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9/13

看板娘、尋問される?

 灰岩山があった場所に、ひとりの男が立っていた。


 年は三十前後。銀縁の眼鏡に、きっちりと撫でつけた黒髪。足首まである濃紺の外套の胸元には、王立魔導院の紋章が縫い取られている。


 男の目の前には、巨大なすり鉢状の窪地が広がっていた。


 かつて、ここに山があったとは、とても信じられない光景だった。


「……クラウス様。測定、終わりました」


 背後から、若い助手が駆け寄ってきた。両手で抱えた大きな測定器の水晶が、まだ淡く光っている。


「窪地の中心部に、高濃度の魔力の残滓が確認されます。発生から、およそひと月。自然現象では説明がつきません」


「でしょうね」


 クラウスと呼ばれた男は、眼鏡の位置を指で直した。


「火山でも、地震でもない。地面が内側から崩れたのではなく、上から、何かに押しつぶされている。そして、この規模」


 クラウスは、窪地の縁にしゃがみこんで、黒く焼け焦げた岩のかけらを拾い上げた。


 岩の表面に、うっすらと、光の線が残っていた。


 円を描くように。文字のようにも見える、複雑な模様が。


「……っ」


 クラウスの指が、ぴたりと止まった。


「クラウス様?」


「これは……」


 岩を、目の高さに持ち上げる。眼鏡の奥の目が、大きく見開かれていく。


「術式痕……いや、違う。これは、詠唱陣の痕跡だ」


「えいしょう、じん……?」


「詠唱によって構築された魔法陣ですよ。無詠唱の魔法では、こんな痕跡は残らない。頭の中で組み上げた術式は、そのまま魔力として放たれるだけだから。だが、詠唱は違う。言葉の一節一節が、陣を一段ずつ積み上げていく。だから、こういう、年輪のような痕が残る」


 クラウスの声が、少しずつ早口になっていく。


「文献でしか見たことがない。最後に詠唱による大規模魔法が記録されたのは、300年前だ。それ以来、誰も、こんなものを――」


 そこで、クラウスは、はっと口をつぐんだ。


 助手が、ぽかんとした顔でこちらを見ていた。


 クラウスは、こほん、と咳払いをした。


 いつもの、冷静沈着な調査官の顔に戻る。


「……失礼。少々、取り乱しました」


「い、いえ」


 助手は知っていた。


 王立魔導院第三調査室、室長補佐クラウス・ヴェルナー。冷静で、優秀で、感情を表に出さない、魔導院きってのエリート。


 そして、その正体は。


 魔導院の書庫に眠る古代詠唱の文献を、すべて暗記していると噂される、筋金入りの詠唱オタクである。



「近くの街は」


「南に二日の、交易都市アルメリアです。冒険者ギルドの本部への報告によると、この件の直前、アルメリアのギルドの者が三名、この近くに居合わせたと」


「三名」


 クラウスは、岩のかけらを、大切そうにハンカチで包んで、懐にしまった。


「話を聞きましょう。アルメリアへ向かいます」


「はい!」


 助手が走り去ったあと。


 クラウスは、もう一度だけ、窪地を振り返った。


 その口元が、ほんのわずかに、ゆるんでいた。


「……300年ぶりの、詠唱魔法」


 誰にも聞こえないくらいの、小さな声だった。


「いったい、どこの誰が……」



   ◇ ◇ ◇



 その頃、アルメリアの四つ葉亭では。


「――でよ、その山がな、一晩で消えちまったんだと!」


「嘘だろ、山だぞ?」


「本当だって! 鉱山村の連中が、空から星が降ってきたのを見たって言ってる!」


 カウンター席で、行商人たちが大声で話していた。


 まなみは、唐揚げの皿を運びながら、背中にだらだらと冷や汗をかいていた。


(めっちゃ噂になってる……!)


「神様の怒りだって、村じゃお祈りの行列ができてるらしいぜ」


「いや、俺は竜の仕業だって聞いたね」


「伝説の大魔導師が蘇ったって話もあるぞ」


(ちがいます。二十三歳の元事務職です……)


「お、お待たせいたしましたー! 唐揚げでございますー!」


 まなみは、引きつった笑顔で皿を置いて、そそくさと厨房に逃げ込んだ。



「……店長」


「なんだ」


 レオンは、相変わらず片手で鍋を振っていた。三角巾は、そろそろ外れそうだ。


「山の噂、すっごい広まってるんですけどぉ……」


「みたいだな」


「だ、大丈夫なんでしょうかねぇ……」


「ガルドさんが、うまくやってる」


 レオンは、表情ひとつ変えなかった。


「お前は、普通にしてろ。普通に皿を運んで、普通に笑ってりゃいい。それが一番、怪しまれねえ」


「……はい」


 普通に。


 まなみは、深呼吸をした。


 普通にウェイトレスをすればいいのだ。それなら、得意だ。


「あと、マナミ」


「はい?」


「顔に全部出てる。もうちょっと、どうにかしろ」


「うっ……」


 それは得意じゃなかった。



   ◇ ◇ ◇



 その知らせが届いたのは、三日後のことだった。


「王立魔導院から、調査官が来る」


 閉店後の四つ葉亭。ギルドマスターのガルドが、いつになく渋い顔でテーブルに一通の手紙を置いた。


 王家の紋章の入った、立派な封蝋がついていた。


「お、王立魔導院……!」


 ピートが、椅子から転げ落ちそうになった。


「魔導院って、あの、王都にある、この国で一番の魔法の研究機関ですよね!? 国中の天才魔法使いが集まってるっていう……!」


「そうだ」


「僕、子どものころから、ずっと憧れてて……! いつか、魔導院の試験を受けるのが夢で……!」


「ピート。今はそういう話じゃねえ」


「あっ、す、すみません……」


 ピートは、しゅんと小さくなった。でも、その目は、まだちょっとだけ輝いていた。


 ガルドは手紙を指で叩いた。


「灰岩山の件だ。本部への報告書に、お前ら三人の名前が書いてある。たまたま居合わせた、ってな。それで、話を聞きに来るらしい」


「話を、聞きに……」


 まなみの顔から、さあっと血の気が引いた。


「や、やっぱり、ばれたんでしょうか……?」


「まだわからん。ただの聞き取りかもしれねえ」


 ガルドは、腕を組んだ。


「だが、相手は魔導院だ。そこらの役人とはわけが違う。下手にごまかせば、かえって怪しまれる」


「……じゃあ、どうするんですか?」


「口裏を合わせる」


 ガルドは、まなみ、レオン、ピートの顔を、順番に見回した。


「お前らは、俺の頼みで、灰岩山の岩喰いトカゲの様子を見に行った。駆除じゃなくて、偵察だ。山に近づいたところで、トカゲの群れに見つかって襲われた。レオンが応戦して、肩を怪我した」


「……はい」


「そのとき、空が光って、山が消えた。なにが起きたのかは、さっぱりわからねえ。命からがら逃げ帰ってきた。――それだけだ」


 ガルドは、まなみのほうを見て、念を押した。


「嬢ちゃん。詠唱のことは、一言も言うな。あの本のことも、だ」


「は、はいっ!」


「あと、顔に出すな」


「……みんなに言われるぅ……!」



   ◇ ◇ ◇



 調査官がアルメリアに到着したのは、それからさらに二日後の昼だった。


 その日の四つ葉亭は、いつも通り満席だった。


 まなみは、朝からずっと、そわそわしていた。


(いつ来るんだろう……今日? 明日? ていうか、どんな人なんだろう……)


 頭の中で、勝手に想像が膨らんでいく。


 王立魔導院の調査官。きっと、いかつい顔をした、白いひげのおじいさんだ。それか、目つきの鋭い、冷酷な女の人。尋問とかしてくるタイプの。拷問とかも、するのかもしれない。


(ひいいいっ……)


「マナミさぁん、香草焼きひとつぅー!」


「は、はいぃっ!」


 リリィの注文に、声がひっくり返った。



 昼のピークが、少しだけ落ち着いたころ。


 四つ葉亭の扉が、静かに開いた。


 入ってきたのは、濃紺の外套を着た男だった。


 年は三十前後。銀縁の眼鏡。きっちりと撫でつけた黒髪。その胸元に縫い取られた紋章を見て、食堂の中の冒険者たちが、一瞬、ざわっとした。


 王立魔導院の紋章だった。


(き、来たぁぁぁっ……!)


 まなみは、お盆を持ったまま、その場で固まった。


 思っていたより、若い。思っていたより、怖くない。でも、眼鏡の奥の目は、まるで全部を見透かすように、冷たく澄んでいた。


 男は、ぐるりと食堂の中を見回した。


 厨房の、片腕に三角巾をつけたレオン。


 隅のテーブルで、魔法書を開いたまま固まっているピート。


 そして最後に、オレンジ色の制服を着た、まなみ。


 眼鏡の奥の目がほんの一瞬だけ、まなみの上で止まった。


 ――その、胸元のあたりで。


(え?)


 男は、こほん、と小さく咳払いをして目をそらした。


 それから、何事もなかったように、カウンター席に腰を下ろした。


「失礼。この店で、一番高い料理を」


「は、はいっ! かしこまりましたぁっ!」



 まなみは、厨房に逃げ込んで、レオンの背中に隠れた。


「て、店長っ、来ました! 魔導院の人です!」


「……見ればわかる」


「どうしましょう!? 一番高い料理って言われました! なんですか!? 一番高いのってなんですか!?」


「……香草焼きの、大盛り」


「香草焼き大盛り、入りまーすっ!」



 香草焼きの大盛りを、震える手でカウンターに置く。


「お、お待たせいたしましたぁ……香草焼きの、大盛りでございます……」


「ありがとう」


 男は、ナイフとフォークを手に取って、ひと口食べた。


 それから、少しだけ、眉を上げた。


「……おいしい」


「あ、ありがとうございます! 店長の自慢の料理なんです!」


(よし! 普通に! 普通にできてる!)


 男は、もうひと口食べて、ナイフを置いた。


 そして、眼鏡の奥からまっすぐに、まなみを見上げた。


「申し遅れました。王立魔導院第三調査室、クラウス・ヴェルナーと申します」


「は、はい……」


「あなたが、マナミさんですね」


 どくん、と心臓が鳴った。


「灰岩山の件で、少しお話を聞かせていただきたいのですが」



 厨房の奥で、レオンの鍋を振る手が止まった。


 隅のテーブルで、ピートが魔法書を取り落とした。


 そして、まなみは。


「…………はい」


 精いっぱい、普通の顔をしたつもりだった。


 でも、たぶん、顔に全部出ていた。



   ◇ ◇ ◇



 聞き取りは、ギルドマスターの部屋で行われることになった。


 大きな机の向こうに、クラウス・ヴェルナー。その隣に、帳面を抱えた若い助手。


 机のこちら側に、ガルド、レオン、ピート。


 そして、真ん中の椅子に、まなみ。


(なんでわたしが真ん中なの……!?)


 オレンジ色の制服のまま、まなみは膝の上で両手をぎゅっと握りしめていた。着替える暇もなく、四つ葉亭から直行させられたのだ。


 クラウスは、手元の書類に目を落としたまま、淡々と言った。


「堅苦しいものではありません。ギルド本部への報告書の内容を、確認させていただくだけです」


「は、はい……」


「では、最初から順番に。なぜ、灰岩山へ?」



 打ち合わせ通りだった。


 ガルドの頼みで、岩喰いトカゲの様子を見に行った。駆除ではなく、偵察。山に近づいたところで群れに見つかり、襲われた。レオンが応戦して、肩を怪我した。


「――そのとき、空が光って、山が消えました。なにが起きたのかは……わかりません。わたしたちは、必死で逃げました!」


 まなみは、何度も頭の中で練習した台詞を、一字一句、間違えずに言い切った。


(よし……! 完璧……!)


 クラウスは、ペンを走らせる手を止めずに、うなずいた。


「なるほど。レオン・アークライトさん、ピート・ハーシェルさん。お二人も、同じ認識でよろしいですか」


「……ああ」


「は、はいっ! 同じですっ! まったく同じですっ!」


 ピートの声が、ひっくり返っていた。


 しかも、さっきからクラウスの外套の紋章を、きらきらした目で見つめている。


(ピートくん!憧れの魔導院の人の前で緊張してる……! 顔に出てるよ……!)


 自分のことは棚に上げて、まなみはひやひやした。



「ありがとうございます」


 クラウスは、書類を閉じた。


 それから、懐から、ハンカチに包んだなにかを取り出した。


 机の上で、そっと広げる。


 黒く焼け焦げた、岩のかけらだった。


 その表面に、うっすらと、光の線が残っている。円を描くような、文字のような、複雑な模様。


「これは、灰岩山の跡地で拾ったものです」


 まなみの背中に、つうっと冷たい汗が流れた。


(あ、あれ……わたしの足元に出てた、光の紋様……!?)


「皆さんは、魔法の専門家ではないので、ご存知ないかもしれませんが」


 クラウスは、眼鏡の位置を指で直した。


「これは、詠唱陣の痕跡です」



 部屋が、しんと静まり返った。


 ガルドは、眉ひとつ動かさなかった。レオンは、腕を組んだまま、窓の外を見ていた。けれど、組んだ腕の指先が、外套の袖を強く握りしめているのが見えた。ピートは、目を見開いて、岩のかけらに釘付けになっていた。


 そしてまなみは、口を真一文字に結んで、全力で無表情を作っていた。


「詠唱……というものを、ご存知ですか?」


「……」


「古代の魔法使いたちは、魔法を使うときに、長い言葉を唱えていました。言葉の一節一節が、魔法陣を一段ずつ積み上げていく。そうして構築された陣は、無詠唱の魔法とは比べものにならないほど、大規模で、精緻な魔法を可能にした」


 クラウスの声が、ほんの少しだけ、熱を帯び始めた。


「この痕跡を見てください。この、年輪のような同心円の線。一本一本が、詠唱の一節に対応しているんです。数えてみたところ、少なくとも百二十節以上。これほど長い詠唱陣の痕跡は、魔導院の書庫にある文献にも、ほとんど記録がない」


(わかる……!)


 まなみの口の端が、ぴくっと動いた。


「そもそも、無詠唱が主流になってから、詠唱は『実用的ではない』という理由だけで切り捨てられてきました。確かに、戦闘の最中に長い言葉を唱えるのは、非効率です。それは認めます。ですが、詠唱にしか到達できない領域というものが、確かに存在するんです。言葉が持つ韻律、構文の重なり、そして唱える者の意志――」


(わかるぅ〜……!)


「――それを、たかが『時間がかかる』というだけで、歴史の授業の片隅に追いやってしまった。私は、それが、残念でならない」


 クラウスは、そこで、はっと口をつぐんだ。


 こほん、と咳払いをする。


「……失礼。少々、話がそれました」



 まなみは、限界だった。


 膝の上の両手が、ぷるぷると震えていた。


 この人は、わかっている。詠唱の良さを、わかっている。ネット小説を読みながら、ずっとひとりで叫んできたことを、この世界で、初めて、真顔で語ってくれる人に出会ってしまった。


 語りたい。


 今すぐ、語り合いたい。


(だめ……! だめだめだめ! ここで「わかります!」とか言ったら、全部終わる……!)



「詠唱って、ロマンですよねぇ〜!」



 ………………。



 言ってしまった。


 口が、勝手に動いていた。


 部屋の空気が、一瞬で凍りついた。


 ガルドが、机の下で、まなみの足を思いっきり踏んだ。


「いっ……!」


 レオンが、ゆっくりと天井を見上げた。


 ピートが、口をぱくぱくさせていた。


 そして、クラウスは。


 眼鏡の奥の目を、まん丸に見開いて、まなみを見つめていた。


「……今、なんと?」


「あっ、い、いえ! なんでもないです! あの、えっと、その……!」


 まなみは、両手をぶんぶん振った。


「わ、わたしの故郷では、詠唱が出てくる物語が、すっごく人気で! だから、なんとなく、かっこいいなーって思ってて! それだけです! ほんとに、それだけ!」


「……物語、ですか」


「はいっ! 子どもが読むような、おとぎ話です!」


(アニメと漫画とラノベのことだけど、嘘は言ってない……!)



 クラウスは、しばらく黙って、まなみを見つめていた。


 それから、助手のほうを振り返った。


「……測定器を」


「は、はい」


 助手が、鞄から、こぶし大の水晶玉を取り出した。ギルドの健康診断で使ったものより、ひと回り大きくて、装飾も立派だった。


「念のため、皆さんの魔力を測らせていただきます。順番に、手をかざしてください」


(ま、まずい……!)


 まなみは、ちらりとガルドを見た。ガルドは、無表情のまま、小さくうなずいた。


 大丈夫だ、ということらしい。



 レオン、二百四十。


「元高ランク冒険者としては、妥当ですね」


 ピート、三百十。


「十七歳でこの数値なら、優秀です。……魔導院の試験、受ける気はありますか?」


「えっ!? あ、は、はいっ! いつか、必ずっ!」


 ピートは、その場で泣き出しそうになっていた。


 そして。


「マナミさん、どうぞ」


 まなみは、おそるおそる、右手をかざした。


 水晶玉の中に、ぽうっ、と。


 蛍の光みたいな、かすかな明かりが灯った。


『 1 』



「…………」


 クラウスが、固まった。


 助手が、帳面を取り落とした。


「い、1……?」


「……測定器の故障でしょうか」


「い、いえ、さっきピートさんは正常に……」


 クラウスは、もう一度、水晶玉をのぞき込んだ。


 何度見ても、1だった。


「……失礼ですが、マナミさん。生まれつき、ですか?」


「えっと……たぶん……」


「どのような環境で、お育ちに……?」


 まなみは、遠い目をした。


「……セクハラブラック企業環境です」


「……せくはら……?」


「なんでもないです……」



 クラウスは、眼鏡を外して、目元を指で押さえた。


 しばらくそうしていたあと、ふうっと長い息を吐いて、眼鏡をかけ直した。


「……わかりました。ありがとうございます」


 その声には、はっきりと、落胆の色がにじんでいた。


「魔力1の方に、百二十節を超える詠唱陣を構築するのは、どう考えても不可能です。山ひとつを消し飛ばすには、少なくとも、私の試算で、魔力10000以上が必要になりますから」


(その10000、アンミラを着てても、詠唱してるあいだしか出ないんです……)


「おそらく、皆さんは、本当にたまたま居合わせただけなのでしょう。詠唱陣の主は、別にいる。灰岩山の周辺に潜んでいる、名も知れぬ古代式の魔法使いが」


 クラウスは、書類を鞄にしまって、立ち上がった。


「ご協力、感謝します」



 ガルドが、机の下で、そっとまなみの足から自分の足をどけた。


 レオンが、天井から視線を戻した。


 ピートが、魔導院の試験のことを考えて、まだちょっとふわふわしていた。


 まなみは、全身から、へなへなと力が抜けていくのを感じていた。


(た、助かった……! 魔力1、最強のアリバイだったぁ……!)


 まさか、あの日わんわん泣いた魔力1に、救われる日が来るとは思わなかった。



   ◇ ◇ ◇



 部屋を出るとき。


 助手が先に廊下へ出て、ガルドとレオンが話しこんでいる、ほんのわずかな隙に。


 クラウスが、まなみのすぐ隣で、足を止めた。


「マナミさん」


「は、はいっ!」


 クラウスは、前を向いたまま、小さな声で言った。


「先ほど、『詠唱って、ロマンですよね』と、おっしゃいましたね」


 どくん、と心臓が跳ねた。


「……私は、そう思います」



 まなみは、思わず、クラウスの横顔を見上げた。


 冷たく澄んだ、眼鏡の奥の目。


 その口元が、ほんのわずかに、ゆるんでいた。


「あなたの故郷の物語、いつか、聞かせていただけますか。仕事とは関係なく、個人的に」


「え……」


「私は、しばらくアルメリアに滞在します。灰岩山の調査が、まだ終わっていませんので」


 クラウスは、そこで、ようやくまなみのほうを見た。


 それから、ほんの一瞬だけ視線が下がって、すぐに上がった。


 こほん、と咳払い。


「……それに、あの店の香草焼きも、気に入りましたので」



 それだけ言って、クラウスは、外套をひるがえして廊下を歩いていった。


 残されたまなみは、その場に立ち尽くした。


(え。今のどういう意味……?)


 疑われているのか。いないのか。


 調査官として言ったのか。詠唱オタクとして言ったのか。


 それとも。


「……マナミ」


 背後から、低い声がした。


 振り返ると、レオンが、少しだけ眉間にしわを寄せて、クラウスが去っていった廊下を見ていた。


「……あの岩」


「え?」


「俺のミスだ」


 レオンは、廊下の先をにらんだまま、低く言った。


「詠唱陣なんてもんが、跡に残るとは知らなかった。……知ってりゃ、あの場で、目につく岩は全部砕いてきた」


「そ、そんなの、誰も知らなかったですよ! ガルドさんも、ピートくんも……!」


「冒険者は、現場の後始末までが仕事だ」


 レオンは、自分の左肩に、そっと手をやった。


「あの日は、お前を連れて帰ることしか考えてなかった。……昔の俺なら、そんな抜けは、しなかった」


 五年のブランク。


 レオンは、それを、誰よりも自分に許していないようだった。


「……店長」


 まなみが何か言おうとするより先に、レオンは、ふうっと息を吐いて、いつもの眠たげな顔に戻った。


 それから、もう一度、廊下の先に目をやった。


「……それと、あいつ、またお前の胸、見てたぞ」


「えっ!?」


「……気をつけろ」


 それだけ言って、レオンは、すたすたと階段を下りていった。



(え……え……? 今の、店長、もしかして……)


 まなみの顔が、みるみる赤くなっていく。


(ちょっとだけ、機嫌、悪かった……?)


(推しに心配してもらえた……ファン冥利に尽きる……!)



   ◇ ◇ ◇



 その頃。


 アルメリアの街角の酒場で、とある冒険者たちが、ひそひそと声を潜めていた。


「聞いたか。王立魔導院の調査官が、アルメリアに来てるらしい」


「灰岩山の件だろ? 山が消えたっていう」


「ああ。で、調査官が言ってたらしいんだ。山を消したのは、古代式の魔法使いだって」


「古代式?」


「詠唱を使う、とんでもねえ魔法使いさ。しかも、まだこの辺りに潜んでるかもしれねえって」


 男たちは、顔を見合わせた。


「……そんな魔法使いを見つけて、仲間に引き込めたら」


「どんな依頼だって、楽勝だろうな」


「貴族連中も、喉から手が出るほど欲しがるぞ」



 アルメリアの街に、新しい噂が流れ始めていた。


 ――この街のどこかに、山を消した、謎の魔法使いがいる。


 その噂の中心にいる本人は、今、四つ葉亭の厨房で、店長の不機嫌の理由について、ひとりで顔を真っ赤にしていた。


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