第十章15 『地獄まで一緒』
――広がる業火がナツキ・スバルを呑み込んだとき、ベアトリスは自分の目を疑った。
「どうして……っ」
展開したE・M・Tは、フィールド内で発生したマナ的干渉――主に、魔法の術式の構成に手を加え、それを解除・分解する指示を強引に挿入する禁じ手であり、世が世なら間違いなく禁術に指定されたであろうチート魔法だ。
無論、E・M・Tの仕組みを看破し、魔法の構成をほどかれてなお機能する術式を編まれるような真似をされれば突破される可能性はある。だが、そんな精密に組み立てられた魔造具から、部品を一個だけまるで違うものに入れ替えて、それでも同じに機能させるような規格外、ロズワールや『強欲の魔女』――母でもなければ不可能だ。
そうしたイレギュラーを除けば、何人たりとも魔法を発動することはできない。
それを――、
「いったい、どうやって突破したのよ」
「――。突破なんて大層な話じゃないさ。ただ、頭をひねって、体を張っただけだ」
「――――」
問いを発し、目を細めるベアトリスの視界、そう応じたのは壁に半身を寄りかからせ、その場に体を起こしたティーガ・ラウレオンだ。
激しい攻防の最中、暴れる『龍眼』の娘――クルシュに壁まで蹴り飛ばされて轟沈していたはずの青年が、大きく疲れたような息を吐く。そのティーガは片方の手で自分の愛剣を握り、もう片方の手を己の脇腹に当てている。――その、手を当てた彼の脇腹周辺の服が焦げ、肌が炭化しているのが見えて、ベアトリスは戦慄した。
あれはクルシュに追われた傷ではない。そして、あの傷こそが――、
「……お前、なんてこと考えるかしら」
「必要なことをしただけだよ、ベアトリス嬢。教典にはこうある。『龍が空を巡る間、人は地を耕せ。与えられた時を眠りで腐らせるものは、来たる実りの季節に龍の影すら踏むこと叶わぬ』……とさ」
ゆるゆると首を横に振り、フィルオーレを髣髴とさせる『神龍教会』の教典の一節を披露するティーガ。しかし、そらんじられるほどに教典を読み込んだ事実が、彼のした選択の決断力を裏付けているかと言われれば、ベアトリスは簡単には頷けない。
ティーガの焦げた脇腹の傷、それはスバルとクルシュを呑み込んだものと同じ炎によるもの――ただし、その炎は外からではなく、内から彼を焼いていた。
E・M・Tの効果は、フィールド内で発動する魔法の構成を解体するものだ。
この、フィールド内という条件を、ティーガは力ずくで突破した。
その方法が――、
「――俺の体内で発生した魔法は、この禁術の影響を受けない。……確信があったわけじゃなかったが、正しかったみたいだ」
「――――」
「戦ってる最中に気付いたんだよ。あれ、これって今魔法は使えないみたいだけど、『流法』の効果はちゃんと乗ってるよなって。それで――」
「だからって、自分の腹を切るのも、切った腹から内臓を焼かれる覚悟で魔法を使うのも、どっちも簡単な選択じゃないのよ。……そんなことができるのは、使命感を通り越したものに心を囚われたニンゲンだけかしら」
「なんだか、頭がおかしいって言われてるみたいで心外だな。……無理もないか」
消耗を原因とした声の重さはあっても、答えそのものは淡々としたティーガの返答に、ベアトリスは存在しない肝がぞわぞわと冷えていくのを感じる。
ベアトリスの知るティーガなど、『神龍教会』の教会で出会ってからの一日二日、極々わずかな期間のものでしかない。しかし、その短い時間でも、彼とスバルの相性の良さや、軽妙な語り口と態度に好感を覚えていたのも事実。
その印象が、目の前のティーガと上手く重ならない。――それこそ、必要なタスクをこなすために自分を度外視する機械的な判断は、これまでの印象の真逆だ。
いったい、何が彼にそこまでさせるのか。
使命感を通り越した、常軌を逸した執着――そうした覚悟を元に動く人間を、ベアトリスは知っている。ティーガの執着、それはロズワールと同質のものだ。
四百年かけて、多くの運命を狂わせ、それでもなお目的を達しようとする魔人の境地を目指した男。――そのロズワールと、ティーガは同じところに至ろうというのか。
「必要なことをするだけさ。――俺の人生を、取り戻すために」
ベアトリスの抱いた疑念と沈黙に、ティーガが小さく肩をすくめて答える。それから彼は部屋の奥、轟々と燃え盛る炎の方を見やり、
「俺に言わせれば、ベアトリス嬢の反応こそ予想外というか、意外だ。正直、いきなり魔法をぶっ放される覚悟もしてた。なにせ、したことがしたことだ」
「……無我夢中でやった判断ミスじゃないと、そう受け取るのよ?」
「ああ、それで間違ってない。――クルシュ・カルステン公爵は、再三のこちらの降伏勧告に応じなかった。最後通牒もしたのに、それを斬り捨てたんだ」
「――――」
「マクマホン卿を殺した上に、こちらにも剣を向ける彼女は正気じゃなかった。だから現場判断になるが、徹底的に危険を排除させてもらった。……俺の言ってることは間違ってるかい?」
瀟洒な色男、そうした印象を与える甘いマスクに無感情を貼り付け、ティーガはベアトリスに自分の行いの是非を問うてくる。
そこにあるのは、自分の行いを悔い、許しを求める殉教者の顔ではなく、あくまで淡々と、血で汚れた己の手の責任の所在を確かめる処刑人のそれだ。
もはやベアトリスの中で、ティーガへの最初の印象は取り戻しようがない。
「お前の言うことは、間違ってはいないかしら」
そのティーガを正面に、ベアトリスは丸い瞳を細めて頷く。
実際、そうだ。ベアトリスたちがマクマホン邸の惨劇を目撃し、その下手人となったクルシュと遭遇してからの一連で、ティーガの行動に誤ったところはない。彼は最大限、スバルの意図に従い、クルシュの制圧に協力しようとしたし、その判断をことごとく拒んだのは紛れもなくクルシュ自身だ。
その危険人物から身を守るために、非情の決断をする権利がティーガにはある。たとえそれが、共闘関係にあったスバルを巻き添えにする判断であっても、その件を理由に問答無用で彼を責めることは道義上許されない。
だから――、
「ベティーは、お前を身勝手に責め立てるほど分からず屋じゃないのよ」
「……そうか。なら――」
「――ただし」
そう言って、ベアトリスはティーガの言葉を遮った。
一瞬、ティーガの黄色い双眸を驚きではなく、冷徹な色が過る。ベアトリスはそのことへの感慨を頭の隅に押し込んで、先を続けた。
ティーガの言動は正当なものだが、それでも――、
「――ベティーは、スバルを助けた相手に肩入れするかしら」
――瞬間、向ける目が炙られるほどの強烈な炎が、向こう側から二つに断たれる。
「――――」
音もなく斬られた炎、ゆらゆらと揺らめくそれが分かたれ、中央に開かれた空間に悠然と立つのは『龍眼』の娘――右手で炎を断つ手刀を放ち、左手に意識のないスバルを抱いた、クルシュ・カルステンだった。
「熱を……いや、力の流れを斬った。これが『死穴』というものか」
手刀を放った右手で『龍眼』の瞼に触れ、得心したようにクルシュが呟く。
その腕の一振りであの業炎を打ち払った事実に驚きを得つつ、ベアトリスはクルシュの腕に抱かれたスバルの無事を確かめ、それ以上の安堵を得る。
――スバルが炎に呑まれた直後、ベアトリスが取り乱さずに済んだのは、自分と彼とを繋ぐ契約者とのパスに何ら重篤を報せる反応がなかったからだ。
その事実と、最後の瞬間に見えたもの――迫る炎からスバルの身を守るため、クルシュが彼を引き倒し、自ら炎の前に躍り出たことで、ベアトリスの考えは決まった。
ベアトリスは、クルシュ・カルステンに肩入れすると。
「少なくとも、話を聞く側に回るのよ。細かな判断はそのあとかしら」
「――。賢い判断とは言えないぞ、ベアトリス嬢。契約者のスバルを救われたからって、目を曇らせちゃダメだ。公爵は危険だ」
「ベティーを、向こう見ずで考え足らずな精霊扱いするんじゃないのよ。ああでも、ベティーが軽率で見境のない精霊なら、やっぱりスバルを助けたあの娘に加担するのも至極当然かもしれないかしら」
「揚げ足取りなんてしてる場合か!? じきに、この火に気付いて人も駆け付ける。立ち位置を間違えてから後悔しても遅いんだ。スバルはどうなる!」
「あの娘ごとスバルを燃やしかけたお前の言葉は響かないのよ。でも、確かにお前の言う通り、あまり時間はなさそうかしら。だから――」
言って、ゆっくりと右手を上げたベアトリスの挙動にティーガが息を呑む。
魔法の用意、ではない。その逆だ。指を鳴らす準備をしたベアトリスの狙いに、ティーガは黄色い双眸を鋭く細め、シャムシールを向けてきながら、
「よせ、やめるんだ。本当に庇い切れなくなる」
「ベティーはその昔、ただ可愛く泣きじゃくるだけで友達を見送ったことを後悔してるのよ。――同じ轍は、踏まないかしら」
たとえ、波乱が怒涛の如く押し寄せる状況であっても、その中でベアトリスは許される限り、自分で決断して道を選ぶ。
ただ流されるだけで友を失ったように、二度と大事なものの前で蹲らない。
そのために――、
「――この場はお前につくのよ、クルシュ・カルステン!」
指をパチンと鳴らし、それを合図にベアトリスが解除する。――E・M・Tを。
途端、執務室を包み込んでいた見えないフィールドが掻き消えるのを、感覚の鋭敏なものであったなら子細に感じ取っただろう。
それはティーガも、そして『龍眼』の所有者も例外ではなく――、
「――百人一太刀」
放たれる爆発的な風が、マクマホン邸の執務室を中心に屋敷を揺るがした。
△▼△▼△▼△
「――それからあの男を振り切って、下水道に逃げ込んだかしら。もっと遠くに逃げたかったけど、スバルがおねむの間は無茶できなかったのよ」
そっと傍らに寄り添い、体を支えてくれるベアトリスの話に、スバルは混乱する頭で情報を整理しながら、何とか「そうか……」と呟いた。
正直、それだけの事態が起こった中で、一人だけ早々に意識をドロップアウトさせていた自分が情けない。が、そうした自罰的な考えはいったん後回しだ。
「まずは……ベア子、クルシュさんから離れないでくれたのはナイス判断だった。あの状況で別れ別れになってたら、悔やんでも悔やみ切れねぇとこだ」
「パートナーの気持ちに最大限配慮するのは当然かしら。スバルならこうするって、ベティーには確信があったのよ」
「傍目には無茶な選択だから、手放しに『だよな!』とは言いづらいけども」
状況が状況ながら、それでもドヤッとした顔をするベアトリスに苦笑が漏れる。
しかし、ほんのわずかでも唇を緩められたのは、今の話のその部分だけだ。――じくじくと痛みを発する腕の火傷、それに目をやり、スバルは唇を噛む。
「ティーガの奴が、これを……」
「間違いないかしら。戦ってる最中、魔法を使えないって言っていたのはブラフか、もしくは……ううん、何でもないのよ」
「なんだよ。気になることがありそうで気になる」
「悩みが多い今、検討することじゃないと思っただけかしら。とにかく、あの男は巻き添え前提で魔法を使ったのよ。ベティーの心証は地に落ちたかしら」
「……お前は、俺のことが大好きだからそうだよな」
眉を立て、頬を膨らませるベアトリスの怒りに、スバルの心中は複雑極まりない。
もちろん、死ぬかもしれない攻撃をされたことをなあなあにするつもりはない。ないが、クルシュに圧倒され、死ぬか生きるかの瀬戸際で見つけた活路だ。鉄火場でティーガが下したその決断を、頭ごなしには否定できない。
と、そこでベアトリスのスバルを見る目が厳しくなる。
「スバル? まさか……」
「いや、なあなあにする気はねぇよ。ちゃんと、この火傷の痛みの謝罪は求めるつもりだ。そこは絶対に譲らない。当然だろ?」
「――――」
「あれ? なんでもっと呆れた目に? 謝らせるって言ってんのに!?」
こちらの答えを聞いたベアトリスのじと目に、スバルは困惑を深める。
お互いに落ち度があり、相手の過失をやや大きめに取る。それだけでも、スバル的にはかなり果断な態度に出ているつもりなのだが。
それに――、
「少なくとも、俺たちとティーガとの軋轢の原因は多分にすれ違いが占めてる。どこかでちゃんと話せれば、そこの誤解は解けて――」
「――残念だが、卿にそれをさせるつもりはないぞ」
言葉を選びながら、どうにかベアトリスを説得しようと試みるスバル。だが、そのスバルの言葉に待ったをかけたのは、眉間に皺を作ったベアトリスではなく、スバルたちの前を歩いていたクルシュだった。
薄暗い下水道を、ラグマイト鉱石のランプが放つ光で先導していた彼女は、スバルとベアトリスとの会話に異議ありと、そう明確な態度――抜き放った短剣、その剣先をスバルに向けるという形ではっきり示していた。
「……く、クルシュさん?」
「ティーガ・ラウレオンと接触することを私は認めない。剣を交えたこともそうだが、今まさに私たちにかかっている追っ手を指揮している一人があの男だ。迂闊に会いにいけば、卿が縛につかされるだけになろう」
「それは、でも、ティーガの立場なら仕方ないっていうか、状況が状況だから……」
「――――」
「――――」
左目を眼帯で覆ったクルシュ、彼女の琥珀色の隻眼だけと向き合い、スバルは次の言葉の選択に大いに迷う。
マクマホン邸の凶行に、今ここでスバルに短剣を向けていることもそう。――今のクルシュと話すには、細心の注意を必要とする。それこそ、迂闊な発言で不用意に彼女を刺激すれば、スバルは今度こそ、その手を血で汚させるだろう。
そんな考えから、しばらくスバルたちの睨み合いは続いたが――、
「……驚くべきことに、私を謀る風は吹かないのだな」
そう言って、先に短剣を下ろしたのはクルシュだった。
その言葉にスバルは「え?」と目を丸くしたが、クルシュはベルトの鞘に短剣を戻しながら、
「卿からは嘘の風が吹いてこない。マイクロトフ・マクマホンの屋敷で遭遇したときから、今に至るまでずっとだ。故に、ベアトリスにも同行を許した」
「――。結局……結局、クルシュさんは俺たちをどうしたいんだ?」
ちらと、傍らのベアトリスと視線を交わし、スバルはクルシュにそう直接問うた。
嘘の風――『風見の加護』の加護者であるクルシュには、相手の考えや思惑が風として感じられ、一種の嘘発見器のような仕事を果たせるらしい。
スバルも彼女と出会った当初、その腹の内の欺瞞を見透かされ、大いに自分のひねくれた性根を自覚させられたものだ。――それが今、クルシュの言動の根拠になる。
スバルを信じるのも、『風見の加護』の結果。
ならば、マイクロトフを、屋敷にいた十三人を斬ったのも、『風見の加護』の結果だというのか。
「教えてくれ、クルシュさん。俺たちを……いや、一番はクルシュさん自身の話だ。クルシュさんは、何がしたくて今こうしてるんだ?」
「――。私がしたいこと……いや、為さなければならないことは、このルグニカ王国を逆徒の手から救うことだ。それが、私が王国のためにできる最後の行いだろう」
「逆徒……それに、これが最後って」
「違うと、そう言い張るか? 魔女教の悪意に屈し、病床に伏して長い時を無為にした。その上、公約に掲げた『龍』の支配の撤廃と真逆の形で、『神龍教会』の手で起き上がった私にまだ勝ち目があると?」
「それは……っ」
「理解の風が吹いているぞ。――卿は、実直な男だな」
わずかに目を伏せ、クルシュが自嘲するような笑みを唇に刻んだ。
弱々しく笑んだクルシュの目には、加護を通して見えたのだろう。彼女の言葉を否定できず、頼もしい打開案が何も浮かばないスバルの無力感が。
それを実直などと、そう言われたところで喜べるはずもなかった。
「いい加減にするのよ。ベティーはこれ以上、悲劇のヒロインぶってスバルに噛みつくお前を見過ごしてやらないかしら」
「ベアトリス……」
「スバルもスバルなのよ。何を、スバルに責任のないところで凹んでいるかしら。そんな調子だと、今に道端で子どもが転んだだけでも自分を責め出すのよ。そうなったら、忙しくてベティーを愛でる時間もなくなるかしら。猛抗議なのよ」
腰に手を当てて、そう場違いな怒りを覗かせるベアトリス。それが彼女なりの、スバルとクルシュの間の問題を矮小化する気遣いなのだと知れて、吐息が漏れる。
クルシュの方も、「そうだな」と神妙な顔で頷き、
「ベアトリスの言う通り、些細なわだかまりに固執する場面ではない。相手方に時間をやればやるだけ、こちらが不利になるばかりだ。故に、ナツキ・スバル、卿に――いや、卿とベアトリスに、協力を求めたい」
「……協力?」
「そうだ。今は、王国の中枢に至るまで入り込んだ、数多の逆徒の暗躍による国家存亡の危機の只中だ。この状況でこそ、卿の力を――当家と協力し、白鯨討伐にも多大な貢献をしてくれた、ナツキ・スバルの力を借りたい」
「――っ」
短剣を鞘に収め、空いた手をこちらに差し出し、そう述べたクルシュを前に、スバルは思わず息を呑み、正面からジッと彼女を見つめた。
スバルを驚かせたのは、クルシュが口にした要求だけではない。無論、その頼み事にも大いに驚かされたが、それ以上に驚かされたのは、彼女がかつて繰り広げられた白鯨との大決戦、それを確かに我が身に起こったこととして語ったことだ。
それを受け、改めてスバルは、マクマホン邸でクルシュと出くわしたときから、今に至るまで延々と胸の内にあった問いを、ようよう口にする。
それは――、
「一個、聞かせてくれ。――『記憶』、戻ったのか? クルシュさん」
「――。無論だ。今の私に、『記憶』がなかった頃の唾棄すべき、惰弱なクルシュ・カルステンの残滓を感じるか? その問いは、いっそ侮辱的ですらある」
「――――」
はっきりと、『記憶』の復元を口にしたクルシュに、スバルは頬を硬くした。
もたらされた衝撃は、喜びと憤慨が混ざり合った複雑なものだ。クルシュの『記憶』が戻ったこと、それ自体は心の底から喜ばしい。だが、だからといって、『記憶』がなかった間のクルシュのことを、そうも悪し様に貶められるのは。
「不満の風だ。まさか、卿は『記憶』のない私を支持するとでも?」
「そういう、単純な話じゃねぇだろ。『記憶』がある今も、『記憶』がないときも、どっちも俺にとっちゃクルシュさんで」
「――いいや、違う。『記憶』のないクルシュ・カルステンなど、クルシュ・カルステンではありえない。だから!」
「――っ」
「……だから、フェリスも、クルシュ・カルステンを見限った」
「そ――!」
奥歯を軋らせ、わなわなと震えたクルシュに、スバルは「それだけは違う!」とはっきり断言しようとした。
この瞬間だけでなく、移動し始める前にも同じことを思った。
クルシュは、フェリスが下した決断の意味を、彼の覚悟のほどを誤解している。
確かに、フェリスはクルシュの誓いを、亡き王族のための誓いを反故にした。
それがクルシュにとってどれだけ大事なものだったのかは、話を聞いただけのスバルでも想像して余りある。だがそれは、フェリスにとっても同じだった。
フェリスもまた、亡き第四王子を愛していた。それでも、彼は選んだのだ。
死者への愛よりも、生者への愛を。――それを、スバルは否定されたくない。
ましてや、双方向に想いを向け合っている同士が、すれ違いが理由でそれを分かち合えないなんて、そんな悲劇を――。
「――どうやら、決断を引き伸ばせるのもここまでのようだ」
しかし、スバルがその激情を吐露する前に、状況の方がその続きを許さない。
スバルたちの背後、通り過ぎた下水道の奥に目を向けたクルシュの呟き、それが意味するところは、かなり後方から聞こえる声と靴音が教えてくれた。――追っ手だ。
スバルたちと、クルシュを捜索する追っ手が、下水道へと徒党を組んで降りてきた。
「俺たちがちゃんと話せば……」
「言ったはずだ。すでに、卿は私と共謀したと見られている。卿の奇妙な技に奪われた剣も現場に残してきてしまった。私の関与は、亡骸の傷と照合すれば明白だ。その上で」
「上で? なんだよ。まだこれより悪い話が」
「卿の思惑を知るティーガ・ラウレオンがいたにも拘らず、卿もまたマイクロトフ・マクマホンの殺害に関与したと認定されたのだ。かの男が、そう報告したのだろう」
「――――」
「あとは、卿らの選択だ。私を信じるに値せぬと思うのなら、あとからくる追っ手に保護を求めればいい。――ではな」
言いたい放題に言うだけ言って、それ以上の会話に付き合うつもりはないと、背を向けたクルシュがランプを下水に捨て、颯爽と走り出していく。
その背中に、下水に沈んでいく光源のわずかな光さえ届かなくなると、ただ遠ざかる足音だけが、カウントダウンのようにスバルに選択を迫ってきた。
クルシュの論を拒絶し、スバルたちを追っている兵たちに合流して、洗いざらいをぶちまけて保護を求めるか。あるいは、闇に消え、一人だけで大きな陰謀と戦おうとしているクルシュの背中を追うか、二つに一つを。
「クソ! 信じてぇよ! 信じてぇけど、そもそも本当にあるのかよ、その陰謀……!」
フェリスの真意を誤解し、スバルにさえ剣を向けることを辞さない心境なのだ。発作的に感情的になる部分も含め、クルシュの情緒は不安定な状態にある。
最悪、マイクロトフを斬ったことも何もかも、疑心暗鬼に陥ったクルシュの、何の正当性もない暴走という可能性が危ぶまれる事態なのだ。
そんな状況で、何をするのが正しいのか――、
「スバル、落ち着いて聞くかしら。たとえどっちを選んで、何に味方したとしても、ベティーはスバルの味方だし、ずっと傍にいるのよ」
「ベア子……」
「もう、帝国のときみたいに離れ離れは御免かしら。スバルは目の届くところにいてくれないと、ハラハラドキドキで息もできないのよ」
そう言って、ベアトリスは正解がわからずにいるスバルに、何を選んでも自分が正解にすると――否、一緒に正解にしていこうと言ってくれる。
それで迷いが晴れた。そうだ。ベアトリスの言う通りだ。
たとえ、どんな選択をしたとしても、それを正解にするために足掻くのが、ナツキ・スバルの最も得意な戦い方のはずではないか。
「クルシュさんを放っておけねぇ。地獄まで付き合ってもらうぜ、ベアトリス!」
「スバルと一緒なら、四百年封印されても構わんかしら!」
「俺が構うから怖いこと言わないでくれる!?」
言いながら、スバルは頼もしくて愛おしいパートナーを抱き上げ、遠ざかっていこうとする足音を追い、薄闇の中を猛然と走り出した。
正しくても、間違っていても、クルシュを放ってはおけない。
止めるのだとしても、手伝うのだとしても、クルシュから離れてはならない。
「ああ、クソ、腕が痛ぇ!」
じくじくと、火傷した腕の痛みがスバルの愚かさを責め立てるように疼く。
それを抱えたまま、スバルはあれよあれよと巻き込まれ、追い立てられた自分の状況を嘆く以上に、このことが耳に入ったエミリアたちの心を案じる。
迷惑をかけることもそうだが、それ以上に心配をかけることの辛さが勝る。
エミリアにも、レムにも、ラムにもペトラにもメィリィにもガーフィールにも、みんなに。だから、心身の痛みを噛みしめながら、スバルは薄闇に懸命に目を凝らし、
「何とか、うまくやってくれ、オットー!」
と、突発的な窮地を、この場にいない友人にぶん投げながら走るのだった。
△▼△▼△▼△
――同刻、王都ルグニカの王侯館にて。
この日はルグニカ王国にとっても、王選候補者であるエミリアの陣営にとっても、大きな大きな意義のある出来事の出発点となる日のはずだった。
水門都市プリステラを襲った魔女教の厄災に対し、その禍根を取り除くことが可能となる絶好の機会。『神龍教会』の協力もあって実現するはずのその瞬間に、エミリアたちも立ち会い、数ヶ月の無力が拭い去られるのを見届ける――予定だった。
「――それなのに、これはどういう状況なんですかね?」
出発の用意を整え、あとは所用で館を離れたスバルとベアトリスの帰りを待つのみ。それまでの時間、応接室でティータイムを楽しんでいた陣営の中、オットー・スーウェンはいきなりの来訪者たちに、努めて冷静にそう尋ねた。
どやどやと、賑々しく王侯館に乗り込んできたのは、いずれも王国への正式な所属を示す装備をした王国兵たち――どこか物々しい緊迫感を漂わせた彼らから、オットーはエミリアを含めた女性陣を庇い、前に立つ。
無論、そうするオットーのさらに前に立つのは、
「ずいッぶん乱暴じゃァねェか。いくらエミリア様がぽやッぽや優しいからって、てめェらが無礼な真似ッすんのが許されるわけじゃァねェだろォが」
「ガーフィール、あまり威嚇しないように。お客様ですよ。――まだ」
「おォ、わかったッぜ、オットー兄ィ」
陣営の一番前に立って、鋭い牙を噛み鳴らすガーフィールを形だけ宥め、オットーは相手方に訪問理由を喋らせるための間を作った。
マッチポンプだが、一手相手に譲って貸しを演出した形だ。
最低限、それがわかるなら――、
「――全員、剣気を収めろ。どなたを前にしているか、わかっているのか」
「――――」
その低い声が発された瞬間、応接室に広がって位置していた王国兵たちが一斉に折り目正しく背筋を正した。そうして直立した兵たちの囲いをすり抜け、のしのしと大きな足音を立てながらやってくるのは、見上げるほど大きな体の偉丈夫だ。
鋼色に輝く甲冑で全身を覆った、巌のような顔面の持ち主、それはルグニカ王国の近衛騎士団長――すなわち、王国騎士の頂点に立つ男、マーコス・ギルダークだった。
「マーコスさん……」
「突然の訪問、心よりお詫び申し上げます、エミリア様」
進み出たマーコスの姿に、紫紺の瞳を瞬かせたエミリア。その彼女の反応に、マーコスは無骨な外見と対照的に、完璧な作法に則った一礼を見せた。
それから顔を上げた彼は、その瞳にエミリアと、彼女を取り巻く陣営の全員、とりわけ厳しい目をするオットーとガーフィールを注視しつつ、
「こうしてお訪ねいたしましたのは、エミリア様に王城への登城をお願いするため。急ぎ、どうしても確認したき疑義がございます」
「藪から棒に、いきなりですね。疑義? それはいったい……」
「――騎士、ナツキ・スバルの素性について」
「スバルの?」
作法に則り、敬意を払い、それでも有無を言わせない姿勢のマーコス。彼が口にした疑義、それがスバルに関連していると聞き、エミリアが言葉で、それ以外のオットーたちも、全員が表情や態度にそれぞれの反応をする。
それが、マーコスに次の言葉を言わせる隙を生んだと、オットーは悔やむ。
何故なら、マーコスが言い放った、ナツキ・スバル絡みの疑義というのは――、
「騎士ナツキ・スバルには、魔女教との強い繋がり――大罪司教に類するものではないか、という疑惑がかかっております」
――ナツキ・スバルが、世界の敵とみなされるか否かの、分水嶺であったのだから。




