第22話 戻る場所は
ルシアン様と夜を共にしてから、数週間が経った。
――とても幸せな日々だった。
幸せ、という言葉を使うのが怖いくらい。
(辺境伯領に来てから、ずっと……)
私はずっと、満たされている。
それが不思議で、少しだけ怖い。
今日も朝から、ルシアン様の執務室で一緒に仕事をしていた。
難しいものも多いのに、以前より効率よくできる。
(……集中できる)
自分でも驚くほど、頭が澄んでいる。
窓の外から、昼の鐘が鳴った。
それを合図に、ルシアン様がペンを置いた。
「……昼か」
短く言って、肩を回す。
私も紙を揃え、息を吐いた。
「お疲れさまです、ルシアン様」
「ああ、エミーリアも。よく働いたな」
褒め言葉が短い。
けれど、胸が温かくなるには十分だった。
私は小さく笑った。
「精霊のおかげ、でしょうか」
冗談みたいに言ったつもりだったのに、ルシアン様はすぐ否定しなかった。
少し考えるように目を伏せて、それから言った。
「……まさかと思うが」
彼の指が、机の端を軽く叩く。
「この集中力も、精霊の力なのか?」
私は一瞬、答えに詰まった。
「確証はありませんが」
精霊たちは気まぐれだし、私自身もまだ仕組みを理解していない。
「でも最近、頭がすっきりしている感じはします」
言いながら、自分でも不思議になる。
ルシアン様は「そうか」と短く返し、ほんの僅かに口元を緩めた。
「君が来てから、俺も似たような感覚がある……変な感覚だが、悪くはない」
変、と言いながら、嫌そうではない。
むしろ、少しだけ面白がっているようにも見える。
『ふふん』
『せいれい、てつだう』
『おしごと、すいすい』
肩の近くで、精霊がふよふよと揺れた。
得意げな声。
私は思わず、頬がゆるむ。
(この子たち……可愛い)
でも、それを口にする勇気はまだない。
ルシアン様の前では、精霊のことを話せるようになったけれど、全部を見せるのはまだ少し照れる。
「昼食にしようか」
「はい」
ルシアン様が立ち上がって言った。
私も頷く。
昼食はいつも通り、質素だけど温かいものだった。
食後、ルシアン様が言った。
「出かける準備をするか」
胸が軽く跳ねる。
(今日、だ)
今日は、城下町へ行く。
ドレスと装飾品を買い足すための――デート。
理由は、数日後に近くの伯爵領で開かれる社交会に参加するからだ。
辺境伯領は社交の場が少ない。
でも、皆無ではない。
領同士のつながりを保つために、必要な場もある。
(久しぶりの社交界……)
緊張する。
伯爵家にいた頃は、ほとんど行けなかった。
行っても隅にいて、視線を避けて、息を潜めて。
笑うことも、話すことも、恐ろしかった。
でも今は――。
(ルシアン様がいる)
一緒なら、大丈夫だと思えた。
むしろ、少しだけ楽しみでもある。
彼と並んで歩く社交会。
想像するだけで、胸がくすぐったくなる。
私は自室で支度を整え、髪をまとめた。
侍女のベルタが手伝ってくれる。
……少し前から、温かい目で見守られている気がする。
使用人たちも、同じだった。
私とルシアン様が、以前より距離が近くなったことが伝わっているのだろう。
馬車に乗り、城下町へ向かう。
城下町に入ると、人々の声が増え、屋台の香りが風に混ざった。
まず入ったのは服飾店だった。
店内は布の匂いと、少し甘い香の匂い。
壁にはドレスが並び、手袋やリボンが掛けられている。
伯爵家にいた頃、私はこういう店に入る資格がないように感じていた。
見ているだけで、咎められそうで。
でも今は、辺境伯夫人だ。
(経済を回す、という意味でも……ちゃんと買わないと)
必要なこと。
領のために、自分のために。
そう言い聞かせて、私は店員に微笑んだ。
「社交会用のドレスを探していて……」
店員はすぐに頭を下げ、布を選び始める。
私は試着室に入り、何着か袖を通した。
鏡の中の自分が、少しずつ変わっていく。
色が違うだけで、顔まで違って見える。
装飾が増えるだけで、背筋が伸びる。
そして――ルシアン様も、衣装を選び始めた。
(……ルシアン様が、試着)
その事実だけで、妙に落ち着かなくなる。
彼は普段、軍装や執務用の服が多い。
社交会用の礼装姿は、あまり見たことがない。
試着室から出てきたルシアン様を見た瞬間、私は息を呑んだ。
黒を基調にした上着。
肩の線が綺麗に出て、背がさらに高く見える。
首元の飾りも最小限なのに、品がある。
灰色の瞳と相まって、冷たいほど整って見えた。
(……かっこいい)
思った瞬間、頬が熱くなる。
「……とても、似合っています」
声が少しだけ裏返りそうになった。
ルシアン様が一瞬だけ目を見開き、それから視線を逸らす。
「……そうか」
短い返事なのに、彼の耳の先がほんの僅かに赤い。
(照れてる……)
その事実に、胸が跳ねる。
今度は私が試着室から出る番だった。
淡い色のドレス。
布が揺れるたびに、光が柔らかく反射する。
ルシアン様の視線が私に止まり、じっと見られる。
それから、短く言った。
「……綺麗だ」
「……っ」
頭が真っ白になった。
返事が出ない。
出ないまま、頬が熱くなる。
「ありがとうございます……ルシアン様も、とても……」
「……俺も?」
問い返されて、私はますます恥ずかしくなる。
「かっこいい、です」
小さな声。
店員がそっと視線を逸らして、微笑んでいるのが見えた。
『にこにこ』
『ふたり、まっか』
『いいね』
精霊たちが楽しそうに揺れる。
私は内心で「静かにして」と言いながら、でも笑いそうになった。
結局、ドレスも装飾品もいくつか選んだ。
宝飾店では、控えめな耳飾りと、小さなブローチ。
どれも高かった。
けれど、私はちゃんと支払った。
気後れしそうになる心を、夫人としての背筋で押さえた。
帰りの馬車の中。
袋を抱えたまま、私は窓の外を見る。
城下町の灯りが遠ざかる。
ルシアン様が言った。
「緊張していたな」
「はい、少しだけ」
「だが、これも必要なことだから」
「わかってます。でもやはりまだ慣れません」
「少しずつでいい。君は俺の妻なのだから」
俺の妻……そう言われるのも、やはりまだ慣れない。
屋敷に戻ると、夕食が用意されていた。
席に着いたとき、使用人たちの視線が柔らかいのを感じた。
以前より、ずっと。
(伝わってるんだ)
私たちが仲良くなったこと。
それを、喜んでくれているような空気。
夕食後、風呂の準備もいつも以上に整っていた。
湯の香りが柔らかく、布も新しい。
ベルタが胸を張る。
「本日も、しっかり整えております」
「ありがとう。いつも助かるわ」
そう言うと、ベルタは少し笑った。
「エミーリア様、最近、綺麗さに磨きがかかってきましたね」
「え?」
私は思わず目を瞬いた。
「そう?」
「はい」
ベルタは頷き、どこか楽しそうに言った。
「やはり殿方に愛されると、綺麗になりますね」
熱が一気に顔へ上がった。
「べ、ベルタ……!」
言葉が詰まって、私は扇子もないのに手で頬を隠した。
ベルタはくすりと笑う。
「失礼いたしました。でも、本当です」
(もう……)
恥ずかしい。
でも、否定できない自分がいる。
鏡を見るたび、確かに表情が柔らかくなっている気がしていたから。
身支度を整え、寝室へ戻る。
髪を乾かし、薄い寝間着に着替える。
いつものように、ルシアン様が来るはずの夜。
けれど。
扉が開き、入ってきたルシアン様の顔は――どこか固かった。
いつも無表情に近い人だ。
でも、私は最近、その微かな違いがわかる。
(何かあった?)
胸の奥がざわつく。
「ルシアン様、どうかしました?」
呼ぶと、彼は一度だけ息を吐いた。
「……君に話すのはやめておこうかと、レイと相談した。でも、やはり話したほうがいいと思った」
ルシアン様は私の前に座る。
距離は近いのに、空気が少しだけ重い。
「……ブライトン伯爵家から手紙が届いた」
心臓が跳ねる。
「手紙……?」
「君を返せ、と書いてある」
一瞬、意味が理解できなかった。
返せ? 誰が誰を?
「……え」
声が掠れる。
耳の奥が冷たくなる。
「なぜ……いきなり、そんな……」
ルシアン様は視線を落とし、淡々と続けた。
「背景を調べたが……ブライトン伯爵夫妻と、妹のリディアが精霊魔法を扱えなくなってきている」
胸の奥が、ぎゅっと縮む。
「その影響が、伯爵領全体に出始めている。火が弱く、水が安定しない。……領の動きが鈍っている」
私は息を呑んだ。
(私がいないから……?)
口に出さなくても、答えが見える。
ルシアン様はそれを見抜いたように言った。
「君がいなくなったことで、影響が出ているのだろう……あちらも、それに気づいたのかもしれない」
その言葉で、背中に冷たいものが走った。
(取り戻そうとしてる)
伯爵家が、私を。
あの家が。
私を使用人みたいに扱って、笑って、蔑んで、閉じ込めた家が。
私は思わず、声を絞り出した。
「……戻りたく、ありません」
言った瞬間、自分の声が震えているのがわかった。
怖い。
思い出すだけで、息が詰まる。
ルシアン様は即座に言った。
「もちろんだ、君を離すつもりはない。安心してくれ」
その言葉は、私の中の揺れを一気に鎮めた。
この人の言葉なら、信じられる。
「……ありがとうございます」
そう言った途端、胸が熱くなった。
怖さが、溶けていく。
(この幸せな日々から、離れたくない)
私は立ち上がり、ルシアン様の頬に手を伸ばした。
少しだけためらってから、そっと触れる。
ルシアン様の瞳が、私を捉える。
「……エミーリア?」
私は答えずに、唇を重ねた。
短いキス。
でも、気持ちは全部そこに入れたつもりだった。
『だいじょうぶ』
『ここ、いちばん』
『まもる』
精霊たちが、私の肩の近くでふわふわと光った。
その光が、今夜はいつもより温かく見えた。
唇を離すと、私は小さく言った。
「……私、ここにいたいです」
ルシアン様は、少しだけ目を細めた。
それから、いつもより柔らかい声で言った。
「ああ……ここが君の場所だ」
胸の奥が、じん、と熱くなった。
幸せが、怖いくらい確かな形を持つ。
(私はもう、戻らない)
戻る場所は、あそこではない。
ここだ――この人の隣だ。




