、水の中……」
「オイ! テメエら、いつまでほのぼの話してんだ! いい加減、助けろ!」
腰を左右に振りながら答える『黒狗』につられ、下水の方を見たところで、ちょうどそこに放置されっ放しのラチンスが怒鳴り声を上げる。
フェルトの指示で、王都の裏側に詳しいラチンスがスバルたちを見つけてくれたのは大金星だが、どうやらそれを『黒狗』たちには利用されたらしい。とはいえ、それでラチンスへの感謝の念が薄れることなど、ちょっぴりしかないが。
「いつまでも立ち泳ぎさせとくのもなんだ。引き上げてもいいか?」
「引き上げるぅ? あんなばっちくて臭い水に浸かったヤツをか? あのままこのまま沈めておいた方が話し合いは衛生的に進むとオレは思うがね」
『……『黒狗』、もし誰かに迷惑をかけたのなら』
「わかったわーかった! ヤツが飛び込んだ責任はオレにもちょっと少しはあるかもしれない。背中の公爵だけ落っことして、他全員が黒焦げになってたら面倒が省けてよかったのにとか、ちょっぴりわずかに思ったのかも、だ」
「それ以上、ろくでもない発言でこっちの心証を下げる前に、とっとと動くかしら」
まだ話せる『白羊』が稼いだ心証を、『黒狗』の余計な発言が台無しにする。あの脅しの炎の真意が明らかになったことで、彼の危険人物度はさらに増した。
それを踏まえたまま、スバルとベアトリスは一歩下がり、下水に落ちたラチンスに『黒狗』が手を差し伸べる様子を警戒する。
彼ほどの魔法の腕があれば、こちらから視線を切ったくらいでは安心できない。
そして、スバルたちのその警戒は――、
「――ぁ?」
水路に向かってしゃがんだ『黒狗』ではなく、別の異変の察知に役立った。
ピシリ、と。どこかで、薄い陶器に爪を立てたような音がした。反射的に、スバルの視線が音の方に向く。――下水道の奥、ラチンスが『黒狗』の足下に放って、そのまま放置されていたラグマイト鉱石の弱々しい光に、誰かの影が浮いていた。
「――――」
女だ。
黒とも灰ともつかない外套を羽織り、波打った深緑の髪をその襟元に押し込んだ、目に色濃い隈を浮かべた顔色の悪い女。
一瞬、スバルはその女もまた、『黒狗』や『白羊』の仲間なのかと考える。しかし、それを問い質すより早く、スバルの視界で女が動いた。
だらりと片手を下げた彼女は、もう片方――胸の前に持ち上げていた左手の指に、白い欠片のようなものを摘まんでいた。その、欠片が指の動きで砕かれる。
――直後、女の足下から伸びたひび割れが、下水道の石畳を蛇のようにのたくり、スバルたちへ迫った。
「うおおおっ!?」
その凄まじい異変に、『黒狗』の手を掴もうとしていたラチンスが声を上げる。
走り出した亀裂は床だけでは止まらない。壁へ、天井へ、汚れた下水道の石材を次々と渡り、古く湿った王都の土台を支える骨組みを白く濁らせていく。
それはまるで、目に見える全部がガラスに置き換えられていくかのようで。
『――『黒狗』っ!』
異変の中、鏡の向こうにもそれが伝わり、『白羊』が悲鳴に近い声で叫ぶ。
だが悲しいかな、いくら彼女が声を上げようと、鏡を通して離れたスバルたちの方に干渉することはできない。――ただし、声を上げた意味はあった。
「震え声で泣くな喚くな、わかってる!」
その一声に、『黒狗』の纏った悪ふざけの気配が掻き消えたからだ。
彼は素早く身を翻し、広がっていく亀裂へと堂々と立ちはだかる。仮面の奥で見えないはずのその視線が、暗がりの女に鋭く突き刺さるのがわかった。
盛大に、『黒狗』が舌打ちする。
「最悪の極悪だ! お前、今このときここで出てくるのかよ!」
「知り合いか!?」
「知りたくも出会いたくもなかったヤツだ。『割り物』クラリッサ――『愛し子』だ!」
『黒狗』が吐き捨てた名前に、スバルも、鏡の向こうの『白羊』も息を呑む。
クラリッサと呼ばれた女は、返事をしなかった。ただ、下げた手に持っていた巾着から、また別の小さな欠片を摘まみ上げる。小石に、見えた。
「待て待て待て待て、ここでお前がそれは――」
とっさに止めようと『黒狗』が叫ぶが、石が割れる方が早い。
パキン、と澄んだ音が下水道に響き――それを合図に、次の破壊が伝播する。
「マジかよ……!」
ひび割れ、亀裂の走っていた下水道に新たな破壊が伝わっていき、スバルたちのすぐ横の壁が白く濁り、次いで、剥がれ落ちる天井がスバルたちを潰しにかかった。
「ベアトリス!」
「わかってるかしら!」
その呼び声に反応し、ベアトリスが崩れ落ちる天井に向かって五指を広げた。
すでにE・M・TもE・M・Mも使い、まともな戦闘は困難なガス欠状態、それでも足りない手札でやりくりするのが、スバルとベアトリスのパートナーシップ。
「ムラク!」
詠唱が現実に干渉し、崩れ落ちてくる天井の破片が淡い光を帯び、その殺傷力のあった重量を軽石程度に留めてくれる。
その軽石の雨から背のクルシュを庇い、ベアトリスをも引き寄せながら、スバルは大きく後ろに飛びずさり――刹那、重量の戻った崩落に下水道が半分埋まった。
「やるなすごいな、チビッ子! とっさに悪くない判断だった!」
「ちゃっかり一緒に助かったんなら、ハキハキ情報を話すのよ! あの女は!」
「異能者! 物を割る! 壊す! 根暗で話してて楽しくない女だ! 今殺す!」
ベアトリスの対処のおこぼれに与り、崩落を逃れた『黒狗』が笑うように叫んで、崩れて埋まった瓦礫に向けて大風を起こし、飛礫の嵐を通路の奥にぶっ放す。
それは狙い違わず、通路の奥にいるクラリッサへと迫ったが――パキンと、また軽い音が聞こえた途端、宙を奔った飛礫が砕かれ、届く頃には塵になる。
「あの、石を割るのが関係してるのか?」
クラリッサの挙動に目を凝らし、その左手が砕いた石粉を落とすのを見て、スバルはその仕草そのものに、あの異常な破壊を起こす理屈が隠れていると推測する。
そして、クラリッサが手にした巾着に、まだまだそのための小石があることも。
「おい、火だ! 実体のないものなら、割って止めたりできないはずだろ!」
「なるほど確かにだが残念! もう火は使っちまって、手札にない!」
「はあ!? ――って、マズい!」
意味のわからない『黒狗』の却下、それに動転するスバルの視界で、クラリッサが滑らかに、まるで神聖な儀式のような動きで次の小石を指に摘まむ。
すでに、スバルたちの周囲は床も壁も崩壊寸前の様相で、クラリッサがあの欠片を割れば、下水道の一帯は一斉に砕け散るかもしれない。
このままでは――、
「――オイ! こっちだ! こっちに寄れ!」
「――っ、チン!?」
そのとき、下水から必死の呼びかけが聞こえ、スバルたちが振り向く。
見れば、水に浮かんだラチンスが片手で水路の壁際に掴まり、もう片方の手で黒い何かを引っ張っていた。――錆びた鎖だ。
黒い泥に塗れたそれを水底から引き上げたラチンス、彼が大声で叫ぶ。
「沈殿槽だ! 本流の脇に、たっぷり汚泥が詰まってる!」
「ちんでん……」
突然の下水道の仕組みの紹介、それを聞かされ、スバルの背筋を電流が走った。
沈殿槽、溜まったのは腐った汚泥、それは最悪の可能性――、
「マジか、お前……!」
「へっ! 頭回るじゃねえか」
汚水に濡れ、髪が額に張り付いたひどい有様で、しかしその四白眼だけは爛々と輝かせたラチンスが、同じ発想に至ったスバルに笑い、思い切りに腕を引く。
錆び付いて、汚物に塗れた鎖が鈍い音を立て――ぎ、と水底から重たい音がした。
その音に合わせるように、壁際の水面から泡が浮かぶ。ぷつぷつと小さかったそれは次第に数を増やし、黒い水面を一気に沸き立たせた。――瞬間、元々悪臭の漂っていた下水道の空気が、それを上回る腐った卵に似た臭いに埋め尽くされる。
ラチンスの、狙いはわかった。
躊躇っている時間は、ない。
「クルシュさんは――」
背中で眠るクルシュを意識し、スバルはとっさにどうすべきか迷う。このあとの行動を思えば、意識のない彼女はあまりに危険だ、と。
そのスバルが迷った瞬間に、『黒狗』が動いた。――いきなり、突き飛ばされる。
「おま――っ」
「投げて飛ばして割られるより、こっちが正解だ!」
言いながら、『黒狗』はスバルとクルシュ、それにベアトリスをも巻き添えに、一気に下水へと身を躍らせた。そのまま着水する寸前――不意に視界が黒いものに覆われ、あるはずだった汚水の出迎えがこない。
見ればそれは、『黒狗』が土塊で作り出した、スバルたちをすっぽりとくるんで包み込もうとする、できかけの巨大なボールで――、
『お願いですっ! 信じてっ!』
とっさの状況の中、鏡面に映った『白羊』が懸命に訴える。
それに背を押され、スバルは沈んでいく土の半球の中で、すぐ傍のベアトリスにクルシュの身を預け、閉じていくボールの外に手を伸ばした。
そして――、
「――こい、ラチンス!」
「偉そうに指図してんじゃねえ!」
鎖を引き切ったラチンスが、不格好に壁を蹴り、こちらへ飛んでくる。その伸びたラチンスの腕を掴み、スバルは一気にその細身を半球の中に引っ張り込んだ。
もつれ合いながら背中から倒れ込む。直後、半球が完全に閉じるのと、小石の欠片が砕かれる微かな音が聞こえたのはほとんど同時だった。
揺れと轟音が、閉じた土塊の分厚い壁の向こうから聞こえる。
だが、それ以上のものを――、
「吹っ飛べや。――ゴーア」
スバルに折り重なったままのラチンスが、そう吐き捨てて指を鳴らした。――直後、赤い光が土壁越しに広がるのが見え、音と、衝撃は遅れてやってきた。
「――っ!?」
腹の底からぶん殴られたような威力が世界を揺るがし、スバルは絶叫する。
水中に、土球の中にいるのに、熱い。眩しい。鼓膜を打ち破らんと、爆音が弾ける。
「――ぁ」
声にならない悲鳴が、ナツキ・スバルの体の内側で暴れ回った。
ぐるぐるぐるぐると、凄まじい勢いで天地が回り、水中に沈んだ土球が猛烈な勢いに流され、何度も何度も大きなものにぶつかり、殴られ、意識が飛びかける。
沈殿槽に溜まっていたのは、大量の汚物から発生した可燃性のガスだ。
その沈殿槽の蓋をラチンスが開き、大量に溢れ出したそれに着火して、こちらを狙っていたクラリッサごと、下水道そのものを吹っ飛ばした。――否、下水道がどうなったのかまではわからない。見えない。聞こえない。理解に届かない。
ただひたすらに、うねる水と跳ね回る土球の勢いに揉まれながら、スバルは懸命に、抱き慣れた小さな感触と、守らなければならない相手を強く強く抱きしめた。
歯を食い縛り、耐える。――それが、今のスバルにできる精一杯で。
「――――」
歯を食い縛り、耐え続け、耐え続け、耐え続けた。
意識が、目には見えない濁流に呑み込まれるまで、ずっと、ずっと、耐え続け――、
△▼△▼△▼△
――目が覚めたとき、最初に感じたのは匂いだった。
腐った卵の臭い、汚物に塗れた下水の臭い、そのどちらでもない。
香ったのはアルコール臭さと、乾いた布の香り。火を使わずに温められた空気が鼻腔を通り抜け、やけに清潔さを感じるそれを思い切り吸い込んで――むせた。
「げはっ! ごほっ! おふぇっ!」
「わきゃぁ、かしら!」
と、めちゃめちゃ咳き込んで体を跳ねさせるスバル、その胸と腹の上に乗っていた重みが同じように跳ねて、そんな可愛らしい悲鳴を上げるのを聞いた。
目を開けて、ぼやけた視界のピントを何度かの瞬きで調整する。すると、寝そべったスバルのすぐ横で、仏頂面をしたベアトリスを見つけることができた。
その、肩から毛布を被ったベアトリスを目の当たりにして、スバルの唇が震える。
「ベア子……無事、か?」
「何とかかんとか、なのよ。危機一髪どころか、百発くらいだったかしら」
「その一髪は、髪の毛一本のことだから、増やすと意味が変わってくる……って、そんなことはいい。それより、俺とお前が無事なら、他の――」
「落ち着くのよ。騒ぐ前に、周りを見るかしら」
前のめりになるスバル、その額がベアトリスの手にピシッと止められる。そうして小さな掌に額を押さえられたまま、スバルは視線だけを動かし、気付く。
スバルが横たわる隣の寝台に、クルシュもまた横たえられていることに。
「クルシュさん……よかった。何ともない……よな?」
「聞いた限りではないのよ。でも、あれきり一度も目を覚ましてないかしら。あの眼の消耗がどれだけ続くかは、ベティーにも未知数なのよ」
「そうか……ああ、チンもいるじゃねぇか。安心した」
寝台の上、眠ったままで胸を規則正しく上下させるクルシュに安堵した傍ら、その向こうの長椅子に、毛布で簀巻きにされたラチンスが転がされていた。
目は覚ましていないが、椅子の寝心地が悪いのか、眠ったまま眉間に皺を寄せ、何事かむにゃむにゃと呻いている。――その機転でスバルたちを救ってくれた立役者にしては、何とも粗雑な扱いをされていると苦笑が浮かぶが、
「……ここ、どこだ?」
安堵で力が抜け、寝台に手をついたスバルはようやくその疑問に行き当たる。
そこは匂いだけでなく、見た目もしっかり下水道ではない別の場所だ。石造りの部屋には窓がなく、明かりは小さめのランプだけ。ベッド脇には水差しと包帯、畳まれた布が整然と置かれていて、ぼんやりと医務室という単語が頭を過った。
「もしくは、隠れ家的治療院? 闇医者のアジト的な……」
「――っ! お目覚めになったんですか、ナツキ・スバルさんっ」
そう雑感を述べた直後、不意打ち気味の声がスバルの横合いからぶつけられる。
スバルが振り返ると、部屋の入口に一人の少女――鏡越しに見た人物が立っていた。長い紺色の髪を左右に結った、黒いスーツの少女――『白羊』だ。
鏡越しでなく、対面した『白羊』は両手を胸の前で握り、開き、また握り、開き、それを何度か繰り返してから、
「よ、よかったです……皆さんに何かあったらって、気が気でなくて……っ」
「それは……心配してくれて、ありがとう?」
「はいっ! いえっ! えっと? どっちでしょう……?」
謝罪と感謝と恨み言と、どれをどの順番で処理するのが正しいのか、スバルと『白羊』が判断できずに揃ってショートする。
助かった、のは間違いない。だが、その手前で、『白羊』の仲間である『黒狗』に脅されていたのも事実であり、どの対応をするのが正解か疑問は尽きない。
と、そう思ったところへ――、
「――『白羊』、ナツキ殿を困らせてはいけない。あなたは『黒狗』とは違うはずだ。でなければ、方針を考え直す必要が出てくる」
「――――」
それは、部屋の入口で慌てふためく『白羊』の後ろからの声だった。
その声を聞き、姿を見せた声の主を見て、スバルは息を呑み、目を見開いた。すでにこの一日で、十分以上の驚きを摂取したはずなのに、まだ追加がくる。
何故なら、『白羊』と一緒に現れたその人物を、スバルはまたも知っていた。
「あんた……ラッセル、さん?」
たどたどしい声で、スバルが紡いだのは、ずいぶん前に縁のあった人物――王選が始まった当初に知り合い、直後の白鯨討伐戦に支援物資を供給してくれるよう掛け合った、直接戦場で轡を並べたわけではないにせよ、同じ敵と戦った間柄の商人。
王都の商業組合の代表という肩書きを持つ、ラッセル・フェローがそこにいた。
「――――」
混乱と混迷の極まる頭の中、スバルはただ呆然と、悠然とした姿勢のラッセルを見る。そのスバルの視線に、仕立てのいいスーツを着た紳士は微笑し、深く頷いた。
何故か、その微笑にスバルは寒気を覚える。――ただの商人が浮かべるには、あまりにも多くの思惑を抱えすぎて感じられる、その微笑みに。
そして、そのスバルの悪寒は的中する。
「こうして会えて、誠に僥倖でした、ナツキ殿。この、王国未曽有の危難に際し、ぜひともナツキ殿の力と見識を私どもにお貸しいただきたい」
「王国の、未曽有の大ピンチって……」
「ええ」
決して笑えない事態にも拘らず、しかし、ラッセルは微笑を湛えたまま、続けた。
それは――、
「――敵の狙いは王国の静かな、そして徹底的な侵略。すでに王国の中枢は、我々の長年の仇敵の手に落ち、滅亡の危機に瀕しているのです」




