誰も傷つけない詠唱
「黒樫の森の、どのあたりだ」
レオンの声に、ギルドの中が静まり返った。
ガルドは、ピートの鞄を受け取って、深いため息をついた。
「……街の東、歩いて一刻ほどの森だ。依頼は入り口までだったが、鞄が道に落ちてたってことは、追われて奥へ逃げ込んだんだろう。森の奥に、昔の木こりの見張り小屋がある。あいつが頭を使ったなら、そこだ」
「なら、今から行く」
「待て、レオン」
ガルドが、レオンの腕をつかんだ。
「影狼は夜の獣だ。暗い森の中じゃ、群れの数も、どこから来るかもわからねえ。夜の森に冒険者を何人送り込んだって、狼の餌を増やすだけだ。救助隊は、夜明けに出す。ギルドの決まりだ」
「……夜明けまで、あいつがもつと思うか?」
「…………」
ガルドは、ぎろりとレオンをにらんだ。
それから、ふいっと目をそらして、わざとらしく大きなあくびをした。
「……あー。救助隊の段取りは、夜明け前にやる。それまで、俺は仮眠を取る。ぐっすりだ。そのあいだに誰がどこへ出かけようが、気づかねえだろうな」
レオンは、しばらくガルドを見つめていた。
それから、小さく息を吐いた。
「……悪いな」
「なんのことだ。俺は寝るだけだ」
「あたしも行くよ」
ミアが、剣の柄をとんと叩いた。
「ピートは、あたしが冒険者のいろはを教えた弟子みたいなもんだからね。黙ってらんない」
(わたしも、行かなきゃ)
まなみは、エプロンの裾を、ぎゅっと握りしめた。
でも、喉まで出かかった言葉を、ぐっと飲み込んだ。
ギルドの中には、ダンもトムも、ほかの冒険者たちもいる。魔力1の食堂の店員が「わたしも行きます」なんて言ったら、みんな、どう思うだろう。なんで、と聞かれても、答えられない。
レオンが、ミアに目くばせをして、ギルドの奥へ歩き出した。裏口から出るつもりだ。
まなみは、その背中を追いかけた。
廊下に出たところで、レオンの袖を、そっとつかむ。
「……店長」
レオンが、振り返った。まなみの顔を見て、なにを言い出すつもりか、わかったらしかった。
「マナミ。お前は――」
「わたしも、行きます」
まなみは、声をひそめて、まっすぐにレオンを見上げた。
「ピートくんがあの森にいるのは、わたしのせいです。わたしが山を消したから、狼たちが森に下りてきたんです。わたしが魔力1のアリバイに隠れてたから、ピートくんが疑われて、街にいられなくなったんです。おねがいします……わたしも連れていってください」
「……山を、消した?」
ミアが、目を見開いた。
「お前のせいじゃねえ」
「わたしのせいです!」
声が、震えた。でも、目はそらさなかった。
「それに……わたしにしか、できないことがあるかもしれないんです」
◇ ◇ ◇
四つ葉亭の灯りを落として、まなみはギルド二階の自分の部屋で、『超・詠唱大全!』を必死にめくっていた。
窓の外は、もう、すっかり暗くなっていた。急がなきゃいけない。でも、なにを唱えるか決めずに飛び出せば、ピートを助けるどころじゃない。
横では、レオンとミアが、腕を組んで見守っている。ミアには、もう全部話した。山のことも、詠唱のことも、この本のことも。ミアは、話を聞き終えると、「……あんた、とんでもないね」とだけ言って、まなみの頭をわしわしと撫でた。
「まず、探知の魔法……!」
まなみは、目次を指でなぞった。
「ガルドさんは見張り小屋って言ってたけど、もし違ったら、真っ暗な森の中を一晩じゅう探すことになっちゃう。だから、最初にピートくんの居場所を探す魔法を……探知、探索、索敵……」
攻撃系。殲滅系。防御系。強化系。召喚系。
目次を、上から下まで、三回なぞった。
「……ない」
「ないのか」
「ない……! 探知の魔法、一個もない……!」
まなみは、頭を抱えた。
「そうだった……この本、『名詠唱』を集めた本なんだった……! 探知の魔法って、アニメだと、だいたい『……反応あり!』とか、ひとことで終わっちゃうんです! 探知でかっこいい長い詠唱なんて、誰も書いてくれないんです……!」
「……よくわからねえが、使えねえってことはわかった」
「地味な魔法ほど、詠唱がないんですぅ……!!」
ミアが、ぽんとまなみの肩を叩いた。
「探すのは、あたしたちの仕事。足跡を追うのは得意だし、店長だって元は上位の冒険者でしょ。あんたは、見つけたあとのことを考えな」
「……はい」
まなみは、鼻をすすって、ページをめくり直した。
「星墜としは、だめ」
まなみは、ページをめくりながらつぶやいた。
「あれは、山が消えちゃう。森に使ったら、ピートくんごと、全部消えちゃう……」
「当たり前だ」
「それに……狼たちも、わたしのせいで、おうちをなくしたんです。これ以上、ひどいことしたくない」
ミアが、目を丸くした。
「狼まで助ける気?」
「……だめ、ですか?」
「だめってことはないけどさ……あんた、ほんとにお人好しだね」
「だから、もっと別の……誰も傷つけない詠唱が、どこかに……」
殲滅系は、飛ばす。攻撃系も、飛ばす。めくって、めくって、めくって。
ページをめくる指が、ある章で止まった。
『第五章 精神・幻惑系詠唱』
『月影の子守唄』
『出典:TVアニメ「月影のララバイ」第十二話より。戦場に立った歌姫セレナが、敵味方すべての兵士を、ひとりも傷つけることなく眠りに落とした詠唱。範囲内のすべての者を、深い眠りへと誘う。』
『※作中では約1分半にわたって詠唱される』
『※ただし、歌姫が背中を預けた仲間たちだけは、眠りに落ちなかった。セレナいわく「わたしを守ってくれる人まで眠らせたら、意味がないでしょう?」』
「……あった」
まなみは、ページを指で押さえた。
「これ! 範囲の中にいる人を、全員、眠らせる詠唱です!」
ミアが、目を丸くした。
「全員……? 狼の群れごと?」
「たぶん! ちゃんと唱えきれれば、群れくらいは、きっと……!」
「……詠唱、何分だ」
レオンが、静かに聞いた。
「えっと……約1分半です」
「……2分よりは、短えな」
「1分半です! 30秒も短いです!」
「威張ることか」
ミアが、ぷっと吹き出した。
それから、ふと首をかしげた。
「でもさ、範囲の中の全員が眠るんでしょ? あたしたちが近くにいたら、一緒に寝ちゃうんじゃないの?」
「あ、そこは大丈夫です!」
まなみは、脚注の一文を指さした。
「セレナを守ってた仲間たちは、眠らなかったんです。だから、わたしも、そのつもりで唱えます。わたしの背中を預ける人は、眠らせないって」
まなみの『魔法の概念』は、アニメそのものだ。作中で起きたことは、まなみが本気で思い描けば、そのとおりに起きる。
「だから、店長とミアさんは眠らない……はず、です!」
「……はず?」
「た、たぶん! 九割くらい大丈夫です!」
「残りの一割は」
「……店長とミアさんが、ぐっすり寝ます」
レオンとミアは、顔を見合わせた。
「……気合いで起きてる」
「あたしも」
◇ ◇ ◇
夜。
月が、雲の切れ間から顔を出していた。
黒樫の森は、その名のとおり、黒々とした樫の大木がどこまでも続く、深い森だった。
ガルドの言った見張り小屋は、森の奥の、少しだけ開けた場所に建っていた。太い四本の丸太の脚の上に、小さな板張りの小屋が乗っている。梯子は、とうに外されていた。
その小屋の窓から、小さな、小さな火が見えた。
灯ったり、消えたり。また、灯ったり。
「……ピートだ」
ミアが、声をひそめた。
「火の魔法で、狼を近づけないようにしてる。……でも、あの火の具合じゃ、そろそろ魔力が尽きるね」
小屋の下では、黒い影が、ぐるぐると円を描いていた。
十、二十……いや、もっと。月明かりに、いくつもの赤い目が光っている。その真ん中に、ひときわ大きな影が、どっしりと腰を下ろしていた。牛ほどもある、群れの長だった。
まなみたち三人は、小屋から少し離れた、風下の岩陰に身を潜めていた。
「マナミ。ここから届くか」
「……届かせます」
まなみは、ローブのフードをかぶった。
あの日と同じ、ルクレツィア風の紺色のローブ。胸の前で『超・詠唱大全!』を開く。
本当なら、セレナの歌姫の衣装を着るべきだった。元ネタどおりの格好でないと、イメージがぶれる。河原で、思い知らされたことだ。
でも、今から縫っている時間なんて、どこにもない。
(……大丈夫。袖さえ、見なければ)
そう自分に言い聞かせたけれど、それが気休めだということも、わかっていた。
衣装は、目で見るためだけのものじゃない。肩にかかる重み。肌に触れる布の感触。動くたびに揺れる、袖や裾。体じゅうで「わたしは、この人だ」と感じるためのものだ。目をそらしたくらいで、ごまかせるものじゃない。
(それでも……やるしかない)
手が、少しだけ震えていた。
灰岩山のときとは、違う。今度は、無人の岩山じゃない。あの小屋には、ピートがいる。狼たちだって、生きている。
ひとりも、一匹も、傷つけちゃいけない。
小屋の窓の火が、ふっと消えた。
今度は、もう、灯らなかった。
「……マナミ」
レオンが、まなみの前に立った。
月明かりの下で、長剣を、すらりと抜く。柄の四つ葉のお守りが、小さく揺れた。
「詠唱のことだけ、考えてろ」
あの日と、同じ言葉だった。
まなみは、深く息を吸って、うなずいた。
「――聞いて。戦の野に立つ、すべての人よ」
◇ ◇ ◇
胸の奥で、ちいさな火種が、ぽっと燃えた。
銀色の光の粒が、岩陰のまわりに、ふわり、ふわりと浮かび上がる。
夜の闇の中では、それは、昼間よりもずっと目立った。
「――わたしは剣を持たない。盾も持たない。ただ、ひとつの歌を持つ」
「……気づかれたね」
ミアが、剣を抜いた。
小屋の下の赤い目が、いっせいに、こちらを向いていた。群れの長が、のそりと立ち上がる。低い唸り声が、森じゅうに響いた。
黒い影が、ばらばらと駆け出してくる。
「五、六……八匹。来るよ」
「殺すなよ」
「狼相手に手加減しろって、無茶言うね。……わかってるって。そっちこそ」
レオンとミアが、背中合わせに、まなみの前に立った。
「――だから、どうか、ほんのひととき。わたしの歌に、耳を貸して」
最初の影狼が、岩陰に飛び込んできた。
レオンが、剣の腹で、狼の横っ面を張り飛ばす。返す柄頭で、鼻先を一撃。狼は、きゃいんと鳴いて地面を転がった。
ミアは、二匹の狼の間をすり抜けざまに、それぞれの脇腹を蹴り払った。よろけた二匹の頭を、剣の鞘でごつんごつんと叩く。
「――夜はもう、そこまで来ている」
剣が、鞘が、拳が、夜の森に鳴り響く。
でも、血は一滴も流れなかった。
レオンも、ミアも、一匹も斬らなかった。
「――月が昇る。あなたたちの上にも、わたしの上にも、等しく」
そのとき、光の粒が、ちらりと揺らいだ。
ページを支える自分の手。その手首に、銀糸の星の刺繍が見えた。ルクレツィアの、ローブの袖口。
必死に意識の外へ追いやっていたローブの感触が、その瞬間、一気に押し寄せてきた。
思い描いていた歌姫の姿が、一瞬、黒いローブの魔女と重なる。
光が、ぱちぱちと明滅した。胸の奥の火が、ふっと細くなる。
(だめ……ぶれる……!)
まなみは、ぎゅっと目を閉じた。
でも、だめだった。
目を閉じても、肩にのしかかるローブの重さは、そこにある。ページを支えるたびに、たっぷりとした袖が、手首をこする。
まぶたの裏に浮かぶのは、栗色の髪の歌姫ではなかった。銀色の髪をなびかせて、杖を振りあげる、星の魔女だった。
「――ね、眠れ、眠れ……」
声が、裏返った。
光の粒が、ひとつ、またひとつと、消えていく。
胸の奥の火種が。
ぷすん、と。
消えた。
「…………え」
岩陰が、真っ暗になった。
銀色の光は、一粒も、残っていなかった。
「……マナミ?」
「……き、消えちゃった……」
まなみの声が、ふるえた。
「詠唱が……途中で、崩れて……」
「もう一回、いけるか」
レオンが、狼の鼻先を剣の腹で払いながら、ふりむかずに言った。
「……最初から、です。一字でも崩れたら、最初から……でも、このローブのままじゃ、また、ぶれる……!」
「グルルルル……!」
倒れていた狼たちが、頭をふって、起きあがってくる。
小屋の下の、群れの長が、のそりと、こちらへ、歩きはじめていた。
(どうしよう……どうしよう……!)
(セレナの衣装なんて、今から、縫えるわけ……)
そこで。
まなみは、はっと、顔をあげた。
(……縫わなくて、いい)
『月影のララバイ』、第十二話。
敵の夜襲で、陣営の天幕が、燃えた。
歌姫の舞台衣装も、ぜんぶ、燃えた。
だからセレナは、寝ていた格好のまま、戦場に、走っていったのだ。
白い、寝間着一枚。
裸足。
髪を結んだ、一本の、青いリボン。
それだけ。
放送当時、「寝間着の歌姫」と呼ばれて、伝説になった回だった。
「ミアさん!!」
「なに!?」
「肌着、貸してください!!」
「……はあ!?」
ミアが、狼を鞘で殴りながら、目をむいた。
「肌着!? 今!?」
「白くて、長いやつ!! 鎧の下に着てるやつ!! それと、髪紐も!!」
「なんで、あたしの肌着で、狼が寝るのさ!?」
「寝るんです!! セレナは、寝間着だったんです!! 伝説の寝間着回なんです!!」
「伝説の寝間着回……?」
ミアが、ものすごく、いやそうな顔で、くりかえした。
「……店長! ちょっと、ひとりで、もたせて!」
「……早くしろ」
レオンが、一歩、前に出た。
八匹の狼と、群れの長の前に、ひとりで。
「こっち、見ないでくださいね!!」
「見てる暇が、あるか」
岩陰で、ミアが、革の胸当ての紐を、ばちばちと、ほどいた。
「……あとで、覚えてな」
白い、膝まである、麻の肌着が、まなみの顔に、ばさっと、投げつけられた。
まなみは、ローブを、脱ぎすてた。
旅装も、脱いだ。
靴も、脱いだ。
ミアの肌着を、頭から、かぶる。
ミアのほうが、背が高いから、ぶかぶかだった。裾は、膝の下まであった。袖は、手の甲まで、かくれた。
ちょうど、セレナと、同じくらいに。
ミアの、紺色の髪紐で、髪を、うしろで、ひとつに、結んだ。
青い、リボンのかわりに。
裸足の足の裏に、冷たい土と、落ち葉の感触。
(……セレナも、こうだった)
(夜の、冷たい、地面の上に、裸足で、立って)
「……肌着の上から、じかに、胸当てって、こすれるんだよ……」
ミアが、ぶつぶつ言いながら、鎧をつけなおして、狼の群れに、飛びこんでいった。
レオンの背中が、見えた。
狼を三匹、同時に、剣の腹ではじきとばしている。
一滴の血も、流さずに。
小屋の窓の火は、もう、灯らない。
(……今度こそ)
まなみは、本を、ひらいた。
最初の、一行から。
「――聞いて。戦の野に立つ、すべての人よ」
胸の奥で、消えたはずの火種が、もう一度、ぽっと、燃えた。
さっきより、ずっと、暖かかった。
「――わたしは剣を持たない。盾も持たない。ただ、ひとつの歌を持つ」
本を支える手首に、銀糸の刺繍は、もう、ない。
目に入るのは、ぶかぶかの、白い、袖口だけ。
「――だから、どうか、ほんのひととき。わたしの歌に、耳を貸して」
「――夜はもう、そこまで来ている」
「――月が昇る。あなたたちの上にも、わたしの上にも、等しく」
今度は、光が、揺らがなかった。
頭の中に、思い描く。
栗色の髪をなびかせた、ひとりの歌姫。
寝間着のまま、裸足のまま、戦場の真ん中で、剣を向け合う兵士たちの前に立ち、両手を広げて、ただ静かに歌い始めた、あの少女。
セレナ。
中学生のころ、彼女の最終回で、毛布にくるまって泣いた。
誰も傷つけずに、戦いを終わらせた歌姫。
そして、その歌姫の前に立ち、最後まで眠らずに彼女を守り抜いた、仲間たちの背中。
(店長と、ミアさんは、わたしの仲間)
目の前の、ふたつの背中を、心に焼きつける。
それから、小屋の中の、ひとりぼっちの男の子と、帰る場所をなくした狼たちのことを、思う。
「――眠れ」
声が、変わった。
自分でも、わかった。
さっきまでの、張りつめた声ではない。もっとやわらかくて、静かで、まるで歌うような声。
「――眠れ、眠れ、月の子らよ。剣を置け、盾を下ろせ。今宵、汝らが守るべきものは、なにもない」
銀色の光が、ゆっくりと強さを取り戻していく。胸の奥の火が、とくん、とくんと脈打つように熱い。
淡い、月の光そのもののように。
光の粒が、まなみの身体から離れて、ふわふわと夜空へ昇っていく。そして、黒い樫の梢を越えて、まるで雪が降るように、静かに、静かに森へ流れていく。
「――怒りを手放せ。恐れを手放せ。昨日の悔いも、明日の憂いも、すべて夜の河に流してしまえ」
「……う」
レオンに飛びかかろうとしていた影狼の脚が、ふらりともつれた。
その赤い目が、とろんと重たくなっていく。
ミアに牙をむいていた狼が、くうん、と鼻を鳴らして、その場に伏せた。
小屋の下で、低く唸っていた群れの長の声が、ふつりと途切れた。
「――母の腕に抱かれし、幼き日の夢へと還れ。誰もが、かつてそうであったように」
銀色の光の雪が、森を包み込んでいく。
小屋のまわりを回っていた影たちが、一匹、また一匹と、足を止めた。前脚に顎をのせて、丸くなって、すうすうと寝息を立て始めた。
「――月影の名のもとに、すべての者に、安らかなる眠りを」
「――月影の子守唄」
最後の一節を唱えた瞬間、銀色の光が、ふわりと森全体を包んだ。
そして、すうっと消えた。
あとには、しんとした静けさだけが残った。
岩陰のまわりで、八匹の影狼が、全員、気持ちよさそうに寝息を立てていた。
一匹は、レオンの足元で、腹を出して仰向けになり、夢でも見ているのか、四本の脚をぴくぴく動かしていた。
「…………」
「…………」
レオンとミアは、顔を見合わせた。
「……マナミ」
「は、はい……っ」
まなみは、木の幹にもたれかかって、肩で息をしていた。全身から力が抜けていく。
でも、膝は崩れなかった。
灰岩山のときより、ずっと、ましだった。
「……一匹も、傷つけてないです、よね?」
レオンは足元で腹を出している狼を、しばらく見下ろしていた。
それから、ふっと、口の端を上げた。
「……ああ。一匹もな」
◇ ◇ ◇
見張り小屋のまわりは、まるで、おとぎ話の眠りの森のようだった。
黒い狼たちが、あちこちで丸くなって眠っている。木の根を枕にしている狼。仲間の背中に顎をのせている狼。尻尾を抱えるように丸まっている、まだ小さな狼。
そして、小屋の真下では。
牛ほどもある群れの長が、四本の脚を投げ出して、横倒しになって眠っていた。
ぷすー、ぷすー、と、間の抜けた寝息を立てながら。
「……あれが、群れのボス?」
「……たぶん」
「……くぅん……くぅん……」
寝言だった。たぶん。
ミアが、群れの長の大きな鼻先を見下ろして、心底あきれた顔をした。
「……こんなのに、ピート追い回されてたの?」
「……みたいだな」
レオンが、小屋の脚によじ登って、扉を開けた。
狭い板張りの床の上で、ピートが眠っていた。
右手には、使い古した練習用の杖。床には、焦げた跡がいくつも残っていた。窓から何度も、何度も、火の魔法を放った跡だった。
膝の上には、開いたままの小さな帳面。震える字で、こう書いてあった。
『マナミさんが持たせてくれた、店長の唐揚げのパン。先に食べておけばよかった』
ピートの頬には、涙の跡が残っていた。
「……ピートくん」
まなみは、レオンに引き上げてもらって、ピートのそばに膝をついた。
ピートは、すうすうと寝息を立てながら、小さく寝言をつぶやいた。
「……ないです……ほんとに……秘められた力なんて……ないです……むにゃ……」
まなみは、そっと、ピートの手を握った。
杖を握りしめていた指は、冷たくて、少しだけ火傷していた。
「……がんばったね。迎えに来たよ」
レオンが、眠っているピートを、ひょいと背負った。
レオンはピートを背負う前に、自分の外套を脱いで、まなみの肩に、ばさっとかけた。
「……裸足で森を歩くな。帰りは、ミアにおぶってもらえ」
「あたしの肌着着て、あたしにおぶわれるの? いい身分だね」
ミアは、そう言いながら、まなみの前に、しゃがんでくれた。
「帰るぞ」
「はい……!」
「ほら、さっさと乗りな。……落っことしても、文句言うんじゃないよ」
ミアの背中は、ぶっきらぼうな言葉とは裏腹に、あったかかった。
◇ ◇ ◇
眠る狼たちの間を抜けて、さっきの岩陰まで戻ってきたとき。
レオンは、まっすぐ、岩陰へ向かった。
地面には、銀色の光が、うっすらと残っていた。年輪のように重なった、いくつもの円。まなみが、詠唱していた場所だ。
(……灰岩山と同じ)
まなみは、息をのんだ。クラウスが聞き取りの日に見せた、あの岩のかけら。あれと同じ痕が、ここにも残っている。
「……今度は残していかねえ」
レオンが低くつぶやいた。灰岩山では、知らずに残してきた。そのせいで、クラウスに嗅ぎつけられた。同じしくじりは二度としない。
レオンは、ピートを背負い直すと、光る模様を、ブーツのかかとで、がりがりと踏みにじった。剣の切っ先で、土ごと削る。
でも、光は、消えなかった。削られた土の上に、何事もなかったかのように、また、うっすらと浮かび上がる。
「……ちっ」
「――土をかけても、消えませんよ」
木々の奥から、静かな声がした。
ミアが、背中のまなみを、そっと地面に下ろす。それから、剣の柄に手をかけて、木々の奥をにらんだ。
「――誰」
レオンも、ピートを背負ったまま、まなみの前に一歩出た。
月明かりの下、樫の木の陰から、ひとりの男が、ゆっくりと姿を現した。
足首まである、濃紺の外套。銀縁の眼鏡。
王立魔導院の紋章。
「……クラウス、さん……」
まなみの声が、かすれた。
クラウス・ヴェルナーは、その手に、黒い岩のかけらを持っていた。灰岩山で拾った、あのかけら。
その表面に刻まれた詠唱陣の痕跡が、今、ほのかに銀色に光っていた。
すぐそこで構築されたばかりの、新しい詠唱陣に、共鳴するように。
「灰岩山の裏の谷から、影狼の群れが消えたと聞きましてね。山の異変と関わりがあるかもしれないと、行き先を追っていたんです」
クラウスは、静かに言った。
「森のはずれの、木こりの村の宿で、本を読んでいたら……このかけらが、突然、光り始めたんです。灰岩山の詠唱陣と、同じ系統の陣が、近くで構築されている、と」
眼鏡の奥の目が、まっすぐに、まなみを見ていた。
冷たく澄んだ目。でも、そこに浮かんでいたのは、疑いでも、怒りでもなかった。
抑えきれない、熱だった。
「この岩陰に、詠唱陣の痕跡が、新しく残っています。それも、ふたつ。ひとつは、灰岩山とまったく同じ構造。もうひとつは、文献ですら見たことのない、まったく未知の構造。……いえ、途中で崩れて消えたものを数えれば、みっつですね」
クラウスは、一歩、前に出た。
レオンの剣が、わずかに持ち上がった。
クラウスは、それにちらりと目をやって、足を止めた。両手を、ゆっくりと上げてみせる。
「……戦うつもりは、ありません。私は、ただ」
それから、もう一度、まなみを見た。
「……やはり、あなたでしたか。マナミさん」




