看板娘、尋問される?
灰岩山があった場所に、ひとりの男が立っていた。
年は三十前後。銀縁の眼鏡に、きっちりと撫でつけた黒髪。足首まである濃紺の外套の胸元には、王立魔導院の紋章が縫い取られている。
男の目の前には、巨大なすり鉢状の窪地が広がっていた。
かつて、ここに山があったとは、とても信じられない光景だった。
「……クラウス様。測定、終わりました」
背後から、若い助手が駆け寄ってきた。両手で抱えた大きな測定器の水晶が、まだ淡く光っている。
「窪地の中心部に、高濃度の魔力の残滓が確認されます。発生から、およそひと月。自然現象では説明がつきません」
「でしょうね」
クラウスと呼ばれた男は、眼鏡の位置を指で直した。
「火山でも、地震でもない。地面が内側から崩れたのではなく、上から、何かに押しつぶされている。そして、この規模」
クラウスは、窪地の縁にしゃがみこんで、黒く焼け焦げた岩のかけらを拾い上げた。
岩の表面に、うっすらと、光の線が残っていた。
円を描くように。文字のようにも見える、複雑な模様が。
「……っ」
クラウスの指が、ぴたりと止まった。
「クラウス様?」
「これは……」
岩を、目の高さに持ち上げる。眼鏡の奥の目が、大きく見開かれていく。
「術式痕……いや、違う。これは、詠唱陣の痕跡だ」
「えいしょう、じん……?」
「詠唱によって構築された魔法陣ですよ。無詠唱の魔法では、こんな痕跡は残らない。頭の中で組み上げた術式は、そのまま魔力として放たれるだけだから。だが、詠唱は違う。言葉の一節一節が、陣を一段ずつ積み上げていく。だから、こういう、年輪のような痕が残る」
クラウスの声が、少しずつ早口になっていく。
「文献でしか見たことがない。最後に詠唱による大規模魔法が記録されたのは、300年前だ。それ以来、誰も、こんなものを――」
そこで、クラウスは、はっと口をつぐんだ。
助手が、ぽかんとした顔でこちらを見ていた。
クラウスは、こほん、と咳払いをした。
いつもの、冷静沈着な調査官の顔に戻る。
「……失礼。少々、取り乱しました」
「い、いえ」
助手は知っていた。
王立魔導院第三調査室、室長補佐クラウス・ヴェルナー。冷静で、優秀で、感情を表に出さない、魔導院きってのエリート。
そして、その正体は。
魔導院の書庫に眠る古代詠唱の文献を、すべて暗記していると噂される、筋金入りの詠唱オタクである。
「近くの街は」
「南に二日の、交易都市アルメリアです。冒険者ギルドの本部への報告によると、この件の直前、アルメリアのギルドの者が三名、この近くに居合わせたと」
「三名」
クラウスは、岩のかけらを、大切そうにハンカチで包んで、懐にしまった。
「話を聞きましょう。アルメリアへ向かいます」
「はい!」
助手が走り去ったあと。
クラウスは、もう一度だけ、窪地を振り返った。
その口元が、ほんのわずかに、ゆるんでいた。
「……300年ぶりの、詠唱魔法」
誰にも聞こえないくらいの、小さな声だった。
「いったい、どこの誰が……」
◇ ◇ ◇
その頃、アルメリアの四つ葉亭では。
「――でよ、その山がな、一晩で消えちまったんだと!」
「嘘だろ、山だぞ?」
「本当だって! 鉱山村の連中が、空から星が降ってきたのを見たって言ってる!」
カウンター席で、行商人たちが大声で話していた。
まなみは、唐揚げの皿を運びながら、背中にだらだらと冷や汗をかいていた。
(めっちゃ噂になってる……!)
「神様の怒りだって、村じゃお祈りの行列ができてるらしいぜ」
「いや、俺は竜の仕業だって聞いたね」
「伝説の大魔導師が蘇ったって話もあるぞ」
(ちがいます。二十三歳の元事務職です……)
「お、お待たせいたしましたー! 唐揚げでございますー!」
まなみは、引きつった笑顔で皿を置いて、そそくさと厨房に逃げ込んだ。
「……店長」
「なんだ」
レオンは、相変わらず片手で鍋を振っていた。三角巾は、そろそろ外れそうだ。
「山の噂、すっごい広まってるんですけどぉ……」
「みたいだな」
「だ、大丈夫なんでしょうかねぇ……」
「ガルドさんが、うまくやってる」
レオンは、表情ひとつ変えなかった。
「お前は、普通にしてろ。普通に皿を運んで、普通に笑ってりゃいい。それが一番、怪しまれねえ」
「……はい」
普通に。
まなみは、深呼吸をした。
普通にウェイトレスをすればいいのだ。それなら、得意だ。
「あと、マナミ」
「はい?」
「顔に全部出てる。もうちょっと、どうにかしろ」
「うっ……」
それは得意じゃなかった。
◇ ◇ ◇
その知らせが届いたのは、三日後のことだった。
「王立魔導院から、調査官が来る」
閉店後の四つ葉亭。ギルドマスターのガルドが、いつになく渋い顔でテーブルに一通の手紙を置いた。
王家の紋章の入った、立派な封蝋がついていた。
「お、王立魔導院……!」
ピートが、椅子から転げ落ちそうになった。
「魔導院って、あの、王都にある、この国で一番の魔法の研究機関ですよね!? 国中の天才魔法使いが集まってるっていう……!」
「そうだ」
「僕、子どものころから、ずっと憧れてて……! いつか、魔導院の試験を受けるのが夢で……!」
「ピート。今はそういう話じゃねえ」
「あっ、す、すみません……」
ピートは、しゅんと小さくなった。でも、その目は、まだちょっとだけ輝いていた。
ガルドは手紙を指で叩いた。
「灰岩山の件だ。本部への報告書に、お前ら三人の名前が書いてある。たまたま居合わせた、ってな。それで、話を聞きに来るらしい」
「話を、聞きに……」
まなみの顔から、さあっと血の気が引いた。
「や、やっぱり、ばれたんでしょうか……?」
「まだわからん。ただの聞き取りかもしれねえ」
ガルドは、腕を組んだ。
「だが、相手は魔導院だ。そこらの役人とはわけが違う。下手にごまかせば、かえって怪しまれる」
「……じゃあ、どうするんですか?」
「口裏を合わせる」
ガルドは、まなみ、レオン、ピートの顔を、順番に見回した。
「お前らは、俺の頼みで、灰岩山の岩喰いトカゲの様子を見に行った。駆除じゃなくて、偵察だ。山に近づいたところで、トカゲの群れに見つかって襲われた。レオンが応戦して、肩を怪我した」
「……はい」
「そのとき、空が光って、山が消えた。なにが起きたのかは、さっぱりわからねえ。命からがら逃げ帰ってきた。――それだけだ」
ガルドは、まなみのほうを見て、念を押した。
「嬢ちゃん。詠唱のことは、一言も言うな。あの本のことも、だ」
「は、はいっ!」
「あと、顔に出すな」
「……みんなに言われるぅ……!」
◇ ◇ ◇
調査官がアルメリアに到着したのは、それからさらに二日後の昼だった。
その日の四つ葉亭は、いつも通り満席だった。
まなみは、朝からずっと、そわそわしていた。
(いつ来るんだろう……今日? 明日? ていうか、どんな人なんだろう……)
頭の中で、勝手に想像が膨らんでいく。
王立魔導院の調査官。きっと、いかつい顔をした、白いひげのおじいさんだ。それか、目つきの鋭い、冷酷な女の人。尋問とかしてくるタイプの。拷問とかも、するのかもしれない。
(ひいいいっ……)
「マナミさぁん、香草焼きひとつぅー!」
「は、はいぃっ!」
リリィの注文に、声がひっくり返った。
昼のピークが、少しだけ落ち着いたころ。
四つ葉亭の扉が、静かに開いた。
入ってきたのは、濃紺の外套を着た男だった。
年は三十前後。銀縁の眼鏡。きっちりと撫でつけた黒髪。その胸元に縫い取られた紋章を見て、食堂の中の冒険者たちが、一瞬、ざわっとした。
王立魔導院の紋章だった。
(き、来たぁぁぁっ……!)
まなみは、お盆を持ったまま、その場で固まった。
思っていたより、若い。思っていたより、怖くない。でも、眼鏡の奥の目は、まるで全部を見透かすように、冷たく澄んでいた。
男は、ぐるりと食堂の中を見回した。
厨房の、片腕に三角巾をつけたレオン。
隅のテーブルで、魔法書を開いたまま固まっているピート。
そして最後に、オレンジ色の制服を着た、まなみ。
眼鏡の奥の目がほんの一瞬だけ、まなみの上で止まった。
――その、胸元のあたりで。
(え?)
男は、こほん、と小さく咳払いをして目をそらした。
それから、何事もなかったように、カウンター席に腰を下ろした。
「失礼。この店で、一番高い料理を」
「は、はいっ! かしこまりましたぁっ!」
まなみは、厨房に逃げ込んで、レオンの背中に隠れた。
「て、店長っ、来ました! 魔導院の人です!」
「……見ればわかる」
「どうしましょう!? 一番高い料理って言われました! なんですか!? 一番高いのってなんですか!?」
「……香草焼きの、大盛り」
「香草焼き大盛り、入りまーすっ!」
香草焼きの大盛りを、震える手でカウンターに置く。
「お、お待たせいたしましたぁ……香草焼きの、大盛りでございます……」
「ありがとう」
男は、ナイフとフォークを手に取って、ひと口食べた。
それから、少しだけ、眉を上げた。
「……おいしい」
「あ、ありがとうございます! 店長の自慢の料理なんです!」
(よし! 普通に! 普通にできてる!)
男は、もうひと口食べて、ナイフを置いた。
そして、眼鏡の奥からまっすぐに、まなみを見上げた。
「申し遅れました。王立魔導院第三調査室、クラウス・ヴェルナーと申します」
「は、はい……」
「あなたが、マナミさんですね」
どくん、と心臓が鳴った。
「灰岩山の件で、少しお話を聞かせていただきたいのですが」
厨房の奥で、レオンの鍋を振る手が止まった。
隅のテーブルで、ピートが魔法書を取り落とした。
そして、まなみは。
「…………はい」
精いっぱい、普通の顔をしたつもりだった。
でも、たぶん、顔に全部出ていた。
◇ ◇ ◇
聞き取りは、ギルドマスターの部屋で行われることになった。
大きな机の向こうに、クラウス・ヴェルナー。その隣に、帳面を抱えた若い助手。
机のこちら側に、ガルド、レオン、ピート。
そして、真ん中の椅子に、まなみ。
(なんでわたしが真ん中なの……!?)
オレンジ色の制服のまま、まなみは膝の上で両手をぎゅっと握りしめていた。着替える暇もなく、四つ葉亭から直行させられたのだ。
クラウスは、手元の書類に目を落としたまま、淡々と言った。
「堅苦しいものではありません。ギルド本部への報告書の内容を、確認させていただくだけです」
「は、はい……」
「では、最初から順番に。なぜ、灰岩山へ?」
打ち合わせ通りだった。
ガルドの頼みで、岩喰いトカゲの様子を見に行った。駆除ではなく、偵察。山に近づいたところで群れに見つかり、襲われた。レオンが応戦して、肩を怪我した。
「――そのとき、空が光って、山が消えました。なにが起きたのかは……わかりません。わたしたちは、必死で逃げました!」
まなみは、何度も頭の中で練習した台詞を、一字一句、間違えずに言い切った。
(よし……! 完璧……!)
クラウスは、ペンを走らせる手を止めずに、うなずいた。
「なるほど。レオン・アークライトさん、ピート・ハーシェルさん。お二人も、同じ認識でよろしいですか」
「……ああ」
「は、はいっ! 同じですっ! まったく同じですっ!」
ピートの声が、ひっくり返っていた。
しかも、さっきからクラウスの外套の紋章を、きらきらした目で見つめている。
(ピートくん!憧れの魔導院の人の前で緊張してる……! 顔に出てるよ……!)
自分のことは棚に上げて、まなみはひやひやした。
「ありがとうございます」
クラウスは、書類を閉じた。
それから、懐から、ハンカチに包んだなにかを取り出した。
机の上で、そっと広げる。
黒く焼け焦げた、岩のかけらだった。
その表面に、うっすらと、光の線が残っている。円を描くような、文字のような、複雑な模様。
「これは、灰岩山の跡地で拾ったものです」
まなみの背中に、つうっと冷たい汗が流れた。
(あ、あれ……わたしの足元に出てた、光の紋様……!?)
「皆さんは、魔法の専門家ではないので、ご存知ないかもしれませんが」
クラウスは、眼鏡の位置を指で直した。
「これは、詠唱陣の痕跡です」
部屋が、しんと静まり返った。
ガルドは、眉ひとつ動かさなかった。レオンは、腕を組んだまま、窓の外を見ていた。けれど、組んだ腕の指先が、外套の袖を強く握りしめているのが見えた。ピートは、目を見開いて、岩のかけらに釘付けになっていた。
そしてまなみは、口を真一文字に結んで、全力で無表情を作っていた。
「詠唱……というものを、ご存知ですか?」
「……」
「古代の魔法使いたちは、魔法を使うときに、長い言葉を唱えていました。言葉の一節一節が、魔法陣を一段ずつ積み上げていく。そうして構築された陣は、無詠唱の魔法とは比べものにならないほど、大規模で、精緻な魔法を可能にした」
クラウスの声が、ほんの少しだけ、熱を帯び始めた。
「この痕跡を見てください。この、年輪のような同心円の線。一本一本が、詠唱の一節に対応しているんです。数えてみたところ、少なくとも百二十節以上。これほど長い詠唱陣の痕跡は、魔導院の書庫にある文献にも、ほとんど記録がない」
(わかる……!)
まなみの口の端が、ぴくっと動いた。
「そもそも、無詠唱が主流になってから、詠唱は『実用的ではない』という理由だけで切り捨てられてきました。確かに、戦闘の最中に長い言葉を唱えるのは、非効率です。それは認めます。ですが、詠唱にしか到達できない領域というものが、確かに存在するんです。言葉が持つ韻律、構文の重なり、そして唱える者の意志――」
(わかるぅ〜……!)
「――それを、たかが『時間がかかる』というだけで、歴史の授業の片隅に追いやってしまった。私は、それが、残念でならない」
クラウスは、そこで、はっと口をつぐんだ。
こほん、と咳払いをする。
「……失礼。少々、話がそれました」
まなみは、限界だった。
膝の上の両手が、ぷるぷると震えていた。
この人は、わかっている。詠唱の良さを、わかっている。ネット小説を読みながら、ずっとひとりで叫んできたことを、この世界で、初めて、真顔で語ってくれる人に出会ってしまった。
語りたい。
今すぐ、語り合いたい。
(だめ……! だめだめだめ! ここで「わかります!」とか言ったら、全部終わる……!)
「詠唱って、ロマンですよねぇ〜!」
………………。
言ってしまった。
口が、勝手に動いていた。
部屋の空気が、一瞬で凍りついた。
ガルドが、机の下で、まなみの足を思いっきり踏んだ。
「いっ……!」
レオンが、ゆっくりと天井を見上げた。
ピートが、口をぱくぱくさせていた。
そして、クラウスは。
眼鏡の奥の目を、まん丸に見開いて、まなみを見つめていた。
「……今、なんと?」
「あっ、い、いえ! なんでもないです! あの、えっと、その……!」
まなみは、両手をぶんぶん振った。
「わ、わたしの故郷では、詠唱が出てくる物語が、すっごく人気で! だから、なんとなく、かっこいいなーって思ってて! それだけです! ほんとに、それだけ!」
「……物語、ですか」
「はいっ! 子どもが読むような、おとぎ話です!」
(アニメと漫画とラノベのことだけど、嘘は言ってない……!)
クラウスは、しばらく黙って、まなみを見つめていた。
それから、助手のほうを振り返った。
「……測定器を」
「は、はい」
助手が、鞄から、こぶし大の水晶玉を取り出した。ギルドの健康診断で使ったものより、ひと回り大きくて、装飾も立派だった。
「念のため、皆さんの魔力を測らせていただきます。順番に、手をかざしてください」
(ま、まずい……!)
まなみは、ちらりとガルドを見た。ガルドは、無表情のまま、小さくうなずいた。
大丈夫だ、ということらしい。
レオン、二百四十。
「元高ランク冒険者としては、妥当ですね」
ピート、三百十。
「十七歳でこの数値なら、優秀です。……魔導院の試験、受ける気はありますか?」
「えっ!? あ、は、はいっ! いつか、必ずっ!」
ピートは、その場で泣き出しそうになっていた。
そして。
「マナミさん、どうぞ」
まなみは、おそるおそる、右手をかざした。
水晶玉の中に、ぽうっ、と。
蛍の光みたいな、かすかな明かりが灯った。
『 1 』
「…………」
クラウスが、固まった。
助手が、帳面を取り落とした。
「い、1……?」
「……測定器の故障でしょうか」
「い、いえ、さっきピートさんは正常に……」
クラウスは、もう一度、水晶玉をのぞき込んだ。
何度見ても、1だった。
「……失礼ですが、マナミさん。生まれつき、ですか?」
「えっと……たぶん……」
「どのような環境で、お育ちに……?」
まなみは、遠い目をした。
「……セクハラブラック企業環境です」
「……せくはら……?」
「なんでもないです……」
クラウスは、眼鏡を外して、目元を指で押さえた。
しばらくそうしていたあと、ふうっと長い息を吐いて、眼鏡をかけ直した。
「……わかりました。ありがとうございます」
その声には、はっきりと、落胆の色がにじんでいた。
「魔力1の方に、百二十節を超える詠唱陣を構築するのは、どう考えても不可能です。山ひとつを消し飛ばすには、少なくとも、私の試算で、魔力10000以上が必要になりますから」
(その10000、アンミラを着てても、詠唱してるあいだしか出ないんです……)
「おそらく、皆さんは、本当にたまたま居合わせただけなのでしょう。詠唱陣の主は、別にいる。灰岩山の周辺に潜んでいる、名も知れぬ古代式の魔法使いが」
クラウスは、書類を鞄にしまって、立ち上がった。
「ご協力、感謝します」
ガルドが、机の下で、そっとまなみの足から自分の足をどけた。
レオンが、天井から視線を戻した。
ピートが、魔導院の試験のことを考えて、まだちょっとふわふわしていた。
まなみは、全身から、へなへなと力が抜けていくのを感じていた。
(た、助かった……! 魔力1、最強のアリバイだったぁ……!)
まさか、あの日わんわん泣いた魔力1に、救われる日が来るとは思わなかった。
◇ ◇ ◇
部屋を出るとき。
助手が先に廊下へ出て、ガルドとレオンが話しこんでいる、ほんのわずかな隙に。
クラウスが、まなみのすぐ隣で、足を止めた。
「マナミさん」
「は、はいっ!」
クラウスは、前を向いたまま、小さな声で言った。
「先ほど、『詠唱って、ロマンですよね』と、おっしゃいましたね」
どくん、と心臓が跳ねた。
「……私は、そう思います」
まなみは、思わず、クラウスの横顔を見上げた。
冷たく澄んだ、眼鏡の奥の目。
その口元が、ほんのわずかに、ゆるんでいた。
「あなたの故郷の物語、いつか、聞かせていただけますか。仕事とは関係なく、個人的に」
「え……」
「私は、しばらくアルメリアに滞在します。灰岩山の調査が、まだ終わっていませんので」
クラウスは、そこで、ようやくまなみのほうを見た。
それから、ほんの一瞬だけ視線が下がって、すぐに上がった。
こほん、と咳払い。
「……それに、あの店の香草焼きも、気に入りましたので」
それだけ言って、クラウスは、外套をひるがえして廊下を歩いていった。
残されたまなみは、その場に立ち尽くした。
(え。今のどういう意味……?)
疑われているのか。いないのか。
調査官として言ったのか。詠唱オタクとして言ったのか。
それとも。
「……マナミ」
背後から、低い声がした。
振り返ると、レオンが、少しだけ眉間にしわを寄せて、クラウスが去っていった廊下を見ていた。
「……あの岩」
「え?」
「俺のミスだ」
レオンは、廊下の先をにらんだまま、低く言った。
「詠唱陣なんてもんが、跡に残るとは知らなかった。……知ってりゃ、あの場で、目につく岩は全部砕いてきた」
「そ、そんなの、誰も知らなかったですよ! ガルドさんも、ピートくんも……!」
「冒険者は、現場の後始末までが仕事だ」
レオンは、自分の左肩に、そっと手をやった。
「あの日は、お前を連れて帰ることしか考えてなかった。……昔の俺なら、そんな抜けは、しなかった」
五年のブランク。
レオンは、それを、誰よりも自分に許していないようだった。
「……店長」
まなみが何か言おうとするより先に、レオンは、ふうっと息を吐いて、いつもの眠たげな顔に戻った。
それから、もう一度、廊下の先に目をやった。
「……それと、あいつ、またお前の胸、見てたぞ」
「えっ!?」
「……気をつけろ」
それだけ言って、レオンは、すたすたと階段を下りていった。
(え……え……? 今の、店長、もしかして……)
まなみの顔が、みるみる赤くなっていく。
(ちょっとだけ、機嫌、悪かった……?)
(推しに心配してもらえた……ファン冥利に尽きる……!)
◇ ◇ ◇
その頃。
アルメリアの街角の酒場で、とある冒険者たちが、ひそひそと声を潜めていた。
「聞いたか。王立魔導院の調査官が、アルメリアに来てるらしい」
「灰岩山の件だろ? 山が消えたっていう」
「ああ。で、調査官が言ってたらしいんだ。山を消したのは、古代式の魔法使いだって」
「古代式?」
「詠唱を使う、とんでもねえ魔法使いさ。しかも、まだこの辺りに潜んでるかもしれねえって」
男たちは、顔を見合わせた。
「……そんな魔法使いを見つけて、仲間に引き込めたら」
「どんな依頼だって、楽勝だろうな」
「貴族連中も、喉から手が出るほど欲しがるぞ」
アルメリアの街に、新しい噂が流れ始めていた。
――この街のどこかに、山を消した、謎の魔法使いがいる。
その噂の中心にいる本人は、今、四つ葉亭の厨房で、店長の不機嫌の理由について、ひとりで顔を真っ赤にしていた。




