公爵令息ヴィルヘルム①
(とっっても頭が痛いわ)
目を覚ましたら、頭が非常に痛かった。目の前の光景に何度も瞬きをする。
「奥様、階段から落ちたのですからまだ横になっていらしてください」
泣きそうな顔をした侍女のティルダが、心配そうにわたくしに近寄ってくる。
階段から落ちた。
そう、そうだった。
わたくしはゆっくりと自分の手を眺めた。公爵夫人らしく、白くて細く、美しい手だ。
(これはいわゆる転生ってやつなのかしら)
わたくしの頭の中にふたつの人生が入っている。深夜のコンビニでプリンを買って帰る途中に自転車ごと転んだ女の記憶と、公爵夫人の記憶がどちらも自分のものとして流れ込んでくる。
(え、あそこで死んだの? そう……)
あまりにも呆気ない。そして、仕組みは分からないがイレーヌとしてここにいる。
「奥様、医師を呼んでおりますので」
「ありがとう、ティルダ」
それにしても、と流れ込んできたばかりの記憶を眺めてみて、わたくしは少しばかり唸った。
イレーヌ・フォン・シュテルンハイムという人は、この屋敷で自分から何かを決めたことがほとんどない。誰かがこうしましょうと言えば頷き、誰かが困った顔をすれば引き下がり、言い返したことも言いつけたことも数えるほどしかない。
そして、特に夫との間に重大な溝があった。
使用人たちはイレーヌを優しいというが、気弱なだけだった気もする。
「母様!」
突然扉が開いたかと思えば、煌びやかな少年が飛び込んできた。
「ご無事ですか、母様。階段から落ちたと聞いて驚きました!」
薄い金の髪に、青灰色の目。息を切らして寝台の脇に膝をつく少年を、わたくしは知っていた。ヴィルヘルム。十五歳。わたくしの息子だ。
顔を見た途端に、この子にまつわる記憶がまとめて流れ込んでくる。生まれた日のこと、熱を出した夜のこと、初めて馬に乗った日のこと。他のどの記憶より鮮明で、他のどの記憶より数が多い。
(イレーヌはこの子をとても大切にしていたのね)
「平気よ。身体は少し痛いけれど」
「よかった。母様、ロレッタが心配して泣いています」
安堵の顔をする息子の口から出てきたのは、ヴィルヘルムの従姉妹で、わたくしをおば様と呼ぶ娘の名前だった。好きなときに公爵邸へ来て、我が家のように寛いで帰っていく。
イレーヌはその子にも随分気を遣っていたみたいだ。
「ヴィルヘルム。わたくしが階段のところにいたとき、誰かそばにいた気がするのだけれど」
わたくしは頭を押さえながら、ぼんやりとした記憶を辿る。アデラインを叱ったところまでは思い出せるのだが、その後がはっきりしない。
「アデラインです。階下へ駆け下りて、侍女を呼んだと聞いております」
「ああ、そうだったわね」
侯爵令嬢で、ヴィルヘルムの婚約者。公爵夫人となるための教育をするという名目で、イレーヌが月に幾度かこの屋敷へ呼びつけている娘だ。真面目で、礼儀正しくて、出された課題は必ず仕上げてくる。
もっとも、呼んでおきながら教えたためしがない。決まってその日にロレッタが現れ、おば様お茶にいたしましょうと言い、そのままサロンで茶会が始まってしまうからだ。アデラインには課題だけを渡して、書庫へ。
毎度のことだったようだ。
(ええと、イレーヌもそれはどうかと思うわ……)
自分(?)のことながら頭が痛い。いくら流されやすいからって、かつてのイレーヌの行動も色々と問題ありだ。
「母様。実はロレッタが、気になることを申しております」
そこで息子の顔が険しくなった。
「あら、そうなの。ロレッタはまだいるの?」
「ロレッタもアデラインも応接間にいます」
「では、二人ともここへ通してちょうだい。あなたもいなさい」
「アデラインもですか?」
ヴィルヘルムが、本気で不思議そうな顔をする。
息子の話を鵜呑みにしないのが、そんなに珍しいのだろうか。いや、確かに珍しいかも。
「ええ、もちろんアデラインもよ。わたくしはこのとおり動けませんから、話はここで伺います」
「母様。二人を連れてきました」
ほどなく、扉が開いた。
先に入ってきたのはヴィルヘルムで、その腕ではロレッタを支えている。ピンクブロンドの髪をふわりとハーフアップに結い上げた彼女が、息子の腕に半分もたれかかるようにして肩を震わせていた。
その後ろに、もうひとり。
栗色の髪のアデラインが扉のすぐ内側に立っていた。顔が真っ青で、両手を前で固く重ねている。
(ちょっと待って)
息子が支えているのは従姉妹で、扉の前に置き去りにされているのが婚約者だ。順番がまるきり逆ではないか。
(うちの息子、なんで婚約者を放ってそっちとベタベタしてるのよ)
しかもロレッタは寝台の脇の椅子に座らされ、ヴィルヘルムがその傍に立ち、アデラインには誰も椅子を勧めない。こういう配置が、この屋敷では当たり前だったのだろう。最悪すぎる。ますます頭痛がしてきた。
「イレーヌ様。お身体は、もうよろしいのですか?」
アデラインが控えめに声をかけてくれる。この状況でも文句を言わないのは、当たり前だったからなのだろうか。
「ええ、平気よ。ティルダ、アデラインに椅子を。早くして」
「は、はい、かしこまりました!」
わたくしがテキパキと指示をすると、アデラインだけでなく皆が息を呑む。
アデラインが浅く腰を下ろしたところで、今度はロレッタが立ち上がった。
「あ、あのっ、おば様。わたし、わたし」
「ロレッタ、なにかしら?」
「いえ、やっぱり言えません。こんなこと、申し上げてはいけないのだわ」
ロレッタは芝居がかった台詞を言うと、両手で顔を覆ってしまった。
「ロレッタ。言いなさい。母様に隠し事をするものではない」
ワッと泣き出したロレッタの背中を、ヴィルヘルムが心配そうにさすっている。なにかしら、これ。
息子がそう言ってしまえば、ロレッタは無理に言わされた形になる。実際には言いたくて仕方がなかったとしても。
「わたし見たのです。アデラインさまが、おば様を、押したのです」
その言葉にアデラインの肩が跳ねる。
「違います、私はやっておりません」
「ではなぜそこにいたんだ!」
声が震えているアデラインに対して、ヴィルヘルムが声を荒らげる。何こいつ。本当に……。
「私は、イレーヌさまがお呼びだと聞いて、階段を上がっただけです。押してなどおりません」
「母様が君を呼ぶわけがないだろう! そこで言い争いになって、腹を立てて手が出たのではないか」
ヴィルヘルムはロレッタをかばうように、一歩前に出ている。ロレッタはくすんくすんと鼻を鳴らしている。
「違います! 私は謝って、すぐに階段を下りようとしました。振り返ったときには、もうイレーヌさまが落ちていらして」
「ロレッタが嘘をついているというのか!?」
「ですが……!」
「お待ちなさい」
わたくしが言うと、三人が同時に黙った。
ようやく、階段から落ちる前のことを思い出した。
お茶会の場にアデラインが来ていると聞いて、わたくしはサロンを出たのだ。何故呼んでもいないのに来たのかと言うために。
あの子はわたくしから呼ばれたと言っていたが、イレーヌは呼んでなどいない。書庫に戻るようにと告げたらアデラインは顔を青くして謝り、階段を下りていこうとした。そして、イレーヌはその直後に落ちた。
叱られた娘が逆上して義母を突き落とす。筋としてはよくできている。何より、叱ったのが事実である以上、わたくし自身が証人だ。
色々な視点を交えながら裏側を書いていけたらなと思っています。突発的に始めたので不定期更新です。
短編で省略したイレーヌの過去、幼馴染編、ロレッタの両親まわりなども置いていけたらと思いますのでゆったりお付き合いください^^




