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誰も傷つけない詠唱

「黒樫の森の、どのあたりだ」


 レオンの声に、ギルドの中が静まり返った。


 ガルドは、ピートの鞄を受け取って、深いため息をついた。


「……街の東、歩いて一刻ほどの森だ。依頼は入り口までだったが、鞄が道に落ちてたってことは、追われて奥へ逃げ込んだんだろう。森の奥に、昔の木こりの見張り小屋がある。あいつが頭を使ったなら、そこだ」


「なら、今から行く」


「待て、レオン」


 ガルドが、レオンの腕をつかんだ。


「影狼は夜の獣だ。暗い森の中じゃ、群れの数も、どこから来るかもわからねえ。夜の森に冒険者を何人送り込んだって、狼の餌を増やすだけだ。救助隊は、夜明けに出す。ギルドの決まりだ」


「……夜明けまで、あいつがもつと思うか?」


「…………」


 ガルドは、ぎろりとレオンをにらんだ。


 それから、ふいっと目をそらして、わざとらしく大きなあくびをした。


「……あー。救助隊の段取りは、夜明け前にやる。それまで、俺は仮眠を取る。ぐっすりだ。そのあいだに誰がどこへ出かけようが、気づかねえだろうな」


 レオンは、しばらくガルドを見つめていた。


 それから、小さく息を吐いた。


「……悪いな」


「なんのことだ。俺は寝るだけだ」



「あたしも行くよ」


 ミアが、剣の柄をとんと叩いた。


「ピートは、あたしが冒険者のいろはを教えた弟子みたいなもんだからね。黙ってらんない」


(わたしも、行かなきゃ)


 まなみは、エプロンの裾を、ぎゅっと握りしめた。


 でも、喉まで出かかった言葉を、ぐっと飲み込んだ。


 ギルドの中には、ダンもトムも、ほかの冒険者たちもいる。魔力1の食堂の店員が「わたしも行きます」なんて言ったら、みんな、どう思うだろう。なんで、と聞かれても、答えられない。


 レオンが、ミアに目くばせをして、ギルドの奥へ歩き出した。裏口から出るつもりだ。


 まなみは、その背中を追いかけた。


 廊下に出たところで、レオンの袖を、そっとつかむ。


「……店長」


 レオンが、振り返った。まなみの顔を見て、なにを言い出すつもりか、わかったらしかった。


「マナミ。お前は――」


「わたしも、行きます」


 まなみは、声をひそめて、まっすぐにレオンを見上げた。


「ピートくんがあの森にいるのは、わたしのせいです。わたしが山を消したから、狼たちが森に下りてきたんです。わたしが魔力1のアリバイに隠れてたから、ピートくんが疑われて、街にいられなくなったんです。おねがいします……わたしも連れていってください」


「……山を、消した?」


 ミアが、目を見開いた。


「お前のせいじゃねえ」


「わたしのせいです!」


 声が、震えた。でも、目はそらさなかった。


「それに……わたしにしか、できないことがあるかもしれないんです」



   ◇ ◇ ◇



 四つ葉亭の灯りを落として、まなみはギルド二階の自分の部屋で、『超・詠唱大全!』を必死にめくっていた。


 窓の外は、もう、すっかり暗くなっていた。急がなきゃいけない。でも、なにを唱えるか決めずに飛び出せば、ピートを助けるどころじゃない。


 横では、レオンとミアが、腕を組んで見守っている。ミアには、もう全部話した。山のことも、詠唱のことも、この本のことも。ミアは、話を聞き終えると、「……あんた、とんでもないね」とだけ言って、まなみの頭をわしわしと撫でた。


「まず、探知の魔法……!」


 まなみは、目次を指でなぞった。


「ガルドさんは見張り小屋って言ってたけど、もし違ったら、真っ暗な森の中を一晩じゅう探すことになっちゃう。だから、最初にピートくんの居場所を探す魔法を……探知、探索、索敵……」


 攻撃系。殲滅系。防御系。強化系。召喚系。


 目次を、上から下まで、三回なぞった。


「……ない」


「ないのか」


「ない……! 探知の魔法、一個もない……!」


 まなみは、頭を抱えた。


「そうだった……この本、『名詠唱』を集めた本なんだった……! 探知の魔法って、アニメだと、だいたい『……反応あり!』とか、ひとことで終わっちゃうんです! 探知でかっこいい長い詠唱なんて、誰も書いてくれないんです……!」


「……よくわからねえが、使えねえってことはわかった」


「地味な魔法ほど、詠唱がないんですぅ……!!」


 ミアが、ぽんとまなみの肩を叩いた。


「探すのは、あたしたちの仕事。足跡を追うのは得意だし、店長だって元は上位の冒険者でしょ。あんたは、見つけたあとのことを考えな」


「……はい」


 まなみは、鼻をすすって、ページをめくり直した。


「星墜としは、だめ」


 まなみは、ページをめくりながらつぶやいた。


「あれは、山が消えちゃう。森に使ったら、ピートくんごと、全部消えちゃう……」


「当たり前だ」


「それに……狼たちも、わたしのせいで、おうちをなくしたんです。これ以上、ひどいことしたくない」


 ミアが、目を丸くした。


「狼まで助ける気?」


「……だめ、ですか?」


「だめってことはないけどさ……あんた、ほんとにお人好しだね」


「だから、もっと別の……誰も傷つけない詠唱が、どこかに……」


 殲滅系は、飛ばす。攻撃系も、飛ばす。めくって、めくって、めくって。


 ページをめくる指が、ある章で止まった。



『第五章 精神・幻惑系詠唱』


『月影の子守唄(ルーナ・ソムニア)』


『出典:TVアニメ「月影のララバイ」第十二話より。戦場に立った歌姫セレナが、敵味方すべての兵士を、ひとりも傷つけることなく眠りに落とした詠唱。範囲内のすべての者を、深い眠りへと誘う。』


『※作中では約1分半にわたって詠唱される』


『※ただし、歌姫が背中を預けた仲間たちだけは、眠りに落ちなかった。セレナいわく「わたしを守ってくれる人まで眠らせたら、意味がないでしょう?」』



「……あった」


 まなみは、ページを指で押さえた。


「これ! 範囲の中にいる人を、全員、眠らせる詠唱です!」


 ミアが、目を丸くした。


「全員……? 狼の群れごと?」


「たぶん! ちゃんと唱えきれれば、群れくらいは、きっと……!」


「……詠唱、何分だ」


 レオンが、静かに聞いた。


「えっと……約1分半です」


「……2分よりは、短えな」


「1分半です! 30秒も短いです!」


「威張ることか」


 ミアが、ぷっと吹き出した。


 それから、ふと首をかしげた。


「でもさ、範囲の中の全員が眠るんでしょ? あたしたちが近くにいたら、一緒に寝ちゃうんじゃないの?」


「あ、そこは大丈夫です!」


 まなみは、脚注の一文を指さした。


「セレナを守ってた仲間たちは、眠らなかったんです。だから、わたしも、そのつもりで唱えます。わたしの背中を預ける人は、眠らせないって」


 まなみの『魔法の概念』は、アニメそのものだ。作中で起きたことは、まなみが本気で思い描けば、そのとおりに起きる。


「だから、店長とミアさんは眠らない……はず、です!」


「……はず?」


「た、たぶん! 九割くらい大丈夫です!」


「残りの一割は」


「……店長とミアさんが、ぐっすり寝ます」


 レオンとミアは、顔を見合わせた。


「……気合いで起きてる」


「あたしも」



   ◇ ◇ ◇



 夜。


 月が、雲の切れ間から顔を出していた。


 黒樫の森は、その名のとおり、黒々とした樫の大木がどこまでも続く、深い森だった。


 ガルドの言った見張り小屋は、森の奥の、少しだけ開けた場所に建っていた。太い四本の丸太の脚の上に、小さな板張りの小屋が乗っている。梯子は、とうに外されていた。


 その小屋の窓から、小さな、小さな火が見えた。


 灯ったり、消えたり。また、灯ったり。


「……ピートだ」


 ミアが、声をひそめた。


「火の魔法で、狼を近づけないようにしてる。……でも、あの火の具合じゃ、そろそろ魔力が尽きるね」


 小屋の下では、黒い影が、ぐるぐると円を描いていた。


 十、二十……いや、もっと。月明かりに、いくつもの赤い目が光っている。その真ん中に、ひときわ大きな影が、どっしりと腰を下ろしていた。牛ほどもある、群れの長だった。


 まなみたち三人は、小屋から少し離れた、風下の岩陰に身を潜めていた。


「マナミ。ここから届くか」


「……届かせます」


 まなみは、ローブのフードをかぶった。


 あの日と同じ、ルクレツィア風の紺色のローブ。胸の前で『超・詠唱大全!』を開く。


 本当なら、セレナの歌姫の衣装を着るべきだった。元ネタどおりの格好でないと、イメージがぶれる。河原で、思い知らされたことだ。


 でも、今から縫っている時間なんて、どこにもない。


(……大丈夫。袖さえ、見なければ)


 そう自分に言い聞かせたけれど、それが気休めだということも、わかっていた。


 衣装は、目で見るためだけのものじゃない。肩にかかる重み。肌に触れる布の感触。動くたびに揺れる、袖や裾。体じゅうで「わたしは、この人だ」と感じるためのものだ。目をそらしたくらいで、ごまかせるものじゃない。


(それでも……やるしかない)


 手が、少しだけ震えていた。


 灰岩山のときとは、違う。今度は、無人の岩山じゃない。あの小屋には、ピートがいる。狼たちだって、生きている。


 ひとりも、一匹も、傷つけちゃいけない。



 小屋の窓の火が、ふっと消えた。


 今度は、もう、灯らなかった。



「……マナミ」


 レオンが、まなみの前に立った。


 月明かりの下で、長剣を、すらりと抜く。柄の四つ葉のお守りが、小さく揺れた。


「詠唱のことだけ、考えてろ」


 あの日と、同じ言葉だった。


 まなみは、深く息を吸って、うなずいた。



「――聞いて。戦の野に立つ、すべての人よ」



   ◇ ◇ ◇



 胸の奥で、ちいさな火種が、ぽっと燃えた。


 銀色の光の粒が、岩陰のまわりに、ふわり、ふわりと浮かび上がる。


 夜の闇の中では、それは、昼間よりもずっと目立った。



「――わたしは剣を持たない。盾も持たない。ただ、ひとつの歌を持つ」



「……気づかれたね」


 ミアが、剣を抜いた。


 小屋の下の赤い目が、いっせいに、こちらを向いていた。群れの長が、のそりと立ち上がる。低い唸り声が、森じゅうに響いた。


 黒い影が、ばらばらと駆け出してくる。


「五、六……八匹。来るよ」


「殺すなよ」


「狼相手に手加減しろって、無茶言うね。……わかってるって。そっちこそ」


 レオンとミアが、背中合わせに、まなみの前に立った。



「――だから、どうか、ほんのひととき。わたしの歌に、耳を貸して」




 最初の影狼が、岩陰に飛び込んできた。


 レオンが、剣の腹で、狼の横っ面を張り飛ばす。返す柄頭で、鼻先を一撃。狼は、きゃいんと鳴いて地面を転がった。


 ミアは、二匹の狼の間をすり抜けざまに、それぞれの脇腹を蹴り払った。よろけた二匹の頭を、剣の鞘でごつんごつんと叩く。



「――夜はもう、そこまで来ている」



 剣が、鞘が、拳が、夜の森に鳴り響く。


 でも、血は一滴も流れなかった。


 レオンも、ミアも、一匹も斬らなかった。



「――月が昇る。あなたたちの上にも、わたしの上にも、等しく」



 そのとき、光の粒が、ちらりと揺らいだ。



 ページを支える自分の手。その手首に、銀糸の星の刺繍が見えた。ルクレツィアの、ローブの袖口。


 必死に意識の外へ追いやっていたローブの感触が、その瞬間、一気に押し寄せてきた。


 思い描いていた歌姫の姿が、一瞬、黒いローブの魔女と重なる。



 光が、ぱちぱちと明滅した。胸の奥の火が、ふっと細くなる。



(だめ……ぶれる……!)



 まなみは、ぎゅっと目を閉じた。


 でも、だめだった。


 目を閉じても、肩にのしかかるローブの重さは、そこにある。ページを支えるたびに、たっぷりとした袖が、手首をこする。


 まぶたの裏に浮かぶのは、栗色の髪の歌姫ではなかった。銀色の髪をなびかせて、杖を振りあげる、星の魔女だった。



「――ね、眠れ、眠れ……」



 声が、裏返った。



 光の粒が、ひとつ、またひとつと、消えていく。



 胸の奥の火種が。



 ぷすん、と。



 消えた。



「…………え」



 岩陰が、真っ暗になった。



 銀色の光は、一粒も、残っていなかった。



「……マナミ?」



「……き、消えちゃった……」



 まなみの声が、ふるえた。



「詠唱が……途中で、崩れて……」



「もう一回、いけるか」



 レオンが、狼の鼻先を剣の腹で払いながら、ふりむかずに言った。



「……最初から、です。一字でも崩れたら、最初から……でも、このローブのままじゃ、また、ぶれる……!」



「グルルルル……!」



 倒れていた狼たちが、頭をふって、起きあがってくる。



 小屋の下の、群れの長が、のそりと、こちらへ、歩きはじめていた。



(どうしよう……どうしよう……!)



(セレナの衣装なんて、今から、縫えるわけ……)



 そこで。



 まなみは、はっと、顔をあげた。



(……縫わなくて、いい)



『月影のララバイ』、第十二話。



 敵の夜襲で、陣営の天幕が、燃えた。


 歌姫の舞台衣装も、ぜんぶ、燃えた。



 だからセレナは、寝ていた格好のまま、戦場に、走っていったのだ。



 白い、寝間着一枚。


 裸足。


 髪を結んだ、一本の、青いリボン。



 それだけ。



 放送当時、「寝間着の歌姫」と呼ばれて、伝説になった回だった。



「ミアさん!!」



「なに!?」



「肌着、貸してください!!」



「……はあ!?」



 ミアが、狼を鞘で殴りながら、目をむいた。



「肌着!? 今!?」



「白くて、長いやつ!! 鎧の下に着てるやつ!! それと、髪紐も!!」



「なんで、あたしの肌着で、狼が寝るのさ!?」



「寝るんです!! セレナは、寝間着だったんです!! 伝説の寝間着回なんです!!」



「伝説の寝間着回……?」



 ミアが、ものすごく、いやそうな顔で、くりかえした。



「……店長! ちょっと、ひとりで、もたせて!」



「……早くしろ」



 レオンが、一歩、前に出た。



 八匹の狼と、群れの長の前に、ひとりで。



「こっち、見ないでくださいね!!」



「見てる暇が、あるか」



 岩陰で、ミアが、革の胸当ての紐を、ばちばちと、ほどいた。



「……あとで、覚えてな」



 白い、膝まである、麻の肌着が、まなみの顔に、ばさっと、投げつけられた。



 まなみは、ローブを、脱ぎすてた。


 旅装も、脱いだ。


 靴も、脱いだ。



 ミアの肌着を、頭から、かぶる。



 ミアのほうが、背が高いから、ぶかぶかだった。裾は、膝の下まであった。袖は、手の甲まで、かくれた。



 ちょうど、セレナと、同じくらいに。



 ミアの、紺色の髪紐で、髪を、うしろで、ひとつに、結んだ。



 青い、リボンのかわりに。



 裸足の足の裏に、冷たい土と、落ち葉の感触。



(……セレナも、こうだった)



(夜の、冷たい、地面の上に、裸足で、立って)



「……肌着の上から、じかに、胸当てって、こすれるんだよ……」



 ミアが、ぶつぶつ言いながら、鎧をつけなおして、狼の群れに、飛びこんでいった。



 レオンの背中が、見えた。



 狼を三匹、同時に、剣の腹ではじきとばしている。


 一滴の血も、流さずに。



 小屋の窓の火は、もう、灯らない。



(……今度こそ)



 まなみは、本を、ひらいた。



 最初の、一行から。



「――聞いて。戦の野に立つ、すべての人よ」



 胸の奥で、消えたはずの火種が、もう一度、ぽっと、燃えた。



 さっきより、ずっと、暖かかった。



「――わたしは剣を持たない。盾も持たない。ただ、ひとつの歌を持つ」



 本を支える手首に、銀糸の刺繍は、もう、ない。



 目に入るのは、ぶかぶかの、白い、袖口だけ。



「――だから、どうか、ほんのひととき。わたしの歌に、耳を貸して」



「――夜はもう、そこまで来ている」



「――月が昇る。あなたたちの上にも、わたしの上にも、等しく」



 今度は、光が、揺らがなかった。



 頭の中に、思い描く。



 栗色の髪をなびかせた、ひとりの歌姫。



 寝間着のまま、裸足のまま、戦場の真ん中で、剣を向け合う兵士たちの前に立ち、両手を広げて、ただ静かに歌い始めた、あの少女。



 セレナ。



 中学生のころ、彼女の最終回で、毛布にくるまって泣いた。



 誰も傷つけずに、戦いを終わらせた歌姫。



 そして、その歌姫の前に立ち、最後まで眠らずに彼女を守り抜いた、仲間たちの背中。



(店長と、ミアさんは、わたしの仲間)



 目の前の、ふたつの背中を、心に焼きつける。


 それから、小屋の中の、ひとりぼっちの男の子と、帰る場所をなくした狼たちのことを、思う。


「――眠れ」



 声が、変わった。


 自分でも、わかった。


 さっきまでの、張りつめた声ではない。もっとやわらかくて、静かで、まるで歌うような声。



「――眠れ、眠れ、月の子らよ。剣を置け、盾を下ろせ。今宵、汝らが守るべきものは、なにもない」



 銀色の光が、ゆっくりと強さを取り戻していく。胸の奥の火が、とくん、とくんと脈打つように熱い。


 淡い、月の光そのもののように。


 光の粒が、まなみの身体から離れて、ふわふわと夜空へ昇っていく。そして、黒い樫の梢を越えて、まるで雪が降るように、静かに、静かに森へ流れていく。



「――怒りを手放せ。恐れを手放せ。昨日の悔いも、明日の憂いも、すべて夜の河に流してしまえ」



「……う」


 レオンに飛びかかろうとしていた影狼の脚が、ふらりともつれた。


 その赤い目が、とろんと重たくなっていく。


 ミアに牙をむいていた狼が、くうん、と鼻を鳴らして、その場に伏せた。


 小屋の下で、低く唸っていた群れの長の声が、ふつりと途切れた。



「――母の腕に抱かれし、幼き日の夢へと還れ。誰もが、かつてそうであったように」



 銀色の光の雪が、森を包み込んでいく。


 小屋のまわりを回っていた影たちが、一匹、また一匹と、足を止めた。前脚に顎をのせて、丸くなって、すうすうと寝息を立て始めた。



「――月影の名のもとに、すべての者に、安らかなる眠りを」



「――月影の子守唄(ルーナ・ソムニア)」



 最後の一節を唱えた瞬間、銀色の光が、ふわりと森全体を包んだ。


 そして、すうっと消えた。



 あとには、しんとした静けさだけが残った。



 岩陰のまわりで、八匹の影狼が、全員、気持ちよさそうに寝息を立てていた。


 一匹は、レオンの足元で、腹を出して仰向けになり、夢でも見ているのか、四本の脚をぴくぴく動かしていた。


「…………」


「…………」


 レオンとミアは、顔を見合わせた。


「……マナミ」


「は、はい……っ」


 まなみは、木の幹にもたれかかって、肩で息をしていた。全身から力が抜けていく。


 でも、膝は崩れなかった。


 灰岩山のときより、ずっと、ましだった。


「……一匹も、傷つけてないです、よね?」


 レオンは足元で腹を出している狼を、しばらく見下ろしていた。


 それから、ふっと、口の端を上げた。


「……ああ。一匹もな」



   ◇ ◇ ◇



 見張り小屋のまわりは、まるで、おとぎ話の眠りの森のようだった。


 黒い狼たちが、あちこちで丸くなって眠っている。木の根を枕にしている狼。仲間の背中に顎をのせている狼。尻尾を抱えるように丸まっている、まだ小さな狼。


 そして、小屋の真下では。


 牛ほどもある群れの長が、四本の脚を投げ出して、横倒しになって眠っていた。


 ぷすー、ぷすー、と、間の抜けた寝息を立てながら。


「……あれが、群れのボス?」


「……たぶん」


「……くぅん……くぅん……」


 寝言だった。たぶん。


 ミアが、群れの長の大きな鼻先を見下ろして、心底あきれた顔をした。


「……こんなのに、ピート追い回されてたの?」


「……みたいだな」



 レオンが、小屋の脚によじ登って、扉を開けた。


 狭い板張りの床の上で、ピートが眠っていた。


 右手には、使い古した練習用の杖。床には、焦げた跡がいくつも残っていた。窓から何度も、何度も、火の魔法を放った跡だった。


 膝の上には、開いたままの小さな帳面。震える字で、こう書いてあった。


『マナミさんが持たせてくれた、店長の唐揚げのパン。先に食べておけばよかった』


 ピートの頬には、涙の跡が残っていた。


「……ピートくん」


 まなみは、レオンに引き上げてもらって、ピートのそばに膝をついた。


 ピートは、すうすうと寝息を立てながら、小さく寝言をつぶやいた。


「……ないです……ほんとに……秘められた力なんて……ないです……むにゃ……」


 まなみは、そっと、ピートの手を握った。


 杖を握りしめていた指は、冷たくて、少しだけ火傷していた。


「……がんばったね。迎えに来たよ」



 レオンが、眠っているピートを、ひょいと背負った。


 レオンはピートを背負う前に、自分の外套を脱いで、まなみの肩に、ばさっとかけた。


「……裸足で森を歩くな。帰りは、ミアにおぶってもらえ」


「あたしの肌着着て、あたしにおぶわれるの? いい身分だね」


 ミアは、そう言いながら、まなみの前に、しゃがんでくれた。


「帰るぞ」


「はい……!」


「ほら、さっさと乗りな。……落っことしても、文句言うんじゃないよ」


 ミアの背中は、ぶっきらぼうな言葉とは裏腹に、あったかかった。



   ◇ ◇ ◇



 眠る狼たちの間を抜けて、さっきの岩陰まで戻ってきたとき。


 レオンは、まっすぐ、岩陰へ向かった。


 地面には、銀色の光が、うっすらと残っていた。年輪のように重なった、いくつもの円。まなみが、詠唱していた場所だ。


(……灰岩山と同じ)


 まなみは、息をのんだ。クラウスが聞き取りの日に見せた、あの岩のかけら。あれと同じ痕が、ここにも残っている。


「……今度は残していかねえ」


 レオンが低くつぶやいた。灰岩山では、知らずに残してきた。そのせいで、クラウスに嗅ぎつけられた。同じしくじりは二度としない。


 レオンは、ピートを背負い直すと、光る模様を、ブーツのかかとで、がりがりと踏みにじった。剣の切っ先で、土ごと削る。


 でも、光は、消えなかった。削られた土の上に、何事もなかったかのように、また、うっすらと浮かび上がる。


「……ちっ」


「――土をかけても、消えませんよ」


 木々の奥から、静かな声がした。


 ミアが、背中のまなみを、そっと地面に下ろす。それから、剣の柄に手をかけて、木々の奥をにらんだ。


「――誰」


 レオンも、ピートを背負ったまま、まなみの前に一歩出た。


 月明かりの下、樫の木の陰から、ひとりの男が、ゆっくりと姿を現した。


 足首まである、濃紺の外套。銀縁の眼鏡。


 王立魔導院の紋章。


「……クラウス、さん……」


 まなみの声が、かすれた。


 クラウス・ヴェルナーは、その手に、黒い岩のかけらを持っていた。灰岩山で拾った、あのかけら。


 その表面に刻まれた詠唱陣の痕跡が、今、ほのかに銀色に光っていた。


 すぐそこで構築されたばかりの、新しい詠唱陣に、共鳴するように。


「灰岩山の裏の谷から、影狼の群れが消えたと聞きましてね。山の異変と関わりがあるかもしれないと、行き先を追っていたんです」


 クラウスは、静かに言った。


「森のはずれの、木こりの村の宿で、本を読んでいたら……このかけらが、突然、光り始めたんです。灰岩山の詠唱陣と、同じ系統の陣が、近くで構築されている、と」


 眼鏡の奥の目が、まっすぐに、まなみを見ていた。


 冷たく澄んだ目。でも、そこに浮かんでいたのは、疑いでも、怒りでもなかった。



 抑えきれない、熱だった。



「この岩陰に、詠唱陣の痕跡が、新しく残っています。それも、ふたつ。ひとつは、灰岩山とまったく同じ構造。もうひとつは、文献ですら見たことのない、まったく未知の構造。……いえ、途中で崩れて消えたものを数えれば、みっつですね」


 クラウスは、一歩、前に出た。


 レオンの剣が、わずかに持ち上がった。


 クラウスは、それにちらりと目をやって、足を止めた。両手を、ゆっくりと上げてみせる。


「……戦うつもりは、ありません。私は、ただ」


 それから、もう一度、まなみを見た。


「……やはり、あなたでしたか。マナミさん」


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