第十章16 『騙し討ち』
「スバルが――」
「――大罪司教?」
それは、全く意味のわからない疑いだった。
確かめるように改めて音にされても、やはり全く意味がわからない。意味がわからなすぎて、こちらを油断させるつもりなら大成功だと笑ってしまうぐらいだ。
だが、その意味のわからない疑いを冗談だと笑い飛ばすには、目の前の大男――マーコスと呼ばれた人物の面構えが厳めしすぎる。
少なくとも、この男の前で緊張を解く選択肢は、陣営の筆頭武官の立場を任されているガーフィールには微塵もなかった。
「――――」
くん、と小さく鼻を鳴らし、ガーフィールは王侯館に立ち込める重たい緊迫感を静かに嗅ぎ取る。――感じるのは抑制された戦意と、心情を揺らす不安と不信感、それらの後ろに隠されたツンと刺激臭のある恐れの感情だ。
直近では、ヴォラキア帝国で幾度も嗅ぐ機会のあったその空気が、爆発を間近にした火の魔石庫の空気であることをガーフィールは知っている。
すなわち――、
「俺様ッたちとやり合おォってのかよォ」
「――それは、こちらの要請を拒否されるということか?」
「あァ? 先にッツバ飛ばすよォな真似ッしといて、ケンカ売られッたみてェなツラしてんじゃァねェぞ!」
「待って。噛みついちゃダメよ、ガーフィール。お願い」
苛立ちに牙を噛み鳴らし、身長差のあるマーコスを下から睨め上げるガーフィールを、そのエミリアの言葉が後ろから引き止めた。
お願い、とまで付け加えられては、ガーフィールもツノを引っ込めるしかない。その態度に「ありがと」と言い添え、それからエミリアは毅然と顔を上げた。
「うちの子がごめんなさい。すごーく驚いちゃったから何も言えなくって、その私の代わりに怒ってくれただけなの」
「では、エミリア様も彼と同じようにお怒りと?」
「それは……ええ、そうね。どうしてそんなおかしなことを言うのって、驚いたあとの私はすごーくモヤモヤしてる。今にも怒り出しそうなんだと思うわ。でも――」
そこでエミリアは言葉を切り、自分の胸に手を当てる。そこに下がった緑色の魔晶石を指で弄び、その硬い感触に思考を整理するようにしながら、
「ここで私が癇癪を起こしても、スバルの立場がよくなるわけじゃないもの。そんなの、ただ私が怒りたいから怒るだけだわ。それじゃダメだと思うから」
「――。目を見て、はっきりと仰るのですね」
「……マーコスさんとは、前にお話ししてからあまり話せてなかったものね。今の私はこんな感じで、前よりちょっぴりだけ強くなったの。それも、スバルのおかげ」
「――――」
感情に流されず、さりとてやり込められることもなく、そう答えるエミリアにマーコスは何やら思うところがあるような顔で目を細めている。
一方でガーフィールも、エミリアの話を聞いているうちに、頭に上った血がゆっくりと下りてくるのを感じていた。それでも体の緊張は解けないし、解かないが。
「そもそも、その疑義とやらが荒唐無稽なものにしか思えませんね。ナツキさんが魔女教と関係がある? それも大罪司教レベルで? 笑い話にもなりませんよ」
「そうですよ。それに、スバル様はこれまでに魔女教の起こした問題を何個も解決してきたんですっ。それこそ、大罪司教だってやっつけて、わたしのことも、村のみんなのことも助けてくれたのに……変なこと言わないでくださいっ」
オットーとペトラの援護射撃が入り、ガーフィールも「そォだそォだ」と頷く。
『怠惰』と『強欲』、それに『暴食』の大罪司教だって、スバルが主導した戦いで討ち取り、あるいは捕縛して魔女教に大打撃を与えているのだ。それに加えて、三大魔獣の『白鯨』と『大兎』の討伐にもスバルは大きく貢献している。
これでスバルが魔女教などと、あまりにも馬鹿げた話というものだ。
「まァさか、味方同士で大揉めッしてこのザマなんて言うんじゃァねェだろォな。もし俺様がオットー兄ィとケンカッしても、オットー兄ィをボコボコにしたりッしねェぜ。最初ッからケンカなんかなんねェけどなァ」
「ガーフとオットーさんの話が適切かは怪しいですが、私もその疑問はもっともだと思います。……あの人が、そういう悪意を抱ける人間とは思えませんし」
「そうよねえ。確かにお兄さんは面倒事をたっくさん背負いたがるみたいだけどお、それをするのも考えなしだからって理由が一番だと思うしねえ」
チクリとレムの一刺しがあったものの、それに続いたメィリィも含め、陣営の意見はガーフィールのものと一致、それがエミリアを中心としたこちらの総意だ。
それを受け、マーコスは巌の顔つきを小揺るぎもさせないまま、
「騎士ナツキ・スバルに対し、陣営の方々が絶大な信頼を寄せていることは承知した。その上で、エミリア様には再度ご登城を要請させていただきます」
「今の話を、お城の人たちにもしたらいいの?」
「それに加え、こちらの質疑に偽りなくお答えいただければ。老婆心ながら、疑義の解消に最大限ご協力いただけることが、疑いを晴らす最善手であるとお伝えいたします」
「――――」
「――あの、少しいいですか?」
重ねて、最初の要請と同じことを求めてくるマーコスに、エミリアが紫紺の瞳を思案げに伏せたところで、そう切り出したのはレムだ。
彼女はガーフィール同様に、周囲の王国兵たちを厳しく警戒しながら尋ねる。
それは――、
「肝心のあの人……ナツキ・スバルは、一緒でなくていいんですか?」
――瞬間、その問いに王国兵たちの空気が一変する。
「――――」
向けられる周囲の感情、それが尖ったものに変化し、ガーフィールの産毛が逆立つ。
物理的に抜かれていないだけで、感覚的には剣先を向けられたに等しい注視が王侯館の応接間を支配する。それはかろうじて波立っていなかった水面が踏み荒らされ、消えない波紋を起こされたような感情のさざ波だった。
それは泡が弾け、飛沫の一つでも切っ掛けになりかねない一触即発――、
「――静まれ」
その揺れる大勢の感情を、たったの一言が――否、その一言に伴った、強烈な剣気が一発で薙ぎ払い、力ずくで波をねじ伏せた。
「――ッ」
ズンと、山のように巨大な掌で殴られたような錯覚を味わうガーフィール。瞬間的なそれに全身の毛穴を開かれ、思わず体が獣化しかけるのを理性で抑え込む。
寸前に、王国兵たちから向けられたものとは比較にならないほど巨大な剣気、その発生源が有する尋常でない力に、ガーフィールの本能が粟立っていた。
「兵たちが大変失礼した。――そちらの武官殿には、重ねて失礼をお詫びする」
「――ァ? 俺様、だけ?」
「兵たちに絞ったつもりが、中ててしまった。よほど鍛えているとお見受けする」
目礼するマーコスに、ガーフィールは自分以外の陣営の仲間たちが、今の剣気に心当たりのない顔で眉を顰めているのに気付いた。
どうやらマーコスの言う通り、あれを感じたのは本当にガーフィールと、元々の対象だった王国兵たちだけであるらしい。――改めて、ガーフィールは思い知った。
マーコス・ギルダーク――『剣聖』ラインハルト・ヴァン・アストレアの規格外さの陰に隠れているが、ルグニカ王国騎士団の頂点、その実力はハリボテではないのだと。
「……今のあなたたちの反応、すごーくへんてこに感じたわ。レムの質問に答えてもらえる? スバルとベアトリスは、どうしてるの?」
戦慄と警戒、両方を翠の双眸に宿したガーフィールを余所に、思わしげに目を細めるエミリアに尋ねられ、マーコスは顔の陰影を一段濃くすると、
「――。エミリア様は、騎士ナツキ・スバルの動向については?」
「今日は、マイクロトフさんとお話があるって出掛けてるの。一人で……ベアトリスも一緒だから二人でだけど、話す約束があるからって――」
「――マイクロトフ・マクマホン卿は、亡くなられました」
「え」
エミリアの話を遮るように差し込まれた報告、それは言葉の不躾さを窘めるよりも大きなインパクトとなって、応接間の空気を鋭く打った。
マイクロトフ・マクマホンの名前は、当然ながらガーフィールも知っている。
スバルたちが会いにいったというだけでなく、王選に関わるビッグネームだ。『賢人会』の中核でもある人物、その死を聞かされ、驚かないはずもない。
だが、本当のショックはそのあとに続く言葉の方だった。
混乱の冷めやらないガーフィールたちに、マーコスがなおも畳みかける。
それは――、
「現在、王国は騎士ナツキ・スバル及び、王選候補者でもあるクルシュ・カルステン公爵が共謀し、マクマホン卿の死に関わった線で行方を追っています」
「待って! どういうこと? スバルと、クルシュさんが? マイクロトフさんの死に関わったって……」
「現場から回収されたマクマホン卿のご遺体の剣傷と、カルステン公爵家の家紋が入った騎士剣の照合が一致しました。マクマホン卿がカルステン公爵の手にかかり、その逃走を騎士ナツキ・スバルが幇助した報告もあります」
「なァ……ッ」
整然と並べられた情報の暴力に、ガーフィールは一瞬眩暈を覚える。
マイクロトフという要人が殺されただけでなく、それをしたのがクルシュで、スバルがその手伝いをした――あまりにも、馬鹿げた言いがかりとしか思えない。
「あのッ公爵さんが……ッ」
スバルへのふざけた嫌疑を抜きにして、クルシュが凶行に走ったと疑われていることだってガーフィールには信じられなかった。
ガーフィールとクルシュとの接点は、水門都市でのほんの一日半しかない。だが、あの戦いで肩を並べ、街を救うために一緒に魔女教と戦った仲間だ。
彼女が本気で誰かのために剣を振るえる一人であることを知っているし、そのために支払った代償のことも、何とかしたいと心底思っていた。
直接ガーフィールはお目にかかっていないが、『神龍教会』の秘蹟とやらの力でクルシュの体が治ったと聞いたとき、王選周りの様々な事情をうっちゃって、とにかくよかったと安堵もしていたのだ。
――そのクルシュが凶行に走り、それをスバルが幇助したなどと、何を馬鹿な。
「――確認させてください。行方を追っているということは、ナツキさんとクルシュ様は今も逃亡中ということですね?」
不意に、感情を押し殺した声で、現状を適切に拾おうと質疑が飛ぶ。飛ばしたのは言うまでもなく、陣営の知の要であるオットーだ。
そのオットーに、動揺を収めようとしているエミリアの紫紺の瞳が向く。
「オットーくん……」
「大事なことです。わざわざ騎士団長がこの場に足を運んでらっしゃるのも、エミリア様への敬意の表れというより、警戒が理由でしょう」
「警戒って、エミリアさんや私たちが暴れるとでも?」
「それもないではないでしょうが、一番の懸念材料は合流でしょう。ナツキさんたちが僕たちに合流し、匿われることを警戒しての布陣だ。違いますか?」
「――配置の意図を説明するのは軍機に関わるため、お答えいたしかねる」
「なるほど。否定されないなら十分です」
マーコスに答えに首肯するオットーに、湧き上がる激情と動揺を己の中でこね、無害なものに変換しようと努めるガーフィールは頼もしさしか感じない。
こういうとき、オットーがいてくれてよかったと本気で思う。
いくつもの思惑が入り乱れる複雑な盤面も、オットーがうまく整理し、必要な情報をくれると信じられるから、ガーフィールは盾の役目に専念できた。
ここでも、ガーフィールは余計な感情に惑わされず、それを貫くと決める。
「マクマホン卿という方が亡くなられたことと、あの人が魔女教の一員ではないかという疑い……関連があるようで、ないようにも感じられます。それでエミリアさんから話を聞きたいというのは、いくら何でも」
「疑義を解消する最善の方法は、王城にて質疑に応じていただくこととすでにお伝えしました。これを拒否されるのであれば、エミリア様ならびに陣営は、騎士ナツキ・スバルの疑惑についての説明責任を放棄したと受け取らざるを得ません」
「そんなの、エミリア姉様の意思とか関係なしの強制じゃないですかっ」
「強制ではありません。ですが、応じていただけないのであれば、疑義は疑義のまま、王国は騎士ナツキ・スバルへの態度を決めるだけのこと」
「――――」
低い声に感情を乗せないまま、マーコスは変わらぬ要請を続けてくる。
押しても引いても、まさに山のようにどっしり構える彼を動かすことはできない。
そう焦れた空気が、こちら側にもあちら側にも蔓延しかけたところで――、
「――わかりました。お城にいきます。そこでスバルの話をさせて」
「賢明なご判断です」
「……だったら、すぐにご用意を」
状況の停滞と決壊を嫌い、求めに応じると決断したエミリアにマーコスが頷く。その態度への反感を瞳に宿しながら、ペトラが城に上がる用意に動こうとする。
しかし、そのペトラを「いえ」とオットーが引き止めた。彼は双眸を細めたまま、目を丸くしたペトラに頷きかけたあと、
「城への同行者は慎重に選びます。……ですよね?」
「ご慧眼です。話が早い」
「……どういう意味?」
オットーとマーコスの視線の交錯に、エミリアが形のいい眉を顰める。そのエミリアの疑問に、マーコスは長身の背筋を正したまま、
「エミリア様のご登城ですが、陣営の皆様を伴うことは認められません。現在、騎士ナツキ・スバルを巡る疑義は、エミリア様の陣営全体に及びかねないものです。証言の独立性を保つためにも、付き添いは身の回りの世話を担う一名に限らせていただきたい」
「世話役が、一人だけ……!?」
「ご苦労をおかけいたしますが、ご協力願いたい」
こちらの驚きを予想していたのだろう、マーコスの態度は揺るぎない。
ガーフィールはオットーを窺い、微かに眉をしかめた兄貴分の顔から、彼もまたこの答えを予期していたのだと察した。問題は、これを予期していたところで、陣営にとっての痛手であることに違いないということだ。
「せめて、俺ッ様だけでも……」
「それは推奨しない。武官として護衛役を務めたい気持ちは理解するが、あなたは十分以上に即応戦力だ。疑義の渦中にあるエミリア様が戦力を伴って登城するなら、それは弁明のためではなく示威のためとなる」
「んな言いがかり……」
「そう受け取るものがいる、ということだ」
言葉を連ねて、相手はこちらの意図の頭を押さえつけてくる。どうにか躱したいが、オットーすら口を挟まない以上、相手の論は筋が通っているということだ。
だが――、
「世話役って話ッになると……」
選択肢に上がってくるのは、今の陣営の状態ではペトラのレムの二人しかいない。この場にフレデリカがいれば、姉に任せるのが最善だっただろうが、ないものねだりだ。
『記憶』が戻っていないレムにエミリアを任せるのは難しく、目端が利くとはいえ、これだけの事態をペトラに預けるのは不安が勝る。
いったい、どうするのが最善なのか――そう思ったときだ。
「――なら決まりね。エミリア様とは、ラムがいくわ」
「――ッ、ラム!?」
言いながら、応接間の入口に姿を見せたラムを見て、ガーフィールは目を剥く。
見慣れたメイド服に着替え、普段通りの意思の強い表情をしたラムの登場に、ガーフィールはもちろん、エミリアたちも驚きを隠せない。
なにせ、ラムはプレアデス監視塔への旅から始まった重稼働が原因で、ほとんど寝たきり同然の状態で休まされていたはずなのだ。今日、これから予定されていたプリステラ行きにも同行せず、王都でガーフィールたちの帰りを待つはずだった身。
その彼女が立ち上がり、あろうことか堂々とした姿でエミリアの傍らに立つ。そのまま彼女は唖然とするこちらの前で、スカートの裾を摘まんだカーテシーをした。
「遅れて申し訳ございません。責任を以て、寝台の柔らかさを確かめていたせいで、お客様の来訪に気付くのが遅れました」
「……ベッドの感触は、もう大丈夫なの?」
「そうですね。及第点といったところでしょうか」
小さく肩をすくめ、そう答えるラムの表情に疲労の色はない。が、それは彼女が普段から負担を隠すのが上手なだけで、回復したわけでないのは明白だった。
今のエミリアとのやり取りも、ラムの体調をベッドの調子と言い換えたもので、不安が残されていることは間違いない。
しかし――、
「姉様……」
「レム、そっちの残り物組の面倒は任せたわ。全員、可愛くて有能なラムとレムの姉妹の力がないと立ち行かないもの。ペトラだけ、多少マシね」
「――はい、わかりました」
自然、その役割に収まることを決めたラムの言葉に、姉の心配や不安をどうにか呑み込んだレムが、薄青の瞳を潤ませないよう堪えながら頷いた。
そのやり取りの傍ら、ガーフィールはオットーの方を見る。一種の、ラムの独断とも思える行動だが、オットーの判断は――、
「そうですね、ラムさんが適任だと思います。エミリア様をお任せできますか」
「言われるまでもないわ。オットーの方こそしゃんとなさい。ガーフも、せいぜい上手く使われることね」
「……言われッまでもねェ」
エミリアとレム、それにオットーもラムの判断を尊重し、彼女から言葉を託されたものとして毅然と応じているのに、ガーフィールの声には弱さがまじった。
それをガーフィールは恥じたが、ラムは薄紅の瞳をわずかに緩め、
「馬鹿ね」
と、ガーフィールの弱さを甘い厳しさで押しのけていった。
「――みんな、いってくるわ。ちゃんとスバルの誤解を解いて、みんなにわかってもらえるように話してくるから」
そうして、世話役としてラムの同行が陣営の全会一致となると、登城する決意を固めたエミリアが宣言し、ガーフィールたち全員の顔を見渡した。
正直言って、状況はあまりにも理不尽極まりない。
こういう空気のとき、ただ一方的にやられているのはよくない兆候だ。これが殴り合いの戦いなら、相手にやりたいことを好き放題やらせていたらすぐに負けてしまう。
負けないためには、相手のやりたいことを見抜いてそれを止め、逆にこちらがやりたいことをやり返してやらなければ。
「いつもそうだけど、みんなの力を貸して。どうかお願い」
そう言って、エミリアが深々と頭を下げ、陣営の仲間たちにそう頼む。
陣営のトップで、王選候補者で、ちゃんと偉い肩書きを持っているのに、それでも躊躇なく頭を下げて、誰かの力を当てにできる。
そういうところが、ガーフィールの――否、陣営の仲間たちが、エミリアやスバルのために力を尽くしたいと、そう思える理由なのだ。
だから――、
「おォ! 当ッ然だ! 心配いらねェぜ、エミリア様!」
せめて、これから城に向かうエミリアとラムの不安が蹴散らせるように、殊更気合いを入れた声で、ガーフィールは拳を掲げたのだった。
△▼△▼△▼△
――そうして、エミリアがラムだけを世話役として引き連れ、マーコスらに王城へと連行されていくのを見送った一同だったが。
「全員、最低限でいいので荷物をまとめてください。――五分で出ます」
と、王侯館に残った面々に向かって、早々にオットーがそう切り出した。
陣営だけで話し合いがしたいと、館の見張りに残された兵たちを追い払い、応接間に自分たちだけで残ってすぐの発言に、ガーフィールは思わず目を剥く。
「五分って、エミリア様を待たッねェのかよォ?」
「はい。状況は一刻の猶予も許されません。ナツキさんにかけられた嫌疑といい、エミリア様の登城を迫る強硬な態度といい……狙いは明らかです」
「――それって、王選からの排除、ですよね」
「ほぼ間違いなく」
ガーフィールの疑問とペトラの言葉、その両方に応じたオットーは、普段は柔らかな面差しに怜悧を宿し、「いいですか」と指を立てて、
「あまりにもタイミングが噛み合いすぎています。マクマホン卿の呼び出しがあった日に、ナツキさんが巻き込まれる形で刃傷沙汰……それも、手を下したのが王選候補者であるクルシュ様だなんて、大きな力が働いている」
「エミリアさんと、もうお一方を揃って盤面から排除する……あの人は、そのために利用されたということですね」
「現時点である情報だと、そう考えるしかないでしょう。クルシュ様に関しては、『神龍教会』の手を借りた時点で、王選の続行は厳しかったはずですが……」
「ねーえ、話し合いが尽きないのはわかるけどお、あんまり時間の余裕ってないんじゃないかしらあ。あのお岩さんが戻ってきたらマズいんでしょお?」
そう口を挟んで、長引きかけた話に待ったをかけたのはメィリィだ。
自分の三つ編みを弄びながら、頭の上の小紅蠍の鋏をシャキシャキさせる彼女の言――お岩さんとは、たぶんマーコスのことを言っているのだろう。
確かに今、マーコスはエミリアに付き添って王城に向かっていて、この場に不在だ。現状、王侯館は待機を命じられた王国兵たちに囲まれ、事実上、残ったガーフィールたちは大人しく軟禁を課された立場だが――、
「大人しく従っていたら打つ手がなくなる。マーコスさんがくる前に動きます」
「……あの人を探しにいくんですね」
「ナツキさんと、クルシュ様です。あの二人に何があって、マクマホン卿の館で何を見たのか、それを知らなくてはお話にならない」
「大丈夫でしょうか。あの人を頼りにして」
「ナツキさんがダメでも、ベアトリスちゃんがついていますよ。本体よりも、くっついている子の方が頼もしすぎますから」
小さく笑みを覗かせ、オットーが安心させるようにレムに笑いかける。それに眉尻を下げたレムは、心からの安堵ではないだろうが、その気遣いを受け取った。
その、不安を全員で砕いていく流れに、ガーフィールは自分の頬を両手で叩き、
「わァかった。俺ッ様も腹ァくくるぜ! オットー兄ィ、俺様ッたちがいなくなっても、エミリア様とラムにァ……」
「危険はないはずです。色んな手続きを飛ばして、王選候補者であるエミリア様に危害を加えることは許されない。そこのルールは守るでしょう。どのみち、登城を迫った時点で相手方の狙いはエミリア様の拘禁一択です」
「ちッ、わァった! なら、俺様が見張り全員ぶっちめて、その隙に――」
「――いけません」
「あァ?」
拳の骨を鳴らし、気勢を高めたガーフィールの前でオットーが首を横に振る。
その意気を挫かれ、目を丸くすると、オットーは真剣な顔でガーフィールを見つめ、
「見張りの兵は命令を受けているだけで、僕たちの敵ではありません。傷を負わせることは避けたい。理想は剣も抜かせないことです。僕たちがすべきは潔白を晴らすための逃走であって、戦争ではありません」
「私たちが被害を出せば、エミリア様や姉様の……あの人の立場も悪くなる」
「そういうことです」
帽子の位置を直しながら頷くオットーに、ガーフィールは奥歯を軋らせる。
わかる。わかる理屈だ。わかる理屈だが、そこからの発展がガーフィールには思いつかない。もちろん、マーコスが戻ってきた場合、自分たちが王侯館から無事に脱出できる保証は全くなくなる。
だが、今ならば少なくとも、脱出だけは力ずくでできるのだ。それを封じられたとなると、いったい何ができるか――、
「見張りが手薄なところは、僕の方で虫や鳥たちに聞き取りできます。彼らに頼んで、気を引くこともできるでしょう。それでも確実ではないですが……」
「――だったら、わたし、考えがあります」
「本当ですか、ペトラさん」
加護を用いたいつもの手段を提案するオットー、そこにバッと手を上げたペトラに、レムが目を丸くしながら問いかける。
それを受け、ペトラは「はいっ」と小さな両手の拳をぎゅっと握りしめ、
「わたし、今とっても怒ってます。スバルが疑われてることにも、エミリア姉様が睨まれてることにも、ラム姉様に無理させてることにも。だから、絶対に向こうの言いなりになんてなりませんっ」
「そりゃおっかなくて頼もッしいけどよォ……どォすんだ?」
「もちろん、とっておきの作戦が。オットーさんの特技ですっ」
「僕の、特技……?」
ビシッと名指しされ、しかしオットーが心当たりのない顔で首を傾げる。一方、興奮に頬を紅潮させたペトラは、その作戦とやらに自信満々な様子だ。
「ペトラちゃん、何する気なのお?」
「メィリィちゃんも、ガーフさんも知ってることだよ。あのね――」
そう言って、手招きするペトラに全員が顔を寄せ、そのとっておきの作戦の内容を彼女が堂々と説明する。
それは――、
△▼△▼△▼△
「火事だ――!!」
そう切羽詰まった王国兵の声が上がり、王侯館にパニックが燃え広がる。
彼らが目撃したのは、濛々とものすごい勢いで厨房から溢れ出してくる煙だ。熱と焦げ臭さを伴った煙の大量発生に、勇敢な兵たちの多くが即座に対応に動く。
火元の確認に厨房に飛び込み、立ち込める煙の原因の特定を急ぐ。状況によっては消火を行い、炎もパニックもすぐさま鎮火する狙いだ。
しかし――、
「火元は床下で、煙の原因は塞がれちゃった煙突……鎮火は簡単じゃないです」
そう言って、火災報知作戦を提案、詳しい方法も立案したペトラが、目論見通りに生じたパニックを聞きながら笑みを深めた。
一般的に可愛らしいと言えるはずの笑みだったが、それを間近に見たガーフィールは、何故か底冷えするような感覚を覚えずにはいられなかった。
ともあれ――、
「建物を燃やすのを特技扱いされるの、納得いかないんですけどねえ!」
そんなオットーの訴えを余所に、火災報知作戦は見事に成功した。
王侯館という重要な建物と、そこに軟禁された関係者を危険に晒せないと、王国兵たちは煙への対処に追われ、ガーフィールたちの動向から意識が外れる。
その間に――、
「悪ぃが、ちっとッばかし寝ててッくれや!」
「ごめんなさい。恨みは……姉様の分だけしかありません」
「――っ」
最低限、裏口の見張りを離れなかった二人の兵を、ガーフィールとレムがそれぞれ担当し、絞め落として道を確保する。武器は抜かせない。事前にオットーから言われた条件を満たしつつ、レムと視線を交わし、頷き合う。
それから、オットーとペトラ、それにメィリィたちと一緒に建物の外へ。
「騒ぎを起こしたかったんならあ、わたしが魔獣ちゃんを使ってどうとでもやってあげたのにねえ」
「それだけは絶対ダメだよ。メィリィちゃんが魔獣を呼んで暴れさせたら、わたしたちにかかってる疑惑の後押しになっちゃう。スバルは魔女教の大罪司教だし、エミリア様は『嫉妬の魔女』と関係あるし、メィリィちゃんは魔獣で大暴れするし、オットーさんは片っ端から建物を燃やすって」
「最後の疑惑に関しては、以前のお屋敷もそうですけど、僕だけじゃなく、ペトラちゃんが居合わせてたって反証がありますからね!」
「オットーお兄さんの性分はともかく、わかったわあ」
スカートの裾を翻し、パタパタと走りながらメィリィが肩をすくめる。
とはいえ、飄々とした態度でいる彼女だが、今の発言はたぶん、メィリィなりの歯痒さが言わせた言葉だとガーフィールは思う。
メィリィには力がある。しかし、それは振るえば守りたい相手をも危険に晒してしまう諸刃の剣――振るえない刃の存在は、彼女に歯痒さを覚えさせていると。
「心配ッすんな。てめェの足りねェ分は、俺様がひと働きしてッやらァ」
その走るメィリィの頭を、隣に並んでガーフィールは撫でてやる。途端、嫌そうな顔をしたメィリィにじと目で見られ、ガーフィールは牙を噛み鳴らした。
「オットー兄ィが耳で、俺様が鼻で、どォにか大将を見つけッ出してやんぜ。それまでァ、そォだな……応援だ、応援! 応援ッしてろや」
「応援って……がんばれえ、ってえ?」
「そォだ。実際、応援ッされるってのァ力になるもんだぜ」
メィリィは疑わしい目をするが、ガーフィールには覚えのある感覚だ。
それこそ、向かうはずだったプリステラで、ガーフィールが屍兵となった『八つ腕』のクルガンと曲がりなりにもやり合えたのは、あの場にいた弟妹――それと、スバルの演説に背中を押され、希望を持った市民の応援のおかげだったのだから。
そう、そうなのだ。あそこでガーフィールが勝てたのは、応援の力だ。そしてその応援する気力は、他ならぬスバルが人々を奮い立たせたからあったもの。
魔女教が用意した絶望を、ナツキ・スバルが希望で塗り替えた結果なのだ。
「その大将が、大罪司教ッなわきゃねェだろォが……ッ!」
疑うことすら馬鹿馬鹿しい話に、ガーフィールは自分の尊敬する背中を汚された気分で、本当に本当に腹立たしい。
プリステラだけではない。ガーフィールが祖母たちと暮らした『聖域』や、魔女教から救われたペトラのアーラム村、さらにはスバルと共に白鯨討伐に挑んだものたちと、ナツキ・スバルの善性を知るものたちは大勢いる。
――その中で一番強く、スバルを信じているのが他ならぬエミリアだ。
オットーの話では、エミリアへの登城要請は最初からその拘禁が目的であり、スバルの疑義を晴らすための聞き取りというのは口実に過ぎないと。
だがしかし、もしも相手に本気でスバルの疑義を晴らそうという意思があるなら、そのための言葉を全霊で紡げるのはエミリア以外にいない。
「クソったれ」
悔しい。悔しい。とにかく悔しい。悔しくて悔しくて、悔しさが止まらない。
スバルは、頑張ってきたではないか。惚れたエミリアの力になりたくて、一緒にいるみんなの心を守りたくて、とにかくひたすらがむしゃらに頑張ってきたではないか。
なのにどうして、スバルの頑張りを知るものの声を聞いてくれないのか。
たったそれだけの機会をくれるだけで、わかるはずなのだ。
――ナツキ・スバルが、途方もない理想を叶えようと全力で足掻く、最高にカッコいい、ガーフィールの自慢の兄貴分なのだということが。
「ガーフお兄さん……」
「――ッ、何でもッねェ! 『クルガンは腕をなくしても敵を仕留めた』ってなァ! 俺様も、うじッうじしてらんねェぜ!」
メィリィを励ますつもりが、かえって自分の方が込み上げる始末、それを威勢のいい声と噛み鳴らしで打ち払って、ガーフィールは前を向く。
その様子に、メィリィはわずかに目を細めながら、
「ホント、スバルお兄さんとかエミリアお姉さんのお仲間よねえ、みんな」
と、ガーフィールにとっては褒め言葉でしかないことを呟いた。
「――オットーさん、この先はどうしますか?」
そのガーフィールたちのやり取りを背後に、前を走っているオットーに並び、レムがそう質問を投げかける。
それを受け、オットーは「こっちです」とガーフィールたちを導きながら、
「いったん、足取りを辿られないように身を潜ませたいですね。あと大した時間もかからずに、僕たちが逃げたことは露見します。すぐに貴族街は出たい。そのために、彼らの力を借りているところです」
「――。――――。なるほど」
物陰や小道を選び、王侯館を飛び出してからのルートを先導するオットー。そのオットーの視線の先には、これまたお馴染みの虫たちがこそこそと蠢いている。
それらの力を借りているという言葉に、レムは納得の言葉を吐き出すにとどめた。ガーフィールも過去に痛い目に遭わされたことがあるので、虫たち――主にゾッダ虫を交渉相手にするオットーには、なかなか嫌な思い出がある。
もっとも、味方にすればこれほど頼もしい人間も、虫も、他にはいない。
「検問に捕まったらアウトです。ですから――ガーフィール!」
「おォよ! 二人ッとも、捕まってろやァ!」
「きゃあ――っ」
オットーの呼びかけに、ガーフィールがすぐ脇のメィリィとペトラを引き寄せ、それぞれ片手に抱えながら、目の前の壁――王都の貴族街と平民街を繋ぐ、強固な防壁の壁を蹴り、その向こう側へと乗り越える。
王都の防犯上、重要な役目を果たしているはずの壁だが、ガーフィールの脚力にかかればちょちょいのちょいだ。
「こっちでッちょっと待ってろ。オットー兄ィとレムも連れてこねェとだ」
「それはわかるけど……ガーフさん、いきなり女の子を抱き上げたらダメだよ。わたし、今すごくビックリしたんだから」
「あァ? 何つまらねェこと気にして――怖ェ目ェすんなよ! わァったよ!」
よほどのことらしく、ペトラのじと目に怖気を覚え、ガーフィールはそう謝る。それから助走をつけ、もう一度壁を乗り越えようと上を睨み――、
「――ごめんなさい。ガーフ抜きでも越えられました」
言って、すぐ目の前に降り立ったレムに、ガーフィールは目を丸くした。彼女がこの壁を飛び越えられたこともだが、それ以上に驚きだったのが、
「オットーお兄さんは、悲鳴を上げずに済んだのねえ」
「危ういところでしたけどね……。レムさん、下ろしてください。僕がナツキさんに殺されるので」
「は? どうしてあの人の名前が出てくるんですか。意味がわかりません」
「その言い方は意味がわかってる人の言い方ですよねえ!」
自分を抱き上げるレムに間近で睨まれ、オットーがそう悲鳴を上げる。そのまま何とか地上に下ろしてもらったオットーと、それをからかうペトラたちに、ガーフィールは大きく息を吐きながら、ついさっきまであった情動を抑え込んだ。
間違いなく、状況は悪い。もしかすると、帝国で内乱に巻き込まれたときよりも。
だが、きっとスバルはベアトリスと一緒に無事だ。エミリアも、ラムがついていれば無茶をしないで最善を尽くしてくれる。そしてこの場にいるのは、オットーにレム、ペトラにメィリィとみんな頼もしい。――それを、自分が支える。
状況は、悪い。でも、笑える。笑えるなら、追い込まれ切ってはいない。
「オットー兄ィ、次ァ俺様が抱えてッ飛んでやっからよォ」
「ええ、お願いさせてもらいますよ」
「おォよ。で、こっからどォすんだ? いったん隠れるって話みてェだが」
「そうですね。ひとまず、人気のないところに案内を――」
ゆるゆると首を横に振り、周囲を見回していたオットーがそこで言葉を切った。彼は目をぱちくりとさせ、そのまま防壁近くの建物や物陰、あちこちを忙しなく見る。
そこに隠し切れない焦燥を嗅ぎ取って、
「オットー兄ィ?」
「――いない」
「いねェ? いねェって何が……」
「ゾッダ虫です。いえ、ゾッダ虫だけじゃない。ゾッダ以外の、ここまでの先導を任せた虫たちが、こぞっていなくなって……まさか!」
目を見開いて、オットーが物陰ではなく、ガーフィールたち全員に振り返る。
彼はその表情を強張らせ、焦りに声を焼かれながらガーフィールの腕を掴んだ。
そして――、
「しくじりました! どうやってか……虫たちに騙された!」
「虫が騙すって……オットーさんを? そんなこと……」
「あるんです! 誘導された! このままじゃ逃げ場がない! すぐにここから――」
自然と、安全圏だと思っていた領域を侵犯され、当事者であるオットーさえも信じられない様子で、しかし最悪の可能性を味方に訴える。
それを受け、ガーフィールも唖然となりかける心を叩き起こし、すぐにオットーの言う通りに動こうと――、
「――そこまでだ」
――およそ、最悪の追っ手がかかったのは、まさにその瞬間だった。




