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Re:ゼロから始める異世界生活  作者: 鼠色猫/長月達平
第八章 『ヴィンセント・ヴォラキア』
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第八章6  『赦しは乞わない』



 抉られた肩から、腿から血を流し、荒い息には熱がこもっていて、血の気の引いた顔色は命のカウントダウンが進んでいる証拠。

 すぐにでも手当てをして、そのカウントダウンを止めなくては命が危ない。

 それでも、治癒魔法をかければ必ず助かる。絶対に、助かる傷なのだ。


「なのに、なんで……」


 吹き飛んだ粉挽き小屋の傍ら、残火の燻る端材が焦げ臭い煙を漂わせる中、ゆっくりと水かさを増していく帝都で、スバルは『敵』と対峙していた。

 そう、もはや『敵』と、そう呼ぶしかできなくなったトッド・ファングと。


 ――『敵』と、そうトッドのことを呼びたくなかった。

 初めて出会ったときからずっと、トッドにはひどい目に遭わされ続けてきた。何度も命を狙われ、実際に命を奪われ、死と恐怖を刻み込まれ、因縁を育ててきた。

 そのたびにスバルは『死に戻り』し、トッドの仕掛けてくる襲撃に対処し、結果的に彼が引き起こす惨劇をなかったことにし続けてきた。


『シュドラクの民』が暮らす森を焼かれ、彼女らの全滅を招き、城郭都市グァラルの奇襲では何度もフロップを殺され、同じグァラルの都市庁舎を攻略する作戦では、綱渡りするロープに火を着けられるような思いを味わわされた。

 極めつけは『剣奴孤島』ギヌンハイブでの大虐殺。タンザも、イドラも、ヒアインも、ヴァイツも、グスタフもヌル爺さんも、他にも大勢の孤島の仲間たちを皆殺しにされ、しかし、スバルはそれさえも覆した。


 トッドの行いを、なかったことにしようと図ったわけではない。

 ただ結果的に、スバルが『死に戻り』して自分の大切なものを守ろうと奮闘したとき、トッドの引き起こしたことは帳消しになってきた。

 スバルがトッドを敵とみなす理由は、スバルの中にしかなくなっていって。


 そしてついに、この未曾有の厄災に襲われる帝都からの撤退を余儀なくされた今、婚約者を守るためにスバルたちと手を結び、協力する姿勢をトッドは見せた。

 事実、トッドの協力がなければ、溢れ返るゾンビたちへの有効策を見つけるのに手間取り、全員での脱出を叶えるのに何回のリトライを必要としただろうか。


 あの単眼の戦士、かのゾンビとの戦いもそうだ。

 異形化し、怪物となった敵を倒すのにもトッドの協力が必要だった。お互い、どちらが欠けていても命はなかったとわかっているはずだ。


 だから、あと一歩だった。

 あと一歩で、スバルは割り切れない気持ちに蓋をしたまま、トッドと歩めたのだ。

 それなのに――、


「なんで……!」


「白々しい口を利くなよ。お前さんも薄々勘付いてたから今のを防げた。殺気に反応したわけじゃなく、ずっと警戒してただけだろ?」


 声を震わせ、そう訴えるスバルにトッドが赤く血走った右目をつむる。

 聞き分けのない子どもの相手をするような顔で、彼の視線が向いたのは空中に浮かんでいる斧――トッドの目にはそう見えるだろう、黒い手に掴まれた凶器だった。


 スバルの中で、斧はトッドの代名詞。

 それに頭をかち割られた経験も一度や二度ではない。トッドの手から取り上げても、ちっとも心の休まらないそれを視界の端に入れ、スバルは奥歯を噛んだ。


 図星だ。スバルはずっと、トッドを警戒していた。

 だから、怪我をしているトッドに背中を向けたとき、『インビジブル・プロヴィデンス』を発動して、自分の頭を守った。狙うなら、確実に殺す頭だと思った。


 でも、狙わないでほしかった。

 何も、起こらないでくれたらよかった。

 そうしたら――、


「失敗、失敗。まんまと、お前さんの策略に乗せられた」


「違う……」


「他の連中と引き離せて、敵も片付けた今だと思ったが……大した役者だよ」


「違う……っ」


「あわよくば、さっきの爆発で俺も消し飛ばすつもりだったか? だとしたら、当てが外れて残念ってところだったな」


「違う! 俺は、俺は本気でお前と協力しようって……!」


「――嘘をつくなよ」


 ヒュッと、その冷たい一声にスバルの喉が音を立てた。

 片目を閉じたまま、熱も湿度もない眼差しで、トッドがスバルの瞳を覗き込む。その眼差しには、直前までのスバルを値踏みするような色が存在していない。

 もう、トッドはスバルの値踏みを終えていた。それ故の、今だ。


「お前さんも根っこのところでわかってたはずだ。俺たちはわかり合えない」


「――――」


「俺は他人を前向きに疑って、お前さんは他人を後ろ向きに信じてる。あれこれ言葉を並べ立てても、価値観が違うんだよ」


 じりじりと立ち位置を変えて、トッドが空中に浮かんだ斧を中心にスバルを警戒する。スバルも強く唇を噛んで、浮かぶ斧越しにトッドを悲痛に睨んだ。

 わかり合えないとトッドは言った。本当にそうだったのか、スバルは考え続ける。

 うまくやる手段は、本当になかったのかと。


「ここで俺を殺したら、どうやってゾンビと……」


「往生際が悪い。帝都さえ出れば何とでもなる。お前さんたちと協力したおかげで、城壁まではカチュアを送れた。その後はお前さん抜きの方がいい」


「なんでだ! 俺はカチュアさんを傷付けるつもりなんてない! お前とやり合うつもりだってなかった! なのに!」


「――だが、お前さんはカチュアを救うか救わないか、選べる気でいるだろう?」


「あ……?」


 声を荒げ、大にするスバルを正面に、トッドが放った冷たい一言。

 そのトッドの言い分に冷や水を浴びせられた気分で、スバルは頬を硬くした。


 それが、どういう意味かわからない。

 そもそも、スバルの主張と食い違っている。選ぶも選ばないも、スバルはカチュアを害するつもりなんてないのだから、そんな言いがかりは見当違いだ。

 それなのに、スバルの思考はせき止められて。


 ――その一瞬を、トッドは見逃してくれなかった。


「――お前さんに、赦しは乞わないよ」


 スバルが言葉に詰まった隙を掻い潜り、トッドが姿勢を低くして突っ込んでくる。

 彼我の距離が縮む気配に全身の細胞が悲鳴を上げ、スバルはとっさに宙に伸ばした『見えざる手』に命じ、掴み取った斧をトッドへ放り投げようとした。

 だが――、


「ぎ、がぁぁッ!?」


 瞬間、右足の腿を貫く灼熱の感触に、スバルの視界が真っ赤に染め上げられる。


 スバルの右足、その太腿にナイフが突き立っていた。

 先ほどまで、トッドが手にしていたものだ。飛び込んでくる直前、スバルの思考が止まった隙に投げ込んだもの、それをまんまと喰らってしまった。

 そして、痛みに思考を散らされ、斧を投げるはずの『見えざる手』の動きが中断――その空中の斧を奪い返され、トッドの前蹴りがスバルの胸をぶち抜く。


「おぶっ」


 刺された足で踏ん張れるはずもなく、スバルの体が苦鳴を上げながら後ろに倒れる。後頭部と背中を強打し、散り散りになった思考がさらにとっ散らかった。

 足と、胸と、頭と背中と、そして、目の前に落ちてくる斧の刃と――。


「あああぁぁぁ!」


 がむしゃらに叫んで、振り下ろされる斧の途上に黒い手を割り込ませる。

 酷使される『見えざる手』、スバルの胸から突き出したそれが鼻先まで迫った斧を食い止め、震える刃を落とすまいと自前の両手も動員して、三本の腕で殺意に抗う。

 そうして押し合いになる刃を落とすべく、斧を握るトッドも全力で押し込んできた。


 刺された足が痛い。蹴られた胸が痛い。ぶつけた背中が痛い。同じく頭が痛い。この斧が顔に突き刺さったら、それよりもさらに死ぬほど痛い。


「しぶ、といんだよ……っ。いい加減、死んでくれ……!」


「いや、だ……絶対、嫌だぁ……!」


 斧の峰を手で押さえ、トッドが全体重をかけてスバルを殺そうとする。

『見えざる手』も含めて三本の腕で抵抗するスバルだが、子どもの両手と、見えない以外のアドバンテージの薄い権能では、トッドを押しのけられない。


 それは傍から見れば、何とも滑稽で惨めな殺し合いだった。

 大勢の軍人が、戦士が、鍛えた技と武器を競い合った帝都ルプガナの攻防戦、それが一大事を迎えた局面で、スバルとトッドの戦いは泥臭く、無様だった。


 鍛えた技も、特別な武器も、他を圧倒する切り札もない。

 ヴォラキア帝国の基準で見れば、あまりにも低次元でしかない命懸けの戦い――それがナツキ・スバルとトッド・ファングの、わかり合えない二人の決戦だった。


「ちぐはぐなんだよ! 自分はいつ死んでも構わない目でいて、他人の命も手前勝手な天秤に載せておいて、いざこうなれば必死で抵抗する。気味が悪い!」


「か、ってなこと、言うな……! いつ死んでもいいなんて、思ってるもんかよ。誰かの命を天秤に載せたことも、ない……! 死にたくなんかない!」


「死ね!」

「嫌だぁ!」


 どす黒い殺意で冷え切ったトッドの目が、早鐘のように鼓動を打つスバルの心の臓を凍てつかせようとしてくる。ギリギリと、二人の間で斧の刃は拮抗しているが、この凄絶な押し合いも永遠に続きはしない。

 何故なら――、


「ぐ、ぎ……っ」


 喉の奥で呻き声を押し殺すスバル、その耳朶から血が流れている。

『見えざる手』の権能を多用した反動だ。それがスバルの体を蝕み、危険信号を鳴らす。だが、頼らざるを得ない。そうでなきゃ、落ちる刃がスバルの顔を割る。


「その妙な手品も、限界が近そうだな」


 鬼気迫るスバルの形相と流血に、トッドも『見えざる手』の反動を理解した。このまま時間をかければ、先にスバルが限界を迎えると。

 何としても、そうなる前に――そう考えた瞬間だった。


「――っ!?」


 致命の斧を巡り、押し合うスバルとトッドの意識が、凄まじい轟音に刹那奪われる。

 それは、帝都の中心部から離れたスバルたちの遠方――都市の最奥、水晶宮の向こう側にある貯水池、大量の水をせき止めるそれが限界を迎えた断末魔だった。


 轟音と共にひび割れが止水壁全体に広がり、帝都へと流れ込む水の勢いと水量が一挙に激増する。それはもはや、海のない世界に押し寄せる大波であり、帝都を押し流していく波濤が都市を揺らし、その余波は殺し合うスバルたちの下へも届いた。

 そして――、


「う、ああああ――!!」

「――ッ」


 ほんの刹那だけ、トッドの意識が轟音へ逸れた瞬間、スバルは持てる力を振り絞った。

 仰向けの体を動かして、今だけはナイフの刺さった足の痛みも忘れ、全力で横にひっくり返り、『見えざる手』で掴む斧の刃を頭の横の地面に逃がす。

 斧に全力をかけていたトッドも、その勢いに抗えない。斧がスバルの頭の真横に落ち、トッドも地べたに倒れ込んだ。


「はぁっ、はぁっ……ぶはぁっ」


 そのまま、スバルは勢いで横に転がり続け、トッドと斧から遠ざかる。

 足に刺さったナイフが何度も地面に当たって激痛が走ったが、痛みよりも遠ざけたいものから逃げるために、泣きながら我慢して転がった。

 やがて、十回も二十回も転がったかと思うと、スバルの体が建物の残骸にぶつかり、無理やり止められる。そこでどうにか腕をついて、切った額から血を流しながら起き上がり――それを、目にした。


「……どこまでも、憎たらしい奴だ」


 膝立ちし、憎々しげに呟くトッド。その、離れたスバルに振り返った彼の左肩に、深々と斧の刃が突き刺さっていた。


「――――」


 決死の覚悟でスバルが斧を躱したとき、逆にトッドがその斧の上に倒れ込んだのだ。

 斧の刃は深く、鎖骨を割って内側まで抉っている。場合によっては心臓にまで届いていそうな深手だが、口元を拭い、血を吐き捨てるトッドに瀕死の弱々しさはない。


 あまりにも、そう、あまりにもタフすぎる。

 ゾンビ相手の囮役で体のあちこちを削られ、粉塵爆発の巻き添えでダメージを喰らい、挙句に自分の体に斧が突き立っているのに、平然としている。

 その、トッドの態度の理由が、ようやくスバルの目にも明らかになった。

 それは――、


「――見られたか。失敗、失敗」


 軽薄さも余裕もなく、トッドの口調には明確な苛立ちがあった。

 決して見られてはならないもの、見られたくなかったものを見られた失策に、自分自身と、何より相手に強烈な怒りを抱いている声。


 その怒りを滲ませながら、トッドが自分の肩に突き刺さった斧を乱暴に引き抜いた。そうして乱雑にされた傷は一度強く血を噴き――すぐに、血が止まる。

 戦闘や狩猟において、負傷のマイナスが働きすぎないよう、種族的に進化を遂げているものの回復力だ。スバルも、この異世界で幾度も目にしてきた回復力。


 その外見にスバルとの違いは見当たらないが、決定的に異なる血の流れている存在。

 亜人だ。それも――、


「――お前、半獣人?」


「惜しい。それだけじゃ不正解だ」


 唖然となるスバルの前で、トッドが目を細めて疑惑を半分だけ肯定する。その真意がわからずに息を呑んだスバルへと、トッドが残り半分の答え合わせをする。

 酷薄に頬を歪め、血の色をした怒りを瞳に灯しながら――、


「――人狼だよ」



                △▼△▼△▼△



 ――この世界において、存在するだけで忌み嫌われるモノはいくつかある。


 ハーフエルフの存在は、そうした忌み嫌われるモノの中でも突出した立場にあり、かつて世界を滅ぼしかけた『魔女』の係累として、その不遇はどの国でも共通だ。

 それ以外にも、カララギ都市国家では毛の生えない亜人族が縁起の悪いものとされ、グステコ聖王国では髪や目が黒に近付くほど精霊に嫌われると疎まれる。

 そして同じく、様々な亜人族が混在して生きるヴォラキア帝国でも、その存在を忌み嫌われる種族が二つ――土鼠人と、狼人である。


 古の時代、土鼠人と狼人の二種族は、ヴォラキア帝国で最も愛された女性を裏切り、死に追いやった咎で永久に赦されざる罪を負ったとされている。

 結果、土鼠人は祖国を捨て、土を掘って国の外へ逃れた。そして、逃げ方を知らなかった狼人は根絶やしになるまで追われ、ことごとく狩り尽くされた。


 この帝国の怒りは他国にも及び、自国で土鼠人や狼人が見つかろうものなら、国境を越えて帝国へ送られて処刑される。――俗に言う、土鼠狩りと狼狩りの歴史である。


 現代では、土鼠人たちは自らの能を活かし、人目につかない土の下で隠れ潜んで暮らしているとされ、狼人たちの生き残りは素性を隠すため、犬人だと己の出自を偽り、自身が狼人であることを公に標榜しているのは、世界中でたった一人――カララギ都市国家で最強とされる、『礼賛者』ハリベルだけという有様であった。


 執拗に狼人を狩り立てた帝国、それが掲げる国紋は皮肉にも剣に貫かれた狼。

 剣狼とは帝国において、最も尊ばれるべきものであると同時に、自らを剣に貫かれることを恐れて逃げた狼は、最も唾棄すべきものであるのだ。


 それ故に、この世界では狼人の存在も、狼人の血を継いだ狼の半獣人――『人狼』の存在もまた、決して赦されない呪いを負い続けているのだ。



                △▼△▼△▼△



「じん、ろう……」


 自分の肩から抜いた斧を手の中で回し、そう宣言したトッドにスバルは絶句する。

 たびたび衝突したトッドの知られざる秘密、それを知ったことで正と負、どちらの感情を得ればいいのかわからなかったのもそうだが、それ以上に感じたのは怖気。

 耳に届いた『人狼』という響き自体に対する、本能的な嫌悪感だった。


 ――スバルは、この世界における狼人の排斥された歴史を知らない。


 帝国で狼人と土鼠人が忌み嫌われる事実も、その理由が古の時代を生きたアイリスという女性への裏切りだったことも、そのアイリスの正体がヨルナ・ミシグレであることも、彼女の愛する皇帝がヴィンセント・ヴォラキアでないことも、何も知らない。


 背景事情は何も知らない。

 何も知らなくても、スバルの魂が理解する。――『人狼』と呼ばれる存在が、この世界においてどれほど異質な存在であるのかを。


「その驚き方、俺の予想とちょっと違うな。俺が半獣だったことに驚いてても、人狼だったことには驚いてない顔だ」


 押し黙ったスバルを眺め、トッドが思惑を外した顔で眉を寄せる。


「だが、これで妙な遠慮なくやれるだろ? 人狼は吊るすもんだ。そういう呪いが血に流れてる。お前さんも――」


「なんで」


「うん?」


「なんで、そうなる。俺は、お前を……」


 殺したいと、そう思ったことがないとは言えない。

 だがそれは、トッドに流れる血がどうとか、その出自がどうとかいう話ではなく、彼自身に行いがスバルと相容れず、ぶつかるしかなかったからだ。

 それなのに、今のトッドの言いようは――、


「お前が俺の『敵』になったのを、血が理由みたいに言うな」


「――――」


「お前が何度も、俺とぶつかったのは、俺とお前の問題だ! お前の正体が理由でも、お前の血が俺を焚きつけたからでも、ない!」


 奥歯を噛みしめて、拳を地面に押し付けてスバルが体を起こした。

 足に刺さったナイフの激痛、それが体中をものすごい勢いで駆け巡るが、かえって意識ははっきりし、自分の胸の中でぐつぐつ煮え滾る怒りも明確にしてくれた。


「勝手に、人狼なんかになりやがって……!」


「おいおい、勝手って。そりゃ、お前さんに指図されることじゃ……」


「うるせぇ! なんで、なんでお前はそうなんだよ!」


 一個もスバルの思い通りにならず、スバルがプラスの感情を抱いたらマイナスな行動を起こして、スバルがポジティブな気持ちでいたらネガティブな問題を引き起こす。

 カチュアを助けて、レムたちを助け出すのにも力を貸して、強敵ゾンビを倒すのに力を合わせたと思えば、スバルを殺そうとして、その考えを詰って、挙句、人狼だ。


「なんでなんだ!」


「人の生まれにとやかく言うなよ。そういうもんなんだ。母親が犬と寝たのかもしれないな。そう言えば、家の裏に昔からでかい犬が住み着いてたんだが、もしかしてあれ、俺の親父か?」


「違うだろうが! 生まれをとやかく言ってるのはお前の方だ!」


「――――」


「俺が、お前とこうやって睨み合うのは……っ」


 トッドが人狼として、どんな生涯を歩んできたのかなんて知らない。

 知りたくもない。知ったら、それを理由にトッドを許す理由を探しそうだ。だから、知りたくなんかない。スバルは、仕方ない理由でトッドを許したくないのだ。

 だから――、


「――決めた」


 声を絞り出しながら、怒りと痛みでぐちゃぐちゃになりかけた頭で、スバルは呟く。

 そのスバルの呟きを聞きつけて、トッドが目を細めた。言葉にせずとも、スバルが何を決めたのかと、その言葉の先を沈黙が促している。

 そう促されるのに従い、スバルは告げた。


「俺は、お前を殺してやらない。お前の思い通りには、ならない」


「――――」


 そのスバルの静かな宣言に、トッドは何も言い返さなかった。

 ただし、沈黙を続けたのではない。――笑ったのだ。


「は、ははは、はっはっはっは!」


 斧を持たない方の手で髪をかき上げ、トッドが口を開けて嗤った。髪や額が血で汚れるのも構わず、トッドは大口を開けて爆笑する。

 それから、ひとしきり笑ったあとで首をゆるゆると横に振り、


「お前さんは怪物だ。あのゾンビよりよっぽどな」


 今まで以上に、はっきりと目に見える感情を瞳に宿してスバルを睨んだ。

 その、どす黒い殺意の裏側に隠れていた感情、初めて見え隠れしたそれが何なのか、スバルは知っている。今まで何度も、鏡の中で目にしたことがある。

 それは、恐怖だ。――理解できない、『死』をもたらすモノへの恐怖だった。


「自覚がないのが性質が悪い。お前さんは命を取捨選択してる。誰を救って、誰を死なせるか、自由に決めてるんだ。媚を売って腹を見せてくる相手は可愛がるが、そうじゃない相手は気にもかけない。俺は、誰に媚を売るのも腹を見せるのも躊躇わないが……」


「――――」


「好みでコロコロ他人の生き死にを決めるような奴と、付き合えるわけあるか」


 ――それが、トッド・ファングの最後通牒だった。


「――――」


 吐き捨てるように言い切ったトッド、その姿が骨の軋む音と共に変じていく。

 帝国兵の制服、あちこち破れた上着から覗く傷口が塞がり、肌を髪色と同じ獣毛が覆っていった。頭部の鼻が突き出し、口が裂けるように大きくなると、生え揃った白い歯が鋭く尖り始め、その外見が獰猛な獣のそれへと変わる。


 人狼と、そう宣言された通りの姿だ。

 二本の足で立って、二本の腕で道具を扱い、その凶暴な牙で相手の命を噛み砕く。そういう存在への変化――否、その真の姿を露わにした。


「死ね」


 短く、改めてその意志を言の葉に乗せて、トッドがスバルの方に踏み出した。

 その一歩が大きく、後ろ足で地を蹴る速度が爆発する。狙いはスバルの斬殺、得体の知れぬ恐怖の対象として敵対し、自分の正体を知った相手を生かさぬ心構え。

 それがわかったスバルの方も、闘志が爆発する。


「――インビジブル・プロヴィデンス」


 呟いたスバルへと、人狼となったトッドが斧を振りかざして飛びかかる。

 その斧の途上に、スバルは胸から伸ばした黒い腕で持ち上げた瓦礫を割り込ませ、トッドの頭を斧が追い越す前に向こう側へ弾き飛ばした。


「――ッ」


 だが、斧がなくなっても、今のトッドには別の武器が、牙がある。

 スバルも『見えざる手』を斧を防ぐのに使ってしまい、その牙を防ぐために権能を頼ることができない。

 その代わりに、スバルは自分の手で、足に刺さったナイフを引き抜いた。


「ぎ、ぐぎがぁぁぁ!!」


 慣れることのない激痛に絶叫しながら、スバルは抜いたナイフを両手で構えて、喰らいついてくるトッドの牙の隙間に挟み込んだ。

 閉じる鋭い牙がナイフに止められ、再び押し倒されるスバルの顔に、ナイフを噛んでいる人狼の口から涎がこぼれ、ボタボタと頬を濡らしてくる。


「――ォッ!」

「ああああああ!!」


 そのまま、押し込まれ、スバルの首へと牙が迫ってくる。

 それを必死で押しとどめながら、スバルは痛みの中で叫んだ。


「俺は……っ、お前を殺さない……!」


 今にも殺されそうになりながら、牙の先端が首筋を抉る寸前で、叫ぶ。

 命を奪われかける方が、命を奪おうとしている相手に対して、ちぐはぐに。


 このまま押し切られ、首を噛み千切られて命を落としたとしても、この戦いの最中のどこへ戻されたとしても。

 スバルの知らない理由で世を儚んで、恨んで、そんな奴としてトッドを――。


 その瞬間だった。


「――そこまでよ」


 不意打ちのように届いたその声音は、スバルの魂を掻き毟るように響く。

 獣の息遣いと、小刻みに訪れる地鳴り、各所でなおも混乱の続いている帝都は、あらゆる音が自儘に暴れ回る騒音の地獄だ。

 そんな世界でも、その声は何物にも邪魔されなかった。


 まるで、ナツキ・スバルの存在が、その声と共鳴するようにできているように。


「ご――」


 直後、スバルの体に圧し掛かり、命に牙を届かせようとするトッドの体が、横合いから叩き付けられる凄まじい衝撃に吹き飛ばされた。


「――――」


 眼前、人狼となったトッドの体が弾かれ、開かれた視界に映り込むのは、キラキラと煌めくように舞い散る氷の破片――それを散らせた、氷でできたハンマーだった。

 一抱えもある氷の槌、トッドはそれに力一杯殴り飛ばされたのだ。

 そして、その氷槌を両手で振り切って、長い銀色の髪を躍らせるのは、白い装束を纏ったとんでもなく美しい横顔をした少女――、


「――エミリア」


 電撃的に頭を過った名前、それをスバルの口が無意識になぞる。

 少女が振り返る。――瞬く紫紺の瞳が、スバルの黒瞳と見つめ合った。その、彼女の瞳の美しさに見惚れ、スバルは思わず息を――、


「そこの子、こっち!」


「え?」


 呼吸を忘れたのか、息を呑んだのか、それが無理やり中断される。

 ひょいと勢いよく伸びてくる白い指が、その見た目から想像できない力強さでスバルの体を引き寄せ、抱き上げる。血塗れで泥塗れのスバルを躊躇なく抱き上げて、少女――エミリアは「よしょ」と膝を曲げると、


「や!」


 と、掛け声と共にジャンプし、すぐ傍にあった建物の壁を蹴ると、さらに上を目指して跳び上がった。そうして建物の屋上へ飛び乗ったエミリア、その腕に抱かれて「え? え? え?」と目を白黒させるスバルだったが、理解は遅れて追いついてくる。


 眼下、スバルを抱いたエミリアが着地した建物の下の通りを、凄まじい勢いで濁流が押し流し、何もかもを呑み込んでいくのが見えたからだ。


「危ない……あとちょっとで水に呑まれちゃうところだったわね」


 その圧倒的な光景に、エミリアがホッと胸を撫で下ろす。

 あまり切迫感や悲惨さの伝わらないエミリアの反応だが、粉塵爆発が吹き飛ばした粉挽き小屋の跡地も、準備が整うまでの間、トッドがゾンビを引きずり回した通りも、まとめて鉄砲水に呑まれていく様子の絶望感は圧巻だ。


 あと少し遅ければ、エミリアの言う通りスバルも鉄砲水に呑まれていただろう。そうなったら、助かりようなどなかったはずで――、


「――っ、あいつは!?」


 スバルを噛み殺す寸前で、エミリアに殴り飛ばされたトッド。

 逃げ遅れたなら、彼もまた鉄砲水に呑まれたのか。あの水の勢いに呑まれれば、いくらトッドと言えども助かる術はないだろう。


 足の痛みも忘れ、とっさに視線を巡らせるスバルは、濁流が呑み込んでいく帝都の街並みにトッドの姿を探した。正直、トッドが見つかってほしいのか、見つかってほしくないのか、その答えすらもわからないままに。


「ちょっと、落ち着いて! 誰を探して……あ! よく見たら、すごいケガ! すぐに手当てしないと……」


 必死に目を凝らすスバル、その足の傷にエミリアが気付く。スバルを床に下ろそうとしていた彼女は、慌ててスバルを屋上の縁に座らせると、


「待ってて! すぐに、治癒魔法を使える子を……」


「そんな暇ないんだ! 放っておいたら……」


「あなたの方こそ、自分の足をちゃんと――」


 言い聞かせる言葉を撥ね除け、立ち上がろうとするスバルにエミリアが眉を立てる。しかし、彼女の叱咤は最後まで紡がれず、中断した。

 彼女の、大きな紫紺の瞳が見開かれ、その美しい瞳に映り込む光景が見える。


 屋上の縁に座ったスバル、その背後から水飛沫と共に顔を出した人狼が、大口を開けてスバルのうなじに喰らいつかんとしているのが。


「――――」


 噛みついたまま水に引き込まれるか、あるいは容赦なく頸骨を噛み砕かれるか、いずれにしても、目の前のエミリアも間に合わない一瞬。

 トッドの執念が鉄砲水にさえ抗い、スバルの命を噛み千切らんとする。

 瞬間――、


「――その人に」


 強く、屋上の床を踏みつける足音がして、風切り音が鳴る。

 疲労困憊のスバルも、離れかけていたエミリアも、トッドの凶行を止められない。

 代わりに飛び込んでくるのは、薄青の瞳を怒らせた少女で。


「触るなぁ――ッ!!」


 咆哮と同時に放たれたのは、渾身の力で振り抜かれた斧だ。

 人狼が飛びかかってくる際、スバルが弾き飛ばした斧。それが何の因果か少女の手に渡って、スバルへ喰らいつこうとした持ち主の下へ戻る。


「――が」


 一度、深々と斧の刺さった左肩の傷に重ねるように、二度目の攻撃が突き刺さった。衝撃が人狼の勢いを迎撃し、吹き飛ばされる巨躯が濁流へと叩き込まれる。

 大きな水音と水柱を上げて、今度こそ、人狼――トッド・ファングが、水底に。


「はぁ、はぁ、はぁ……」


 肩で荒く息をしながら、斧を振り抜いた少女がスバルの頭を胸に抱きかかえる。そのまま、彼女は震える手から斧を水に落とすと、その場に膝をついた。

 そうして、少女――レムの薄青の瞳と、スバルの黒瞳が真っ直ぐに向き合う。


「無事、みたいですね」


「……無事じゃ、ないけど」


 微かな安堵に目尻を下げるレムに、スバルはたどたどしくそう答える。

 それから背後、レムの一撃で水没したトッドの姿を探す。――見つからない。今度こそ見つかるはずもない。見つかったとしても、彼は。


「――っ」


 悔しさと苦々しさが込み上げ、スバルは自分の胸に手を当てた。

 何一つ、スバルはトッドとわかり合えなかった。わかってもらいたいことも、トッドがわかってもらわなくていいと思ったことも、何も。


 それが悔しい。悔しくて悔しくてたまらない。

 その、どうしようもない悔しさを抱えたまま――、


「レム! よかった。この子の傷を治してあげて! 私、早くスバルを……」


「待ってください! この子です! この子がそうです! この子が、ナツキ・スバルと自称している子で……」


「え!? この子がスバル!? でも、可愛いわよ……?」


 ズルズルと、屋上の縁で力が抜けていくスバルの前、助けてくれた二人――エミリアとレムの二人が、スバルのことであれこれと声を上げている。

 そうして、二人が自分の前で、こうやって言葉を交わしている姿なんて、いったい、いつぶりだろうかと、そんな思考が頭を掠めて――。


「トッドの、大バカ野郎……」


 そんな、悔しさと敗北感を最後に、スバルの意識はぷっつりと途切れた。



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― 新着の感想 ―
「そこまでよ」と「その人に、触るなーー!」が同時に聞けるのやばスンギ。あとエミリアのスバルをスバルだと思ってないの一章と似たような光景で思い出す。 レムは記憶ないのに再現してくるし、、くっっ。
レム、レムぅぅぅぅぅ!
トッド→自分とカチュアを脅かす奴を殺す為ならなんだって利用するし、誰だって殺す。その結果、他人が泣こうが喚こうが死のうが、どうでもいい。 スバル→自分と自分の大切な人達の命と幸せの為ならなんだってす…
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