30. 彼女のテレパシーと俺
ふと視線を上に向けると、あのテーブルヤシがあった。折れた茎のところに添え木がしてあって、ぐるぐるとテープを巻いている。ちゃんと繋がっているのか、まだ葉は青々としていた。
「あ」
「ん?」
俺の視線の先を追って、先生もそのテーブルヤシを見る。
「ああ、これか? 折れたみたいなけえ、川内が治療しよったぞ」
治療。まるで人間みたいだ。でも他に当てる言葉はない気がする。ぽっきり折れて、もうダメだと思っていたのに、まだちゃんと生きていた。治療、したから。
「これ、俺が不注意で……」
「ああ、じゃ、踏み台壊してしもうたのお前か」
「……すみません」
思わず謝ると、浦辺先生は古かったからな、とつぶやいた。
「謝っといたほうが……ええよな」
俺が小さく零した言葉に、先生は問い返してくる。
「テーブルヤシにか。それとも川内にか」
俺はちょっとの間考えて、そして答えた。
「……どっちも」
「そりゃそうじゃろ」
「……うん」
そうつぶやいて黙り込んでいると、浦辺先生はテーブルヤシを指差した。
「こっちは今、謝れるじゃろ?」
思わず顔を上げて、先生を見る。浦辺先生は、まっすぐにこちらに視線を向けている。
「今?」
「今」
冗談かと思ったが、浦辺先生は真剣な様子で頷いた。これは、逃れられそうもない感じだ。
人前でそうするのはかなり抵抗があったけれど、俺は立ち上がってテーブルヤシの前に立ち、見上げた。
もう一度浦辺先生のほうへ振り返る。先生は、顎をしゃくって、ほら、と俺を促した。
こうなったらもうヤケだ。俺は思い切り頭を下げた。
「すみませんでした!」
温室の中に静寂が訪れる。俺は頭を下げたまま、ただ時間が過ぎるのを待った。
すると。感じた。さっきまで俺に向けられていた敵意が、波が引くように去っていく。いつもと変わらない温室に変化していく。
慌てて頭を上げて、きょろきょろとあたりを見回す。変わった。空気が。
愕然として立ちすくむ。嘘だろう?
「どうかしたんか?」
先生が不審げに眉根を寄せている。
「いや……」
確かに、感じられた。俺にも。川内のようには受け止めてはいないのだろうけれど、確かに感じた。
呆然としている俺に、浦辺先生が声を掛けてくる。
「どうした?」
「俺」
慌てて、ドアに向かって駆け出した。
「謝らないと」
「おい、神崎!」
呼び止められて、振り向く。浦辺先生が苦笑しながら、こう注意してきた。
「お前ええ加減、卒業までには敬語を使えるように、ちっとは気を付けとけ」
だから俺は、腰を折って声を上げた。
「ありがとうございます!」
それから身を翻すと、教室に向かって走り出す。日直だというのなら、教室にいるのだろう。
校内はまだ時間が早いからか、パラパラとしか生徒はいない。どこからか運動部が声出しをしているのが聞こえてくる。
荒い息で教室にたどり着き、後ろの扉から中をそっと覗いてみると、川内が黒板に向かっていた。チョークを持って日付を書き直しているようだ。教室には、一人しかいない。
「お、おはよう」
意を決してそう話し掛けると、川内は驚いたように、バッとこちらを振り向いた。
そして何度か目を瞬かせたあと、小さな声で、「おはよう」と返してきた。
「あの……」
俺はそっと歩み寄った。足音ひとつたてないように。そうしなければ逃げ出される気がして仕方なかった。
川内に近付き過ぎないように、離れた位置で足を止める。それから、いったん口を開きかけてはみたけれど、なにから話せばいいのかわからなくなって、黙り込んでしまった。
川内は少し首を傾げて、俺を見つめている。
「あ、えと、日直、忙しい?」
邪魔をするのもなんなので、そう問うてみる。
川内はゆっくりと口を開いた。ものすごく久しぶりに声を聞くような気がした。
「ううん、もう終わる」
「……そう」
それから、少々の静寂が訪れる。気まずいこと、この上ない。
とにかく、なにか言わないと。俺はなにかいい言葉を掛けたかったけれど、なにも思いつかなくて、結局、事実を述べることにする。
「あの……俺、あのテーブルヤシに謝ったんじゃ」
「うん」
川内は俺の言葉に首を傾げることなく、頷いた。それから、ゆっくりと微笑んだ。
「うん、知っとる」
「え」
川内は開いている窓の外に目を向けて、それからもう一度こちらに首を巡らせると、種明かしをする。
「皆が教えてくれたけえ」
「えっ、伝播するもんなんっ?」
だってあれは、温室での出来事なのに。窓の外では木々が揺れているのが見える。植物同士でここまで伝えてきたということか。
「いつもじゃないけど」
「あ、そう……」
そう呆けた返事をして、しばらくじっと川内の顔を見つめてしまう。
なんだ、と思った。なんだか力が抜けた。なんだってバレちゃうんだな。これは、敵わない。
そう思うと、口から小さく笑いが漏れた。
「なに?」
川内は何度も目を瞬かせている。俺は慌てて顔の前でひらひらと手を振った。
「あ、いや、あの……ひどいこと言って、ごめん」
そう謝罪して、頭を下げる。少ししてちらりと川内を見ると、彼女は首を横に振った。
「ううん、私も、悪かったけえ」
「いや、そんなことはないよ……」
そしてまた、気まずい空気が流れる。これはこれからどうしたらいいんだろう。
「あ」
ふいに川内が声を上げる。
「一年生が、温室に来とる」
「えっ?」
「たぶん、入部希望。早う行ってあげんと、先生しかおらんよ」
チョークを置いて、慌てたように川内は歩き出す。すごい。そんなことまでわかるのか。
俺は階段の昇降口で、川内が歩く横に追いついた。
「浦辺先生が顧問じゃって知ったら、逃げるかな」
「かもしれんね」
苦笑しながら彼女がそう返してくる。
なんだか自然で、もうわだかまりはないように感じた。これは仲直り、ということでいい気がする。俺はほっと息を吐いた。
それにしても改めて、植物の言葉が聞けるってすごい。ここまでとは思わなかった。
きっと本当に温室の前に一年生がいるのだろう。確信を持って、そう思う。
今は川内の力が信じられた。
ほんと、敵わない。悪いことできないな。もし秘密ができたら、周りに植物がないか確認しなきゃいけないよな。
……たとえば、そう。エロいこととか……。うん、部屋には絶対に植物は置かないようにしよう。
なんてくだらないことを思っていると、ふいに横を歩く川内がぴたりと足を止め、俺のシャツの袖をくいっと引っ張った。
そちらを振り向くと、彼女が俺を見上げていた。少し睨んでいるような目つきだった。
「……なに?」
仲直りしたと思ったのは俺だけで、川内はやっぱりまだ怒っているのだろうか。そりゃそうだ、すぐに許せるものでもないよな、と心配になる。
すると川内は少し口を尖らせて、低い声を出した。
「今、なにか悪いこと考えよったよね?」
「えっ、いや別に?」
「嘘。わかるんじゃけえね」
それから彼女は俺を見定めるようにじっと見つめてきた。
なんでわかったんだろう。慌ててあたりを見回す。ここは階段の踊り場で、周りに特に植物は見当たらない。じゃあどうしてわかった?
となると、もしかして。つまりこれは、女の勘ってやつなのかもしれない。
そういえば、尾崎もやたらに勘が鋭い。植物がどうこう以前に、女の子という人種には、なんでも読まれてしまうのか。
しかし一応、否定はしてみる。
「いや、悪いことなんか考えとらんよ」
「嘘」
「ホントだって。早く行こう」
俺は川内の手を握って引っ張る。川内はみるみるうちに頬を紅潮させた。
「もう! こんなんで誤魔化されんのんじゃけえね!」
「うん、わかった」
前を向いて、川内に見えないように、こっそりと息を吐く。これは絶対に勝てない。
俺は心の中で木下に呼びかける。俺たちは、尻に敷かれるしかなさそうだよ。
そんなバカなことを思いながら、俺は川内の手をしっかり握ったまま、温室へ足を進めたのだった。
了




