第十章19 『大きすぎる敵』
――いったい、逃げ始めてどのぐらいの時間が経っただろうか。
外の光をまともに感じられない環境と、意識を失っていた不明な時間がある。事が起きてから数時間から半日、とにかく、そのぐらいは過ぎている肌感だった。
「奇跡的に追っ手は撒けたみたいだが……」
弾む呼吸を整え、顎を伝う汗を拭いながら、スバルは生温い臭気の中で背後を振り返り、見えない追っ手の聞こえない足音がないか確かめた。
少し前まで、王国兵の集団にひっきりなしに追われ、息つく暇もなかったのだ。
道を塞がれ、逃げ道を失い、何度も捕まるか強行突破の選択肢が頭をちらついて、こちらもあちらも危機一髪だったが――、
「あの、やたらとでかい地震のおかげで何とか……そういや、こっちきてから地震に出くわした記憶ってなかったけど、あれなんだったんだ?」
「ベティーも、あの地鳴りには驚いたけど……今がチャンスなのよ。スバル、腕を見せるかしら。火傷に治癒魔法をかけておくのよ」
「おお、助かる」
言って、スバルはずっと抱いて運んでいたベアトリスを地べたに下ろす。
ベアトリスは確かめるように自分の掌を開閉し、それからスバルの右腕――包帯代わりのハンカチが巻かれた腕に、淡い治癒の光を纏わせた。
じくじくと、ずっとあった鈍痛が和らぐのを感じ、思わず吐息がこぼれる。
「やっぱりやせ我慢してたかしら。しんどいならもっと早く言ってほしかったのよ」
「いや、焦って忘れてる間はホントにすっぽ抜けてたんだって。落ち着いた途端、いたたたたって痛みがぶり返した。は、早く……助けてぇ……っ」
「はいはい、仕方ない子かしら。すぐ済ませるから泣きべそ掻くんじゃないのよ」
「ありがとう、ベア子ママ! ……マナ、結構厳しいか?」
「――。ぶっちゃけ、余裕はないかしら」
「……ま、そうだよな」
火傷の手当てをしてくれるベアトリスの答えに、スバルは反対の手で頬を掻く。
なにせ、マイクロトフの屋敷ではなかなかの大盤振る舞いだったので仕方ない。陰魔法のミーニャにシャマクの連発、加えてE・M・Tまで使ったのだから、ベアトリスの外付けマナタンクとして心許ないスバルではガス欠目前だろう。
ほとほと、自分の異世界適性の低さを嘆きたくなる。
「帝国じゃ、やたらと調子よかったりしたんだけどな……もしかして、体縮んでるときの方がいっぱい夢詰め込めるとかだったりした?」
「あれはオドが歪められた不自然すぎる状態だったから、ベティー的にはあんまりいい印象がないのよ。あれをするのに、どれだけ人体実験したかわからないかしら」
「もう敵じゃなくなった上に、帝国からも出てきたあとなのに、まだオルバルトさんっていうかシノビの闇が濃くなるのか……」
確かに、オド=魂的なものを好きな形にこねるというのが、練習なしでできるようになるとは思えない。となると、オルバルトないしはシノビの里が魂をこねる練習をしてきたというわけだから、『悪辣翁』の名に偽りなしである。
「――どうやら、兵らは先ほどの地鳴りの対処に追われているらしい。風にまじった警戒が遠ざかり、緊張が薄くなった。ひとまず撒いたと見て間違いないだろう」
と、そこで話に入ってくるのが、鋭い眼で周囲を眺めていたクルシュだ。
光量を絞ったラグマイト鉱石のランプで下水道を照らし、眼帯に覆われていない琥珀色の瞳を細めた彼女は、腕を治療されるスバルを見つめて黙り込む。
一瞬、その反応をスバルは訝しんだが、すぐにそれが治癒の光――クルシュにとって、身近で忘れ難いものを思い出させたのだと思い当たる。
「……今できる話じゃ、ないんだよな」
正直、状況が怒涛の勢いで動きすぎている。
スバル的にはプレアデス監視塔でアルとの一幕があってから、ノンストップで次々と何かが起きてきて、神経の休まる暇がない。『神龍教会』の台頭、クルシュの回復、その後のマイクロトフの屋敷での騒動から逃亡者ナツキ・スバルと、散々だ。
――本当はクルシュと会えたら、フェリスの罷免について話したかったのに。
フェリスを罷免した理由と真意、それをクルシュに確かめ、何とか妥協点を探り合い、仲違いした二人の関係を修復する手伝いがしたかった。
きっと、フェリスには傲慢なお節介だと言われるだろうが、それでも構わなかった。
人から見れば我慢のできないワガママ傲慢男、それがナツキ・スバルなのだ。
「――卿らには」
「……ん?」
「卿らには、感謝している。あのような状況で、私を追ってきてくれたことを」
「――――」
ふと、声の調子を落とし、そう伝えてきたクルシュにスバルは口を閉ざした。
感謝していると、そのたった一言で、この逃げっ放しの半日だかが報われた気になるのは我ながら安すぎる。だが少なくとも、あの場で彼女の背を追うことを選ばなければ、今の一言を引き出すことはできなかった。
「でも、俺の方はどういたしましてって気軽には言えねぇよ。火傷は痛いし、ティーガから庇ってもらったみたいだけど、そもそも戦いになった切っ掛けはクルシュさんにあるし、エミリアたんたちには絶対に心配と迷惑かけてるし、健気なベア子は俺と地獄の四百年を過ごす覚悟を決めてるし……」
「スバル、スバル、考えがまとまらないからって、ベティーの頭をやたら滅多に撫で回すんじゃないのよ。ベティーの可愛さが台無しになるかしら」
「ああ、悪い……本当だ! こんな台無しに……見るに堪えねぇ!」
「そんなわけないのよ! ヘアセットがぐしゃぐしゃだろうと、ベティーのキュートさは陰るどころか新たなチャームポイントの発掘かしら!」
手持ち無沙汰なスバルの手に髪型を乱されたベアトリスが、治療を中断するわけにもいかずにやられっ放しでそう怒鳴る。
そのいつものやり取りに、内臓まで凝り固まっていたような緊張感が少しだけほぐれて救われる。――そう、何気なくスバルが安堵したときだ。
「ふ」
「――! 今、クルシュさん、笑った?」
小さく空気を震わせる音がして、スバルは思わず目を丸くした。
見れば、下水道の汚れた壁際に立つクルシュが口元に手をやっている。彼女はスバルの視線に「すまない」と一言添えてから、
「今の緊張感に欠けたやり取りを見ていて、堪えられなかった。未熟だ」
「緊張感云々は返す言葉もねぇけど、いつまでも張り詰めた感じでいられるよりずっとマシだよ。ずーっと怖い顔しか見せてもらえてなかったし」
「恐ろしい顔、か。この目のこともあるからな」
「や、片目がそんなんなってても、クルシュさんは美人だけども」
「――――」
「スバル……」
「あれ!? またちょっと空気悪くなった!?」
片手を眼帯に当てたクルシュが目を細め、ベアトリスにも呆れられたスバルが慌てふためく。しかし、クルシュは小さく吐息したあと、ゆるゆると首を横に振り、
「卿は……いや、卿らは強いな」
「俺とベア子のことを言ってるなら、複数形にしてもらって正解だ。ベア子なしの俺とか有象無象もいいとこだから。でもさ」
「でも?」
「……この強さなら、クルシュさんだって持ってたはずなんだぜ」
そのスバルの答えに、クルシュの唇が引き結ばれる。
それを見て、踏み込みすぎたかとスバルは自分の発言を省みる。一瞬だけ緩んだはずの表情、それを再び硬くしてしまったと。
そうして続ける言葉に迷うスバル、その腕をポンとベアトリスに叩かれた。
「ほら、終わったのよ。ひとまず、大事ないはずかしら」
「ん、そうか、助かった。……うん、突っ張ってる感じはあるけど、悪くない」
「ハンカチはそのままにしとくのよ。痒くなるかもしれないけど、皮がデロデロするかもしれないからうっかり掻かないようにするかしら」
「すげぇ怖いからよくわかったよ。――で、だ」
タイミングよく一呼吸入れてくれたベアトリスに二重の感謝をしつつ、スバルはクルシュに向き直った。傷の手当ても終わり、追っ手もいったん振り切れた。となると、彼女とは改めて話したいことがわんさとある。
まず、早急に確かめたいのが――、
「クルシュさんには、この状況で当てとかあるのか?」
「当て、か。こうなる以前はあった。だが、それは私がこの手で斬り捨ててしまった」
「……その言い方だと、もしかして当てにしてたのって」
「そうだ。その邪悪な企みが露見する前の、マイクロトフ・マクマホンだ」
「オーマイゴッド……」
淡々と頷かれ、スバルは目の前が暗くなる気分で天を仰ぎ、下水道のあまり高くない汚れた天井にその視線を跳ね返された。
スバルもそうだったから人のことは言えないのだが、王国の情報面でマイクロトフを頼りたいと思う入口が多すぎる。『神龍教会』のことがあり、王選候補者として苦しい立場に置かれたクルシュさえそう考えたのだから、マイクロトフの人徳が知れる。
しかし――、
「そのマイクロトフさんが、国家転覆級の悪巧みを腹に抱えてた……?」
「そうだ。――マクマホン卿は予定になかった私の訪問を快く迎えた。ただし、来客を迎える予定があるからと、私を別室で待たせていたのだが……」
「別室で。それが?」
「客室に置いた私と、これから迎える客人に対する不審な風を見た。故に、その意を問い質そうとしたところへ、屋敷のものらが立ちはだかり――あとは卿らの知る通りだ」
「俺たちの見た……」
斬られたマイクロトフと、屋敷の至るところで倒れる使用人や護衛。それらを斬るに至った経緯を重ねて説かれても、やはり簡単には頷けない回答だ。
結局、クルシュがマイクロトフたちを怪しんだ根拠が、不審な風――すなわち、彼女が持つ『風見の加護』に起因したものしかないのが問題なのだ。
「――――」
当たり前だが、スバルには彼女が絶対の信を置く『風見の加護』を共有できない。だから、クルシュを信じたい気持ち以外に、確信を抱けずにいる。
そしてそれは――、
「――あのときの、俺と同じだ」
クルシュと話しながら、スバルは胸の締め付けられるような思いを味わう。
それはかつて、スバルがクルシュと交わしたやり取りとそっくり真逆の構図――まだ王選が始まったばかりの頃、ロズワール邸とアーラム村に壊滅的被害を出した『怠惰』の大罪司教、ペテルギウス・ロマネコンティへの憎悪で、スバルの目が曇っていたときと全く同じ状況だった。
「あのとき、俺は頭に血が上って、誰もわかってくれないことで目が曇りまくって、周りの人の話にちっとも耳を傾けられなくて……」
その、憎悪と憤怒に濁り切った歪みをクルシュに見透かされ、愚かにも逆上する姿勢をバッサリと切り捨てられた。――その真逆の立場の再演だ。
今のクルシュの言動は、『死に戻り』という他者には理解できない方法で手に入れた情報を振り回し、わかってもらえないことに癇癪を起こしたスバルと同じ。
無論、あのときの馬鹿なスバルより、クルシュの方が理性的に振る舞えて見える。
だが、無力だったスバルと違い、クルシュには力も、立場もあるから。
「――やっぱり、ダメだ」
「……スバル?」
「俺と同じだってわかっちまったら、俺にはもう、ここでクルシュさんを見捨てるって選択肢はねぇ。手伝うにしろ止めるにしろ、だ」
唇を噛み、拳を握りしめるスバルを、傍らのベアトリスが静かに見つめる。
あの当時、クルシュは白鯨の討伐という大一番を控えていた。それでも彼女は、物知らずで分からず屋かつ無礼者のスバルに、根気よく向き合い続けてくれた。そして最後には、スバルの言葉に耳を貸し、大願を果たす力添えをしてくれたのだ。
今度は、スバルがそれをする番だ。――彼女が正しかったなら隣に並び、彼女が誤ったなら立ちはだかってでも止める。そのために。
「クルシュさん、俺は――」
「――待て、ナツキ・スバル」
カチッと嵌まった決意を口にしかけたところで、クルシュにそれを押しとどめられた。
だが、出鼻を挫かれたと思うには、クルシュの面差しが真剣すぎる。彼女はスバルたちとの距離を詰めると、こちらを背後に庇い、下水の暗がりに目を凝らした。
その警戒と同じ方を見ても、スバルの目には何も映らないが――、
「――誰かいるな。息を潜めても、感情は風に乗る。私の目からは逃れられんぞ」
「――! 追っ手の兵士は撒いたはずじゃ……」
「それらとは別の思惑がある手合い、だろうな。言っておくが、沈黙を続けてもそちらに益はない。あるいは、敵対の意思ありとみなしても――」
「――待て待て待て! 早まんじゃねえ! わかった! わかったから!」
いつの間にか抜いた短剣を手に、クルシュが身構えようとしたときだ。高まる緊張と警戒の声に促され、水路の先の暗がりから慌てふためく声が返る。
その、クルシュの目が正しかったことへの驚きのあと、スバルは「ん?」と聞こえた声そのものに眉を顰めた。――声に、聞き覚えがあったのだ。
「今の声って……」
「クソ! 今からそっちにいく! いいか? 仕掛けてくんなよ? こっちはテメエらとやり合うつもりなんざさらさらねえんだ!」
「そちらの出方次第だ。軽はずみな約束はできないと伝えておこう。もっとも、卿は一人でこちらは三人、数的不利は――」
「――もしかしてお前、チンか?」
「なに?」
がなる男に警戒を解かないクルシュが、そのスバルの問いに眉を上げる。スバルの傍らに身を寄せたベアトリスも、「チン……」と小さく呟いて、
「それって確か、プリステラで見かけた男だったはずなのよ」
「ああ、そうだ。今はフェルトのとこで世話になってて……」
「――こっちは、そのフェルトに言われてきてんだよ。チッ、格好がつかねえ」
そう不機嫌に舌打ちして、暗がりから両手を上げた男がゆっくりと姿を現す。
するとそれは予想通り、スバル以上に目つきの悪い四白眼の男――いつの間にかフェルトの陣営に加わった、路地裏三人衆トンチンカンの一人、ラチンスだった。
「おお、チン……! お前って、出てくるたんびに新鮮な驚きをくれるな」
「うるせえよ! チンじゃねえって前も言ったろうが! ラチンスだ!」
「チンかしら」
「チンじゃねえってんだよ、チビ!」
「命知らずなチンなのよ」
久々に見る顔に感激するスバルを余所に、ラチンスとベアトリスが不毛に言い争う。
実際、ラチンスとはプリステラ以来――それも、魔女教がろくでもない集いを始める切っ掛けになったシリウスの暴挙のところで一緒したきりだった。もちろん、その後に無事は確かめていたものの、こうして元気な姿が見られて幸いだ。
「いや、しかし知ってる顔と会えたのはよかった。お前には聞きたいことが――」
「そこで止まれ、チンとやら。ナツキ・スバルと違い、私は卿を知らない」
「クルシュさん!?」
知人との再会を反射的に喜んだスバルと対照的に、短剣片手に鋭い眼差しをラチンスに向けているクルシュの警戒は全く和らいでいなかった。
言われてみれば、ラチンスは『水の羽衣亭』に泊まっていなかったし、シリウスとの接触以後は戦線離脱していて、クルシュと顔を合わせるタイミングがない。
クルシュ側の警戒も当然と、そう思われたが――、
「ああん? オレを知らねえたぁ、カルステン公爵ってのもずいぶん薄情じゃねえか」
「……なに?」
「まあよ、公爵なんてやんごとなき立場の方々と気軽に話せる立場じゃねえが、アンタはオレの親父に剣を習った一人だろうが。それがちっとも存じ上げませんって言われちゃあ、親父も大した仕事はしてねえなぁ」
「――――」
と、長い舌を出して言い放ったラチンスに、クルシュは当惑した顔になった。一方、スバルもスバルで、ラチンスの堂々としたクソ度胸には度肝を抜かれるしかない。
「お前、いくら何でもそんな口から出任せを……」
「出任せじゃねえよ! ……これでも、それなりの実家の出なんだよ。それこそ、片手で数えられる程度だが、公爵家ともツラ合わせたことあるくらいのな」
「マジで? マジじゃなかったら、妄想力がヤバすぎるぞ、お前……」
とはいえ、ここまで自信ありげに言われると本当のことのように思えてくるから、人の心も言葉も当てになんてならないものだ。
それもあり、スバルはおずおずとクルシュの様子を窺ってみるが、
「――。――――。――――――――。もしや、王室指南役を務めていらした、リッケルト・ホフマン殿の御子息か?」
「は! 聞いたか? カルステン公爵の記憶に引っかかったみてえだぜ」
「マジなのか!」
「マジらしいかしら」
たっぷりと時間をかけ、絞り出すようにしてクルシュが一人の名前を口にした。それを肯定するラチンスの態度で、スバルとベアトリスが思わず顔を見合わせる。
まさか、本当にラチンスがルグニカ貴族の出だったとは。
「それがなんで路地裏で弱いものイジメするチンピラに?」
「うるっせえな! 人には事情ってもんがあんだよ、詮索すんな!」
「事情なら、ベティーたちにも大いにあるのよ。どうやらお前がここに足を運んだのも、その事情と無関係ではなさそうかしら」
「ぬぐ……っ」
「だな。ベア子の言う通りだ。……クルシュさん、それ下ろしてくれ。たぶん、チンの奴は大丈夫だ。俺が保証する」
「――。怪しい素振りか、風が吹いたなら斬る」
「素振りはともかく、風の責任なんか取れっかよ……!」
そう言ってわなわなと震えるラチンスを前に、クルシュはゆっくり短剣を下ろし、警戒の姿勢を解いた。と言っても、短剣を鞘に収めるまではいかず、その隻眼でじっくりとラチンスの挙動を見張ってはいたが。
ともあれ――、
「改めて、よくきてくれたな。どうやって俺たちを見つけたんだ?」
「そんな大した手段じゃねえよ。テメエらを探してたのはオレだけじゃねえ。ガストンとカンバリーも、別の場所を探してうろつき回ってんだ」
「なら、お前はたまたま当たりを引いたってだけなのよ? 本当に大した方法じゃなかったかしら」
「うるせえ、チビだな。ちゃんと見つかってんだからいいだろうが。あー、それで? テメエらの方は何がどうしてどうなってんだ?」
「それに関しちゃ、話せば長い上に納得してもらえる自信がねぇんだ。だから先にそっちの話を聞かせてくれ。――エミリアたちは、どうしてる?」
無作法は承知の上で、スバルはラチンスの質問を押しのけ、そう問いかける。
なにせ、マイクロトフの屋敷から逃亡して以来、まともに外の情報を得られるタイミングがなかった。不安と心配と焦燥感で、心の中はもうデロデロなのだ。
「俺たちがクルシュさんと一緒にいるってことは、エミリアたちの耳にも届いてるはずだ。ってなると、心配も迷惑も死ぬほどかけてるはず……」
心配という精神的負担と、王国に事情聴取される肉体的負担をダブルで。その上で陣営は大いにバタついている。――しかし、そのスバルの予想は裏切られた。
それも思いっきり、想像だにしなかった形で。
「あー」
「――?」
尋ねられたラチンスは軽く四白眼の目を見張ったあと、らしくもなくスバルを気遣うような顔つきになり、言った。
それは――、
「テメエのとこのハーフエルフは城で身柄を拘禁された。それと、陣営の他の連中は逃げて行方をくらましてるとよ。――テメエと同じで、全員お尋ねモンだ」
△▼△▼△▼△
――王城でのエミリアの身柄の拘禁と、レムやオットーたちの王侯館からの脱走。
それは、まさに天地がひっくり返ったようなバッドニュースだった。
ラチンスに伝えられたその話を何回も咀嚼し、脳が余さず呑み込めるように何度も何度も反芻する。そうやって、何とか理解しようと努力に努力を重ねた。
重ねたが――、
「な、なんでそんなことに……?」
「……さすがに、ベティーもこれは予想だにしてなかったのよ」
愕然と、青い顔をしてそうこぼしたスバルは、歯の根の合わない自分に気付く。
どうやら、あまりに理解を越えた出来事は、人間から熱さえ奪うらしい。冷たくなった血が体中を巡り、手足の指先が凍傷で壊死しそうな錯覚を覚えるほどだ。
そんなスバルと手を繋ぎ、ベアトリスがそっと温もりを分け与えてくれる。それでも体の震えは止まらない。――状況は、スバルの浅はかな想像を超えて、悪い。
「俺の……俺のせいで、エミリアも、みんなも……」
「けっ、そういうくだらねえこと言いたくなんだろうが、テメエの責任ヅラすんのはやめとけ。こんな状況、どう考えたって嵌められてんだからよ」
「え?」
キーンと耳鳴りが聞こえ、眩暈でふらつくスバルが思わず目を瞬かせる。そのスバルの反応に、腕を組んだラチンスが苛立たし気に舌打ちした。
今、ラチンスは当然のことみたいにスバルたちが「嵌められた」と言ったが。
「嵌められてるって、どういう……」
「どうもこうもあるかよ、そのまんまだろうが。大体、おかしいと思わねえのかよ。いきなりあっちこっちで不都合なことが起こりすぎてんじゃねえか」
呆然としたスバルに、ラチンスが嘆息気味に肩をすくめる。
その彼の言いように、頭の一部が痺れたように鈍いスバルに代わり、ベアトリスが「それって」と応じ、
「ベティーたちが追われたり、エミリアが城に閉じ込められたり……かしら?」
「――。それだけじゃねえがな。テメエらのとこの陣営の連中が問答無用で逃げ出したのも、相手が殺しにかかってるって気付いたからだろうよ」
「殺しに……っ!?」
「たとえ話だ、たとえ話! 実際に、いきなり王選候補者を殺すなんて真似ぁできねえよ。……だからあの跳ねっ返りも、オレたちを送り出すまではできたんだ」
物騒なワードが飛び出し、目を剥くスバルにラチンスが汚れた壁を蹴る。
だが、ぶっきらぼうな態度と裏腹に、根気強く話してくれるラチンスのおかげで、スバルもようやく思考能力が少しずつ回復してきた。
つまるところ――、
「誰かが、エミリアを王選から脱落させるために暗躍してる。で、俺の行動はまんまとそれに利用されて、エミリアは城に捕まった。それを企んでる奴の思惑に気付いたオットーたちは、身動きできなくなる前に逃げ出した……ってとこか」
「一個だけ、それにベティーは付け加えたいのよ。――その悪者の標的になったのが、エミリアだけじゃない可能性があるかしら」
「エミリアだけじゃない?」
「――――」
指摘されたスバルが眉を上げると、頷くベアトリスが顎をしゃくる。その動きにつられてそちらを見ると、頬の内側を舌でつつくラチンスの渋い顔があった。
それは見るからに、嫌なところを突かれた人間の顔であり――、
「……もしかして、チンがきてくれたのって、エミリアとフェルトが友達になったからってだけじゃない?」
「クソ、余計なことに気付くチビだぜ……」
「スバルの足りないところを埋めるのがベティーの役目なのよ。それに、何度もチビチビと……思い知らされたいのかしら、ニンゲン?」
「だったらテメエのご主人様にも人をまともに呼ぶこと覚えさせろや!」
どうも相性が悪いらしいベアトリスに声を荒らげ、ラチンスは深々とため息。それから彼はしばらく口ごもったあとで、
「……城に取っ捕まったのはテメエらのとこのハーフエルフだけじゃねえ。フェルトの奴もだ。難癖付けられて、ラインハルトの野郎も身動きを封じられてる」
「ラインハルトが!? それに、フェルトも捕まったって……だとしたら、狙われてるのはエミリアじゃなく、王選そのものか!?」
「気付くのが遅ぇよ。そこんとこ怪しんでたから、フェルトは城に引っ張られる前に『兄ちゃんたちを探せ。見つけたら一人にすんな』ってオレらに命じたんだ。おかげで、ドブ臭ぇ中を散々走り回る羽目になっちまった」
陣営の不利という意味でラチンスが語りたがらなかったのも納得の内容だが、その情報があるのとないのとでは大前提が全く変わってくる。
てっきり、スバルはエミリアへの個人攻撃に自分の行動を利用されたとばかり考えていたが、どうやら相手の狙いはそれどころの話ではない。
エミリアとフェルト、それに伴ってスバルとラインハルト、さらにはそれぞれの陣営にまで手が伸びている恐れがあるなら、それは絶対にたまたまではない。
王選を狙った、ルグニカ王国を激震させる暗躍。そして、そうした大きすぎるスケールの話には、ちょうどスバルも聞き覚えのあったところだ。
「クルシュさん、聞いたか!? クルシュさんの言ってたことは……」
勢い込んで顔を上げたスバルは、話し合いを見守るクルシュの方に水を向ける。
ラチンスが合流してくるまで、『風見の加護』を根拠としたクルシュの発言の正当性を信じ切れずにいたスバルだが、畳みかけられた情報の濁流は、その信じ切れなかった疑惑に一定の説得力を与える力があるものだった。
あるいはクルシュが剣を振るうに至ったマイクロトフの企みも、王選を台無しにしようとする悪意と関係しているのかもしれないと。
しかし――、
「って、クルシュさん?」
無反応、それを怪訝に思ってクルシュを見たスバルは、自分の目を疑った。――壁際に立つクルシュが、うつらうつらと舟を漕いでいたからだ。
話の最中、それも警戒を続けていた只中で居眠りを始めるなんて、あまりにもクルシュらしからぬ場違いな態度だ。
それに気付いて声を上げたスバルを、クルシュは明らかに虚ろな目で見返し、
「……すまない、急激に眠気が。おそらく……この、左目の負担、だろう……」
「負担って……そもそも、その目っていつから」
「あとを、頼みます……スバル、さま……」
「ちょっと!」
そこで限界に達したのか、ふらふらと上体が揺らいだと思いきや、クルシュがいきなり前のめりに倒れ込む。その体を慌てて抱き留めると、力をなくしたクルシュの手から短剣が滑り落ち、それが水路の地面で甲高い音を立てた。
だが、当人はそんな音も意に介さず、静かな寝息をこぼし始めていて。
「嘘だろ? こんな大事な話の最中に……寝た!」
「オイ、どうなってんだ、公爵は。『記憶』なくしただの、体壊しただの、ついには頭がイカれただのって散々なこと言われてたけどよ」
「ああ!? クルシュさんになんてこと言ってんだ! ぶっ飛ばすぞ、この野郎!」
「オレが言ってたわけじゃねえよ! なんなんだ、テメエは!」
「ええいなのよ! いちいち揉めるんじゃないかしら! ――見たところ、眠ってるだけなのよ。その娘の自己申告通り、疲れが限界突破したっぽいかしら」
スバルとラチンスの間に割り込んだベアトリスが、覗き込んだクルシュの寝顔にそう判断を下す。スバルの目にも、意識のないクルシュが特別苦しんでいる様子はなく、シンプルに消耗した体が泥のような眠りを求めているだけに見えた。
ただ、ベアトリスの言う通り、これがクルシュの申告した『龍眼』の副作用なら、やはりあの不自然な代物は放っておいていいものではないのだろう。
それこそ――、
「……『神龍教会』の秘蹟と、ティーガの証言。王選候補者が的にかけられてるって状況と、これが無関係のわけねぇんだから」
はっきり言って、これらが繋がっていないと考えるには無理がある状況だ。しかしそれは逆説的に、『神龍教会』という団体を疑うことに直結する。
『神龍教会』は、このルグニカ王国に根深く、そして根強く広まった宗教だ。仮にそれを仮想敵と認めたとして、いったいどこまでを敵と思えばいいのか。
状況的にティーガは疑わざるを得ないが、ならばサクラは。――フィルオーレは?
「もし最悪の想像が的中したら、俺も凹むけど、エミリアが悲しむぜ……」
そうでなくても、城に身柄を拘禁され、オットーたちはもちろんのこと、スバルとベアトリスの安否もわからないでいるだろうエミリアだ。
その心の負担を少しでも取り除くために、打たなくては。最善手を。
そう決意したスバルは、眠ってしまったクルシュの体を背負い、しっかりホールド。その間に短剣を拾って鞘に収めたベアトリスと頷き合う。
「ラチンス、ここじゃ埒が明かねぇ。わざわざきてくれたからには、もう少し話がしやすいところに当てがあるんだろ? 移動しよう」
「指図されんのは気に入らねえが、いちいち突っかからねえでやるよ。……つっても、今の王都でどんだけ周りの目を誤魔化せるか保証できねえがな」
「……改めて、ヤバい状況だってことが骨身に染みるよ」
敵は大きな、本当に大きな力を使い、スバルたちを搦め捕ろうと画策している。
たぶん、ここでこうしてラチンスと合流し、彼から話を聞けたのも、相当な偶然が味方した奇跡的なことだったのだろう。あるいはそれを奇跡と呼んでしまうのは、フェルトの指示でスバルたちを探し当てたラチンスへの侮辱かもしれない。
いずれにせよ――、
「クルシュさんも、落ち着いたところで休ませたい。身も心も少しでも安らげば、もっとちゃんとした話ができるはずだ。だから――」
「――そいつはちょうどいい! 今まさに、この瞬間この刹那、ぜひとも王都中を混乱させてる逃亡者を招待したくてしたくてたまらないところだったん、だ!」
「――な!?」
瞬間、下水道に響き渡ったまるで場違いな声に、クルシュを背負ったスバルが、そしてベアトリスとラチンスも、凝然と目を見開いて振り向く。
声がしたのは、ラグマイト鉱石の乏しい光が届かない、水路の暗がりの向こうだ。しかしそこに、「チッ」と舌打ちしたラチンスが何かを投じ――、
「おお、光あれか! くはははは、実に気が利く気が回る!」
下水の地面を硬い音が叩き、次いで白い光がその暗がりを眩く照らす。投げられたのは、衝撃を与えると発光するラグマイト鉱石そのものだ。
とっさの判断でそれをしたラチンスの狙い通り、それは闇に紛れた相手の姿を、振り向いたスバルたちの視界に暴き出す。
それは――、
「……仮面?」
「おいおいおい、オレを見て最初に出てくる感想が仮面って、そりゃ見たまま目に映るままそのまますぎるだろう? もっと趣向を凝らしてくれよ。意中の女を口説こうとするぐらい、熱烈に情熱的に言葉を選んで、だ。くははははは!」
言って、その体を震わせて大笑いするのは、男――それも、背の高い男であるということしかわからない相手だ。何故ならその男は、全身をすっぽりと覆うような黒い装束を身に纏い、その顔に道化師めいた仮面を付けていたのだから。
暗がりの中、ぼうと浮かび上がる白い道化師のマスクが異常性を際立たせる。
その言動、態度、仮面越しに向けられる悪辣な眼差しと、たったの五秒の邂逅で即座に理解できる。――この道化師マスクは、碌な奴じゃない。
それを証明するように――、
「死んでいいぞ、お前たち。用があるのは、そこで寝てる女だけだから、な!」
瞬間、下水道の暗がりを、ラグマイト鉱石の光など比較にならないほどの巨大な炎が照らし出し、スバルたちへと極大の熱波が押し寄せた。




