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第21話 加護無しを取り戻さないと


 エミーリアがヴァルター辺境伯家に嫁いでから、三カ月以上が経った。


 ――ブライトン伯爵家は、衰退の道を辿っていた。


 表向きは、まだ屋敷は整っている。

 だが、そこに宿るはずの余裕が消えていた。


 火は戻らない。

 水も戻らない。

 光も戻らない。


 伯爵の火の精霊魔法は、かつてなら指を鳴らすだけで暖炉が安定した。

 今は薪をくべても、火が落ちて、炎が揺れる。


 伯爵夫人の水の精霊魔法は、洗面の水が滞りなく流れていた。

 今は、まとまらずに途切れる。


 そしてリディアの光の精霊魔法は溢れんばかりの輝きとはなっていた――だが、社交界で露見した弱さは、噂に火をつけた。


 あの夜、リディアが光を灯しきれなかった瞬間。

 扇子の陰で笑った令嬢たちと、遠巻きにした令息たちの目。


 ――あれが、伯爵家の評判を決定的にした。


 そして、追い打ちが来た。


 伯爵夫妻が、久しぶりに社交会に出た夜のことだ。


「ブライトン伯爵、奥方。ご機嫌よう」


 声をかけてきたのは、古くからの交友を装う男だった。

 笑みは親しげで、目は冷たい。


「最近、噂を耳にしましてね。精霊魔法の効果が、落ちているのでは? というね」


 伯爵の頬がぴくりと引きつった。

 夫人の扇子が、ほんの僅かに震えた。


「馬鹿な。何を言う」


 伯爵は即座に否定した。

 否定の声が大きすぎた。


「ほう? では、証明なさってみては」


 男は穏やかに、しかし確信を込めて言った。


 周囲の会話が、すっと細くなる。

 耳が集まる音がした。


「ここで火を灯す程度なら、難しくもないでしょう」

「奥方も、水の流れを整えるだけでよろしい」


 夫人は笑みを作った。作っただけだった。


「社交会の場で、そのような……」


 逃げた。

 逃げた瞬間、場の空気がそういうことだと固まった。


「……おやおや」

「やはり、噂は本当なのでは」

「ブライトン伯爵家は、加護が薄れた?」

「一族の加護が揺らぐなんて、前代未聞ですわね」


 囁きは蜂の群れみたいに広がった。

 伯爵夫妻は笑顔を貼りつけたまま、早々に退いた。


 その夜からだ。

 伯爵家の信頼は、目に見えて崩れ始めた。


 精霊魔法が使えることを証明しない――つまり、できない。

 その事実が、噂を噂でなくしていく。


 屋敷へ戻った伯爵は、書斎で怒鳴った。


「誰がそんな話を広めた! 誰が!」


 机を叩いても、火は戻らない。


 そんなある日――。

 門番が慌てて走り込み、執事が青い顔で告げた。


「公爵家の……カーヴェル公爵家次男、アルベルト様が、ご来訪です」


 突然の名だ。

 伯爵夫妻は顔を見合わせた。


「……なぜ、今?」


 戸惑いはあったが、断れない。

 相手は公爵家だ。しかも次男とはいえ、婚約者の家だ。


 応接室は急ぎ整えられ、茶が用意され、菓子が並べられた。


 リディアは胸が跳ねた。


(アルベルト様が来てくださった……!)


 救いに見えた。

 噂を止めるための手を差し伸べに来てくれた――そう思いたかった。


 だが……応接室に現れたアルベルトは、固い表情だった。

 礼儀正しく一礼はする。けれど、目が笑っていない。


「ご無沙汰しております、伯爵。奥方。……そしてリディア」

「よく来てくれました、アルベルト殿」

「突然で驚きましたわ」


 夫人が微笑む。

 リディアは椅子の端で背筋を伸ばし、可憐に笑ったつもりだった。


「アルベルト様、今日はどうしたのです?」


 甘い声を作った。

 だがアルベルトは、挨拶の茶も口にせず言った。


「単刀直入に伺います」


 空気が冷える。


「ブライトン伯爵家の評判が、落ちています」


 伯爵の眉が動いた。


「……何の話ですか」

「精霊魔法が使えない、と言われています」


 図星だった。

 伯爵夫妻も、リディアも、身体が僅かに硬くなる。


「馬鹿な」

「そのような噂、どこから――」


「噂だけなら、まだよかった」


 アルベルトの声は淡々としている。

 淡々としているから、逃げ場がない。


「リディア。君は社交界で、光を灯しきれなかった」


 リディアの顔色が変わった。


「……あれは、緊張で……」

「では今、やってみせてください」


 リディアの喉が詰まった。

 言葉が出ない。


 伯爵夫人が口を挟む。


「アルベルト様、娘を追い詰めるような……」


「追い詰めているのは私ではない」


 アルベルトは視線を夫人へ移す。


「伯爵領で実害が出ている、と聞いています。火が弱く、水が安定しない。農作の手間も増えている。……民は気づき始めていますよ」


 伯爵の指が、肘掛けを握り潰しそうになる。


「そんな馬鹿な。誰がそんなことを……!」

「ここを出ていった使用人たちでしょう」


 アルベルトは言い切った。

 公爵家の次男だからこそ、そこまで調べられるようだ。


「彼らは内側を知っているから信憑性がある。……そして、あなた方は社交会で証明できずに退いた」


 伯爵夫妻は、言い返せなかった。

 沈黙が落ちた。


 リディアは必死に笑みを作った。

 作った笑みは歪んだ。


「わ、私の光は……戻りますわ。少し体調が――」

「少し体調が悪い、が三カ月も?」


 アルベルトの声が鋭くなる。

 リディアは息を呑んだ。


(アルベルト様まで、私を……)


 泣きそうになるのを堪える。


 アルベルトは目を伏せた。

 ――彼自身も、精霊魔法が弱まっている。

 剣の補助の土が、以前ほど応えない。

 呼んでも薄い。


 だが、それはここでは言わない。言えない。


(目的があるからな)


 アルベルトは視線を上げて、伯爵夫妻を真っ直ぐ見据える。


「……もう、わかっているでしょう?」


「っ、何がですか」


 伯爵が苛立ち混じりに問う。


 夫人は扇子を握りしめた。

 リディアは、胸の奥が冷えるのを感じた。


 アルベルトは、ゆっくりと言った。


「あなた方の精霊魔法が弱くなった理由は――エミーリアだ」


 その名が落ちた瞬間、応接室の空気が凍る。

 伯爵夫妻も、リディアも、瞬きを忘れた。


 だがアルベルトは続ける。


「彼女がいた頃、あなた方の魔法は平均以上だったはずだ。……少なくとも、今のように揺らがなかった」


「ぐ、偶然です」

「……そうよ。偶然、よ」


 夫人は笑ったが、笑い方が硬い。


「エミーリアは加護無し。精霊魔法など――」


「彼女が精霊が見えるという話は、信用できない」


 アルベルトはそこで一度、首を振った。

 否定するような仕草。だが、結論は違う。


「だが結果は見えている。彼女がいなくなった途端、弱まった。……なら、伯爵家はこのままでは終わりだ」


 伯爵の喉が鳴った。

 リディアの指先が震えた。


(わかってる……!)


 伯爵家の誰もが、どこかで気づいていた。

 言葉にしないだけだった。


 エミーリアが屋敷から消えてから、何もかもが落ちていったことを。


 アルベルトは、息を吐いて言った。


「だから――エミーリアを取り戻せ」


 命令だった。

 伯爵夫妻が顔を上げた。


「それは……」

「彼女はもう、辺境伯家の――」


「だから何です?」


 アルベルトの声が冷たくなる。


「あなた方が動かなければ、私はこの家と縁を切ります」


「っ……!」


 夫人が息を呑み、伯爵の顔色が変わる。


「それだけは……!」

 伯爵は反射的に言った。


 公爵家の後ろ盾を失えば、本当に終わる。


 リディアも立ち上がって、縋るように言った。


「アルベルト様! 私は、婚約者ですわ……!」


 アルベルトは一拍置いて、リディアを見た。

 その目は優しくない。


「光の精霊魔法が使えない婚約者はいらない」


 言い切った。

 リディアの唇が、ひくりと震えた。

 心臓が冷えていき、耳が遠くなる。


「そ、そんな……」


 リディアはそう言って床に崩れ落ちた。


 アルベルトは淡々と、追い打ちをかける。


「エミーリアは結婚したようだが……辺境伯領は死地と呼ばれている」


 伯爵夫妻の目が揺れた。


「呼び出せば、泣いて喜ぶだろう。伯爵家に戻れるのなら」


 アルベルトの言葉には、確信があった。

 ――エミーリアは、まだ自分を慕っている。

 そう思い込んでいる顔だった。


「……そうですね」

 伯爵は喉を鳴らして答えた。


「わかりました。すぐに……手配を」


 夫人も、遅れて頷く。


 リディアは言葉を失ったまま、椅子の背に指をかけて立っていた。


(エミーリアを、取り戻す?)


 それはつまり。

 自分の居場所が、また奪われるということだ。


(そんなの、許されるはずが……!)


 だが、どうしようもない。

 でもただ、姉のエミーリアに恨みが募っていく。


 アルベルトは立ち上がり、外套を整えた。


「早くしてください」


 それだけ告げて、伯爵家を出ていった。


 馬車に乗り込み、窓の外に沈む屋敷を見ながら、アルベルトは唇の端を上げた。


(リディアは、もういらない)


 口には出さない。

 だが頭の中では、はっきり言える。


(必要なのは、エミーリアだ)


 自分の精霊魔法の出力を取り戻すには。

 自分が長男に劣る次男という評判を覆すには。

 ――あの女が必要だ。


 エミーリアがいると、精霊が応えた。

 彼女がいなくなると、薄れた。


 偶然ではない、もう確信に近い。


「待っていろ、エミーリア」


 唇に笑みが浮かぶ。

 それは優しさの笑みではない。


「死地から取り戻して……いや、助け出してやる」


 自分に都合のいい言葉に、酔うように。


「そして、俺の嫁にしてやるからな」


 アルベルトは、不敵に笑った。


 ――そんなことは、できないとまだ知らないまま。


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