まーたこれも詠唱破棄かい!
娯楽に溢れる国、日本。
アニメは毎クール数十本、漫画アプリは毎日更新、ネット小説に至っては一生かけても読み切れない。そんな恵まれた国の片隅に、彼女はいた。
真野まなみ、二十三歳。
新社会人一年目をどうにか生き延びたばかりの彼女は、今日も死んだ目でキーボードを叩いていた。
「真野さーん、これ今日中ね。あ、定時までにじゃなくて、今日中ね」
「……はい」
(今日中って23時59分までって意味ですよね知ってます。知ってますとも)
ブラック労働。クソ上司。ここまでは、まあ、よくある話だ。よくあってたまるかとは思うけれど。
問題はもうひとつのほうだった。
「ねえねえ真野さん、ちょっといい?」
隣の席の男性同僚が、椅子ごとすいーっと寄ってくる。嫌な予感しかしない距離の詰め方だった。
差し出されたスマホの画面には、見覚えのある衣装を着た、見覚えのある女が写っていた。
先月のイベント。売り子をしたときの、自分だ。
しかも明らかにカメラ目線ではない。斜め後ろから、こっそり撮った角度。
「ネットで見つけたんだけどさ! これ真野さんでしょ? めっちゃ似合ってるじゃん! 今度さぁ、個人的に着てるとこ見たいなぁ? もちろん俺だけに見せてくれていいから! ふたりっきりのときにさぁ!」
(は? 盗撮死ねや)
「あ、あはは……人違いじゃないですかね……」
内心で同僚を三回ほど異次元に追放しながら、まなみは苦笑いでスルーした。
はたから見れば、背中まで届く黒髪に、毛先へ向かってゆるくかかったウェーブ。ふんわりと流した長めの前髪の奥に、たれ目がちな瞳。背は158センチと、二十代女性の平均ど真ん中。
色白で、指先は細く、声は小さめ。服はいつも、紺かベージュのオフィスカジュアル。休日の午後、カフェの窓際で文庫本を開いていそうな、ちょっと気弱そうな、大人の文系美女。
その実態は、ゴリゴリのオタク女子である。
アニメ、漫画、小説、映画、ゲーム。友情と努力と勝利の少年漫画も、きらきらの少女漫画も、乙女ゲームも美少女ゲームも、面白ければ分け隔てなく摂取する雑食派。ちなみに、腐ってはいない。
自分でも漫画を描くし、イベントで売り子をするときだけは、自作の衣装でコスプレもする。人生のあらゆる娯楽を嗜んできた、立派な成人女性だ。
――だった、と言うべきかもしれない。
最近は原稿を描く気力もない。衣装を縫う時間もない。かといって、生活費のことを考えると仕事を辞めるわけにもいかない。
そんなまなみに残された最後の癒やしが、スマホで読めるネット小説だった。
帰りの電車。つり革につかまりながら、片手でスクロールする。
最初は令嬢物にハマった。婚約破棄、ざまぁ、溺愛。あらすじだけで脳汁が出た。そこから手当たり次第にジャンルを広げ、ここ最近はもっぱら異世界ファンタジーを読み漁っている。
画面の中で、主人公が手のひらを敵に向けた。
『――無詠唱で放たれた炎が、魔物の群れを一瞬で焼き尽くした』
「まーたこれも詠唱破棄かい!」
思わず小声でツッコんでしまい、隣のサラリーマンにちらっと見られた。まなみは咳払いでごまかす。
(だってさぁ……詠唱したほうがかっこいいじゃん……)
完全に個人的な趣味である。
わかっている。無詠唱のほうが強い。早い。隙がない。物語のテンポもいい。理屈は全部わかっている。
でも、違うのだ。
厨二心をくすぐる長ったらしい言い回し。意味ありげな固有名詞。唱えている間に高まっていく緊張感。そして最後の一節とともに放たれる、とんでもない一撃。
あれがいいのだ。あれが見たいのだ。
(なんで最近の主人公、みんな詠唱すっ飛ばすの……せめて一回くらい唱えてよ……)
その日も終電一本前。
会社の最寄り駅から自宅までの間に、ギリギリ開いている本屋がある。新刊をチェックするのが、まなみのささやかな楽しみだった。
平積みの棚をぼんやり眺めていると、ある一冊が目に飛び込んできた。
『超・詠唱大全!』
表紙には、やたら豪華な金の箔押し。帯には「アニメ・漫画・ゲーム・ラノベ・特撮の名詠唱、まるごと収録!」と書いてある。
「……なにこれ」
手に取って、ぱらりとめくる。
ページいっぱいに、びっしりと文字が詰まっていた。
「いや文字多っ! 詠唱長っ……!!」
見開き二ページ使って、ひとつの詠唱。脚注まで付いている。誰がこんな本を企画したのだろう。正気とは思えない。
思えないが、指が止まらない。
「……あ! なつかしい! これ昔、再放送で見たことある!」
小学生のころ、夕方のアニメで聞いた、あの呪文。黒魔術っぽい響きの、あの長い長い詠唱。覚えようとして、ノートに書き写したこともあった。
気づけば10分以上、立ち読みしていた。
値段を見る。そこそこする。今月の食費を考える。考えた。考えた結果――
「お買い上げありがとうございましたー」
(……血迷った)
バッグの中で、ずっしりと重いネタ本が存在を主張している。でも、不思議と後悔はなかった。帰ったら、お風呂に入りながら読もう。久しぶりにちょっとだけ、わくわくしていた。
交差点。歩行者用の信号は青。
まなみは横断歩道に一歩、踏み出した。
右から、ライトの光。
大きすぎる。近すぎる。そして、止まる気配がまるでない。
トラックだった。
( あ )
時間がやけにゆっくりと流れる。視界の端で、運転席のおじさんが目を見開いているのが見えた。
オタクの脳が、勝手にこの状況を分類していく。
夜。帰り道。疲れたOL。そしてトラック。
(これ異世界にいくや……つ……)
そこで、まなみの意識は途絶えた。
◇ ◇ ◇
頬に、ひんやりした感触。
石畳だった。
「……ん」
身体を起こす。どこも痛くない。スーツも破れていない。バッグもちゃんと肩にかかっている。
顔を上げたまなみの目に映ったのは、レンガと木組みの家々。石造りの噴水。馬車。そして、腰に剣を下げて歩いている男たち。
どこからどう見ても、中世ヨーロッパ風の街並みだった。
つまり。ネット小説でよくある、魔法と剣の世界だった。
オタクの理解は早かった。
早かったが、心が追いつくかどうかは別の話である。
「えぇ!? 本当にきちゃったぁ!? ど、どどどどうしよう!?」
通行人が、ぎょっとした顔で振り返る。
「いや、まてまて大丈夫! 落ち着け真野まなみ! わたしには溢れんばかりの異世界ファンタジー知識がある! とりあえず現状把握!」
ばちん、と両手で頬を叩く。痛い。夢じゃない。
ひとまず歩きながら考えることにした。
(まず、召喚陣の上じゃない。王様もいない。つまり召喚パターンじゃない)
(王族が腐ってて最初からハードモード、のやつじゃなくてよかった……あれ読んでる分には面白いけど、当事者は絶対イヤ)
(神様とか女神様にも会ってない。チート説明イベントなし。ということは、自力で何とかする系……?)
そこで、はっとして立ち止まる。
(待って。まだ憑依パターンが残ってる)
慌ててバッグを探り、化粧ポーチからコンパクトミラーを取り出した。パカッと開いて、おそるおそる、のぞきこむ。
ゆるくウェーブのかかった黒髪。たれ目がちな目。寝不足のクマ。
いつもの、自分の顔だった。
(よかった……知らない美少女の身体に入ってる系じゃない。中身だけ悪役令嬢と入れ替わってる系でもない)
ついでに服装も確認する。くたびれたスーツに、通勤用のパンプス。どこからどう見ても、ドレスではない。
(令嬢じゃない、ということは、いきなり大広間で「お前との婚約を破棄する!」から始まるやつでもない。……いや、そもそも婚約者がいないけど)
自分で言ってちょっとだけ傷ついた。パチンとミラーを閉じて、バッグにしまう。
ぶつぶつ呟きながら歩いていると、周囲の話し声が耳に入ってきた。
「――今日の依頼、割に合わねえよなあ」
「――パン、焼きたてだよー!」
まなみは、ぴたりと足を止めた。
聞こえてくる言葉は、明らかに日本語ではない。発音も、リズムも、まるで知らない言語だ。
なのに意味がわかる。
「よしっ! とりあえず言葉はわかる!」
思わずガッツポーズ。
「言葉を覚えなきゃいけない系の、大変じゃないやつじゃない! うひょー! 楽勝楽勝!」
ハイファンタジーの世界に来て、ファンタジーハイになるまなみであった。
とはいえ、問題もすぐに見つかった。
視線が痛い。
すれ違う人、すれ違う人が、上から下までじろじろとまなみを眺めていく。
(あー……スーツか)
この世界の基準からすれば、黒いジャケットにタイトスカート、ストッキングにパンプスは、どう見ても奇妙な格好だろう。
「お嬢さん、ずいぶん変わった服を着てるねえ」
声をかけてきたのは、露店で古着を売っているおばあさんだった。
「その生地、見たことないよ。売る気はないかい?」
(きたぁ!異世界で現代の服を売ってお金にするやつ……!)
王道とまではいかないけれど、何作品かで読んだことがある。スーツやハンカチが、異世界では見たこともない上等な生地だと驚かれる、あのくだりだ。
十数分後。
まなみはスーツと引き換えに、思っていたよりずっと重たい革袋を手に入れていた。
その足で向かいの店に飛び込み、町娘の服を一式そろえる。厚手の生地で、袖も裾もちょっとブカブカだが、贅沢は言っていられない。これで少なくとも、悪目立ちはしないはずだ。
鏡代わりの窓ガラスに映った自分を見て、まなみはにんまりと笑った。
(いける…わたし、いけるぞ!)
バッグを肩にかけ直し、石畳の通りへ飛び出す。
「よーし! これからの異世界生活、満喫するぞー!」
頭の中では、すでに輝かしい未来が上映されていた。
「冒険者ギルドにいくかぁ!? 速攻でS級冒険者になっちゃったり!? モフモフの伝説の魔獣を従えたり!? 現代知識無双とか!?」
妄想は止まらない。
「王子様に一目惚れされてぇ!? 追放!? あ、婚約破棄ィ〜!?」
そうはならなかった。
◇ ◇ ◇
異世界生活、一日目の夜。
まなみは、街外れの安宿のベッドに腰かけて、革袋の中身を数えていた。
「……ひい、ふう、みい……」
スーツを売ったお金は、思っていたより多かった。思っていたより多かったが、町娘の服一式と、今夜の宿代と、屋台の串焼き二本で、思っていたより減っていた。
(え、待って…これ、あと何日もつの?)
宿代は一泊銀貨一枚。手元に残っているのは銀貨が六枚と、銅貨がじゃらじゃら。
六日。いや、ご飯を食べたら五日。
まなみは、ぎしぎし鳴るベッドに仰向けに倒れた。
「家がない……」
天井の染みを見つめる。
「お金もない……」
染みが、なんとなく人の顔に見えてきた。
「……あれ? これ、ハードモードでは?」
王族が腐っていなくても、女神様に会わなくても、人は普通にハードモードになれる。
異世界転移一日目にして、まなみはひとつ、大切なことを学んだのだった。
◇ ◇ ◇
翌朝。
「よし。こういうときは冒険者ギルドだ」
異世界ファンタジー知識をフル活用して、一晩かけて導き出した結論である。
身分がなくても登録できる。日払いの依頼がある。そして何より、異世界転移者がまず行く場所といえば冒険者ギルドと相場が決まっている。
街の中心にある大きな石造りの建物。剣と盾の紋章が掲げられた扉の前で、まなみはごくりと唾を飲み込んだ。
(大丈夫。流れはわかってる)
扉を開ける。中にいる荒くれ者の冒険者たちが、新入りを値踏みするようにこちらを見る。そして一番ガラの悪い男が絡んでくるのだ。「おいおい嬢ちゃん!ここはお前みたいなのが来るところじゃねえぞ!」と。
(そこで華麗に切り返して周りから「あ、アイツ、ただ者じゃねえ…っ!」ってなるやつ!)
切り返す方法は特に考えていなかった。
深呼吸をひとつ。まなみは扉を押し開けた。
がやがやとした喧騒。酒と革と鉄のにおい。依頼書がびっしり貼られた掲示板。
そして、確かに、冒険者たちが一斉にこちらを見た。
見て。
すぐに目を逸らした。
(あれ?)
誰も絡んでこない。それどころか、近くにいたひげ面の大男が、すっと道を空けてくれた。
「受付はあっちだぞ、嬢ちゃん」
「あ、ありがとうございます……」
やさしい…。
拍子抜けしながらカウンターへ向かうと、亜麻色の髪をふわふわと揺らした、かわいらしい受付嬢がにっこり笑った。
「こんにちは! アルメリア冒険者ギルドへようこそぉ! ご依頼ですか?」
「……え?」
「どのようなご依頼でしょう? 迷子の猫探しでしたら、今だと少しお時間いただいちゃうんですけどぉ」
(依頼者だと思われてるーっ!)
まなみは、自分の格好を見下ろした。
厚手でブカブカの町娘の服。腰には剣どころか、ナイフ一本さしていない。どこからどう見ても、街のパン屋の娘さんである。
「あ、あの、そうじゃなくて……冒険者登録、したいんですけど……」
受付嬢は、ぱちぱちと二回まばたきをした。
「え……あっ、ご、ごめんなさい! 登録ですね!」
慌てて差し出された用紙を受け取る。名前、出身、年齢、そして――
『特技・戦闘技能』
ペンが止まった。
(特技……)
漫画が描ける。コスプレ衣装が縫える。即売会で、釣り銭を間違えずに3時間さばける。
戦闘技能。
ない。
(体育の成績、ずっと2だったしな……)
悩んだ末、まなみは特技の欄に「裁縫」とだけ書いた。
受付嬢――リリィと名乗った彼女は、用紙を受け取ると少しだけ眉を下げた。
「マナミさん、ですね。登録は大丈夫です! 最初はF級からなので、街の中のお手伝いとか、近くの森での薬草採取とかがおすすめですよぉ」
「薬草採取……!」
まなみの目が輝いた。
それも読んだことがある。何回も読んだことがある。
初心者が薬草採取の依頼を受けて、なぜか森で強い魔物と遭遇して、隠された力が覚醒する、あのパターンだ。
「それ、やります!」
◇ ◇ ◇
森の入り口で、まなみは依頼書に描かれた薬草の絵と、目の前の草むらを交互に見比べていた。
「……全部同じに見える」
ギザギザの葉っぱ。ギザギザの葉っぱ。ちょっと丸いけどギザギザの葉っぱ。
絵では「葉の裏が白っぽい」と書いてある。めくってみる。白っぽい。隣のもめくってみる。こっちも白っぽい。その隣は、白っぽいような、緑っぽいような。
(解像度…! この依頼書、絵の解像度が低すぎるのよ!)
異世界にはスマホの画像検索もない。図鑑アプリもない。ネット小説の主人公たちは、なぜか一目で薬草を見分けていたけれど、あれは鑑定スキルがあったからだ。まなみにはない。
しゃがみ込んで、2時間。
籠の中にはたぶん薬草で、もしかしたら雑草かもしれない草が、ひとつかみ。
腰が痛い。膝も痛い。日差しで首の後ろがじりじりする。
「……隠された力、覚醒しないなぁ」
ぽつりとこぼしたそのとき、がさり、と背後の茂みが揺れた。
振り返る。
白くて、ふわふわで、耳の長い生き物がこちらを見ていた。
「……うさぎ?」
かわいい…!
かわいいが、額から、鋭くとがった角が一本、にょっきりと生えていた。
「……うさぎ、ですよね?」
うさぎは、後ろ足で地面をだん、と蹴った。
だん。だん。だだん。
それは明らかに、助走だった。
「ひぃいいいっ!?」
まなみは籠を抱えて走り出した。
走って、走って、木の根につまずいて、立ち上がって、また走った。
息が上がる。足がもつれる。肺が焼けるように痛い。会社と自宅の往復しかしていない二十三歳の身体は、あまりにも正直だった。
(無理! 無理無理無理! わたし、50メートル走10秒台なんですけど!?)
背後から、だだだだっ、と軽快な足音が迫ってくる。
もうだめだ、と思った瞬間。
ひゅん、と風を切る音がして、足音が止まった。
「――あんた、なにやってんの?」
振り向くと、赤毛をひとつに束ねた背の高い女性が、片手で剣を鞘に戻していた。足元では、角うさぎが目を回して伸びている。
「つ、角が……うさぎが……」
「角うさぎね。この辺じゃ子どもでも追い払える魔物だよ」
女性は呆れたように、でもどこか面白がるように、まなみを見下ろした。
「あんた、さっきギルドで登録してた子でしょ。リリィが心配してたよ。『あの子、絶対に戦えないと思う』ってさ」
(リリィさんの見立てが正しすぎる…)
女性はミアと名乗った。B級の剣士で、たまたま近くで依頼をこなしていたらしい。
ギルドに戻る道すがら、ミアはまなみの籠をひょいと覗き込んだ。
「……これ、半分雑草だね」
「半分も!?」
「いや…半分薬草なのはすごいよ?初めてにしては」
フォローになっていなかった。
その日の報酬は、銅貨三枚だった。
宿代は、銀貨一枚。
◇ ◇ ◇
それから数日、まなみは奔走した。
街の中のお手伝いの依頼。荷物運びは三往復で腕が上がらなくなった。家の掃除は、異世界の掃除道具の使い方がわからず、依頼主のおばあさんに逆に教えてもらった。
現代知識で一発逆転も考えた。考えたが、具体的に何をどうすればいいのか、さっぱりわからなかった。
活版印刷。仕組みは知らない。
石鹸。何と何を混ぜるんだっけ。
ポンプ。図は見たことがあるが、作れと言われたら一ミリも作れない。
(わたしの現代知識、全部「なんかそういうのがあるらしい」止まりじゃん……)
創作で嗜んできた知識や行動。
それが、自分にもできるかどうかは、まったく別の話だった。
(だいたい、新社会人をやっと一年終えたばっかりなんですけど!? 資料作成と議事録と終わらない会議と上司の機嫌取りしかしてないんですけど!?)
その夜、安宿の部屋で、まなみは枕に向かって叫んだ。
「社会経験がほんの少ししかないオタク女子なんだよ、こっちはぁ!」
隣の部屋から、壁をどんっと叩かれた。
五日目の夜。
安宿のベッドの上で、まなみは革袋を逆さにした。
ちゃりん、と銀貨が一枚。銅貨が数枚。
明日の宿代を払ったら、終わりだ。
「……終わってる」
膝を抱える。
ブラック企業はつらかった。上司はクソだったし、同僚はキモかった。でも、少なくとも寝る場所はあった。給料日は来た。
(どうしよう……)
ふと、視線が自分の胸元に落ちる。
ブカブカの服の上からでもわかる、それなりの存在感。
そういえば、この街にも夜のお店はあった。客引きのお姉さんに「あんた、いい身体してるねえ。うちで働かない?」と声をかけられたことも、実はある。
「さ、最悪の場合……このデカ乳を活かせる場所で金を稼ぐか……?」
口に出してから、まなみは顔を真っ赤にして枕に突っ伏した。
「むりむりむりむりっ!」
足をばたばたさせる。
そういうことは、未経験なのだ。漫画では描いた。描いたことはある。資料もたくさん読んだ。でも、自分がするのは、話が別である。
(それだけは……それだけは、本当の本当に最後の手段……!)
◇ ◇ ◇
翌朝。最後の銀貨を握りしめて、まなみはギルドの掲示板の前に立っていた。
F級向けの依頼は、もうあらかた試した。どれも向いていなかった。
「……はぁ」
「おっ、いたいた。マナミ」
背中をばしんと叩かれる。ミアだった。
「あんた、まだ宿暮らし?」
「……明日から、たぶん野宿です」
「はは、だろうと思った」
笑いごとではない。
ミアは親指で、ギルドの奥を指さした。
カウンターの向こう、酒場のようなスペースの、さらに奥。いいにおいの湯気が立ちのぼる、小さな食堂があった。
「あそこ、ギルドの食堂なんだけどさ。給仕の子が辞めちゃって、人手が足りてないんだって。住み込みの部屋もあるらしいよ」
「……住み込み」
「皿運びくらいはできる?」
まなみの脳裏に、学生時代の記憶がよみがえった。
駅前のファミレス。お冷やの補充。三皿持ち。「お待たせいたしましたー!」。ドリンクバーのご説明。
剣は振れない。薬草は見分けられない。現代知識無双もできない。
でも、それなら。
「昔ファミレスのバイトしたから!コレならできるぅー!!」
「ふぁみれす?」
首をかしげるミアの手を、まなみは両手でがしっと握った。
「ミアさん! 紹介してください! お願いします! なんでもします!」
「なんでもは言わないほうがいいよ、あんた…」
ミアは苦笑しながら、まなみを奥の食堂へと引っ張っていった。
こうして、真野まなみの異世界生活は、ようやく第一歩を踏み出した。
冒険者ではなく、ギルドの食堂のウェイトレスとして。




