第十章17 『灰になれ』
――よくない。
エミリアに付き添い、王城へ上がったラムは現状をその一言で総括する。
まず、ラムの体調がよくない。
自覚できる範囲だと、ここ一年で一番の絶不調と言えるタイミングだ。
ただでさえ、なかなかスキッと調子のいいことの少ない体ではあるが、常日頃は気力をピンと張り詰めさせていることで、基本状態を無理に固定することでパフォーマンスを保っている。――その糸が、ちょうど緩んだ間隙が今だった。
「一度、屋敷に戻ったのが失敗だったようね」
帝国で姉妹の再会を果たし、目覚めたレムを一刻も早く屋敷へ連れ帰る。それを果たせば『記憶』の戻る手掛かりにもなるだろうと、結果を逸ってしまった。
おかげで、ロズワール邸のメイド服に袖を通したレムという待望の姿を目にすることはできたものの、ラムの方の気力が緩んだ。結果、この体たらくだ。
スバルにかけられたふざけた嫌疑、それを払拭するために陣営が一丸とならなければならない状況で、万全とは程遠い自分を晒す羽目になっている。
「――――」
長い廊下を静々と歩きながら、ラムは道すがら通り過ぎる城の衛士たちを観察する。
王侯館のエミリアを迎えにきた兵たち同様、その目つきと全身に使命感からくる緊張を宿した彼らは、無言の敬礼ののちにラムたちを通し、その背を見送る。――ただし、通り抜けてしばらくすると、廊下の扉が閉じられるのを空気で感じるのだ。
通常、開け放したままでいるのが慣例の扉を閉める意味、それは明らかだ。
――よくない。
廊下の扉が閉じられるのも、通常より張り詰めた兵たちの雰囲気も、何より王国騎士団長直々の迎えも、示しているのは究極の警戒だ。それはとりもなおさず、すでに相手方の中ではこちらの印象がネガティブに大きく傾いていることを意味する。
これが、ラムの体調とは別個の、二つ目のよくない事情の真意だった。
「……なんだか、すごーく丁寧に閉じ込められてる気がするわね」
「――。驚きました。エミリア様でも、そう感じられる感性がおありなんですね」
ふと、歩みの速度を緩めながら、隣に並んだエミリアがぽそっと呟いてくる。その、王城の空気を敏感に察した感想に、ラムは軽く眉を上げて応じた。
それを受けたエミリアは、「そうね」と形のいい眉尻を下げながら、
「空気がピリピリしてるっていうか、そういう感じだと思う。私が森でパックと暮らしてた頃、近くの村までいくと、みんなこんな態度だったっていうか……もしかしたら、私たちすごーく怖がられてるかもしれないわ」
「そうですね。バルスがすごーくやらかしたようなので」
「……スバルとベアトリス、大丈夫かしら。クルシュさんも、一緒みたいだけど」
紫紺の瞳をわずかに揺らし、そう口にしたエミリアにラムも沈黙する。
正直、旗色はよくない。聞かされている範囲の情報では、『賢人会』の一員だったマイクロトフ・マクマホンが殺害され、その下手人がクルシュ・カルステン、協力者としてスバルとベアトリスが追われているという話だ。
体調不良で臥せっていたため、クルシュと『神龍教会』を巡るトラブルについては触りしか知らないが、王選候補者として追い込まれたクルシュが思い詰めた凶行に及び、現場に居合わせたスバルが情から彼女を庇った――ありそうな線である。
「ベアトリス様が付いていながら……いえ、あの方はバルスに甘いからダメね。バルスの自制心が足りないわ。レムと……エミリア様のことだけ考えていればいいのに」
姉としては複雑だが、スバルがレムを大切に思っている点については認めざるを得ないし、それが救いになっていたのは多分にある。『記憶』の戻っていないレムも、口では色々言っているが、その心中でスバルに特別な感情があるのは見え見えだ。
だからこそ、スバルにはきっちり自分の手綱を締め、誰に優しくするのかしっかり絞ってもらう必要がある。――その八方美人が祟ったのが、まさに今なのだから。
「ラム、もしかして怒ってる?」
「……バルスの気の多さについては、前々から度し難いと思っています。ですが、今かけられている疑惑とは別物でしょう」
「ええ、そうよね。ちゃんと話して、スバルのことわかってもらわなくちゃ。このあと、どんなことを聞かれてもいいように」
「ひとまず、エミリア様はバルスのいいところを十個くらい用意しておいてください」
「え、十個? 十個しか言えないの? 十個になんて絞れるかしら……」
こちらとは違った要因で不安がるエミリアに、ラムはスバルのいいところを十個も挙げられることを感心した。タイミング、以外に何を褒めればいいのか。
ともあれ――、
「――正念場ね」
思い返すと、正念場ばかりを迎えている気がするが、そんな益体もない感慨を余所に、ラムはエミリアと共に正面に目を向ける。――そこで、立ち止まったマーコスが突き当たりの扉を押し開け、こちらに入室を促していた。
それに従って扉を潜ると、室内のいくつもの視線と張り詰めた厳かな空気がラムたちを出迎え、無音の緊張感が高まるのがわかった。
――ラムとエミリアが案内されたのは大広間ではなく、城の要人たちが話し合いに用いるための城内の評議室だ。
先だってはエミリアがフィルオーレと連れ立ち、彼女の王選への参加意思の表明と、騎士の指名に立ち会ったとされる一室。その場所に数日と間を置かずの再訪だが、待遇はそのときとガラッと変わり、周囲の態度はまるで罪人の連行を見届けるが如くだ。
「――――」
通された部屋を見て、ラムはまず兵の配置を確かめる。
扉の左右に二人、壁際に四人、部屋の中央を半円状に囲んだ黒檀の円卓、その奥にも控えるように複数の人影が立っているのがわかった。
いずれも納剣したまま、柄に手もかけてはいない。――それでも、この場が最初から万一を想定したものとなっていることは伝わってきた。
「丁寧な招待ね」
礼儀の形をしているが、これは決して歓迎ではない。
上等な箱で蓋をして、相手の逃げ場を上品に断った上流階級の追い詰め方。それを証明するように、背後でマーコスが閉じた扉の音が二重に重なる。――扉二枚が部屋と廊下を隔てる意味は、中で交わされる会話が外に漏れない徹底にある。
しかしこの瞬間のそれは、この評議室での話し合いが他に聞かれないため以外の、もっと物理的な意味での隔離が強いようにラムには感じられた。
「――エミリア!」
と、部屋の雰囲気をラムが評する傍ら、不意に声を上げたのは円卓の端に座っていた人物――長い金色の髪と、赤い瞳が特徴的な尼僧服の女性だ。
彼女はけたたましく椅子を蹴り、周囲の視線も構わずに円卓を跳び越すと、部屋の入口に立つエミリアの胸に真っ直ぐに飛び込んだ。
エミリアは、その勢いを真っ向から受け止め、目をぱちくりとさせながら、
「フィルオーレ、あなたもきてたのね」
「当然だわ! エミリアと、その騎士のスバルの問題だもの。何かあったんなら、力にならなくちゃと思って、大急ぎで駆け付けたわ!」
「フィルオーレ……」
「大丈夫よ! わたくしがついているわ! こう、何がなんだかわけがわからない状態だけど、エミリアが悪いわけないもの! わたくしは何があろうと味方だから!」
そう言って、エミリアに縋り付く尼僧服の女性――フィルオーレと呼ばれたことで、ラムも彼女が直近の王都の混乱に一役買った新たな王選候補者であると認識する。
彼女がエミリアと友人になったとはレムから聞いていたが、ずいぶんな懐きようだ。赤い瞳を潤ませ、鼻を垂らしそうな勢いで感情的になっている姿は、エミリアへの本気の心配と、この状況でどこまで頼れるか不安な雰囲気を同時に醸し出していた。
事実、そのフィルオーレの態度は評議室の面々――出席する『賢人会』の面々や、ラムも知る幾人かの上級貴族、近衛兵たちからは歓迎されていない。
咳払いや厳しい視線が降り注いでくる中、「フィルオーレちゃん?」と彼女を呼んだのは、フィルオーレが蹴飛ばした席の隣に座っていた女性だ。
彼女はおっとりとした口調と表情で、エミリアに縋り付くフィルオーレを見やり、
「皆さんがビックリしてるじゃないですかぁ。いけませんよぉ、そんなにはしゃいじゃ」
「はしゃぐ!? はしゃいでなんかいないわ、むしろ心から悔やんでいるのよ! エミリアとくっついていれば、その不安にも最初から寄り添えたはずだもの! 教典にもこうあるわ。『一人の救済は、万人の祈りによって成る。龍の恵みを隣人と分かち合うとき、孤独なる魂は癒しを得、真の救いとならん』って!」
「解釈はご自由にですけどぉ、話し合いの遅延はいい印象になりませんよぉ? フィルオーレちゃんがぐずった分だけエミリアちゃんが損をすることになっちゃいません?」
「うぐぐぐ……サクラのバカ……っ!」
「あらぁ、嫌われちゃいましたねぇ」
涙目のフィルオーレの子どものような反論に、サクラと呼ばれた女性が肩をすくめる。だいぶ役者の力に差があるやり取りだったが、そのやり込められたフィルオーレの頭を、エミリアが優しく撫でて、
「ん、ありがとう、フィルオーレ。すごーく頼もしいわ。見守っていて」
「エミリア……ええ。ええ! わたくし、目をギンギンにして見守っているわ!」
「――では、フィルオーレ様、そろそろお席へお戻りください」
エミリアの言葉に、潤んだ目をごしごしと拭ったフィルオーレが何度も頷く。すると、ようやく口を挟む機を得たと、マーコスが彼女に着席を促した。
その指示にフィルオーレは名残惜し気にエミリアから離れ、いそいそと自分で蹴倒した椅子を戻し、そこに座ると、隣にサクラにぷいっと顔を背けていた。
そんな一幕を経たところで――、
「エミリア様、中央の席へお進みください。世話役は――」
「ラムはエミリア様の後ろに立ちます」
「――――」
「何か問題でも?」
「いいえ、問題ありません。では、どうぞそちらへ」
せめてもの抵抗に、エミリアから引き離されることだけ拒んで、中央の証言席に座らされるエミリアの斜め後ろに控える。一瞬、ちらとエミリアと視線を交わし、不安と感謝を宿したその双眸に、小さく顎を引くだけで応じた。
「エミリア様、わざわざご足労いただき、感謝いたします」
そう重めかしく切り出したのは、半円の円卓に座した面々の中、ひと際印象的な雰囲気を纏った禿頭の老人――ボルドー・ツェルゲフ。
七人の席を用意された『賢人会』の一人であり、かつて『亜人戦争』で自らも斧槍を振るった過去を持つ王国の英雄。そして、その経験から亜人に対する強固な姿勢でも知られた人物で、およそエミリアとの相性も最悪と言える。
その彼が切った口火は、エミリアへの言葉面での敬意を示しつつ、その内実が全く異なるものであることの表れだろうか。
しかし、そうした事情を抜きに、まずエミリアはボルドーではなく、彼の右隣の席が空席であることに目を留め、
「そこに、いつもならマイクロトフさんが座るのよね」
「――――」
「マイクロトフさんは、本当に?」
「誤りなく、確認された事実です。王国にとって、これ以上ないほど大きな痛手だ。王家の皆様が御隠れになって以降、これほどの災禍はないと言える」
ゆるゆると首を横に振り、ボルドーがしゃがれた低い声でそう答える。
実際、マイクロトフがこれまでルグニカ王国で果たしてきた役割を思えば、そのボルドーの答えには王国民の全員が頷かざるを得ないだろう。
だが、その答えに対し、エミリアが抱いた感想は違ったらしい。彼女はその長い睫毛に縁取られた瞳を細め、
「……それだけ?」
「――。と、申されますと?」
「王国にとって大変なことなのは、もちろんそうだと思う。でも、ボルドーさんたちは、マイクロトフさんと長い付き合いだったでしょう? だったら……」
「悲しみに打たれ、涙を流すべきとお考えですか? ですが、我々の知るマイクロトフ殿であれば、それこそそうしたことは望まれない。自分の死が王国の頭脳を腐らせ、じわじわと手足が壊死していくのを許される方ではなかった」
「――――」
「我々とあなたとでは、身内の悼み方が違う。それだけのことだ」
「……そうね。ごめんなさい。ボルドーさんたちも、すごーく辛いのよね」
ぴしゃりとした答えに、エミリアが静かな吐息をこぼす。
悲しみの表わし方の違い、そう言われてエミリアは引き下がったが、一歩引いたところからそれを眺めるラムは、心根の優しいエミリアとは違った印象を抱く。
確かに、もっともらしい言い分ではあった。王国の未来を常に憂えていた賢人の想いを継ぐなら、立ち止まっている暇などないというのは。
だが、そこに哀悼の余地が本当に全くないのか、ラムには疑問だ。――少なくとも、積み立てている最中の、この事態への不審は募る一方だった。
「改めて、この場にエミリア様をお呼びした理由――騎士ナツキ・スバルに生じた疑惑について、審問を始めさせていただきたく」
「スバルの疑惑、それが……」
「はい。――騎士ナツキ・スバルは魔女教の関係者、それも大罪司教に類する、大きな役割を担った立場なのではないか、という疑惑です」
ボルドーの、低いがよく通る声が伝えた疑惑の再提出に、ラムは眉を顰める。
ラム個人としても馬鹿げた疑いだと思うし、陣営としては否定する以外にない疑惑だが、そもそもの出所が不明の嫌疑でもある。
正直、スバルには元々『暴食』の大罪司教であったスピカを庇った経緯があり、探られると痛い腹だらけではあるのだが、その件は帝国側が情報封鎖を徹底したはずだ。
スピカの権能を必要とする以上、帝国も彼女の素性が広まることを望まない。――故に、それがスバルの疑惑に繋がることはないはずだが。
「その疑問には、はっきり答えられます。スバルは魔女教ではありません。スバルは私の一の騎士で、かけがえのない味方です」
「そうよそうよ! 二人の絆は強いわ! わたくしもそれははっきり……もがもがっ」
「フィルオーレちゃん? ちょこっと黙ってましょうねぇ」
かけられた疑惑に毅然と答えたエミリア、それを囃したフィルオーレが隣のサクラに口を塞がれたが、その両方がもたらした結果は同じ――空気の不動だ。
野次に近いフィルオーレの擁護はもちろんのこと、スバルへの疑惑をはっきり否定したエミリアに対しても、視線に宿った冷たい熱は変わらない。
それは当事者のエミリアも感じ取ったのだろう。相手方が次の言葉を発する前に、「ちょっといい?」と切り出し、
「そもそも、どうしてスバルが魔女教だなんて疑われてるのか聞かせてほしいの。マーコスさんには王侯館で話したけど、これまでのスバルの活躍はボルドーさんたちも知ってるはずだわ。レグルスだって、スバルのおかげで……」
「複数の大罪司教と、三大魔獣である『白鯨』と『大兎』の討伐、ですか。『大兎』に関しては未確認ではありますが、それ以外は第三者の証言もある事実」
「でしょう? なのに――」
「――しかし、その功績そのものが疑惑の焦点でもある」
「――――」
疑惑の焦点、そう話題の中心に据えられた嫌疑の火種に、エミリアが息を呑む。
暴論と言えば暴論だ。スバルが対魔女教で挙げてきた功績、そのものが疑わしいなどと言われてはたまったものではない。
「つまり、バルスの働きは都合が良すぎるということですか」
「申し訳ないが、世話役に発言権はない。言葉は控えてもらおう」
「出過ぎた真似をしました。つい、耳を疑ってしまったものですから」
じろりと、付け加えた余計な一言に視線が厳しくなるが、ラムの本心だ。
とはいえ、その論説が言いがかり――少なくとも、今のままでは単なる邪推に過ぎないことは相手方もわかっている。だが、こうしてエミリアへの審問を強行する以上、これだけではない根拠が向こうにはあるはずだ。
そしてそれは――、
「ラムがごめんなさい。でも、スバルの頑張りが怪しいって、どういうことなの?」
「全ては作為的なものだったのではないか、という疑いです。複数の大罪司教の討伐も、三大魔獣の討伐に関しても、いずれも王国の内部に深く潜り込むための謀略の一環だったのではと」
「そんなの……!」
「暴論と、そう仰るか? だが、これまで各国が幾度となく辛酸を舐めさせられてきた魔女教に対し、たったの一年半であまりに成果が挙がりすぎている。三大魔獣も同じ。まるで意図して、騎士ナツキ・スバルに活躍の機会を与えているかのようだ」
言葉に詰まるエミリアに、ボルドーが畳みかけるようにそう言葉を重ねる。そのボルドーの勢いに乗じるように、半円卓の席を埋めるものたちが次々と頷いて、
「大征伐でも取り逃がした『白鯨』の討伐を成し遂げ、続けざまにあの『怠惰』の大罪司教を……災人とさえされたものを討つなど出来過ぎている」
「当時の関係者の証言では、騎士ナツキ・スバルは『白鯨』の出現の日時を言い当て、さらには魔女教の策をことごとく先回りして阻止したとか」
「あの大罪司教を相手に人的被害をほとんど出さずに完封したとも聞く。これまで魔女教が起こした事件の被害を思えば、とても信じられん」
「だが、いくら魔女教とはいえ、重要な職責にあるものを切るだろうか?」
「魔女教の、それも大罪司教は互いを憎み合っているという話もある。魔女教内部の対立を、この機に利用した可能性も――」
「――待って!」
「――――」
堰を切ったように溢れ出した疑念の荒波に、エミリアの声が強引に割り込む。
おそらくは、相手方も機を待っていた物言いの数々なのだろうが、どれも疑念の決定打としては弱く、疑惑の種を芽吹かせるには力足らずだ。
それはエミリアもわかっている。だから、彼女は荒波に揉まれながらも、双眸に宿した自分の騎士への信頼は欠片も揺らがせないまま、
「今の話のどれも、私にはあなたたちがスバルを怪しいって、前もって思ってしまってるからそう見えるだけのものに思えるわ。確かに、スバルはすごーく勘がよくて、いつも一番いい方法を見つけてくれるし、そのおかげで魔女教だって何とかしてきたけど……」
「それは逆効果かと……」
「でも! 魔女教とか三大魔獣とか、そういうところでばっかり私の騎士様を見ないで! プレアデス監視塔でだって、ヴォラキアでだって……ううん、違う。もっと最初、この王都で私が危ない目に遭ったときも、スバルは助けてくれたわ。魔女教と無関係に!」
「エミリア様……」
頬を紅潮させ、必死に訴えかけるエミリアに、ラムは微かに目を見張った。
エミリアの反論は、言い方こそ確かに稚拙さは拭えないものの、ボルドーたちが向けてきた嫌疑に真っ向から相対するものだ。
ラムでさえ唯一評価するスバルのタイミングの良さだが、それが発揮された場面は魔女教と関連する状況に留まらない。言うなればスバルは、いつもタイミングがいいのだ。その怪しさと、魔女教徒であるという疑惑はイコールではない。
だから――、
「――エミリア様の仰りようはわかりました。我々も、そうした言いがかり同然のことで騎士ナツキ・スバルの名誉を貶めるつもりはありません」
「……ホントに? それなら、いいの。じゃあ」
「――ですが、あなたの騎士には『怠惰』の大罪司教の後継の疑惑が色濃くかかっております。これについては、いかが申されますか?」
あくまで、ここまでは前哨戦に過ぎないのだと、ラムは奥歯を軋らせた。
△▼△▼△▼△
――『怠惰』の大罪司教の後継、それがナツキ・スバルにかかる本命の疑惑。
その、予想の外側からの問いかけに対し、エミリアの紫紺の瞳が大きく揺れる。一方、彼女の後ろでそれを聞いたラムも、薄紅の瞳に困惑の色を深めた。
「『怠惰』の大罪司教は、バルスとオットーで殺したと聞いているけど」
ラムの認識を聞けば、オットーが「それは物申したいですねえ!」と言ってきそうな気がしたが、この場にいないツッコミ男に貸している耳は今はない。
ただ、直接的には関わっていないものの、間接的に『怠惰』の大罪司教との戦いにはラムも関わった立場だ。世界で最も有名な大罪司教であったその人物が死に、それがエミリア陣営の魔女教との因縁の始まりになったことは間違いない。
しかし、その『怠惰』の大罪司教と、スバルとの関連性が疑われるのは――、
「それも、『怠惰』の討伐にバルスが都合よく活躍したから?」
「発言権を――」
「いや、いい。それもある。だが、最大の焦点はある証言にある」
「証言?」
思考停止するエミリアに代わり、話の先を促したラムをマーコスが窘めようとしたが、ボルドーはそれを手で制し、その続きを明かした。
スバルが疑われる最大の焦点、それというのが――、
「――囚われの、『憤怒』の大罪司教の証言だ」
「――っ、シリウスの」
「かの大罪司教は、現在も監獄塔にて虜囚として繋がれている。こちらの聴取にはまともに応じていないが、水門都市からの連行中も含め、幾度か口にしたそうだ。――『怠惰』の大罪司教は、ナツキ・スバルの内にいると」
「――――」
「王都で開かれた論功式……『白鯨』の討伐と、『怠惰』の大罪司教を討ち取ったことの功を称えられた際、詳細な報告があったことは私も記憶している。その中にあったのは、『怠惰』の大罪司教が他者の肉体に乗り移る邪精霊であり、いくつもの体を渡り歩いていた、というものだ。――いかがだろうか」
その太い眉の下の目を細め、そう問いかけてくるボルドーにエミリアの頬が強張る。
彼女の中で、スバルへの疑念が生まれた――わけではない。ただ、スバルにとっての悪い意味での噛み合わせに、溢れる感情が言葉にならないでいるのだ。
今の話はつまるところ、ナツキ・スバルは『怠惰』の大罪司教に体を乗っ取られ、あの日から今日までずっと、別人が演じ続けてきた姿だと、そう疑われている。
それは、スバルを騎士として迎えたエミリアには耐え難い侮辱だろう。
何より、その疑惑はラムにとっても――、
「――全く、お話になりません」
知らず、自分の声に険がこもったことを、ラムは発された声を聞いて初めて気付く。
しかし、その事実を自覚していても、続く言葉に込める感情を抑えられない。――そのスバルへの疑いは、侮辱は、スバルが毎夜、眠り続けるレムの下へ足しげく通っていたことさえも、作為があってのことだと断ずるに等しい行いだからだ。
「名にし負う『賢人会』の皆様が、そんな疑念を理由にこのような場を設けるだなんて信じられません。疑惑の内容以前に、情報の出所が問題でしょう」
「では、この件は全くの事実無根で、我々の下らぬ邪推に過ぎないと?」
「当然です。大罪司教の言い分を信じるなんて、どうかしているわ。囚われた『憤怒』は他者の心に作用する力があったとか。その効果で――」
「――ラム!」
思わず、カッとなった意識に冷や水を浴びせられ、ラムは息を詰めた。
見れば、証言席から立ち上がったエミリアがこちらを振り向き、その整った美貌の視線を鋭くして、不躾な従者への怒り――を装っている。その下手な演技をさせたことと、エミリアに窘めさせるほど感情的になったことに、ラムの心は自省を極めた。
よくない。――体の余裕のなさが、気持ちにまで悪影響を与えている。これでは何のために、エミリアへの同行を買って出たのか。
「またラムがごめんなさい。必要なら、ここから出るように命じます」
そう己を省みるラムを背後に、エミリアが半円卓に向き直る、そう進言する。
らしくない厳しい物言いは、ラムのしたミスをフォローするための彼女なりの態度だ。自分の行いの責任を引き取られ、歯痒さだけが募る。
エミリアの成長は喜ばしい。それが、こんな状況でなかったなら。――こんな、結論が決まり切った審問の場などでなかったなら。
「――。退室の必要まではないでしょう。以後、発言は控えるように。重ねれば、他ならぬエミリア様の在り方が問われる」
「……胸に留めます。申し訳ございません」
謝意を口にしながら、退室を促されなかった事実が自分の推測を裏付けていると、そうラムは苦いものを覚えずにはおれない。
この場に、エミリアとラムをひとまとめにしておく意図を、感じるからだ。
「ありがとう、ラムを追い出さないでくれて。……それなら、私からも聞かせて。シリウスの言うことだから、スバルが『怠惰』の大罪司教かもしれないって思うの?」
「無論、当初は戯言だろうと捨て置かれた。囚われた大罪司教の言など、まともに取り合う方が馬鹿げている。だが、マイクロトフ殿はそうではなかった。あの方は、捨て置くべき妄言と、そうではない災いの兆候とを取り違えぬ見識の持ち主だった」
「マイクロトフさんが……あ、それじゃ、もしかして」
思わず口に手を当てたエミリアと、ラムも同じものに思い当たった。
今日、プリステラへ出立する用意を整えたあと、スバルはベアトリスを伴い、秘密の話があるなどと嘯いてマイクロトフとの約束に出向いた。その後、何があったかは詳しくはわからないが、刃傷沙汰と今の事態に繋がったことは間違いない。
あるいはマイクロトフがスバルを呼び出した理由、それこそが――、
「会談の詳しい目的は我らにも共有されておらなんだ。だが、その場に騎士ナツキ・スバルが居合わせた上、『白鯨』討伐とその後の『怠惰』との戦いにも協力したカルステン公爵がいたとなると、こう疑惑せざるを得ない。――騎士ナツキ・スバルにとって、都合の悪いことが起こったため、マイクロトフ殿は殺されたのだと」
「それは――」
「では、釈明の機会を自ら放棄したものを、どう信じればいいというのだ!!」
「――っ」
瞬間、ボルドーの胴間声が爆発し、それに正面から殴られたエミリアが硬直する。
そのエミリアの反応の裏で、ラムもまた巡り合わせの悪さ――あるいは、そう仕組まれた状況そのものに忌々しさを覚えた。
やはり相手方は、最初から反論のできない論拠を固め、エミリアを呼び出したのだ。
「――最悪の想像が的中したわね」
王侯館に上がり込まれた一連の流れから、あの場で少なくともラムとオットーは思い描いた最悪のシナリオ――断ることのできない登城の要請と、それに付随した陣営の分断。
この絵を描いた何者かは、ここまで糸を周到に張り巡らせていたのだ。
なおも、ボルドーの追及は続く。
「マイクロトフ殿が殺された現場から、騎士ナツキ・スバルはカルステン公爵と共に逃走した。その場に居合わせたものの証言では、騎士ナツキ・スバルは不可解な術を使い、他者の魔法を禁じた上、目に見えぬ『何か』を操ったそうだ。これも論考の際に受けた報告だが、『怠惰』の大罪司教は不可視の腕を操ったそうですな」
「それは、スバルとベアトリスが考えた魔法で……」
「さらに重ねて聞けば、『暴食』の大罪司教の犠牲になったものは、他者の記憶から存在が失われることや、逆に自身の記憶を失うこともあると。しかし、騎士ナツキ・スバルは忘れられたものを覚えていたという話がある。何故です」
「レムもユリウスも、スバルが覚えててくれたから、一人きりにならずに済んだの!」
「かの『色欲』の大罪司教の悪逆により、カルステン公爵は癒えぬ傷を負った。それと同じ被害に遭いながら、騎士ナツキ・スバルが無事だったことの説明は? 付きますか」
「そんなの、スバルが一番悔しがってた!」
「ならば、騎士ナツキ・スバルはどこからきた何者なのですか! かの者には、あなたの騎士として王城で名乗りを上げる以前の記録がどこにもない! 何故だ!!」
「スバルは――!」
「――もうやめてちょうだい!!」
叩き付けられる疑問の嵐に、回答さえも途中で遮られるエミリアが、泣きそうなぐらい悲痛な声を張り上げようとした。――刹那、それを上回って評議室に響き渡ったのは、部屋の端の席で立ち上がり、半円卓を叩いたフィルオーレだった。
彼女はその赤い瞳から一筋の涙を流し、わなわなと唇を震わせて、
「よってたかって、エミリアに厳しくしないで……。一番混乱しているのは彼女だし、一番スバルと話したがっているのも彼女なのよ」
「……我らとて、必要なく厳しい声を上げているわけではありません。何より、マイクロトフ殿のご遺体を回収し、邸宅で何が起きたのかの詳細を語ったのは『神龍教会』の、フィルオーレ様のご同僚のはず」
「そんなのわかっています! ティーガが怪我をしたのだって……でもそれは、血を流しすぎたティーガがうっかり何か見間違えたのかもでしょう?」
「さすがに、それはティーガちゃんが可哀想すぎますよぉ」
「――っ、とにかく! こんなやり方、わたくしは反対だわ! 教典にもこうあるもの。『救いなき魂、この空の下に一つとしてなし。天を見上げれば常に龍の影あり、そこには等しき救済が全ての子らに約束されている』って!」
教典を持ち出し、それを半円卓に叩き付けるように置いたフィルオーレ。
彼女の感情的な反論は議論に水を浴びせたが、スバルの形勢の悪さは変わらない。そしてラムが恐れるのは、このスバルへの疑惑に付随した、さらなる疑いの提議。
それは――、
「――はたして、この問題をエミリア様は、その後援者であるロズワール・L・メイザース西方辺境伯は、ならびに陣営は把握していたのかどうか」
「――――」
「もし、これが陣営内で結託して隠されていたのだとしたら、仮に騎士ナツキ・スバルが『怠惰』の大罪司教の後継という疑惑が真実の場合、エミリア様を王選に参加させ、今日までの功績を積み上げてきた理由も……」
これまでの、王選が始まって以来、積み重ねてきたエミリアの、スバルの、陣営の様々な努力の結果、その全てが作られた偽物であったとされる。
全員が血を、汗を、涙を流して築き上げてきたもの、その何もかもが――。
「――エミリア?」
ふと、ギュッと拳を握りしめたラムの耳朶を、間抜けな声が打った。
それは半円卓に教典を押し付けた姿勢のまま、その双眸を丸く見開いたフィルオーレのものだ。彼女は大きな瞳をぱちくりさせ、呆然と、部屋の真ん中を見ている。
それにつられ、ラムもそちらを、証言台を見た。――そこに立つエミリアを見た。
目の前が、真っ暗になってもおかしくないことを言われた。
足下が崩れ去り、自分の居所を見失うような絶望を叩き付けられた。
理不尽と不条理の嵐に押し流され、泣き喚いたって不思議ではなかった。
だが――、
「――私の名前はエミリア。ただのエミリア。エリオール大森林の、『氷結の魔女』」
そう言い放つエミリアが、証言台に立ったまま、立てた指を天に向けて宣言する。
それはラムも何度も見たことがある、無謀極まりない少年が、この世で一番馬鹿なことを言い出し、やり始めるときのポーズだ。
「あなたたちの、その目で見られるのは初めてじゃない。これまで何回も、その目を向けられて、落ち込んで、うんとこしょって顔を上げたきたの」
「――――」
「だから、振り出しに戻ったってへっちゃらよ。私は――私たちは、負けないから」
「エミリア、様……」
「負けないわ、私たち。――そうでしょ、ラム!」
指を天に突き付けたまま、振り返らないでエミリアがそう呼びかけてくる。
振り返って確かめてこないのは、腹立たしいことに信頼の証でしかなかった。エミリアはラムが何を言い返すかも、ラムがどんな顔をしているのかも信じ切っている。
だからだ。だから、振り返らない。その信頼に、ラムは応えなくてはならない。
自分から、エミリアに付き添うと申し出たのだ。
ここでエミリアの信頼に応えたい全員を押しのけて、ラムが、自分で。
「――ハッ! 当然です」
その信頼に、ラムは自分の表情を、声を、合わせにいった。
勇ましく堂々と、威勢よく凛として、エミリアの信じるラムらしさで、どんな苦境にも負けないと歯を食い縛るエミリアを、後ろから支えられるように。
「見なさい、愚か者たち」
このエミリアが、適度に舗装され、約束された欺瞞の功績の上を歩いてきて出来上がるはずがないだろう。
疑いを持つ愚かなものたちよ、全員焼かれ、灰になれ。
これを偽物などと勘繰る目を抉り出し、代わりにガラス玉でも詰めてやろうか。
泣いて、喚いて、血と汗を流して、そうして鍛え上げられたこの輝きこそが、エミリアが確かに自分の懸命さで勝ち取ってきた王器なのだから。
「――――」
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
嘲りも、疑念も、正論めいた追及も、その一瞬だけはエミリアの名乗りの前に行き場を失っていた。
「――伝令! 伝令です!」
その、エミリアとラムの主従が見せた場違いな発言に、熱を持った沈黙が支配していた評議室を、そうして駆け込んでくる兵の声が断ち割った。
入口の横に控え、ここまでの審問を見届けていたマーコスが、飛び込んできた兵の前に立ちはだかり、「馬鹿者!」と怒鳴りつける。
「今、重要な審問の最中だ! 何を考えている!」
「申し訳ありません! ですが、早急にお伝えせねばならないことが!」
「早急に? 何事だ」
焦燥に彩られた兵の訴えに、マーコスが半身になって耳を貸す。すると、その兵の潜めた声を聞いたマーコスの眉間に深い皺が刻まれ、「そうか」と重たい呟きが漏れる。
その呟きに、納得のような響きがあるのを聞き取り、ラムは目を細めた。
そこへ――、
「マーコス団長、何があった。審問に関係したことか?」
そのボルドーの問いかけに、振り向いたマーコスがちらとエミリアの方を見る。それから彼は巨躯の上に乗った首をゆるゆると左右に振り、
「無関係ではありません」
「であれば、聞かせてもらおう。兵の慌てようは只事ではない」
「――王侯館に残ったエミリア様の陣営の面々が、見張りの隙を突いて館を離れました。制止に入った兵に負傷者はありませんが、現在、行方を追っています」
「なんと……」
低く、告げられるマーコスからの報告に、ボルドーが自分の口元に手をやる。それから痩せた賢老は嘆くような吐息をこぼしてエミリアを見つめ、
「王城で主が弁明する裏で、配下は王国の目を欺くに至った。これを好意的に捉えることは、いささか無理がありましょう」
「私はそうは思わないわ。みんながそうしたんなら、そうするのが一番だってみんなが考えたってことだもの」
「残念ですが、そのお答えでは到底納得できかねる。――騎士ナツキ・スバルへの疑惑も含め、エミリア様には城内に留まっていただく」
言葉面だけ無念を滲ませ、そう命じたボルドーにラムは歯噛みする。
かの人物の亜人嫌いは有名な話だが、穏健派と目されるマイクロトフがいなくなったのに合わせ、こうも強引にエミリアの排除にかかるとは信じ難かった。
この手回しの良さは、あるいはマイクロトフの死さえ――いずれにせよ、残念がる態度は白々しい以外の何物でもない。
最初から、この審問の決着はこうなると決まっていたはずなのだから。
だからこそ――、
「――レム、しっかりガーフとオットーの尻を叩きなさい。あなたが頼りよ」
拘禁され、身動きを封じられるエミリアとラムの不足を、残してきたレムたちに委ねる以外にないと、そう覚悟の上での別れであったのだ。
△▼△▼△▼△
「――エミリア姉ちゃん!」
「フェルトちゃん?」
審問の行われた評議室から連れ出され、城内の別室へと移動する最中だった。
パタパタと足音を立てながら、血相を変えてエミリアに駆け寄ってきたのは、彼女と同じ王選候補者の一人、フェルトだった。
エミリアの前まで駆けてきたフェルトは、その前後を挟み込むように立つ王国兵たちを順番に睨みつけると、
「オイ、こりゃどーなってんだ? まるで姉ちゃんが犯罪者みてーな扱いじゃねーか。アタシらは王選候補者ってんだ。こんな真似していいのかよ」
「フェルトちゃん、いいの! 私は納得……納得はすごーくできてないけど、納得みたいなものはしてるから」
「なんだそりゃ! 納得にぽいもぽくねーもねーだろ! するかしねーかだけだ! してねーってんならしてねーんだよ!」
猛然と怒りを露わにするフェルトに、エミリアは目を丸くし、それから眉尻を下げる。フェルトが自分の代わりに怒ってくれていると、それが嬉しかった。
思わず抱きしめたい気持ちになるが、それをすると、フェルトを人質に取ろうとしたと思われるかもしれないので、ぐっと我慢だ。
「フェルト様、お気持ちはとてもありがたいのですが、エミリア様はエミリア様で、中の方々に一発かましてきましたのでご安心を」
「一発かましてって……あー、そりゃそーか。姉ちゃんがやられっ放しで終わるわけねーもんな。……まさか、それで捕まってんじゃねーだろーな」
「ううん、そうじゃないの。でも、今すぐはどうにもできなくて」
「……クルシュ姉ちゃんと、スバル兄ちゃんのことか」
ラムの返事に頷いたあと、そう舌打ちしたフェルトにエミリアは頷く。
彼女の耳にも、スバルたちのことは届いているらしい。が、よくよく考えてみれば、今日は他ならぬラインハルトの力を借りて、プリステラまで急ぐ予定だったのだ。
その約束に、エミリアたちもフィルオーレたちも現れないとなれば、何があったのかとフェルトが心配して当然だった。
「あの髭のなっげー爺さんが殺されたってのもあれだが、その犯人が兄ちゃんたちだって疑われてるなんてふざけすぎだろ」
「フェルトちゃんも、そう思ってくれる?」
「ったりめーだろ? アタシは腸好きのヤベー女に狙われたときから兄ちゃんには借りがあんだ。それにプリステラでモノホンの大罪司教共を見て、『憤怒』の護送だってしてたんだぜ? あのイカレヤロー共と兄ちゃんが仲間のわけねーだろ」
「――っ」
その揺るがないフェルトの答えに、エミリアはまたしてもその小柄な体を抱きしめたい衝動を堪えるのに必死になった。
だが、そうだ。そうなのだ。エミリアと、陣営の仲間たちだけではない。こうやって別の陣営のフェルトも、きっと他の人たちも、ちゃんとわかってくれる。
ナツキ・スバルがどれほど頑張り屋で、一生懸命なのか、きっとみんなも。
「――エミリア! わたくしもいくわ! わたくしも一緒に閉じ込められます!」
そこへ、評議室の扉が勢いよく開かれる音と、飛び出してくる少女の声が響く。
ぎょっとしたエミリアたちが振り向くと、向こうからバタバタと髪を振り乱して走ってくるのは、半べそを掻いたフィルオーレだった。
彼女は猛然と、その勢いのままにエミリアの胸に飛び込んできて、
「あ、あ、あ、あんな一方的な審問ないわ! わたくし、抗議する! するから! 王選候補者になったんだもの! 権力! そう、わたくしの持てる権力の全てを使って、エミリアの不当な扱いの撤廃を……!」
「お、落ち着いて、フィルオーレ。そんなことしちゃダメよ。気持ちはすごーく嬉しいけど、そんなことしたらあなたにも迷惑がかかっちゃう」
「一緒に泥を被れなくて、何がお友達!? わたくし、エミリアとだったら泥んこになったって構わないわ!」
胸の中でガバッと顔を上げ、フィルオーレが躊躇いなくそう言ってくる。その勢いに目を白黒させながら、エミリアはジーンと込み上げるものを強く感じていた。
せっかくフェルトを抱きしめるのを堪えたのに、フィルオーレからこんな風に飛び込んでこられたのでは我慢も台無しだ。
と、そうエミリアに抱きすくめられながら、フィルオーレが「あ」と、すぐ傍らで頭を掻いているフェルトに気付いた。
そう言えば、この二人の間柄はとても複雑なはずだ。
本当なら、エミリアが間を取り持たなくてはいけないのだが――、
「――心配いらねーよ、エミリア姉ちゃん。今は兄ちゃんたちだけのことで頭悩ませてな。アタシの問題まで背負い込むこたねーよ」
「そ、そうね、それがいいと思います。わたくしもそう言おうと思っていたのよ。なんだかわたくしたち、気が合うわね!」
「そりゃ、もしかしたら一個しかねー席を二回も取り合うかもしれねーんだぜ? 気が合うかどうかはともかく、因縁はあるんだろーよ」
片目をつむり、物珍しげにフィルオーレを眺めているフェルトに、フィルオーレの方もドギマギと、エミリアに縋り付きながらフェルトを見返している。
この二人の問題もそうだし、もちろん、スバルたちとクルシュのことも、王侯館から飛び出したというオットーたちのことも心配と、心配だらけだ。
「きっとみんな大丈夫だって思いたいけど……」
「――そうですね。時にフェルト様、ご相談が」
「あ? なんだよ、メイドの姉ちゃん」
「先ほど、バルスに借りがあると仰っていましたね。それを早めに返されませんか?」
「へえ?」
そのラムの言葉に、フェルトが片眉を上げ、興味深そうに頬を歪めた。
そのフェルトの反応とラムの態度に、エミリアは「もしかして……」と気付く。スバルに恩返しをするという話になるなら――、
「――『剣聖』様は、今日はご一緒ですか?」
「ま、そーくるわな。この気持ちわりー状況だ。アタシも放っちゃおけねーし、気持ちよく貸し出してやる……って言いてーとこなんだが」
「……難しそう?」
「いや、今別件で城の別のとこに呼ばれてやがんだ。アタシもそーだしな」
ガリガリと頭を掻きながら、そう答えるフェルトにエミリアはラムと顔を見合わせる。するとおずおずと、まだエミリアの胸の中のフィルオーレが首を傾げ、
「あなたもって……あなたも呼ばれてきたの? エミリアが心配だったのじゃなくて?」
「心配だけじゃねーって話だ。わりーな」
「それは、悪くなんて全然ないけど、呼び出しって……」
「――アタシも、あの部屋なんだよ」
言って、フェルトが顎をしゃくって示すのは、フィルオーレが飛び出してきた部屋であり、エミリアが審問を受けた部屋――評議室だ。
見れば、廊下に立ち止まったエミリアたちの周囲には、エミリアとラムを連れていくための兵だけでなく、フェルトを案内する兵も加わっている。騎士団長のマーコスに連行されたエミリアたちとは事情が違うとは思うが――、
「龍が出るか魔女が出るか――どのみち、いい予感は、しねーよな?」
フェルトらしいその笑みに、これまでと同じ安心感を覚えることができないのが、エミリアには無性に悔しく感じられた。
△▼△▼△▼△
――同じ頃、王城の別室に呼ばれたラインハルト・ヴァン・アストレアは、卓上に広げられた王都の地図を見下ろしていた。
「――――」
地図の中心に置かれた駒、それは貴族街に位置する王侯館を示している。
そこから貴族街の外縁へ伸びるいくつもの道筋に、赤い印が打たれていた。見慣れた王都の図面はしかし、今や逃走経路と包囲線を示す冷たい絵図に変わっている。
そして、それが意味するところは――、
「王侯館より離脱したエミリア様の陣営の残留者は監視網を掻い潜り、貴族街の外へ逃れる算段を企てているものと推測される」
そう報告したのは、『賢人会』の使者として遣わされた文官だった。
感情を窺わせない表情に声色、与えられた役割を果たすに徹底した使者の態度に、ラインハルトは何も言及しない。ただ、呼び出された理由に耳を傾けるのみ。
「――――」
「このものたちの目的は、騎士ナツキ・スバルとの合流、あるいは城内に留まるエミリア様の奪還準備と目されます。無論、現時点では推測に過ぎませんが、監視下に置かれた王侯館から火災騒ぎに乗じて離脱した事実は重い」
「火災?」
「厨房の床下から煙が上がったとのことです。実火による延焼は確認されておらず、煙の大半は煙突を塞がれたことによる換気の不通が原因だと」
「なるほど」
見張りの兵たちが欺かれた事情を明かし、文官が手元の命令書をめくる。彼は手元のそれと、卓上の地図を順繰りに眺め、
「追跡を行っておりますが、件のものたちは並外れた力量の持ち主、制圧を焦れば兵の側にも、対象の側にも犠牲が出る恐れがあります。故に――」
「――僕に命令が下ったと」
「はい。『剣聖』ラインハルト・ヴァン・アストレア殿、あなたに彼らの追跡、ならびに捕縛を命ずるよう達されております。これを」
と、そう言って渡された命令書には、確かに今しがた文官から告げられた内容と一字一句同じ文面が綴られており、その徹底した姿勢の強固さが察せられた。
「――――」
常ならば、目を走らせた命令書の内容を即座に受諾し、ラインハルトは動く。
しかし、今このとき、『剣聖』の返答はわずかに遅れた。それはラインハルトと共に、王城に足を運んだ主の存在と無縁では――、
「――バルガ・クロムウェル」
不意に、文官が口にした名が、狭い部屋の空気を一段低くする。
「――――」
名前、ただそれだけを口にして、文官はそれ以上の言葉を続けない。そしてラインハルトの側にも、その意味を問い質す言葉は発されない。
しばしの沈黙ののち、ラインハルトは命令書を折り畳み、文官に返した。
そして――、
「――承知しました」
それだけを告げ、ラインハルトは地図からも、文官からも視線を外した。
そのまま踵を返す彼の背に、文官が一言だけ添える。
「対象は、捕縛を」
「止めます」
――その一言だけを残し、『剣聖』は王城の小会議室をあとにした。




