オーバードライブ…リアルタイム部分抜粋
「人はみんな汚れていくんだよ」
変質者のような水泳用のゴーグルを前頭部にかけ、塩素の匂いが漂う生白い身体で色褪せたオレンジ色のベンチに仰向けに寝っ転がったまま、声変わりの済んだ悟ったような声でヤベは呟いた。僕はヤベの足元に体育座りをして、赤くなり始めた自分の腕をぼんやりと眺めていた。正午過ぎの太陽が波打つ水面にきらきらときらめき、灼けたタイルの上の熱い空気がシュリーレン現象によってゆらゆらと歪んで揺らめいていた。どこからか金属バットの快音が聴こえてきそうな八月の晴天の空の下、敷地の外円の蝉たちと内円の子どもたちが等しい音量でわめき続ける中心のぽっかりとした静けさの中に僕たちは位置し、それは高台の新興住宅地のぽっかりとした空白部分の静けさでもあった。
僕が返事をしないでいると、ヤベは身を起こしてベンチに座り直し、手振りを交えながら続けた。
「信じられるか? あんなちっちぇえガキどもがよ、何年かすりゃ生意気にちん毛なんか生やしやがって、親に隠れてこそこそAVを観ながら必死でシコるようになるんだぜ?」
僕はヤベが指す方を見ようとしたが、眼鏡を外しているのでぼんやりとしか見えない。目を細めれば、赤い水泳帽を被った小学生たちがはしゃぎながら流水プールへの階段を降りていくのが、なんとなくわかった。
「しゅっしゅ、しゅっしゅって、アホみたいに肉棒をしごいてよ、アホみたいにティッシュを消費するようになるんだぜ。エコじゃねぇよな、アレは。まったくエコじゃねぇよ、あんなもん。リサイクルできねぇだろ、あんなにどろどろに汚しちまったらよ。木だって悲しんでんだろ、無駄に排泄された汚ねぇ精子を拭き取るために、すくすく育ってきたわけじゃねぇってな」
赤い水泳帽が水面で何度かぴょんぴょんと弾み、それから沈んで見えなくなった。おそらくは近隣のH小学校の児童たちなのだろう。僕たちが通う学校でも一定の比率を占める、哀れで善良でいくらか愚鈍な生徒たちの提供元のひとつだ。
「バレねぇと思ってんのかよな。匂いでわかるっつうのな、匂いでよ。男臭ぇザーメンの匂いでな」
闘将精液男、と僕はふと考えてしまい、それから拉麵男と瓜二つにはまるで見えない拉麵男・懢蝱の、斬人饠血刀を用いた地獄兜拷髏殿崩しによる惨殺を思った。正気の人間の前頭葉からは到底出てこない類の発想だろう。
ヤベは自分の左手を眺めて匂いを嗅ぎ、もう一度ベンチに寝っ転がり、もう一度呟いた。
「みんな汚れていくんだ」
それからしばらくヤベは黙り込んだ。僕は濡れた海水パンツの尻にタイルの熱がじんわりと染み込んでいくのを感じながら、落ち着かない気持ちで体育座りを続けていた。
一九八〇年代後半、すなわち昭和の終わりに、全国的な流行から少し遅れて造営された敷地面積四千五百平方メートルほどの屋外型市民プールだった。「Z市営O和田ファミリープール」というのがその正式な名称で、奇しくも僕とまったく同じ苗字ではあるが、血縁関係はない。今思えばできたばかりの頃から母親に連れられ、友人に連れられ、あるいは弟を連れて、夏が来る度に僕たちはここに通っていたのかもしれないが、ここ二、三年は足が遠のき、その存在を忘れ、予感と期待と冒険に満ちた夏休みの心浮き立つ気持ちも忘れていたところ、ヤベからの電話が僕にその――少なくともファミリープールの――存在を思い出させた。
百円で入れるのも今年で最後だろ、来週からは水不足で閉まっちまうしな、というのが受話器のくるくるしたコードを通して聞こえてきたヤベの言い分で、なんだかよくわからないままにクーラーの付いた黴臭い四畳半でのセガサターンのプレイ権を弟に譲り、土曜日はパートのない母親に水泳用具一式を探させ、長ズボンの下に学校用の紺色の海水パンツを履いて出て、団地の名店街でなにかの催しをやっているのを横目に自転車をこぎ、三街区のヤベの棟の下で蚊に刺されながら三十分待たされたあと、『OH!エルくらぶ』がどうのといったヤベの弁解を聞き、彼が口ずさむ調子外れのA室奈美恵を聴きながら眩しい太陽に向かって自転車をこぎ、公民館の裏の坂をノンストップの立ちこぎで上がり、太ももと尻の貧弱な筋肉を傷め、なんだかよくわからない模様のTシャツの背中を汗で濡らしながら、一・五キロメートルの道程をはるばるやってきたというわけだ。
来てみればファミリープールは当然僕たちより若い世代が幅を利かせており、気の利いた中学生ならばTしまえんなりS武園なりの大規模なプールに行くのが筋だということを改めて思い知らされた。もっとも、僕が気の利いた類の中学生に属していないことは否定しない。夏は彼らまたは彼女たちの――若い世代なり気の利いた連中なりの――ものであり、僕の手の届くところにはセガサターンのコントローラーぐらいしかなかったし、それは離れがたいほど手に馴染む、暗いカラーの複雑なコントローラーだった。
そんなことを頭の中に巡らせている間もヤベは黙り続けており、そろそろ「そろそろ帰ろうか」と言おうか、という意向がまとまってきた頃に、こちらを見ずにヤベが言った。
「お前さ、ちん毛っていつ生えた?」
「一年のとき」
「生えたとき、どうした?」
「とりあえず、剃った」
ヤベは愉快そうに笑った。
「やっぱり剃るよな。意味わかんねぇもんな」
うっとりしたような満足げな声で、もう一度呟いた。
「剃るだろ、ちん毛は」
流水プールを回り終えた赤い水泳帽たちが水から上がり、つるつるした身体にぴかぴかした水滴を輝かせながら、ぺたぺたとどこかへ走り去っていった。清浄なる彼らをぼんやりとした視力でぼんやりと眺め、いくらかの細部を想像力で補いながら、そういえば前触れもなくにょきにょきと恥毛が生えてきた二年前もヤベと同じクラスだったな、どうしてスキー教室のときは同じ部屋だったんだっけ、仲のよい相手を選べたはずなんだけどな、などとなんとなく思っていると、ヤベはぴょこんと身を起こして立ち上がった。
「スライダーやろうぜ」
◆
「浮き輪はどうしよう」
水から上がって浮力を失った身体の重さを感じながら、つるんとしたヤベの背中を追い、僕は訊ねた。小学生の頃にS駅南口のショッピングセンター五階のスイミングスクールでビート板なしのバタ足に挑戦して二秒後に敢えなく沈んで呼吸困難でもなく呼吸不能の混乱と焦燥と恐慌を経験して以来、僕は腰を超える高さの水またはお湯に入るときには浮き輪が手放せない。知性や神経というものを有さない生物、たとえば体育教員には理解されない類の病であり、僕は犬と体育教員が大嫌いだ。
「そこらへんに置いとけよ」
「盗まれないかな」
「大丈夫だろ」
なんでもないようにヤベは言い、ウォーター・スライダーへの折り返し階段を登っていった。いくらかの不安を感じながら濡れた浮き輪を鉄柱に立てかけ、僕も後を追った。
ボルトが丸見えの愛想のない鉄骨構造のスタート台は七メートルほどの高さがあり、最上段からはその気になればそれなりに町を見渡せるはずだった。奇特な観察者が目にするであろうこの町の風景は、住宅街、そして住宅街、学校、幼児施設、まばらな畑と雑木林、川と倉庫と小工場、資材置き場と駐車場、無数の鉄塔と送電線、電柱、そして電柱、あとは県道と国道とインターチェンジといったところであり、目を凝らせば社務所の屋根ぐらいはどこかに見えるのかもしれない。一般的に風光明媚と呼ばれる類のそれとはほど遠い景観であり、視界に含まれる雑多で凡庸な情報群からいくばくかの美しさらしきものを引きずり出して捉え、整理して多少とも生き生きと描くのは、広重やピサロでも至難の業に違いあるまい。僕たちが住む低地部の団地――町全体の最果てかつどん底にあると言ってよい――はあれこれの建物に隠れてここからは見えるか見えないかといったところだろうが、見えて喜ぶ人間もいないだろう。
そんな僕の思考をよそに、ヤベはさっさと上に辿り着き、児童たちの後ろで腕を組んで、睥睨するように町を見下ろしていた。顎を上げて眉を顰め、すうっと息を吸ってゆっくりと吐き出す姿はこの町の支配者に見えなくもなかったが、なにを考えているのかはよくわからなかった。
被支配者のひとりであろう陽に焼けたTシャツ姿の係員にせわしなく促され、僕たちはちょろちょろと水の流れるFRP素材のスライダーに腰を下ろした。ヤベが水色、僕がレモン色。二本仲良く並んでいた。なにを思う間もなくすぐに笛が鳴り、僕たちはぐっと力を込めて身体を前に押し出した。尻が擦れ、足の裏が水を切り、速度が上がり、景色が流れ、水面に映る空と太陽が近づいてくる。ヤベの方が早い。僕は両手でスライダーの縁を掴んで後ろへと押しやった。やがて傾斜が変わり、身体が重力を失い、衝撃とともに呼吸が止まり、音が弾け、泡が舞い、灼けた大気の中に、夏の光を閉じ込めて、きらめきとともに水飛沫が飛び散った。
◆
「エスパークスってあったよな」
駄菓子屋だか文具店だかよくわからない『ひばりや』から小型のカップ麺を手にして出てきたヤベが、自転車の荷台に腰をかけながら言った。彼のそれは変速機がついていない、後ろかごかチャイルドシートさえついていれば主婦が乗っていてもおかしくないようなカマキリ型の自転車ではあったが、彼がゆったりと乗っているとむしろそちらの方がお洒落なんじゃないかという気もしてくる。
「もうねぇのかな」
さあ、と僕は首を傾げた。エスパークス、ゾイド、ネクロス、バーコードバトラー。様々な文物がときめきと謎を秘めて僕たちの前に現れ、その正体を掴み取る前に呆気なく消えていった。背後にあるのは消費社会の大人の事情というものだろう。
「まだ固ぇわ」
腰をかけるなり蓋を剥がして透明なプラスチックのフォークで麺をつついたヤベの服装は上から順にポロシャツ、ハーフパンツ、サンダルであり、床屋の切り方ではない髪型も含めてさっぱりとしていてお洒落な部類には入るのだろう。生白く出ているすねも自然につるつるとしており、やはりさっぱりとしていてお洒落な部類ではある。
「あそこの店ってなんて読むの。グラウンドみてぇなとこの、ラーメン屋みてぇなとこ。俺、前からわかんねぇんだよ」
ばいこうけんじゃないかな、と眼鏡のフレームに触れつつヤベから目をそらしながら小声で答えた僕はといえば、自分の軽食はヤベがこぢんまりとした店から出てくる前に済んでおり、服装は改めて言及するに値しないからよいとして、変速機つきのトンボ型の自転車を愛車とし、さんざん待たせた上にいきなり怒鳴り始める反社会的勢力構成員まがいの――本当にまがいかは知らないが――顧問の理不尽な恫喝を俯きながらも従順に聞いている振りをせざるを得ない野球部員のような姿勢と位置関係で、ヤベと向かい合っていた。
彼ら、すなわち野球部員たちと僕との最も重要な違いは、僕が相手にしているヤベはともかくも人間ではあるということだが、他にも細かな違いはある。髪は二ヶ月半は床屋にいっていなそうな長さと膨らみで、目つきと顔つきと声と体格はいくらかでもなく弱々しく、先のプールでいくらか赤くはなったものの概ね白い肌をしており、チームワークらしきものとまったく縁がなく、身体の前で大人しく組んだ両手に帽子を握っているわけではない、云々と。
とはいえ、たとえヘルメットを被って打席に立ってIチロー選手もどきのルーティーンを行っていたところで、僕を野球部員と間違える人間はいまい。仮に運動部所属ならば卓球部員にしか見えないだろうが、実際は見た目通りの文化部の所属であり、吹奏楽部員なわけもなく科学部員でも工芸部員でも囲碁・将棋部員でもなく、美しき術の部の活動員、すなわち美術部員だ。
「オリンピックってまだやってんの」
真剣な表情でずびずびと麺をすすりながら問いかけてきた彼もまた美術部員ではあったが、ほとんど名義上のそれではあり、といって彼が本当に所属すべき部活動がなんなのかを答えるのは難しい。仮に美容師を目指すような部活動があれば収まりはよい気はするが、そんなものはない。バンド活動という意味での軽音楽部であっても少し違うし、スケートボード部というものがあるならば「なるほど」といったところではあろうが、結局は積極的帰宅部員というのが一番近いものではあるのだろう。それはそれで美術部員らしいひとつの形であるとは言えるが、彼の問いに対する僕の答えは「もう終わった。だいぶ前」というものだった。
「マジかよ。俺、あいつ好きなんだけどな。手のないヤツ。おさげの」
熱っち、とふうふう息を吹きかけながら汁を吸いつつヤベは言い、僕は首を捻って考え込んだ。彼はなにを言わんとしているのか。
美術部員、団地住まい、三年で二度の同じクラス――一年四組と三年六組だ――という充分な接点はありながらも、互いの関心や思想に充分に慣れているとは言い難い程度の距離を保ちながら二年四カ月を同じ校舎の同じ階、うち一年四カ月は同じ教室で過ごしてきたのが我々であり、二人を親しい友人と認識している人間は――ヤベはともかく僕という現象を認識している人間がさほど多くはないであろうことはさておいて――ほとんどいないだろうし、当事者のひとりである僕も多数派に属していた。三街区のヤベの棟も本日が記念すべき初訪問だったし、玄関の敷居は跨がずじまいだった。
といって、団地という住宅様式はどこの家庭でも造りがほとんど変わらないので、跨いだところで特に新鮮味はなかっただろう。瓜が二つどころではなく千も二千もぎゅうぎゅうに押し込まれているのが団地生活であり、各戸の違いがあるならば服どころか毛穴の奥にまで滲み込んでいるような各家庭の匂いというものだろうが、それがなんによって生じ、どのように化合されて形成されるのかはわからない。一軒家などという高級住宅に住んでいる富裕層の人間よりは、団地や県営住宅に起居する中間層の人間の方が強い匂いを放っている傾向は感じられるが、狭小な住環境による空気の密度仮説以外にはこちらも匂いの濃度を決定せしむる要因は不明であり、専門家による今後の詳細な研究が待たれる。
我らが愛すべき――もちろん反語だ――Z団地の全体像を概観すれば、春には白いはなみずきの咲く、南北に走る全長三千フィートほどのメインストリートを中心に、東が分譲住宅、西が賃貸住宅と明確に区分されており、それぞれ南から順に一、二、三街区、四、五、六街区と、いくらかのずれと乱れはありながらも概ね行儀よく――少なくとも外観上は――並んでいる。分譲と賃貸の間に階級の差がないとは言えないが、特に目立った差別や階級闘争が生じるということもなく、行き来が禁じられているということもない。
ときどき賃貸から分譲への格上げ転居が生じることはあるが、近隣の転居の選択肢は他にもある。ひとつは三街区からふたつの商店街といくらかの一戸建て住宅の並びを挟んでさらに北にある――より単純に言えばメインストリートを挟んで六街区の向かいではあるのだが――『リバーサイド』と呼ばれる「第二団地」で、外観からして「第一団地」とは異なる高級感を漂わせており、住居の中身も人間の中身もそれにふさわしいと言える。というか、あれが名目上は我々のそれと同じ団地だということを、僕は最近知った。団地というのはあんなモダンな高級住宅ではなく、我々が住むような昭和三〇年代から四〇年代の臭気を放つものを指すべきではないのだろうか。『リバーサイド』は『リバーサイド』であって「団地」ではない。そういう認識をしている。
同じくモダンな高級住宅として、六街区のさらに北に一棟だけあとから付け加えられた『Zハイツ』というものもある。僕たちは正式名称の『Zハイツ』とは呼ばず、番地通りの「六の十N」と呼ぶが、その番地を発音するときにはやはり特別な響きは生じる。小学校時代の同級生からは上品で優しく知性的なヤナギさん一家が「六の十N」に越していき、人にはふさわしい住まいというものがあると実感する。
『リバーサイド』から通り一本挟んで北は隣のS市であり、市境を越えるや否や『Sニュータウン』というこちらも大規模かつモダンな高級住宅街が我々の前に広がっている。市は異なれどZ団地住民とSニュータウン住民の生活範囲に――いくらかは新興の大規模な集合住宅住民としての生活意識もだろうが――共有部分は多く、地域的な一体性ということであればそれぞれZ市なりS市なりの他地域との繋がりより強いはずでありつ、といって行政上所属すべき市や学区は異なり、他の縁がなければ交流が生ずる機会はさほどなく、Z団地からはZ市役所よりS市役所の方が一キロメートルほど近いし坂も上がらなくていいという立地的な事実もありつ、Z市民生活のひとつの中心地であるS駅はZ市にあるのに『Z駅』ではなく『S駅』を名乗らされるという理不尽極まりない名称の掠奪もありつ、通り一本のこちら側にあるのになぜかS市の市域に属し管轄もS市である『S市民体育館』は当たり前のようにZ団地住民も利用しているというささやかな奪還もありつ、Z市民なりZ団地住民はS市民なりSニュータウン住民にいくらか見下されているという、なかなか面倒臭い関係の隣人たちではあるが、いずれにせよ「第一団地」の賃貸の2DKの一階が地域的なカーストの最下層に位置することは否定しない。まさに僕の家ではある。なお、『Sニュータウン』には二十階建ての超高層マンションも存在しており、どこの王侯貴族が住むべき建造物なのか、僕には見当もつかない。
◆
分譲、増築なし、偶数号室という要件から、3DKであるはずのヤベ家の間取りを推測するならば、こういうことになる。玄関を入って右手が北、左手が南。南向きの部屋は玄関のすぐ左横から左奥に向けて、四畳半、DK、六畳。DKと六畳の間の襖を外せば十二畳ほどのLDK的ななにかになる。ドア一枚から出入りする南向きの四畳半――玄関のすぐ左手の部屋だ――が、この造りの住居で最も個室性が高い部屋ということになろう。ヤベにはいくつか上の姉がいるはずなので、おそらくは彼女がこの部屋を使用しているのではないか。
玄関の右手にはコの字型の反時計回りに、シャワー付きの浴室、やたらと低い洗面台、やたらと低い洋式トイレおよび洗濯機置き場が配置されている。玄関の真正面がもうひとつの四畳半であり、ヤベ家ではおそらくご両親の寝室となっているであろう南向きの六畳とは襖一枚隔てて連結されている。玄関口でダルそうにスティールのプレスドアを押し開ける、よれたTシャツとジャージ素材の短パン姿のヤベの背後にはこの四畳半への扉が半ば開いているのが垣間見えたので、ヤベが寝起きしているのはこの北部屋で間違いあるまい。ひんやりと湿って薄暗い、放っておけばすぐに黴の生える北部屋だ。僕は賃貸の人間なので分譲住宅の造りには必ずしも詳しいわけではないが、奇数号室はこれをそっくり東西反転させればよいはずだ。
分譲住宅には『増築』という愉快な建築様式もあり、南のベランダ側に外から新たに六畳間ふたつを継ぎ足すという荒っぽい工法で、4LDKないし5DKを確保している。工法上、棟全体の合意がなければ『増築』をすることはできず、そんなわけで我らが団地の分譲区域は、増築棟と非増築棟が入り混じる、でこぼことした不思議な景観を形成している。
せっかくだから簡単に賃貸住宅の間取りも眺めておこう。牛乳受けとしては使用したことがない牛乳受けが玄関ドアの外の足元にあるのは分譲も賃貸も共通だが、こちらは奇数号室が2DK、偶数号室が3DKであり、3DKならば玄関の右手に反時計回りに浴室、トイレ、洗面台および洗濯機置き場がコの字型に配置されている。大股で二歩ほどの奥行きをもつゆったりとした――もちろん反語だ――コの字スペースの頭上にはアルミニウム製のカーテンレールが取り付けられており、カーテンレールの本来の用途に従ってカーテンをしゃーっと引けば一応は脱衣所らしきプライベート空間を作ることはできるが、ほつれて穴の開いたバスタオルを無造作に引っかけるためのハンガーとして使用しているご家庭も少なくはあるまい。玄関の正面の臙脂色または紺色のラインが中央に入った襖を右にそろそろと引き開ければ、北向きの四畳半のひんやりとした畳の匂いが香る。放っておけばそこに黴の匂いが混ざり込むのは、分譲でも賃貸でも変わりなかろう。左手の開き戸を押し開けて南向きの窓に向かいて呆然と立ち尽くせば、朝陽が射し込むとは限らない東から順に、すなわち左手から順に四畳、DK、六畳であり、DKと六畳はやはり襖を外せば連結することができる。奇数号室の2DKはこれを東西反転させて、南向きの四畳をぶった切ればよい。わかりやすい話ではある。家族四人、場合によっては五人でどうやって2DKをわかち合えばよいかは、各家庭の創意工夫が必要になるところではあるだろう。三段ベッドという画期的な文明の利器を使用しているご家庭もあるとは聞き、人は2DKに何十人まで住めるものなのか、ギネスに挑戦してみるのも面白いかもしれない。ベランダは充分な広さのものが用意されているので、そこで人数を稼ぐことも可能だろう。
実際は公称上の畳数よりいくらか小ぶりには感じ――一畳が一七〇×八〇センチメンタルといったところだろう――天井も落ち着きのよい高さで――二二〇センチメンタルほどだろうか――造りによっては閉じこもるのにちょうどよいサイズの押し入れも完備されているので――湿った布団と高級感のない木材の匂いがするはずだ――広所恐怖症でセンチメンタルな方にはお勧めできる。
ともあれ、これであなたはZ団地に関する充分な予備知識を得たのであり、明日からのZ団地生活をなんらの不安もなく始められるはずではあるが、Z団地生活を始めなければならない時点ですでにあなたの人生には不安と絶望しかないであろうことは想像に難くなく、焼け石に水、破れ鍋に綴じ蓋、壊れたら戻らないハンプティ・ダンプティといったところではあろう。
――というZ団地の構造を見通す美しい透視術から「今ここ」に意識を戻せば、どうにかこの居心地がよいとは言い難い時間と空間から逃げ出すやんわりとしたうまい方法はないものか、というシミュレーションに脳の容量を半分ほど消費しながらも、僕はようやく脳内の探索を終え、辛うじて思い当たった固有名詞を疑問符付きで発してみる、というところまでは辿り着いた。
「――ペトラ?」
「ああ。たぶんそれ」
俺、コビー好きなんだよな、面白ぇよなあれ、とむせて咳き込みながら言いつつヤベはいつの間にか食べ終わっていたカップ麺を段ボール箱に捨て、暑っち、と呟きながら額を手で拭い、ぴっぴと汗を切ってからコインは入れずにカードダスのハンドルを捻った。僕はもう一度首を捻って考え、ヤベの身体の厚みのない側面に向かって控えめに指摘した。
「もしかしたら、コビーは、バルセロナのキャラクターじゃないかな」
おお、と、うん、の中間ぐらいの返事を楽しそうにしたあと、ヤベは件のアニメーションのテーマソングをあやふやな歌詞で口ずさみながらガチャガチャの前に移動してしゃがみ込み、いくつかのレバーをいじったあとに思い出したように顔だけをこちらに向け、眩しそうに訊ねた。
「どういうこと?」
答えるのが難しい質問だった。僕は咳払いをしてから、説明を試みた。
「コビーは、前回のバルセロナ・オリンピックだけの特別なキャラクターだったから、今回のアトランタ・オリンピックではやっていなかったし、もうやらないと思う」
「なにやってたの、今回」
「さあ?」
そこまでは僕も知らなった。もう子どもの頃ほどオリンピックを価値のあるものとは思わなくなっていたし、親と一緒にテレビを観ることも少なくなっていたし、『デカスリート』でぐりぐりと円盤投げの記録に挑戦する方がよっぽど面白くなっていたし、今ようやく同ソフトがオリンピックの時期に合わせてセガ社によって製作および販売されたものだったことを悟ったぐらいだ。ヤベはしばらくなにかを考えたあと、ふと気がついたように言った。
「なに、オリンピックって、いつも違うとこでやんの?」
「うん」
ヤベはもう一度考え、それから納得した。
「ああ、そうか。ソウルオリンピックミロ、とかやってたもんな。ソウルって、韓国だもんな。マコトだもんな。あれ、なんか、すげぇ女いたよな。なんだっけ。ジョイナー?」
僕は黙ったまま頷いた。ロサンゼルス、ソウル、バルセロナ、アトランタ。記憶にあるのはソウルからだ。ヤベは立ち上がり、ガチャガチャの赤い頭に手を置きながら言った。
「じゃあもう、コビーやんねぇんだ」
どこでもない地面を気落ちしたように見つめながら呟くヤベが少し気の毒になり、いつかまたバルセロナでオリンピックをやるとしたらまたコビーもやるかもしれない、そのときにはきっとペトラもジョルディもオリビアもカチャスもノシもビーチョも変わらずに仲間のままだろう、というようなことを言おうかとも思ったが、やるとしても半世紀ぐらいは先の話になるだろうし、コビー少年はさておきトラブルの博士ことノルマル氏は一九九二年当時におそらくは三十代後半だったであろうことを考慮すれば四十八年後ないし五十二年後にはもう他界しているかもしれないし、人類のみでは飽き足らずに生き物すべてを滅ぼさんとする氏のたくらみが成功せずともどのみち一九九九年に地球は滅びるのだし、地球が滅びずとも僕たちが『完全自殺マニュアル』の任意の記述を実行して個人的な滅びに達している可能性も否定できないので、言うのをやめた。
ヤベはそのまま黙り込み、僕の脳内は黴臭いなりにクーラーの効いた部屋に戻ってどうせ家にこもっているであろう弟と『デカスリート』をプレイするというイメージが支配的になっていき、「そろそろ帰ろうか」と言うべきタイミングを走り高跳びのJ字助走からの踏み切りのごとく見計らっていると、ヤベが先に口を開いて、僕はバーを落とした。
「ゲーセン行こうぜ」
◆
S駅南口前の大通りから脇に入った陽当たりの悪いL字型の路地の直角部分に、そのゲームセンターはあった。昼間は人通りの少ない路地、という言い方で、論理的にその路地の性格は伝わるだろうか。プライバシー保護のためにイニシャルで店名を示したいところだが、イニシャルみたいな名称のゲームセンターなのでどうしようもない。ともあれ、パブやらダンススタジオやらよくわからない店やらの詰まった雑居ビルの一階と地下一階がそのゲームセンターの占有部分であり、僕たちが用があったのはもっぱら地下一階のアーケードゲームコーナーだったし、今日の目的地も当然のようにそちらだった。
自転車のスタンドをがちゃんと立てて、花期をとうに終えたツツジだかサツキだかの植え込みの脇に違法性の認識なき違法駐輪をして、濡れた海水パンツと浮き輪の入ったリュックサックを前かごから右肩に移しながらヤベの後を追い、やけにポップな色彩と字体で店名の描かれたアーチをくぐり、エリアウェイへの急な階段を降りていった。階段の一段ごとに照度が下がり、湿度が上がり、煙草と歓楽の匂いが強くなり、皮膚を粟立たせるサウンドが少しずつ大きくなってきて、文字通りのアンダーグラウンドな空気が濃くなっていく。僕たちは踊り場込みで二十段の矩折れ階段をとんとんと降りてアンダーグラウンドな地下空間に降り立ち、百円で五回プレイ可能というアンダーグラウンドな二台のクレーンゲームを睨んで過ぎた。アンダーグラウンドと呼ぶには能天気すぎる音楽を奏で続けているクレーンゲームではあったが、それさえも逆説的にはアンダーグラウンドであると言えよう。アンダーグラウンドな入口のアンダーグラウンドなガラス張りのドアを引き開けながら、溢れ出した冷気とアンダーグラウンドなざわめきを秘めた諸々の音響に乗せて、ヤベは訊ねた。
「お前、バーチャやる?」
ドアを受け取りつつ頷きながら、僕はヤベの問いかけに少し驚いていた。彼にはテレビゲームをやるようなイメージがあまりなかったし――ゲームセンターならばフロアの奥で脚を組んでダルそうにポーカーを叩いているイメージだ――ましてや『バーチャファイター』にのめり込むような陰気で偏執的な人間とは思っていなかったからだ。なるほど『エキサイトステージ』はやるかもしれない。『ダービースタリオン』はやらないだろう。『ドラクエ』よりは『FF』を好みそうだが、『女神転生』は存在さえ知るまい。想像を膨らませれば、案外『魔導物語』をプレイしている姿が様になるかもしれず、確かにゲームボーイよりはゲームギア、SFCよりはメガドライブが似合いそうなところはあった。だが、32ビット機ならば決してセガサターンではあり得ない。プレイステーションだ。強いて格闘ゲームをやらせるならば『キング・オブ・ファイターズ』で八神庵にどうしたのこうしたの言わせていそうな印象ではあったが、いずれにせよ僕とは違う世界の人間という認識だった。
そんなことを考えつつ、強すぎる冷房に熱のこもった身体を冷やし、視界を遮る煙草の煙をかき分け、ぴこぽことした電子音やらだばだばとしたメダルの落下音やらぺちぺちがちゃがちゃとした操作音やらしきりに連呼される飛び道具的な技名やらばきぼかとした打撃音やらエコーのかかった断末魔の悲鳴やら子どもが育ちそうなクイズの正解音やら不正解音やらファイヤーやらアイスストームやらダイアキュートやらブレインダムドやらジュゲムやらばよえーんやらばよえーんやらばよえーんやらのぷよぷよとした音やらを鼓膜に感じながら、僕たちは店の奥へと進んだ。ヤベがトイレに行っている間に僕はちゃこんちゃこんと両替を済ませ、しばらく待ってもヤベが出てこなかったので、先にプレイを始めるべくいつもの席に座り、コインを入れてスタートボタンを叩いた。
舜帝との第一ラウンドをほとんど無傷で片付けた頃にヤベは出てきて、鏡張りの柱を見ながら前髪をいじったあと、腕組みをしてしばらく僕のプレイを眺めていた。誰がどこから眺めていようが僕のプレイは変わらない。P→K、↑PK、サマーソルト、エクセレント。ママのところへ泣いてお帰り。身寄りのなさそうなアルコール依存症の高齢者に放つにはいくらか残酷な勝ち台詞だが、サラがそう言うんだから仕方がない。ヤベはふうんと頷き、ゆっくりと白い筐体の向こうに周り、しばらくして椅子の脚がリノリウムの床に擦れる音がして、二度のSEが鳴った。
CREDIT 1、CHALLENGER COMES。
一度目は低く、二度目は高く。何度聴いても胸の高鳴るサウンド・エフェクトだった。僕はボタンから右手を離し、指先を何度か擦り、眼鏡の位置を直し、それから無意識に平常通りのルーティーンに入っていた。
対戦の間のちょっとした空白にレバーボールを締め、リズミカルにボタンを叩く。それが僕のルーティーンだ。PKG、PKG、PKG。この席で高校生や大人たちを相手に十四連勝したときも、対戦が終わる度に僕はレバーボールを締め、クールにボタンを叩いていた。無関心、無感動、無表情。目に映るすべては等しく虚しい。
ヤベが選んだのは螳螂拳遣いの少年だった。リオン・ラファール、十五歳。フランスの大富豪の子息で、父親との間になにやらの確執があり、世界で一番自分が強いという妄執に取り憑かれている。短すぎ、かつ青すぎるデニムのショーツを履き、裸の上半身にヴィヴィッド・オレンジのヴェスト・ジャケットを羽織るという変態的と言えなくもないファッションセンスはさておき、リオンは僕も嫌いじゃない。だから戦い方もわかっている。いずれにせよ、ヤベがアキラを選ぶような人間ではなかったのは何よりだった。美意識と倫理の欠落した下衆でなければアキラは使わない。
サラは西海岸、サンフランシスコ生まれの二十一歳で、截拳道の遣い手で、洗脳されている。背は高く、鼻も高く、脚は長く、足癖は悪く、さらさらとしたブロンドの長い髪をポニーテイルにまとめている。鮮やかなアクア・ブルーのシャツの裾を鍛えられた腹筋の上で縛った2プレイヤーカラーのラフさが好きだ。ときどきサラに蹴られたいと思うこともあるが、蹴られるのは対戦相手であって僕じゃない。
リヴァーブのかかった「READY GO!」のコールとともに対戦が始まった。開幕のジャックナイフキックを潜り込んで避けられ、七星天分肘で横向きに倒される。積極的なリオンのようだ。リオンは起き攻めで軸を変えて背後投げを狙ってくるが、それはさすがにわかっている。無難に距離を取って仕切り直す。
ヤベのリオンはよく動き、よく避け、よく回る。リオンのあるべき姿を引き出した、いいスタイルだ。勝利だけを求めるならば、そもそもリオンを選ぶべきではない。こだわりのない人間が、僕は大嫌いだ。一瞬の隙にダッシュで近づいて身体を低く捻って脚を払う。カウンターの磨盤手は穿弓腿で拾う。正確なコマンド入力で上体に飛びついて首を掻っ切る。上手い。僕は一本目を先取されながら、手応えと満足を感じていた。
二本目のリオンは開幕から打撃で飛び込んできたが、声で中段と下段を判断し、ガードして冷静に反撃する。僕のサラだって動きは悪くない。後転するリオンをしゃがみダッシュで詰め、起き上がりにラウンドキックを重ねてさらに詰める。振り向き、下段、大ダウン。自動二択のネックブリーカーで後頭部を堅い地面に叩きつける。中距離からのスピニングキックで美少年の側頭部を蹴り飛ばす。このラウンドは僕が取った。
三本目、四本目と対戦は続いた。互いの癖がわかってくる中で、手の内を読み合い、攻め手を潰し、変化をつけて裏をかく。仮想空間の格闘家たちの骨と筋肉と神経を通して、互いの孤独で不毛な時間をぶつけ合う。ヤベのリオンのように個性のある対戦相手だとなお面白い。旋風腿、下穿腿背転、廻掛脚。スタイリッシュないい連携だ。戦いながら、僕はヤベという男に興味と好意を抱き始めていた。
最終ラウンドも両者の体力ゲージが赤く染まっていた。起き上がりに距離ができたが、互いに突進系の技ならギリギリで届く距離だ――どうする、どう来る。副腎髄質から分泌されたノルアドレナリンが脳を満たし、アッパー系の瞑想状態の中で神経が研ぎ澄まされ、六〇分の一秒の思考が筐体を挟んでぶつかり合う。どう来る、どうする。リオンの身体が動き始める瞬間に、僕にはふとヤベの思考がわかった。下段だ。地を這うような疾地掃腿をラウンドキックで薙ぎ払い、浮き上がった身体をサマーソルト・キックで切り裂く。筐体の向こうでヤベが声をあげた。僕は眼鏡を直し、レバーボールを締め、リズミカルにボタンを叩いた。
◆
うわあ、と声なき声をあげ、僕は噴き出した炭酸に濡れた自分のTシャツを眺めた。Tシャツは相変わらずなんだかよくわからない模様をしていたが、幸いにして股間は濡れていなかった。エレガントな紳士として非常に重要なことだ。
対戦を終えた僕たちはひとまずフロアを出て夏の熱の中に戻り、アンダーグラウンドなクレーンゲーム機の横のアンダーグラウンドな自動販売機で飲み物を買い、紳士的に互いの善戦を讃え合おうとしているところだった。僕はペプシがなかったからコーク、ヤベはドクター・ペッパー。紳士が喫するにふさわしい清涼飲料だ。僕たちは向こう側になにがあるのかよくわからない黒塗りのガラス壁にもたれて、紳士的な談笑を始めた。
「お前、よく来るの?」
まあね、とクールに言おうとして上手く言葉が出てこず、僕はこくこくと痙攣するように頷いた。対戦が終わったあとにしばらく胸のどきどきと指の震えが止まらないのはいつものことだが、誰かと話をするのは珍しい、というか初めてかもしれない。
「オオワダも、けっこう不良なんだな」
なんと答えていいかわからず、僕は相変わらずこくこくと頷き、相変わらず言葉を発さなかった。ヤベは残ったドクター・ペッパーを飲み干し、げっぷをして口を拭ってから、妙に真面目な表情で言った。
「いいと思うぜ」
それからヤベは缶を捨てに行き、また壁際に戻ってきた。僕の三倍は飲むのが早い。
「でもお前、サラ使うんだな」
こくこく。
「パイじゃねぇんだ」
パイを使うのは変態だけだよ、と言おうと思ったが言葉は相変わらず出てこず、あはは、と僕は薄い声で笑った。
ヤベはもう一度げっぷをしたあと、ぼんやりとした顔で黙り込み、僕はなにか質問をしようと思って頭を巡らせたがなにを訊いたものかわからず、ファイティングバイパーズとかラストブロンクスとかAM2研とかセガワールドとかZ駅とかI袋とかピッキーとかぴっぷぅとかそんな単語やイメージが脳の表層に飛び交うのをどうにかしようとしているうちに、ヤベは思いついたように壁から背中を離し、身をかがめて階段を眩しそうに見上げて言った。
「パンツ見ようぜ」
僕たちは階段の下の花なき花壇に座り込み、女子高生が来るのを待った。
三十分経った。女子高生は現れなかった。女児もOLも女工も公爵夫人もコギャルもマゴギャルも渋谷系も裏原系もセムハム系も単斜晶系も微分可能力学系もアンドロメダ座星系もアムラーもシノラーもカバラーもアメン・ラーもラメン・バーも、真夏の夜のティターニアどころかアメノウズメさえも来なかった。クレオパトラも楊貴妃も小野小町もメじゃないわ、と歌うお方が僕の初恋の相手だったことはさておき、夏休みにも女子高生たちがウエストを折り込んだスカートを履いているのかはわからなかったし、そもそも日中に多くの女性が出入りするような路地ではなく、今を時めく女子高生ならなおさらだろう。
「来ねぇな」
つまらなそうにヤベが言い、僕は頷いた。「そろそろ帰ろうか」と言うつもりはなくなっていたが、さりとてヤベを誘うべき次の場所がわからない。Rムハウスか、Jョイか、Sータか、Rーメン南紀か。二人ともPニーランドを心から楽しめる年齢はだいぶ過ぎていたし、ミニ四駆の流行も『スト』の大流行も遥か昔に過ぎ去ってはいたが、先ほどの『ひばりや』での会話の方向性を考えれば、埃を被った懐かしきプラモデルを彼の地で漁ってみるのも一興ではあるのかもしれない。必ずしも感じがよいとは言えないエプロン姿の小柄な店主はまだ生きているのだろうか――。
そんなことを考えていると、ヤベの口から思いがけない言葉が当たり前のように飛び出した。
「プリクラ撮ろうぜ」
「え?」
プリクラ。知識としては知っていた。というか、まさに今朝、S玉新聞の7面あたりのコラムで眺めてきたばかりだった。曰く、正式名称『Pント倶楽部』、自分の顔写真をシールに置き換える機械、女子高生を中心に、昨年七月の発売以来、もはや現象と呼べるほどにブーム、云々。知識として知ってはいたが、現在のアンダーグラウンドな状況とプリクラというオーバーグラウンドな単語が結びつかず、整合性を求めて僕のニューロンは活発な活動を始めた。
僕の脳内でせわしく明滅する有機交流電燈など気にもせず、いてててて、と顔をしかめながらヤベはラジオ体操の要領で背筋を伸ばして腰を捩じり、アルミニウム製の手すりを頼りながら当たり前のように階段を登っていった。僕は慌ててゴミ箱に缶を捨て、ヤベの後を追おうとして背中が軽いことに気づき、花なき花壇に忘れかけたリュックを拾い上げ、躓きながら階段を上がった。体勢を立て直しながらふと見上げれば、地上に立ったヤベの背中の向こうの空はやけに眩しく、僕は思い切りくしゃみをした。
◆
よく見なさい。見ようとしなければ、見えないものばかりなんだよ。
シブキ先生の言葉が、穏やかで深みのある声とともに脳内で再生された。イニシャルのような名称のゲームセンターの一階で度の強い僕の眼鏡の前に蠢いていたのは根暗な男子大学生でも得体の知れない不良たちでもなく、高等學校所属的桃之夭夭制服誘惑天仙娘娘梨花帯雨的女子生徒、すなわち女子高生たちだった。
アムラーやコギャルと呼ばれるような派手な姿こそ見えなかったが、それなりに大人でそれなりにお洒落な私服勢、見ようとしなくても中身が見えてしまいそうな短いスカートを履いた制服勢、それからなぜか色とりどりの浴衣勢。大群と呼ぶほどでもないが、アンダーグラウンドなゲームセンターの印象を覆すには充分な数の女子高生たちがきゃっきゃと蠢いており、彼女たちの列の先にはかわいらしい一基の筐体が誇らしく輝いていた。
それが――見えるか、友よ、弟よ――噂のプリクラだ。
いつの間にこの場所はこんな場所になっていたのだろうか。なぜ僕にはこの現象が見えていなかったのだろうか。どうして彼女たちは夏休みなのに制服を着ているのだろうか。プリクラを撮るためにわざわざ浴衣を着てきたのだろうか。やはり皆プリクラ帳とやらを持っているのだろうか。あの台はなんなのだろうか。どうして僕はここにいるのだろうか。僕はここにいてもよいのだろうか。どうして生きているのかこの俺は。
そんな無数のクエスチョン・マークといくらかの『唄』で脳内を溢れさせながらきょどきょどしている僕とは対照的に、ヤベは慣れた様子でUの字になっている列の後ろに並び、顎を上げて両手のひらを顔に向けてぱたぱたと扇ぎ、女子高生の甘く爽やかな匂いを鼻腔の奥に吸い込ませていた。
「ヤベは」
活気のある列の流れに合わせて歩を進めるヤベに追いつきながら話しかけようとして、声が裏返った。
「あ?」
ヤベは呑気な顔で振り返り、僕は咳払いをして言い直した。
「ヤベは、プリクラって、撮ったことあるの?」
様子を見ればそうとしか見えないことはわかっていた上での間抜けな質問であり、「プリクラ」という単語を発するときに妙な力みが加わってしまったことも承知はしていたが、他の質問が思い浮かばなかったし、そのようにしか発音できなかった。
「おう」
当たり前のような答えが当たり前のようにあっさりと返ってきて、僕はAとOとHが混ざったような変な擬音を発することしかできなかった。ヤベは僕から発された奇妙な音を気にかけず、嬉しそうにきょろきょろと女子高生を眺め回していたが、やがて気がついたように僕を見て、言った。
「あれ、お前、ないの?」
今度はYとUとGとNが混ざったような音が出てきたが、いずれにせよ僕は頷いてはいたし、ヤベも音声は気にせずにその意味を自然に理解はしたようだ。続いてヤベは、爆竹のような破壊力のある単語をあっさりと発した。
「じゃ、童貞か」
ずん、と胸と胃にくる単語だった。D-O-U-T-E-I。童貞。正確な発音は「ドーテー」であり、控えめな思春期を迎える頃に国語辞典でその単語の意味するところを調べたことがある人間も少なくはないだろう。
少なくはない人間のひとりだったのか、ざわめきの中から耳聡くその単語だけを拾って反応したかのように、前に並ぶ私服の女子高生のひとりが心なしか振り返り、心なしか侮蔑的に僕を見下ろして片頬を歪めて嘲笑ったような気がしたが、清潔感溢れる爽やかな半袖のニット姿とそうした悪意の表出には整合性がなかったし、冷房が急に強くなったような気がしたことも含めて僕の気のせいではあったのだろう。いずれにせよ僕の頭の中にBOWYの『FUNNY-BOY』が流れ始めていたことは間違いのない事実だ。強いストレスや不安を感じたときに脳内で自動再生される曲のひとつだが、このときは歌詞が少しだけ改変されていた。バイバイ、チェリーボーイ。
次に再生が始まったのはデランジェの『LULLABY』であり、これは「心なしか」という言葉に脳が反応して歌詞データベースまたは音声データベースと照合し、気を利かせたつもりで流してくれたのだろうが、そうなると今度はまたBUCK-TICKに戻って『MOON LIGHT』か『LOVE ME』あたりが始まるのかもしれないにせよ、僕の脳内で密やかに進行しつつある八〇年代メドレーとの交点を見失ったまま九〇年代の行列はきゃっきゃと進み、いつしか僕たちは九〇年代的としか呼びようがない、パール・ホワイトとブライト・ピンクを基調とした、ポップな筐体の前に辿り着いていた。
◆
すべては箱である。結局はそういうことだった。目の前の対象がいかに複雑に見えようが、いかなる名称と意味と色彩と運動を有しているように思えようが、現実存在が現実存在である限り、空間という箱の中の物体という箱として捉えることができる。
キムラ先輩の教えをもとに僕なりに発展させた哲学はそういうものであり、その細く長いひとつの道筋が見えて以来、僕はやたらと――物質的にも、想像上でも、ときに記号的に、ときに消失点に向けて――箱を描く人間になった。雨の日も、風の日も、雪の日も、ときとして槍の日も。病めるときも健やかなるときも、日照りのときも寒さの夏も。ときには画用紙に、ときには教科書の隅に、ときには真夜中の団地の砂場に、ときには誰もいない放課後の教室の黒板に。あるときは喜びに満ちて、あるときは迷いの中で、あるときは怒りと憎しみに任せ、あるときはおうおうと慟哭しながら。あるときは存在の無常に思いを馳せ、あるときは肉体と重力の呪縛に絶望しつつ、あるときは現前する世界の美しさに驚きながら、あるときは垣間見える彼方への憧憬を込めて。
描き続けてきた箱がすなわち僕であると言っても過言ではない、とまで言うつもりもないが、ともあれその哲学に従って現在の状況をおおまかに捉えるとこうなる。
日常的にはゲームセンターと呼ばれるような箱の中に無数の細長い箱があり、そのうちのふたつは日常的にはヤベ、そして僕と呼ばれるような箱だ。僕という箱がすなわち視点の在り処でもあるのが多少厄介ではあるが、ともあれ箱ではある。ヤベという箱と僕という箱の前に――便宜的に「前」と呼んでおくが、宇宙空間中のX、Y、Zで絶対的にその位置を同定することは可能だし、地球上の緯度と経度で指定することも――北緯三五度四九分、東経一三九度三四分といったところだろう――可能だし、あくまで任意の点に対する相対的な位置関係ではあるが――と、二重のダッシュで元がわからなくなりそうなので言い直せば、ヤベという箱と僕という箱の前に別の箱があり、その別の箱は日常的にはこう呼ばれるような箱ではある。『Pント倶楽部』と。それだけの話だ。
問題は、と僕は思う。「それだけの話」が僕を大いに戸惑わせているということだ。どうして僕は戸惑っているのか。
まず、「日常的には」ではまるでない。口に出すのが憚られる単語ではあるが、僕は少なくとも「プリクラを撮る」という行為に関してはD貞である。少なくなくともD貞ではあるが、ともあれそれは客観的な事実として認めるし、今まさにD貞を卒業せんとする状況を「日常的」と捉える人間がいたならば、心の機能に欠陥があるに違いない。僕の心に欠陥があることは否定しないが、少なくともこの件に関しては健全に機能しており、今の状況を「非日常的」と捉えている。
そして、その「非日常的」な状況がラブ・ストーリーのように突然に、かつふたつ重なって訪れたということだ。そもそもヤベに誘われ、行動をともにすること自体が「非日常的」だったわけだが、時間の経過といくらかの行動によってそちらにはいくらか慣れつつあった。ようやくひとつの「非日常的」に慣れ、精神の均衡と平穏を取り戻してきたところに、想定だにしていなかった別の「非日常的」が訪れた、というのが現在の状況であり、疲弊した僕の脳には情報処理がしきれていない。
さらに、ヤベと僕という箱をとりまく、無数の箱どもの存在である。「女子高生」と呼ばれるような箱どもではあるが、その箱はなにか心の繊細にして傷つきやすい部分や身体の勇猛にして滾りやすい部分をもぞもぞとざわめかせる声を発しており、箱の上部の小箱からは箱としては捉え難いきらきらさらさらとした触り心地のよさそうな「髪」と呼ばれるであろう糸状の物質の集合体が馨しげに流れており、箱として捉えるには複雑すぎるしなやかでおそらくはやわらかな「身体」からよい匂いを漂わせており、正直に言おう。まったく箱には見えない。「女子中学生」さえ箱として見るどころかまともに正面から見ることさえできないのに、進化ヴァージョンの「女子高生」に取り囲まれており、団地の遠くの階段から微かに聞こえる女性らしき靴音だけでも壊れそうなほど狂いそうなほど切ない夜のように蒼く張り裂けそうに反応してしまうというのに、なんなんだこの状況は。
動揺しないわけがないだろう、と激怒してしまいそうな僕をよそにヤベは寛いだ様子で楽しそうに百円玉を三枚――うち二枚は僕が出したものだが――ちゃこんちゃこんちゃこんとスロットに入れ、「好きなフレームをえらんでね」などとなぜか馴れ馴れしいタメ語でフレームとやらの選択を求めてくるジャックフロストの指示に従ってい――
――ジャックフロスト? どうしてきみがこんなところにいるんだい? きみはご機嫌に吹雪を吹き散らしてホーリータウン・エリアを凍りつかせ、毒ガスを撒き散らす邪龍バジリスクと共に悪意なくミレニアムの人々を困らせているんじゃないのかい?
その口癖から「ヒーホーくん」とも呼びたくなるような、ラピス・ブルーの二股のジェスターハットをかぶった二頭身の雪だるまは、壮大かつ崇高にして偏執的な狂気に憑かれたテレビゲームシリーズ、『女神転生』に登場する悪魔――仲魔でもあるが――であり、どちらかと言えば、どちらかと言わずとも、女子高生たちの世界ではなく僕たちの世界、じめじめと暗く腐った憂鬱な僕たちの世界に所属しているキャラクターであるはずだった。
もちろん僕には親しみのある、ありすぎるぐらいあるキャラクターであり、どのぐらいあるかと言えば、友人たち、正確に言えば知人たちへの年賀状に、受け取り手の知識や好みや宗教や政治信条も気にかけず、あれこれのポーズのジャックフロストを――時おりハロウィンお化けのジャックランタンも交えながら――描きたいがままに描きまくって送りつけたことがあるぐらいには親しみがある。
今思えば年賀状を書きたかったのではなくジャックフロストを描きたかったのかもしれず、一方的な形ではあれ誰かとなにかを共有したかったのかもしれないが――なにかが違う。ジャックフロストよ、きみは「このままプリントアウトしていい?」だの「アイディア次第でいろいろ貼ってね」だの「おんなじシールをもう一回つくろっか?」だの、妙に歪んだ機械音声で不自然なほど親しげに女子高生に語りかけるようなヤツだったのか? 僕たちの仲魔ではなく、彼女たちの仲魔として後列からしれっとブフーラを吹きかけてくるようなヤツだったのか?
ジャックフロストという新手のスタンド使いによる思いがけない攻撃を受けた僕の混乱はといえば、好きなフレーム? 俺の顔を全部隠すようなフレームだな! などと脳の一部分では強気で思いながら、関係ない漫画のイメージが脳内に紛れ込んできたことさえ気づかないほどであり、新聞の様々な文言とともに、脈絡のないあれこれのヴィジョンが脳を満たしていった。
フレームが二十七種類、もう当たり前っていう感じよね、手帳にたくさん貼るの、温床にテレクラ「援助交際」、一枚三百円で、小学生にまで覚醒剤、四千台弱を製造し、身勝手な大人が被害拡大、渋谷のセンター街で、部員をトランクス一枚に、画面で表情を確認した上で、女子高生相手にみだらな行為、遊び感覚と自己表現求め、勤め帰り狙い「おやじ狩り」、シールを手にした気持ちも、「まだ体験してないの?」が圧力に、中学生に売春あっせん、中学教諭「殺すぞ」と手紙、のれん状のシートをくぐり、背後には暴力団、朝霞の暴走族解散届け提出、中2女子いじめ自殺、楽しいシールを作る演出も、ごみ集積所に女児死体、カイワレは安全、町長「原発と共生せず」、裸の男性転落死、丸井の出店決まる、中国また核実験、朝鮮人生徒への暴行続発、登校拒否最多の八万一千人、宮崎被告公判、ミニシールが十六枚、六割が自殺考える、バブル余波ここにも、チョベリバーってなに、雨を呼ぶ巨大竜蛇、フロアレディ大募集、光とともに爆発音、女子高生数人にカマふりかざす、秩父でオウム信者水死、届かぬ密室の悲鳴、監督の怒り渡辺久に、貼れば友情の証――。
キマイラのような雑多なイメージは積み重なってやがて奇怪なキングフロストを形成し、それから、崩れた。
ニュートラル。ロウとカオスに引き裂かれたニュートラル。季節外れの真っ白な雪化粧に覆い尽くされた僕の脳内からは、「ポーズが決まったら、ボタンを――」あたりで外部世界の視覚情報と音が消え、最後に覚えているのはなぜか、がらんとした脳内にぽつんと響いたこんな言葉だった。
おれはひとりの修羅なのだ――。
◆
――記憶が戻ってくるのは、ヤベからひょいとなにやらのシートを手渡された辺りからだ。じんわりと焦点が合っていったそれは、半分に切られたであろう形跡のあるシートで、さらに見れば八枚ほどの証明写真のようなものがついており、なんだかよくわからない飾り模様の中心に収まっていたのは、斜めに構えて片頬で不敵に微笑むヤベの顔と、ブフーラでかちかちのフリーズ状態になったかのように表情のない眼鏡の男子の真正面からの顔、すなわち僕の顔だった。
こうやって眺めるとなんだかんだ男子中学生の顔ではあり、モザイクをかけるほどにはひどくもないのかもしれない、なんてことをふと思いつつ、僕が写っているということはひとまず無事にプリクラを撮り終えたということではある。数分前まで僕たちがいたはずの筐体前の空間を振り返れば、ジャックフロストが引き続き親しげな声できゃっきゃとした女子高生たちに話しかけており、ということは僕が混乱のあまり暴れ出して筐体を破壊したということもないようだ。
そうか、と僕は、不思議と平静で、少しだけ爽やかな気持ちで頷いた。そうか。
終わってみれば呆気ないものであり、自分がなにを恐れ、なにをためらい、なにに動揺し、なぜに混乱していたのかもわからない。どうということもないものではあり、どうということもないなりに、少しは楽しかったのかもしれない。また撮りたいかと問われれば、「機会があればね」程度ではあるが、今度はもう少しまともな表情で写れるのだろう。いずれにせよ僕は人生で初めてのプリクラを撮り終え、なるほどプリクラとはこういうものか、というひとつの確かな知を得て、ひとつの新しい行動様式を身につけ、ひとつの証拠としてプリクラシートを握り、ひとつの新しい地平に立ってはいた。僕はもう童貞ではなかった。
この件に関してはね、と保留をつけつつ筐体の上方に視線を向け、なるほどアトラスとセガか、馴染みのない世界の話ではなかったんだ、と納得し、でも女子高生たちはジャックフロストの名前は知らないだろうな、同じ世界なんだか違う世界なんだか、と苦笑しながら首を回して童貞卒業の立役者の方を眺めれば、ヤベはハサミ台の横で浴衣姿の女子高生たちに話しかけていた。
俺が切ってあげるよ、浴衣じゃ切りづらいでしょ、あ、関係ないって? でもほんと浴衣かわいいね、うん似合ってる、ほんとだって、俺嘘ついたことないもん、三つに分ければいいの、十六って三で割ったらいくつ、ちょうど一枚余るんだ、じゃあそれは俺がもらうね、いいでしょ、やったあ、あとで俺たちのもあげるね、俺切るのうまいでしょ、でも俺ほんとは左利きなんだよね、変わってるでしょ、よく言われる、鋏は切りづらいから右なんだけどね、はいできた、かわいく切れてるでしょ、でもやっぱりプリクラより本物のほうがかわいいね、浴衣も似合ってるし、大人っぽいし、でも制服も似合いそう、どこの高校行ってるの、頭いいんだね、高校って楽しいの、おねえさん達がいるなら俺もA西目指そうかな、勉強難しいの、俺バカだからさ、高校どこも受かんなそう、そう中三、受験生、やる気ないけど、今度勉強教えてよ、おねえさん達が教えてくれたら俺すげえ頑張れそう、全教科五百点ずつぐらい取れるかもしんない、やばいよね、人間の限界を超えてしまう、ねえ年下ってアリなの、今度合コンやろうよ。
くすくすと笑うA西生たちに、ヤベが訊ねた。
「ところでさ、なんで浴衣なの?」
A西生たちは相変わらずくすくすと笑いながら顔を見合わせ、ひとりが答えた。
「おまつり」
◆
「お前、今日祭りあるって知ってた?」
マックシェイクをずずずっとすすり、テーブルの向かい側のヤベが訊ねた。
「心のどこかでは」
チキンナゲットをバーベキューソースにつけんとする自分の指先を見つめながら、テーブルのこちら側の僕は答えた。昼食どきはとうに過ぎていたが、冷房の効いた店内は僕たちと同じような人種なり、夏休みの母子なりで充分に賑わっていた。
I袋やS林公園へと行き交う私鉄ががたがたと頭上を過ぎる地下道をくぐり、息が詰まるような午後の熱の中を走り、ギリシア文字をロゴとする二階建てのショップで中古のコンパクト・ディスクとゲームソフトを眺めたあと、Mタードーナツの甘い匂いを嗅ぎつつルーフ付きの屋外型エスカレイターをデック部分まで上がって僕たちがやってきたのは、煉瓦色の建築に七階まで登るシースルーのエレヴェイターがひときわ目立つ総合的商業施設、『Lポート』だった。
『Lポート』という単語を発するときに、心ときめかない地域住民はまずおるまい。よくわからない構造で連結された所帯じみたショッピングセンターの『Dエー』も隣にあるにはあるが、それよりもなによりも洗練されたハイソサエティな生活を約束する『Lポート』である。近年は最上階に映画館まで設置された時代の最先端をゆく超高級デパートメントストアで、そこにあるのは夢、ときめき、きらめき、誇り、知性、品性、感性、悟性、文化、教養、娯楽、美食、悦楽、官能、成功、未来、要するにこの世界の真なるもの、善なるもの、美なるもの、快なるもののすべてであり、さすがに誇張が過ぎたことは反省するが、誇張せずとも周辺を含めた地域の顔を担うに充分な商業施設であるのは間違いない。沿線で考えれば、I袋、K越、その次ぐらいの中心地ではあろう。
その他もろもろあれこれと思うところはあるのだが、話を二階のMドナルドに戻そう。ヤベはふやけたマックポテトを摘み、僕はバーベキューソースのついたチキンナゲットを口に運んだ。
思い出してみれば、母親がマグネットで冷蔵庫に貼りつけたであろうチラシなり、なにかを語りたそうでなにも語らない弟の眼鏡の奥の瞳なり、出がけに見かけた名店街の催しらしきものなり、どことなくいそいそとした学童保育の児童の群れなり、祭りの開催を告げる情報はそこかしこに散りばめられていたのかもしれない。そもそも地元と言えば地元の行事ではあるし、メインとなる会場は残念ながら僕たちの母校ということになってしまいそうな中学校の校庭ではあった。開催を知らない方がおかしいような状況ではあったのだろうが、人間は自分に関係ないと思う情報はあまり拾わず、記憶しないものなのかもしれない。
「知ってたんなら、言ってくれりゃいいのに」
ヤベはマックポテトの入った口を手で覆いながらもごもごと言うが、ヤベもヤベで開催を知るべき機会は僕と似たようなものではあったはずだし、情報を拾わず記憶しなかったことには彼なりの意識の作用というものがあるのだろうが、どんな意識なのかは僕にはわからない。
いずれにせよ、一緒に行こうよ、ベル番教えてよ、というふたつの願いをどちらもくすくすとあしらわれながらもヤベが浴衣姿のA西生たちから聞き出したところによれば、今日の午後八時からメインイヴェントである花火の打ち揚げが始まるということではあり、まだまだ時間はあったというか、ありすぎた。そんなわけで僕たちは、ひとまず午後二時半の『Lポート』にやってきて、『ひばりや』以来の食物を思春期の胃袋に収めることにしたというわけだ。
これからどうしようか、と訊ねようとして僕が顔を上げるとヤベはすでに立ち上がっており、口をもぐもぐとさせたままトレイの上のあれこれをゴミ箱に流し込んでいた。僕は慌ててチキンナゲットの最後のひとつを口に投げ込み、味の薄さと飲み込みにくさに焦りすぎたことを後悔しながらひと通りのゴミを処分し、すたすたと自動ドアを出ていくヤベの後を追った。
エレヴェイターの眼下に遠ざかる町を見下ろし、六階のゲームセンター『Cロット』を覗くだけ覗き、五階に降りて『S星堂』でCDを手に取っては戻し、『R-INN』で弾けもしないギターや読めもしないTAB譜を眺めた。ヤベは興味深そうにZOOMのドラムマシンをどんぱんと触り、僕は壁にかかったハート模様の黄色いモッキンバードをじっと見つめ、さらさらした金髪の店員は嬉しそうに僕たちを眺めていた。
だんご屋の香ばしい匂いを感じ、ずらっと駐まった自転車を横目に『Lポート』を離れ、夏の風を受けながら長い坂を下り、自転車を押してY瀬川駅の駅舎を抜け、買い物袋を提げた人々をよけながら若葉のロゴの『Sット』の前を過ぎて、『Pモール』のウェルカム・アーチをくぐった。
『Sスポ』からは冷えた空気とともにグラブの革の匂いが漂い出し、レコード店、カメラ店、婦人服、子ども服、手芸店、家電店、そんな店々を通り過ぎ、相変わらずあまり感じのよくない『Pニーランド』の店主はそれでも懐かしく、あそこコバヤシ先輩の父ちゃんが経営ってんだよな、とヤベは二階の喫茶店『M』を指し、僕は『Mかわ書店』の倉庫で父親が働いていた頃のことを思い出し、向かいの文具店『Fガロ』にかつて存在したかもしれない女子たちのささやかな夢ときらめきを思いつつ、誰かが吹いたしゃぼん玉が風に流れるのを目で追いながら、つくつくぼうしの鳴く中央の銀杏の木と煉瓦調の円形のベンチを回り込み、とんかつと中華料理と魚介とお茶の葉とベーカリーの香りをあとに、モールの端のアイスクリーム店『Cリームソーダ』に入った。沖縄生まれの店主ご夫婦は昔と変わらず、優しくきらきらとした瞳をしていた。
口に甘さと冷たさを残しつつ、ヤベはあやふやな歌詞で『サマーヌード』を調子外れに歌いながら、僕は公園の木々を抜ける光の眩しさにくしゃみをしながら『Sニュータウン』を走り抜け、洲で遊ぶ母子を左に見下ろしながらきらめくY瀬川を越えてS大橋を渡り、大型車が熱い排気ガスを吹きながらガタガタと行き交う国道沿いを『Y田うどん』を過ぎてさらに上流に走り、カラオケとビリヤードの『Bくりハウス』を二階に有するゲームセンター『Gワールド』でハニーを取って二人でパンツを確認してからリュックサックに大事にしまい、水のない貯水池の脇を回って土手に辿り着く頃には、打ち揚げまでは残り三時間半になっていた。
◆ ◆ ◆
「脚細いよな。胸も小さいけど」
草の匂いの風が吹き、高水敷には僕たちの背後の鉄塔が長い影を落としていた。富士見線7号。そんな名前の鉄塔だ。たいていのものには名前がある。知ると知らざるとに関わらず。
僕たちの議題は学年で一番かわいい女子を決めようとするものに変わっており、オオトモさんはどうだろうかという僕の提案に対するヤベのコメントがそれだった。ヤベのコメントも否定できないが、オオトモさんのかわいさも否定できず、そうでなければ吹奏楽部の部長は勤まるまい。吹奏楽部に外観で部長を選出する制度があるのかは知らないが、毎年の体育祭や文化行事を眺めるに、そういう傾向があることは観察できる。
「キクチさんは?」
「あの子んちのラーメンはまあまあ美味いよな。他のもん喰ったことねえけど」
僕たちの地理的状況について非文学的な説明を試みるならば、こういうことになる。東から西に向けて、団地と住民施設、右岸、川、左岸、工場および資材置き場等、国道、倉庫および物流センター等、斜面林、台地、畑および一戸建ての住宅地。論理的には説明不要だろうが、川は当然南から北に向けて流れており、全体としての地形も北に向けてゆるやかに下っている。地図を描いて説明してもよいのだが、プライバシー保護のために地図にモザイクをかける必要があるし、モザイクをかけた地図に、あるいは地図のモザイクを除去する作業に興奮できる性癖をお持ちの方が多数派とは思わないので、割愛する。四つの市町の境が集中する地帯でもあり、正確な説明は放棄するが、いずれにせよ僕たちの町は川の東側ではある。
ヤベと僕は左岸、すなわち町の反対側の土手にいて、食品工場の背中の配電設備や空調ダクトを眺める趣味もないので、川および対岸の団地――賃貸側の四、五、六街区だ――に顔を向ける斜面におり、ヤベは両手を枕にして寝っ転がり、その左隣、すなわち北側で、僕は傾斜に合わせて角度を調整した体育座りをしている。二台の自転車は工場裏の鉄柵の脇に仲良く駐めてあり、僕たちはほどよき暑さの工場の日陰に陣取っている。そんなところだ。
「クロカワさん」
「頭おかしいよな、あいつ。嫌いじゃねぇけど」
対岸の土手の向こう、すなわち四街区の南には、下流から上流に向けて、三階建ての小学校、四階建ての中学校、五階建ての高等学校と、多少の間を空けながらもほぼひと揃いの教育施設がひと連なりに並んでいる。一貫校というわけではない。他地域からの流入による人口の急激な増加に合わせて立て続けに開校した――させざるを得なかった――公立の学校群だ。当然教員どももどこの馬の骨とも知れない連中を無理矢理かき集めたわけだが、その言い方はいくらなんでも失礼だ。馬ほど優しく賢く美しく、自由で気高い生き物はそうそういないのであり、教員なんぞとは風する馬牛も相及ばずといったところだろう。教員どもに馬と鹿の見分け方を教える必要はあるだろうが、馬の馴致より遥かに骨の折れる不毛な作業になるのは間違いなく、死に馬に鍼刺すようなことはやめて、予後不良扱いをする方が賢明な判断ではあるだろう。
「ヤマモトさん?」
「誰それ」
「背の高い子」
「ああ、あれな。バレー部の部長だろ」
「たぶん」
「かわいいか、あれ?」
そう問われると答えに窮するが、ヤマモトさんのいつもにこにことした朗らかさを僕は評価する。僕に評価されて嬉しいかは知らないが。
僕たちが通う麗しき学舎は、三つの校舎のちょうど真ん中に位置している。Z市立T小学校でもなく、S玉県立Z北高等学校でもなく、Z市立第四中学校だ。開校順に無印、二、三、四、五、六と無造作にナンバリングされただけの粗雑な校名ではあるが、中身と比較すればもったいないぐらいに丁寧に考え抜かれた美しい校名とは言える。「叡智」という言葉が校歌には含まれているが、そんなものを求めてこんなところにやってくる人間がいたならば、相当の変わり者と、より正確に言えば気が狂っていると見なさざるを得まい。だったらU野動物園のサル山でも探した方が、よっぽど望みに近いものが手に入るだろう、と関係者は語る。U野まではS駅から急行に乗って終点のI袋で降り、丸い緑のY手線に乗り換えるだけでいい。一時間もあれば充分だ。
「生徒会長とか」
「お前も生徒会長好きなの? 生徒会長はマコトだろ?」
マコトは三組の男子生徒で、色白でふっくらとしていて、団地住民で、母親が韓国人で、生徒会長に片思いをしていた。あだ名があるならば「韓国人」か「生徒会長」だったが、たいていの男子は普通に「マコト」と呼んでいた。
「そういうわけじゃないけど。あくまで客観的にね」
僕は客観性を大事にする人間だ。
カマボコ型ではない北高の体育館の手前には、川縁の雑木にところどころを遮られながら、僅かなアーチを描いて水平方向に広がる一本の白い筋が見える。『ふれあい橋』という名の橋長一二〇メートルほどのほっそりとした橋梁がその正体で、一九九N年の落成以来、川を跨いで飛び地的に市域および学区となっている地区の生徒たちは、長々とした通学路の最終通過地としてあの橋を渡って四中に通っている。歴史的には飛び地どころかひとつの中心地であったような伝統的な地区なのだが、産業構造や人口動態や交通の変化によってなにかにと変容があり、場合により不便を被っているということなのだろう。少し大きめの地図を広げれば、さつまいもとイノシシの合成獣のような形の県域の鼻面にはやたらと濃ゆいC父地方というかC父国が聖なるB甲山に抱かれてどっしりと構えているのであり、S玉県やZ市もそうそう単純ではないのだ。
橋には橋脚の真上に二ヶ所のバルコニー的な膨らみ部分が設けられており、川と団地とニュータウンと鉄塔と電線を眺められるベンチも用意されてはいるが、脳のどの部位に欠損があればこんな風景をとっくりと観賞したいという常軌を逸した欲求が生ずるのかはわからない。
とはいえ、生活にいくばくかの潤いなり心安らかなるひと時なり語らえる場所なりを、という設計者のロマンティックな感傷には――たとえそれが現実から三光年ほど遊離したものだとしても――共感するところもないでもない。少なくともひたすら殺伐とした思想に基づいて設計されるよりはよっぽどマシだろう。
僕はといえば昨年の十二月のある夜、諸事情によりクラスメイトの某を殴ってやろうとザ・カクテルバーの空き瓶を持ってあの橋で待ち構えていたことがあったが、結局某は現れず、寒くもなれば馬鹿馬鹿しくもなってきたので帰宅した。設計者が予期しなかったであろう平和ならざる橋梁の利用法ではあるが、完全なる他人事として眺めるならば、八割の滑稽さの中に二割のロマンティックが含まれていた光景だったとは思う。ロマンティックは常に痙攣的なものとは限らないが、予期の外に――しばしば滑稽を伴いながら――生ずるものではあるだろう。ザ・カクテルバーという銘柄選択のレアリスムが我ながらよい。味はブルーハワイだったはずだ。
僕の視力ではここからは見えないが、アルミニウム製の茶色い高欄には鳩だかなんだかの鳥たちのレリーフが飾ってあり、橋全体で百八羽というのがその正確な数だ。なにを思って人間の煩悩と同じ数にしたのかはわからない。
イニシャルにして隠すまでもない善良かつ凡庸な橋名は、小学生の頃に隣のクラスの進化途中の類人猿のような容貌の男性教諭の命名が公募で採用されたものだった。名称は当然、時代的な「ふれあい」とやらの欠如とやらを陰画として示すわけだが、それはさておき自動車交通を排除した歩行者および自転車専用の橋梁としたことは評価する。自動車道路橋としたならば、国道やインターチェンジ絡みの交通量の多い上下流の橋梁の抜け道として使用されることはまず間違いなく、地域住民の静穏な住環境および学生や生徒諸氏の交通の安全を確保することはできなかっただろう。凡庸ではあるがよく考えられた必要な橋であり、地域社会および景観との調和のとれた良橋と呼んでよかろう。
「――」
僕は言葉を発そうとして、やめた。先ほどから挙げている女子生徒たちの中には、僕の母校であるT小学校の出身者は含まれていない。これには事情があり、団地の三街区以外の住民児童は自動的にT小に通うことになるのだが――三街区住民は『リバーサイド』住民ともどもZ小行きだ――少なくとも僕たちの世代では比較的容姿の良好な女子たちはそれが美しさのステイタスであるかのように、競うように次々に地域外へと転出していったからだ。サトウさん、マエモトさん、タムラさん、エンドウさん、五年生のときに転校してきて卒業を待たずに去ったナンブさん。僕の同級生でも六年間でそれだけの人材流出があり、隣のクラスも含めれば当然倍にはなるはずだ。初恋の人が転校してしまった、なんていう話はこの団地では当たり前すぎていかなるドラマも発生しようがなく、毎年恒例行事として転校による失恋を経験したところでどうということはない。B・I・N・G・O、そんなところだろう。
容姿を問わなければ流出はさらに多く、異性のみならず同性の友人たちも去っていくわけで、毎年のように「親友」が消えていくこともすぐにどうとも思わなくなった。高学年の頃に僕を中心にアガサ・Cリスティが小さな流行を見せたことがあったが、今思えば自分たちの状況と重ね合わせていたところはあったのかもしれない。
T小卒業女子の容姿に関する名誉のためになにかを言っておこうかと思ったが、まったく面白いものにならなかったから省略する。そんな話をするぐらいなら、九九の暗唱でもしてみせた方がよっぽど愉快なひと時を提供できるだろう。
いわゆる学力等に関しては、少なくとも僕たちの世代のT小出身者はそれほど悪くはないと僕は思うというかそもそも僕が優秀だし、教員どもとは違って無知でも低能でもないから偏差値やらを無条件に信仰してあへあへと汚らわしいよだれとケツ汁を垂れ流し続けているわけでもないにせよ、通りのよい大学に進学する人間もちらほらいるだろう。ついでに言えば、現行の偏差値制度が普及したのは昭和四〇年代以降に過ぎない。大量の情報を処理するにはなにが必要か、と考えればわかる話だ。我々は自分が物心ついた頃からあるものは「これまでもずっとあり、これからもずっとあるもの」と妄信してしまいがちだが、歴史を知ればそんな事実はないとわかるし、当然に変わり得るものだとわかる。
歴史を知らないと目先のことしか見えなくなる。目先のことしか見えないのはなにも見えていないのと同じことだ。大人たちは歴史を知らない。論理的帰結がケツ汁だ。
さて、僕たちの周りから去っていった人間たちは皆嬉々として去っていったわけだが、その中に「踏み台型」と「転勤族」がいたことはわかる。先の女子勢だとナンブさんがそもそも転勤の流れの中で転がり続けてこんなところに辿り着いてしまったはずだ。それはそれで幸福とは思わないが、一般に転勤が生ずるような就業状態というのは比較的経済水準が高いようではある。経済水準の高さと幸福度が比例するかは僕は知らないから訊かないでほしい。
仮に、遠い未来に転勤族令嬢のナンブさんが、「あたしには故郷がない……」と寂しく思うことがあるならば、安心してほしい。この魂が此岸に滞留している限りは僕は覚えているし、あなたのことを好きだったセキネKニヒコくんもきっと覚えているはずだ。ということで、僕たちの心の中があなたの故郷になる――団地の2DKの一階の北向きの四畳半程度の狭く暖かみのないじっとりと湿って黴臭く殺伐として謎の虫も入ってくる眺めと風通しが悪くプライペート性が低く雑然として退屈で空虚で孤独で低俗で時おりはバルサンを焚きたくなるような居心地の悪かろう心ではあるが、それでもナンブさんのためのクッションぐらいは埃とダニの死骸をはたいて用意するし――座布団ではない――畳敷きだからとて座布団を遣っていると思ったら大間違いだ――ご希望ならばフルーチェかゼリエースぐらいはお出しする。それ以上のもてなしは期待しないでほしい。あるものはある。ないものはない。それだけだ。
もっとも、愚かで汚らしい畜群を眺めるかのごとき冷ややかな眼差しで僕たちを眺めていた彼女ならば、懐かしく思い出すどころか人生の汚点として消去してしまいたいような虚しく惨めな日々だったのだろうし、むしろ僕たちの記憶からも完全に消えてしまいたいぐらいではあるだろう。その辺りはご愁傷しゃまとしか言いようがない。人間の記憶というのは、かくたいげんクォタイユェン郭泰源のサイド寄りのスリークウォータースローから放たれる最速一五六キロメートル毎時の速球および多彩な変化球、とりわけスライダーのようには思うようなコントロールが効かないものなのだ。
そんなこんなの僕たちの状況を――ケツ汁ではなくミステリの女王だ――ある程度は理解している教諭もいるにはいたようで、僕は直接は関わったことのない女性教諭だが、小学校の卒業文集では転校していった教え子の名前も「どこかの空の下の」として、マキさん、マミさん、ヒロシ君、フミオ君、云々と連ね――我々の学年における彼女の教え子の範囲内で、六年間で十一人は転校したようだ――さらには二年生の終わりに車で追突されて亡くなった「天国のナツコさん」の名前とともに「卒業おめでとうございます」としている。美しい配慮と言えるだろう。
◆
視線を『ふれあい橋』からぐぐっと下流に戻していけば、濃色に繁る夏の木々と、幼児向けのかわいらしい円形プール付きの中央公園および五街区の始まりとなる団地棟の頭を越して、くすんだ灰色にくすんだ青色の縦ラインが入った、くすんだ直方体のくすんだ給水塔が、くすみをくすませながらくすんだように突き出していた。
多少の相違はあれどだいたいは同じ意匠の建造物に埋め尽くされた団地風景の中で、給水塔はひとり俗にまみれぬ矜持をもって凛として悠然と聳え、というほどでもなく、そもそも凛としてだの爛としてだの陳腐にして双生児的な常套句を散りばめれば「文学的!」になると青洟を垂らしながら能天気に信じ込めるほど僕は趣味のない人間ではないし、「文学!」とやらに女學生的な勘違いをした皮相的にして陰茎包皮的な憧れと妄想と恥垢を抱けるほど教育のない人間でもないが、いずれにせよ給水塔はそれなりの存在感を伴った一点のアクセントにはなっているし、水を必要とする生きた人間たちがそこに住んでいることを機能上自ずから示す施設ではある。強いて故郷の風景ないし共同体の象徴とやらを制定するならば、あの給水塔であっても僕は構わない。
「ワタナベさんは?」
「ルミだろ? あいつ、バカだよな。おっぱいに栄養を取られすぎて頭に回ってないんじゃないのか」
おっぱい、という単語に僕は少し反応しつつ、続けた。
「カミヤさん」
「あの子んち、金持ちなんだよな。父ちゃんが駅前のビルとか持ってんだぜ」
ビルを持っている。賃貸の2DKで弟と二段ベッドを分かち合う僕には想像だにできない世界の話だ。金はあるところにはある。逆も真なり。
そんな富裕層の世界は僕には関係ないからいいとして、僕ばかりが女子の名前を挙げ続けるのもだんだん苦しくなってきた。
「ミヤモトさん、も、かわいいと言えば、かわいくない?」
ヤベはしばらく考え、おお、と感心したような声をあげた。
「ああ、確かにかわいいかもしんない。小学校の頃はクソ地味だったんだけどな。中学入って色気づいて、かわいくなったのかね。まだ彼氏いねぇんだろうけど、髪型変えてちゃんと化粧したら、もっと化けるよな」
それから、ため息をつくような声でヤベは付け加えた。
「あいつ、めちゃくちゃ頭いいよな。いつも上の方いんだろ?」
ヤベはこちらを見上げ、僕は頷いたが、しばらくしてヤベは顔を戻し、少し寂しそうに言った。
「でもあれか、お前も頭いいもんな」
僕は答えられなかった。ヤベはのんびりした声で、空に向かって言った。
「いいよな、頭いいヤツって」
◆
僕はなにを言っていいかわからず黙っていたが、ヤベは気にせずうっとりとした顔で空を眺め、言った。空には輪郭と濃淡のくっきりとした夏の雲がゆっくりと動いていた。
「まあ、テニス部はみんなかわいいよな。キクチさん、カミヤさん、ホソダさん、マコト、それから、ヒロミちゃんも美人っちゃ美人だろ、シライさん、もちろんアイコの方な、シライさんもイヌイさんもミカミさんもいて、ナリユウもまぁ美人だよな、コンタクトにすりゃいいのにな、あと誰だ、エノモトか、まぁいいやアレは、で、転校しちゃったけどヒトツバシさんだろ、あ、ヒトツバシさんが一番かわいかったんじゃねぇか、ちっちゃくて、髪もつやつやのさらさらで、目もきらきらのうるうるだろ、そんで、なに、透明感? 透明感みてぇなのがあるよな、ヒトツバシさん、ああいうのが透明感だよな」
僕は頷きを返し、可憐、と形容を付け加えた。ああ、それかもしんねえ、可憐で透明感だよな、どこ行っちゃったんだろうなヒトツバシさん、もったいねぇ、なんか足りねぇと思ったらヒトツバシさんか、ヒトツバシさんがいなくちゃ始まんねえだろ、とヤベはひとしきり首を捻り、それから空とテニス部に戻った。
「ほんで、ハルちゃんも元テニス部で、ミヤモトもテニス部だもんな。かわいい子しか入れねえとか、決まりでもあるのかね」
「カメイさんは?」
僕の指摘にヤベの幸せそうな顔が凍り、こちらを見て訊ねた。
「あれ、テニス部なの?」
「たぶん。ラケット持ってたし」
「卓球のラケットじゃねぇの?」
希望を込めてヤベは訊ね、僕は否定した。
「あの大きさはテニスだと思う。バドミントン部もないし」
「嘘だろ?」
懇願するような目でヤベは問い、僕は正確に事実を伝えた。
「少なくとも、僕にはテニスのラケットに見えた」
口を開けて息を吸い、非難と絶望の混じった声でヤベは嘆いた。
「マジか。なに考えてんだアイツ」
それは言いすぎだろうと僕は少し噴き、もしかしたら純粋にテニスが好きなのかもしれないし、と前置きをした上で、言ってみた。
「変わりたかった、とか」
ヤベは眉をひそめて目を閉じ、少し考え、眉をゆるめて目を開け、言った。
「ああ、なるほどな。そういう見方もあるか。明るくなりてぇとか、強いグループに入りてぇとか、なによ、自信? 自信みてぇなもんをもって、積極的になりてぇとか、そういうことだよな。そう言われりゃ気持ちもわかるっちゃわかるかもしれねぇな。暗いまんま弱いまんまじゃみじめだし、つまんねぇもんな。まぁ、なに考えてんのかわかんねぇ顔してるけどな」
首を捻るヤベに、僕は思うところを言ってみた。
「でも彼女なりに笑顔を作ろうとしたりはしているんじゃない?」
ヤベはぱっとこちらを見て、驚いたように訊いた。
「あの薄らにやにやしたみてぇな気持ち悪ぃ顔って、そういうことなの?」
僕は首を振り、答えた。
「わかんないよ。なんとなくそんな気がするだけ。あれは彼女なりの笑顔なのかもしれないって」
ふうむ、と唸りながら首を捻り、ヤベは言った。
「彼女なり、ね」
顔を戻し、考え深げに、ヤベはもう一度呟いた。
「彼女なり、か」
◆
高水敷に落ちる影は少しずつ長くなり、風景はゆっくりと黄味を増しつつあった。対岸の桜並木には三種類の蝉が鳴き、川のせせらぎと国道のざわめきに挟まれながら、僕たちは相変わらず土手の斜面にいて、僕は体育座りをして、ヤベは寝っ転がって、なんの因果か自分たちが少年期を生きることになった町を眺めていた。僕は三月生まれ、ヤベは五月生まれではあったが、ともかくも同じ団地に生まれ育ち、僕は賃貸の2DK、ヤベは分譲の3DKの人間という違いはあれど、この町に感じていることはもしかしたらそう遠くないのかもしれない。僕はT小、ヤベはZ小の出身ではあったが、今はどちらも四中生であり、九日後にはZ市立第四中学校での最後の二学期を迎えようとしており、七ヶ月と九日後にはいくらか違う場所でいくらか違った生活を始めているはずだった。夏の太陽はいくらか傾きを増したが、団地は何度眺めても団地であり、四中は何度眺めても四中であり、どちらもどんよりとした色をして、ぼんやりと佇んでいた。
僕は視線を少し手前に戻し、ついでに眼鏡の角度も直し、土手から突き出す妙に堂々とした樋管を眺めながら、なんの気なくふっと呟いていた。
「カネコさん、どうして美術部にきたんだろうね」
「カネコのハルちゃんな。なんでだろうな」
ヤベは意外と僕の呟きを拾い、真剣な顔になってしばらく考え、言った。
「まあ、なんか面倒臭ぇことでもあったんじゃねぇの。女はわかんねぇだろ。仲いいんだか悪ぃんだかさ」
僕は頷いた。見る限りは爽やかそうなテニス部の女子たちも、かわいい顔の背後でなにを考え、見えないところでなにをしているのかは、僕たちにはわからない。時おり見え隠れする綻び――悪意や敵意の表出であり得るちょっとした言動、ちょっとした視線や表情や発音の変化、行事のときの集団の作り方や裏返しの外し方、記念写真の立ち位置なんかに薄い違和感をもつぐらいであり、それ以上のことは女子になってみなければわからないのだろう。
「まあ、確かに美術部って顔じゃねぇな、ハルちゃんは。かわいいもんな」
ぶほっと僕が咳き込んだのは、笑いを誤魔化すためだった。僕もヤベ以外のその他の男子も女子のことをどうこう言える立場ではないが、ヤベの言葉を裏返せばそれが美術部の真実だからだ。遠い目をしてカネコさんの小動物みたいな愛らしい顔を思い浮かべているであろうヤベに、僕はその他の女子たちの擁護を試みた。
「でも、いい人は多いんじゃない?」
「ああ。それは俺も思った。ウチダさんとかも顔はアレっちゃアレだけど、上品っちゃ上品だもんな。でっけぇ家に住んでんだろ? 坂の上の、林みてぇなとこのさ」
ヤベはすんなりと僕の擁護を受け入れてくれ、僕はなぜか一度だけ行ったことがあるウチダさんの家を思い出した。上品に微笑むお母様が、美味しいのであろう紅茶となんだかよくわからない上品そうなお菓子を出してくれる家だった。
美術部な、と苦笑いを秘めながら、どこか懐かしそうに呟くヤベに、僕は思い切って、訊いてみたかったことを訊ねた。
「ヤベは、どうして美術部にきたの?」
ヤベはカネコさんより少し早く、一年の途中で美術部に転部してきていた。
「俺か? 俺は、あれだよ、美術を愛してんだよ。心からさ」
その答えは聞き流すことにして、僕は次の言葉を待った。心から愛している割に、美術室でヤベの姿を見かけることが多かったとは言えないからだ。やがてヤベは口を開いた。
「まあ、美術部だったらのんびりできるだろ? あれこれうるさく言われねぇしさ。そういう方が向いてんだよ、俺にはさ」
それから吐き棄てるように付け加えた。
「球蹴りなんか、くだらねぇよ」
僕は黙っていた。ヤベがレッズのファンだということを知っていたからだ。ヤベは表情を緩め、あくびをするような声で言った。
「まあ、平和だよな、美術部は。平和が一番だぜ」
最後の方は本当のあくびになり、僕は同意した。監獄のような校舎の中で、美術室にだけは自由で、対等で、平和な空気があった。
ヤベは寝っ転がったまま片腕で伸びをし、俺は平和が大好きだぜ、と、もう一度あくびをしながら言い、それから眠そうな顔と声で言った。
「でも、あれは楽しかったぜ。切って貼るヤツ」
僕はヤベが言いたいことを考えた。
「コラージュ?」
「ああ。たぶんそれ。お前、パンク聴く?」
「パンク?」
「ああ。パンクはいいぜ、パンクはさ。パンク聴こうぜ、パンク。お前、MD持ってる?」
持っていない、と僕は答え、ヤベの話を促した。
「ほんで、まあ、コラージュ? あれはパンクだと思ったんだよな。切って貼るだけだったら俺にもできるしさ」
思い出した。確かにある時期、ヤベが頻繁に放課後の美術室に現れ、窓際の工作台に前のめりになって、真剣な顔で作業をしていたことがあった。夏制服の白いポロシャツの記憶があるのだから、おそらくは去年の夏休み前ぐらいの時期だろう。
「あれ、シブキさんが教えてくれたんだよな。やることねぇからとりあえず部活行って、暇潰しに『CanCam』読んでたら、シブキさんが後ろに立ってんのな。腕組みして、変に真面目な顔で、じっと俺のことを眺めてたみてぇでさ。やべぇ、さぼってんの怒られる、学校に雑誌持ってきてんのも怒られる、雑誌没収されたらねえちゃんにも怒られる、って思ったら、シブキさん、なんも言わずに棚みたいなとこ行って、何冊か本みたいなのを持って戻ってきて、俺の隣に並んで座って、いろいろ見せてくれて、ヤベ、こういうのあるけど、お前、やってみないか、ってさ」
シブキ先生。美術の担当教師であり、美術部の顧問でもあった。穏やかで深みのある彼の声は、すぐに脳内で再生できる。精神異常者の病理の発現として職員会議にかけられた僕の絵を、唯一理解し擁護してくれたのもシブキ先生だった。ヤベは両手を頭の後ろから外し、宙であれこれと動かしながら、続けた。
「で、ああ、そういやこういうのあったよな、ジャケットでこんな感じのヤツ見たことあるわ、こういうのも美術なんだ、って思ってさ。ほんで、なに使ってもいいし、なにやってもいいし、上手いとか下手とか気にしないで、お前のやりたいようにやってみろ、って言われて、ああ、そんな感じでいいの、そんなら俺にもできるかも、じゃあやってみっか、どうせ暇だし、って思って、とりあえずやってみたら、けっこう面白ぇんだよな、あれ。なんつうの、ああ、こういう感じだ、俺が言いたいこと、やりたいこと、俺に見えてるもの、俺が感じているのは、こういう感じだ、っていう、手応え? なんかそういう手応えみてぇなもんがあってさ」
僕は相槌を打ちながら、ヤベの話に耳を傾けていた。ヤベの状況は理解できた。僕も似たような流れでパステル画を描くようになったからだ。
「まあ、シブキさんはいいよな」
ヤベはしみじみとした声で言った。
「俺が作ったヤツを見せても、ぐちゃぐちゃ言わねぇで、のんびりした、それでも真面目な顔してじっくり眺めて、うんうん頷いてさ。たまになんか言うとしたら、『お前、本当に、これでいいのか』ってぐらいだよな。で、言われるときって、俺もやっぱり、なんか違ぇんじゃねぇか、でもまぁこんなもんでいっか、みたいにやったときなのよな。なんかそういうの、バレるんだよな、シブキさんには。なんでわかんだろうな。ほんで、言われてじっくり見直して、俺なりにあれこれ考えて、なんかしら掴むもんはあって、次んときはそういうのを気にしてまた作って、またシブキさんとこに持ってってさ。で、まぁシブキさん、やっぱりなんも言わねぇし、変に誉めたりもしねぇんだけど、ちょっと嬉しそうにしてんのがわかんよな。別にシブキさんを喜ばせるためにやるわけじゃねぇけどさ、でもまぁそういうのって、俺も嬉しいじゃん。よし、ってさ」
ヤベは校舎の方に顔を向け、少し寂しそうに微笑みながら、呟いた。
「変な人だよな、あの人」
それから空に顔を戻し、素直な声で言った。
「あの人は、好きかもしれねぇ」
◆
君の涙 最後にする理由は 虹の橋が もうすぐ架かるから
煌めくRainbow 心の奥の 鍵を開ければ 輝くのさ
高水敷の草むらに名前を知らない蝶がひらひらと舞っていた。ときどき刈らなければすぐに繁りすぎるのは植物の逞しさだろう。Aクラスの姐ちゃんたちが放射線を放ち、白いカイトが揺れ、サーファーたちがK奈川かC葉のどこかの波間で夏を歌っている間、僕たちは相変わらずS玉県Z市とM芳町の境のY瀬川沿いにいて、ヤベは相変わらず気持ちよさそうに土手の斜面に寝っ転がったまま、あやふやな歌詞で『STEP』を口ずさみ始めていた。ヤベの調子外れの歌声を聴きながら、僕はいつの間にか失くしてしまっていた金色の空神丸を思い出した。宝物のように思っていたはずが、失くしてしまえば失くしたことさえ忘れてしまう。ヤベにもそういう風に失くしたものはあるのだろうか。土手や芝生に寝転んで、雲の中のラピュタを夢見たことはあるのだろうか。今の僕にはフウイヌムの方がよっぽど恋しいが――。
あ、とヤベが声を出して、歌は唐突に終わった。
「どうしたの?」
「トオル、祭り来んのかな」
トオルは二組の生徒で、髪を真ん中で分けた、にきび顔のにやけた男だ。『スラムダンク』に憧れてバスケ部に入った類の生徒ではあり、一年次は四組でヤベも僕も同級生、二年次もヤベとは同じクラスだったはずだ。便所の前の洗面台で衆人環視の中でやたらと嬉しそうな体育教員の某に――O縄県N帰仁村出身でC京大を卒業して以前勤務していたS玉県内の某中学校の教え子と結婚した体育教員の某に――頭をぐいぐいと押さえつけられて整髪料を洗い流されていたのはトオルではなかったはずだし、学校に履いてきたエアMックスを性質の悪い連中に刈られたのもトオルではなかったはずだ。どこかに連れていかれてどうこうというのも見かけたことはないし、特にいじめられたり万引きをさせられたりしている様子もない。逆に加害者になっているようにも思えず、僕も彼からは被害を受けたことがない。友人は少なからずいるはずだが、度を超した悪ふざけもしなければ、授業が成り立たなくなるほど騒ぎ回るタイプでもなく、一度ぐらいはシメられたこともあるのかもしれないが、自身も比較的平和に生活できており、基調となるべき妥当で自然で朗らかな平和を作っているタイプの生徒ではあるのだろう。平和に生活できないのが当然の前提なのが四中という名の強制収容所であることはさておき、僕は訊ねた。
「どうして?」
「あいつ、返さねえんだよ、『ピザ屋』」
ヤベは不満そうに眉をひそめて言ったが、彼が発した単語に僕の心臓と、身体の末端部分がびくんと反応した。
『ピザ屋』。それは僕たちの文脈では各種の具材およびチーズ等を載せてこんがりと焼いたイタリア由来の円形の小麦食品を提供する店舗を意味するわけではなかった。ある種の映像資料のようなものではあり、そこに記録されているのは、赤いサンバ以下省略する。
それだけならごく普通に巷に流通する映像資料であり、さほど驚くには値しないが、『ピザ屋』の特異性はその編集方針にあり、通常であれば然るべき部分を省略すべきアンダーグラウンドでアナーキーでクリエイティヴィティに富んだ編集方針であり、僕もその噂は聞いていたが、実物は観たことがなかった。その所有者がヤベであり、それが今、トオルの手許にあるとは。
僕は身体の末端部分にある亀の頭のような形をした部位に位置して独立的に機能する第二の脳の反射的で本能的な指令に従ってなにかを言おうとしたが、言い出せなかった。
夏の言葉はどうして言葉にできないんだろう。僕たちは夏を捕まえようとがむしゃらに腕を伸ばし、狂おしい熱と光を追いかける。掴んだはずの輝きは、いつも指の間をすり抜ける。掌に残った一滴のきらめきも、すぐに大気に褪せていく。
何も言えなくて…夏。
そんな僕の戸惑いのときをヤベは振り向きもせずに越えて、おそらくはトオルのにやけたにきび顔――ヤベなら《シコり顔》と形容しそうではある――を思い浮かべながら、うんざりしたような声で言った。
「あいつ、絶対シコりまくってんだろ。ちんこもテープも擦り切れてんじゃねぇのか」
◆
ひと群れの鳥が飛び立ち、川を横切った。ふと気がついたように顔を上げ、ヤベが訊ねた。
「あれ、部活ってもう、引退なの?」
長いこと美術室に顔を出していなかったヤベならではの質問だった。僕は俯き、首を振った。
「それが、わかんないんだよね」
他の学校がどうなっているかは知らないが、少なくとも僕たちの学校の美術部には運動部のような明確な引退はなく、それぞれがそれぞれの都合で引退していけばよかった。卒業後にも来たいと思えばおそらくは受け入れてくれるのだろうし、少なくともシブキ先生は作品を見てくれ、変わらずに頷いてくれるのだろうが。
「お前は?」
「もう行ってない」
「絵は?」
「やってない」
「やめちゃったの?」
「かも。わかんない」
少し焦ったようにヤベは質問を重ね、俯いたまま僕は答えた。終業式の日を最後に僕は美術部と関わっておらず、画材も作品も二段ベッドの下にしまいこんでしまっていた。僕はもう一度首を振り、もう一度呟いた。
「わかんない」
ふうむ、とヤベは息をつき、言葉を選びながら言った。
「お前は、絵、続けるもんだと、思ってたんだけどな」
僕も息をつき、首を振りながら、なんとなく足元の枯れ草を掴んだ。
「わかんない」
ぱらぱらと草を落とそうとして、こちらを向いているヤベの顔があることに気づき、反対側にそっと置いて、もう一度しっかりと体育座りを組み直し、もう一度正直な気持ちを言った。
「わかんないんだよね、ほんと」
それから付け加えた。
「親からも、文句言われてるし」
「なんて?」
「フィキサチーフが臭いって」
言われている文句はそれだけではなかったが、ヤベは少し驚いたように僕を見上げた。
「そんなに臭ぇか、あれ? 俺、けっこう好きなんだけどな。乾いてきた頃とかに、けっこうくんくん嗅いじまうんだけど。あの匂い嗅ぐと、美術やってる! って感じしねぇ?」
ヤベの意見には同意しつつ、母親の顔を思い浮かべ、投げつけるつもりがとんでもないところに飛んでいったフィキサチーフの缶を思い浮かべ、僕は首を振った。
「わかんない。でも言われた」
「ベランダでやればいいんじゃねぇの、しゅーって」
僕はもう一度首を振った。
「今度は隣から苦情を言われるんじゃないの、たぶん。昔からいろいろ文句言われてきたし」
ヤベは目をこちらにやり、片頬を引きつらせながら訊ねた。
「ばばぁ?」
僕は隣人のパーマとエプロンを思い浮かべながら頷いた。
「ばばぁ」
ヤベは鬱陶しそうな顔で頷いた。
「ばばぁだよな、うるせぇのは。たまにじじぃもいるけどさ」
それからヤベは物を思う顔で何度か頷き、苦々しい顔で、それでも静かに言った。
「まあ、団地はいろいろ面倒臭ぇよな。クソ狭ぇし、変なのも多いしな」
僕は頷いた。人間が人間として暮らすには、無理がありすぎる環境が整っているのが団地の生活だ。僕は言った。
「一階だと、空も見えないし」
ああ、そうだよな、とヤベは頷き、あれ、と気がついて身を起こし、訊ねた。
「洪水きたら、大丈夫なの?」
「たぶん沈む」
だよな、とヤベは暗い顔で頷き、もう一度寝っ転がり、会話が止まった。僕はもう一度、対岸の団地を眺めた。それは低湿地の廃棄された水田地帯を埋め立て、市域を分断して通り過ぎるだけの関越自動車道の掘削残土の上に造成された、巨大で醜悪な団地だった。航空写真で見ると市域の隅に巣食う蛆虫のように見える団地であり、僕とヤベが生まれ育った町だ。上流には廃棄物処理場の煙突が二本並んで煙を吹き、川の水は下水処理場と工場の排水で澱んで悪臭を放っていた。蛍の群れは追い出され、代わりにどこからか狂ったように大量発生した蝗の群れが町を食い散らかし、荒し回り、どこかへと消えていった。かつて「高度経済成長期」と呼ばれていたなにかの汚泥と残滓と形骸の中に、僕たちは生きていた。
◆
僕はふっと息をつき、団地に視線を戻した。もちろん、話は単純ではない。蝗の一匹は僕の父親だ。なにを思ってここに流れてきたかは語らない。望み通りの人生ではなかったようだ。力尽きてここに留まることに決めたのだろう。安易に否定はできない。
団地ができる遥か昔からこの土地で生きてきた人々もいれば、初期から住み着き汗をかいてこの町を作り上げてきた人たちもいる。どこから流れてこようがこの町を愛し、あるいは他に行く宛もなく、死ぬまでここで生きる人々もいるだろう。この町は彼女たちのものなのかもしれない。
子世代は最初から考慮されていない。適当な時期にどこへでも勝手に出ていけというのだろう。それ以外の選択肢がないし、それ以外の希望もない。だが、どこへ。団地以外の風景を、僕は知らない。父親には帰るべき故郷、片足を置いておける地元がある。僕にはここしかない。ここは僕たちの町ではないが、僕たちはこの町の人間でしかない。そして、誰もここには残れない。
町は変わっていくだろう。僕たちは町を離れ、ふたつほどの時代が過ぎる頃には、駅前にも、ショッピング・モールにも、他のすべての通りにも、僕たちが過ごした日々の痕跡を留めるものはなにひとつ残っていないだろう。廃れるにせよ、新たな町が――新たな田舎者たちのための町が――できるにせよ、そこでは僕たちは余所者でしかない。「地元」には誰もなにも残っていない。会うべき人もなく、思い出すべきなにもない。新しい町は僕たちを知らず、僕たちは新しい町を知らない。それがどんな町であれ、僕たちがそこにいるべき理由はない。新しい町は新しい人々に譲り、僕たちは黙って去るだけだ。そして、それは繰り返される。
そんなことを思いながらため息をつこうと息を吸い込もうとしたら、甘く張りのある声が後ろから聞こえてきて耳の関心をさらい、思考の流れが強制的に断ち切られた。振り返れば、夏の体操服を着た女子高生たちが、なにかを笑い合いながら自転車で土手を通り過ぎていくところだった。ヤベは首を捻って小さくなっていく彼女たちの後ろ姿を追い、それからくんくんと鼻を動かして、しみじみとした声で呟いた。
「女子高生、いいよな」
僕は否定も肯定もしなかった。ヤベは僕の反応を気にしないかのように、Dear 女子高生 お願い 彼をとらないで、と飯島愛を口ずさみ、それから言った。
「お前、高校行ったら、周りじゅう女子高生だらけなんだぜ」
僕は少し考えてから頷いた。それはその通りだろう。ヤベは首を捻じって僕を見上げ、眩しそうな顔をして同意を求めた。
「すごくね?」
どうだろう、と僕は首を捻った。そういう見方をすれば今も周りじゅう女子中学生だらけではあるが、それ自体に幸も不幸もない。女子中学生は女子中学生に過ぎず、それ以上でもそれ以下でもない。そこには相応の平和があり、相応の絶望があるのだろう。女子高生だって同じことだろうが、ヤベは僕の考えを気にかけず、視線を空に戻して呟いた。
「早く高校行きてぇな」
引き続き僕は否定も肯定もしなかったが、ヤベの次の言葉には内心で同意した。
「自由になりてぇ」
◆
眺めるべき場所もなくなってきた僕は、なんとなく中央公園のことを考え始めた。そこかしこに公園があるのはこの団地の数少ない取り柄ではあるが、中心となるのは名前通りのこの――今、対岸に見えている――中央公園で、プールや遊具の他には少年野球用のバックネットとサッカーゴール付きのグラウンドも備えた、ちょっとした公園ではあった。当然、幼児期からの遊び場所のひとつになり、年齢に応じたひと通りの子どもらしい遊びの他に、季節外のプールを円形コースにしてのミニ四駆レース、棟ごとの子ども会の宝探しゲーム、珍しく遊んでくれた父親との下手くそなキャッチボール、大雪の日の弟との橇遊び、そんな記憶もあるといえばある。凧揚げは土手、ラジオ体操は小学校の校庭、大晦日は国道沿いのラドンセンター、自転車の練習は棟の前、プラスチックバットでの野球と縄跳び検定の練習は棟のすぐ脇の小公園だっただろうか。
今日の花火大会も、今は規模が拡大されて周辺地区と合同で行うようになったが、元は団地の行事であり、今は四中のグラウンドに移されたメイン会場の役割も、かつては中央公園が担っていた。祭りの朝の匂い、型抜きの画鋲と蝉の声、入り日の中でセピア色に佇む盆踊りのやぐらと提灯、顔を赤くして楽しそうに笑う父親と、近所や父親の仕事場の大人たちの酒の匂い、とろけるチョコバナナ、弟と引いたくじの景品と鐘の音、木々と電線のシルエットの向こうに上がる、大きく見えていたはずの花火。あの頃となにが変わってしまったんだろうか、と僕は思った。あの頃はおそらく、父親は父親であり、母親は母親であり、学校は学校、先生は先生、友だちは友だち、僕の家は僕の家、僕は僕だと、なんの疑いもなく思えていたはずだった。過ぎてしまえばすべては夏の夢のように不確かで、ひとつとして同じに見えるものはなく、「あの頃」が本当に存在していたのかさえわからない。いったい、なにが変わってしまったのか。
そこまで考えて僕は、ふと自分とまったく同じ顔と眼鏡の弟を思い出して、ふふっと笑った。あいつは変わっていないな。なにがどうなろうが、弟は弟のまんまだ。あいつにとっても、僕は兄貴のまんまなんだろうか。
「ヤベさ」
僕は意識せずに言葉を発していた。
「あ?」
「一学期、あんまり学校、来なかったよね」
ヤベの表情が一瞬堅くなり、それから軽い口調を装って言った。
「嘘だろ? 行ってたろ?」
「どうしたの?」
マジかよ、行ってると思うんだけどな、と首を傾げながらヤベは左手を上げ、折り曲げていく指を見つめながら言った。
「まぁ、あれだよな、朝起きるだろ、メシを作って喰うだろ、ポンキッキーズを観るだろ、ポンキッキーズは観なきゃだよな、観終わる頃にはうんこがしたくなってるだろ、うんこをするだろ、アナルを拭くだろ、丁寧に拭くだろ、拭き終わる頃にはとっくに遅刻の時間だろ、学校なんか行けるわけねぇよな」
僕は学校で教員に殺された女子高生を思い出し、ヤベは、元気、勇気、ぽんぽぽんぽポンキッキーズ、と歌うように唱え、それからふっと力を抜いて、言った。
「ポンキッキーズより大事なことなんか、学校じゃやんねぇよな」
僕は頷き、それからいくつかのヤベの姿を思った。ダイニングキッチンでフライパンと格闘する姿。ひとりで「いただきます」をしてから食事を始める姿。ブラウン管に向かって呟かれる指摘と笑い声。番組が終わったあとの長い時間。湿った四畳半の長く虚ろな時間。それから、言った。
「ウゴウゴルーガも、好きだったな」
ヤベはじろりとこちらを見上げ、一呼吸の停止のあとで、にやりと笑って言った。
「わかるぜ。トマトちゃんだろ」
「うん」
説明しなくてもわかり合える、ひとつの時代の共有だった。僕は付け加えた。
「シュールくんも好き」
ヤベは頷き、おはよう、と例の声を模倣した奇妙な声を発し、僕もどうにか、おはよう、と奇妙な声で返し、ヤベは笑い、それから少し寂しそうに微笑み、静かに呟いた。
「ルーガちゃん、かわいかったよな」
僕は頷き、ヤベは独り言のように空に向かって言った。
「元気にしてんのかな、ルーガちゃん」
◆
ヤベらしい、いい問いだった。
◆
空気はさらに黄味を増し、対岸には土手を歩く人影が増え始めていた。小指の爪ほどの大きさに見える人々には、団地の住民はもちろん、Sニュータウンやその近隣、先ほどのA西生のように他地域からの人間たちも含まれているのだろう。「子どもたちに故郷の風景をつくろう」という善良な動機に基づいて、苦労して始めた花火大会だと聞くが、結局はどこで見ようが花火は花火であり、花火でしかない。桜だって同じことだ。花火やソメイヨシノはどこの風景も同じにものする。狭く貧しいイメージを醸成して固着し、他のものを排除して目を背けさせ、序列の中に風景を位置づける。大人たちの考えは常にズレている。少し考えればわかることが、どうしてわからないのか――。
「――オリって知ってる?」
「え?」
ぼんやりしていてヤベの言葉を聞き損なった。ガマガエルのような、聞き覚えのない単語のようではあった。ヤベははっきりとした発音で言い直した。
「ガマゴオリ。知ってる?」
僕は首を振った。ヤベは眉をひそめ、頭を掻きながら言った。
「知らねぇよな。愛知って、どこにあんの?」
「本州の真ん中らへん。名古屋があるとこ」
「名古屋って、なにがあんの?」
僕はボードゲームを思い出しながら答えた。
「ういろう、みそかつ、きしめん――」
「食い物?」
「たぶん」
「美味いの?」
「さあ? あと中日ドラゴンズ」
ヤベはさらに頭を掻き、爪の先を見つめながら言った。
「俺、野球、あんまりわかんねぇんだよな」
僕は宙を見て考え、言った。
「サッカーチームもあるんじゃないの。Jリーグ。なんだっけ。グランパス――」
おお、とヤベは口を丸くして、少し明るい声で言った。
「あ、そっか。名古屋グランパスエイトか。あったあった。あったわ、そういや」
ヤベは納得したように何度か頷き、まあ、レッズの方が好きなんだけどな、サッカーはレッズだろ、と首を捻りながら呟き、それから黙り込んだ。僕は訊ねた。
「でも、どうして?」
「なにが? レッズ?」
「その――ガマゴオリ?」
「ああ、来月からそっちなんだってよ。ガマゴオリ。来月ってか、もうすぐか。今日、何日だっけ」
ヤベはなんでもなさそうな声で言った。僕はヤベを見た。ヤベは間の抜けたような顔でどこかを眺めていた。
「引っ越す――転校するって、こと?」
「おう」
ヤベはあっさりと言い、それから面倒臭そうな顔をして付け加えた。
「離婚すんだってよ、親がさ。そりゃそうか。ほんで、母ちゃんの実家だかなんだかわかんねぇけどそっちにあるから、俺もそっちなんだと。まぁ、よくわかんねぇんだけどさ。いろいろぐちゃぐちゃ言ってたんだろうけど、俺、全然聞いてなかったからさ」
僕はなにを言っていいかわからず、黙っていた。
「まぁ、離婚自体はどうでもいいってか、むしろさっさとしろって思ってたから、別にいいんだよな。面倒臭ぇじゃん、がーがー仲悪ぃのに、クソ狭ぇ家ん中にいっしょにいられてもさ。こっちもいらいらするっつうのよな、そういうハンパなの。たまにねえちゃんともそういう話してたんだけどさ。だからまぁ、すっきりするっちゃ、すっきりするよな」
「でも――」
僕は混乱する情報の整理をしながら、訊ねた。
「今、なの?」
しゅっ、と指を動かして、ヤベは言った。
「そこなんだよな。今かよっていう。こっちも学校とかあるっちゃあるんだし、受験とかもあるっちゃあんだからさ。少しは考えろよっていう。なんも考えてねぇんじゃねぇか、アイツら」
どこか他人事のように呆れながら、ヤベは続けた。
「アホなんだよな、アホ。大人はみんなアホばっかりだぜ。アホって書いて大人って読むんじゃねぇのか」
少し身を起こして手の付け根を眺めながら、最後の方は歌うようにヤベは言った。
「でも――」
僕はなにかを言おうとしたが、ヤベはまた寝っ転がり、のんびりした声で続けた。
「まあ、ずっと仲悪かったしな。ガキの頃からさ。なんで結婚なんかしたのか、さっぱりわかんねぇ。そりゃ子どももグレるっつうのよな。学校行ってもつまんねぇ。家にいたってしょうがねぇ。バイトもできねぇ。部屋も借りられねぇ。あれもすんなこれもすんなうるせぇ。ここも行くなあそこも行くなうるせぇ。行ったら行ったで歳上どもが調子こいてて面倒臭ぇ。どうしろっつうのよな。死ねっつうのかよな。あれ、なんかそういう歌あったよな。誰だっけ。尾崎か」
ヤベの自問自答に僕は頷き、じゅうごのよおるうー、とヤベは調子外れに歌い、それからこちらを見た。
「お前、尾崎好き?」
僕は頷いた。hideと尾崎豊は泣きたくなるほど好きだった。
「まあ、尾崎はいいよな。なんで死んじゃったんだろうな。いい曲いっぱいあんのにな。あれ、誰かも尾崎好きって言ってたよな。誰だっけ。フルカワの兄ちゃんか。あの人もいい人だよな。児童会長とかやってたんだぜ、あれ。あんな感じで頭めちゃくちゃいいしな。絶対大学行くよな、あの人。早稲田とか行けんじゃねぇの? まぁ、早稲田と東大と十文字ぐらいしか知らねぇけどさ。あとなんだっけ。跡見か。あれ、リッキョウってなんなの、あれは。高校? 大学もあんの? へえ。知らねぇわ。態度悪ぃよな、アイツら。高校生だか大学生だか幼稚園児だかわかんねぇけどさ。ああ、弟もいいヤツだよな、フルケン。リフティング、クソ上手ぇし。フルケンって誰が好きなの? 聞いたことある? あいつ、あんまり聞かねぇよな、そういう話――」
太陽はゆっくりと、しかし確かにその角度を変えていき、雲と町と人々の影と色彩と反射光を変えていった。雲は生まれ、流れ、形を変え、そして消えていった。遠くの虫食いの桜の葉が、風に吹かれてひとひら落ちた。誰かの六畳間に、斜めの光が射していた。光の中では、ベッドメリーがやわらかな音を奏でて回っていた。嬰児が微笑みながらそれを見つめ、なにかを掴もうとして夢中で手を伸ばした。母親がそれに気づき、母親の顔で微笑んだ。町中の時計は、夜に向けてゆっくりと針を進めていた。
僕は時おりの必要な回答を差し挟みながら、ヤベの語りに相槌を打ち続けた。胸の裡にあったことの中で、明確な言葉にできる感情はこれだけだ。「日暮れていく夏の土手の草の匂いの風の中で、こういう風に頷きながら、ヤベの声を聴いていたいと思った」と。
九〇年代、Z団地。僕たちはこの町で少年だった。
◆
それからしばらく、あちこちに話題を飛ばしながら、調子外れの流行歌を挟みながら、ヤベの話は続き、ふっと止んだ。ヤベは相変わらず両手を枕に土手の斜面に寝転んだまま、気持ちよさそうに空を見ていた。自然な頃合いに、僕は話しかけた。
「どうして――」
「あ?」
ヤベはのんびりとこちらを見て、僕は朝から気になっていたことを訊ねた。
「どうして、ヤベは今日、僕を誘ったの?」
「ああ、連絡網」
ヤベはあっさり言った。
「?」
「誰かと話そうと思って、順番に電話、かけてったんだよな、左上からさ」
ふむ、と僕は頷いた。
「で、最初に捕まったのが、オから始まるオオワダくんだったってわけだ」
僕はもう一度、ふむ、と頷き、ヤベの次の言葉を待った。次の言葉は出てこなかった。僕はすっと息を吸いながら首を傾げ、訊ねた。
「――それだけ?」
「ああ」
ヤベは再びあっさりと言って、僕は笑った。わかるといえばわかる話だ。ヤベはこちらを見上げ、つられて笑いながら、言った。
「なんだよ、なんかおかしいか?」
「いや、らしいなと思った」
僕は笑いながら手と首を振り、ヤベもいくらか笑いを残しながら、言った。
「でもまぁ、あれだぜ、連絡網なんか眺めてみると、ろくに話したことのねぇヤツばっかなんだなってのは思ったぜ」
「カメイさんとか?」
僕は少しふざけて訊ね、ヤベも苦笑いしてから、言った。
「ああ、カメイさんとかな。お前、カメイさんは最重要人物だろ。カメイさんがいなきゃ、四中なんてクソみてぇな学校、死んでも回んねぇよ。あとはゴトウくんとか、カワダくんとかな」
ゴトウくんは眼鏡をかけた工作好きの科学部の人間で、カワダくんは色白のニキビ顔で気弱に微笑む卓球部の人間だ。
「でも、あれだよな、男どうしって、なんか知ってるよな」
不思議と朗らかな声でヤベは言い、僕は少し考え、いくらかの驚きとともに頷いた。確かにその通りだった。同じクラスの人間はもちろん、クラスも部活動も出身校も違い、近所でもなく塾や習い事やスポーツチームでも関わりがなく、特に接点がなさそうな人間であっても、百三十人だか百四十人だかの同学年の男子生徒の中で、まったく知らない人間は五人もいないはずだ。登校拒否なら登校拒否で、登校拒否している人間として知ってはいたし、ろくに他人と交流をしてこなかった僕でもそうなんだから、他の生徒ならなおさらだろう。逆に考えれば他の生徒も僕を知っているかもしれないということだが、ともあれ僕は感心して言った。
「確かに、そうだね」
「だよな。なんで知ってんだろうな」
もう一度首を捻って考えたが、見当もつかなかった。男子中学生の情報網や交流感度というのも、ちょっとしたものなのかもしれない。
「誰か、嫌いなヤツっている?」
僕は男子たちの名前と顔を思い浮かべ、にこやかに僕を蹴ってくる人間たち、あるいは僕を見ると舌打ちをしてくる人間が浮かび、正直に答えた。
「何人かは」
「まあ、そんなもんだよな。俺もそんなもんだ。タザキとかクズだもんな。でも、『何人かは』じゃね? 六クラスで百何十人とか、男がいんのにさ」
頭の中でもう一度男子連中の名前と顔を思い浮かべ、驚きながら僕は頷いた。意外な話だった。僕は学校のほとんど全員を嫌い、ほとんど全員から嫌われているように思っていたが、ひとりひとりを思い浮かべてみれば、たいていは楽しそうな顔と声しか浮かばない。はっきりと庇ってくれる人間もいたし、僕を仲間に入れてくれようとする人間もいたし、ちょっとした、記憶にも残らないようなやり取りの数々は、好意的で善意のあるものだったようにも思える。マジか。そんなくだけた言葉で僕が驚いていると、ヤベが僕の気持ちを言葉にしてくれた。
「意外と、嫌いじゃなくない?」
僕はためらいがちに、しかし頷かざるを得なかった。ヤベはさっぱりした声で続けた。
「案外、嫌いじゃねぇんだよな。ひとりひとりを考えてみるとさ」
僕は頷き、それから、団地の三階の自分の部屋でひとり真面目な顔をして、椅子にもたれて頭の後ろに手をやり、真剣にひとりひとりを思い浮かべているヤベの姿を思った。それは教員たちが知らない、決して知ろうとしない、ヤベの姿でもあった。不登校。馬鹿。反抗的。怠け者。問題児。ダメ人間。非行。不良。ヤベが教員たちからそういう人間と見なされていることは、僕も知っていた。ヤベはのんびりとした、素朴な声で続けた。
「これなぁ、俺も不思議だったんだけどさ。案外そんなもんなのよな。案外、嫌いじゃねぇのな。ほんで、なんか、もったいねぇことしてきたんじゃねぇかって思った。せっかくいろんなヤツがいたのに、あんまり話してこなかったよな、もっと仲良くすりゃよかった、もっと仲良くできたんじゃねぇのかってさ」
僕はひとまず頷いた。ヤベは続けた。
「で、いろいろぐちゃぐちゃ考えて、もう終わりなんだ、俺にはもう関係ねぇんだって思ったら、なんつうの、あれよ――」
ヤベは寝っ転がったまま眉をひそめて言葉を探し、それから首を振った。
「わかんねぇ」
僕は頷き、なにかを言おうとして、やめた。ヤベが「わかんねぇ」と言うならば、それは「わかんねぇ」ということだった。
「でもまぁ、あれだよな、今日でけっこう、俺たちさ――」
どん、どん、どん、どどん、と大きな音が鳴って、ヤベの言葉を遮った。二人同時に空を見上げ、少し遅れて団地に音が反響した。電線越しの空に見えたのは、ぽっぽとした白い六つの煙で、それはこのあとの大会の予定通りの開催を告げる花火が残したものだった。煙はゆっくりと北に流れ、夕の大気の中に溶けていった。
あ、と僕は声を発した。
「どうした?」
「橋、通れなくなるかも。交通規制。通行規制?」
「マジか。じゃあそろそろ行かねぇとな」
言いながらヤベは立ち上がり、草のついた手と肘と尻と背中を払った。僕もリュックサックを掴んで立ち上がり、ヤベに遅れてよろけながら土手に上がった。
「残ってない?」
ヤベは背中を見せながら訊ね、僕はヤベの肩甲骨の間についていた枯れ草を払った。枯れ草は吹き始めた夕の風に流れ、ヤベの背中からは太陽と土と草と洗剤と、微かな汗とヤベの家の匂いがしていた。
荷物を前かごに載せ、がちゃんとスタンドを上げて、草をかき分けて車体を押し上げ、ゆるやかなS字になった土手の乾いてひび割れた土の上を、自転車を押しながら上流に向かって歩いた。足元の昼顔が草むらの中に萎み始めていた。南の雲が青くなっていた。向こうの電波塔が少しずつ大きくなり、背中に団地が遠ざかっていった。対岸の四階建ての校舎はゆっくりと向きを変え、やがて木々の中にその姿を隠した。校庭からは誰かのカラオケが遠く聴こえてきていた。JUDY AND MARY、オーバードライブ。
前を歩いていたヤベもいくらかのフレーズを口ずさみ、あれ、カラオケ歌ってんのルミじゃねぇか、と気がついて噴き出し、それから顔を半分だけこちらに向けて、思い出したように訊ねた。
「なんかあったよな、ドラマ。花火をどこから見るかってやつ」
僕は頷き、弟が書いた下手くそなラベルの文字を思い浮かべ、答えた。
「『if もしも』」
「ああ、たぶんそれ」
世にも奇妙な物語じゃねえんだよな、タモリさんなんだけどな、とヤベは頷き、先ほどより首を捩じりながら訊ねた。
「実際、どうなの? 平べったくならないの?」
僕は首を振った。
「基本的には、どこから見ても丸。打ち揚げ花火は球だから。サッカーボールとおんなじ」
ヤベは少し考え、それから納得して頷いた。そっか、サッカーボールもどこから見ても丸いもんな。芯を蹴らなきゃだもんな。僕は頷きを返した。球体を描くのは難しい。僕たちの心が丸くないからかもしれない。ヤベはなんとなく足元の砂利を蹴っ飛ばしながら、言った。
「プールの話だよな。ホースで水、ぷしゃーってやってさ」
僕は頷き、ふと対岸に目をやった。木々の向こうの校庭の砂の上では、ざわめきと熱と匂いと煙の中で、人々があくせくと働き、楽しそうに出店を覗いているはずだった。人々の頭の上には、夜を待たずに点された照明塔の光と、やわらかな夕陽に照らされながら、商店街の店々の協賛提燈が連なって風に揺れているのだろう。
地産ストアー、マルフジ水産、肉の鳥七、ホームベーカリーミヨシ、主婦の店ながみね、岩田屋酒店、理容スズキ、美容室スターカール、カラオケレストランたんぽぽ、魚久寿し、ユニインテリア、クリーニング東京、メガネセンター大竹、子供の庭、そうご電器、伊勢屋、ヤンヤン、山本ふとん店、ワコ美容室、いせう、写真のナラオカ、サイクルニイザ、ファミリー衣料イシイ、山田書店、居酒屋ほろよい、きそば高砂、和風とんかつ桐、とおりゃんせ、パーマネントハウス、斉藤青果店、石黒接骨院、やまもりチェーン有り路、ワタナベストア、鮒忠、肉のアンデス、越後屋豆腐店、マルワ洋品、大陸、まるしげ、菊扇、田山酒店、まつだ靴店、ひかり薬局、アサヒ生花店――。
一〇年も経てば、ほとんどすべての店は消えているだろう。気づかれぬまま静かに、シャッターが降ろされ、貼り紙が貼られ、貼り紙も風に消えていく。地図から消え、建物が壊され、人々の記憶からも消えていく。人々も消え、消えた人々の記憶も消え、町のすべてが消えていく。ゼロのままのゼロと、一のあとのゼロと。どちらも同じことではあるのだろう。
ヤベはぼんやりと地面を見ながら歩き、もう一度足元を蹴っ飛ばした。乾いた地面がざっと鳴り、わずかな砂埃が風に吹かれて後ろに流されていった。ヤベは呟くように言った。
「奥菜恵、かわいかったよな」
なずな、と僕は頷き、近づいてきた親柱に反射する西陽に目を細めた。
ハンドルバーを左に捻って車止めの間を抜け、自転車を押して橋を渡った。地覆の隙間から生え出た夏の草が揺れて光っていた。東の空には左下の欠けた十日目の白い月が登り始めていた。橋の上の風はひんやりとして心地よく、橋の下では水流が護岸ブロックにぶつかってざわざわと音を立てていた。浴衣姿の女児が小さい左右の手を左右の両親と繋ぎ、嬉しそうになにかを語りかけていた。光の中にユスリカが舞っていた。
木々の隙間に校庭の櫓と白いテントが見えていた。橋の向こうには球形の高架水槽と、高台の住宅街と、坂の上の小学校が、やわらかな色に染まって佇んでいた。ウィールが足元でチキチキと音を立て、前輪のフェンダーが後ろからの夕陽に照らされてきらめいていた。両手に握ったグリップに、車体の重みとタイルの凹凸を感じていた。二人の影が長く伸びていた。ひとつの影が振り向くように動き、もうひとつの影が頷くように動いた。二人の財布の中には二人のプリクラが入っていた。
橋を抜けて右に曲がり、台地の木々の中に女子大の記念資料館を望み、鉄塔の彼方に沈みゆく右からの陽射しに目を細めながら、黄金色の中にヤベの背中を追って、北高の脇の砂利道へと土手の急な斜面を降りた。油圧ショベルのクローラーに泥がこびりついていた。薄羽黄蜻蛉が飛んでいた。歪んだフェンスに早乙女蔓が絡み咲き、その向こうには散水栓ポンプ室の白い扉が錆びていた。駄菓子屋の前では自転車を停めた小学生たちが、しゃくしゃくとかき氷を崩しては、小さな口にストローを運んでいた。ヤベが手を振り声をかけると、小学生たちも元気に手を振って声をあげた。
正門の桜に蝉の声を聴き、五階建ての校舎を見上げ、色の褪せた狗尾草が駐車場の金網を抜けてそよぐのを視野の隅に眺めながら、緑色の防球ネットが波打つグラウンドの前から小路に入った。頭の奥にふっと線香が香り、町の音が遠くなった。ブロック塀に二人の影が通り過ぎた。馬刀葉椎の堅い葉が陰の中で微かにきらめいていた。二重屋根の唐破風の山門が夕陽を受けて、穏やかな鈍色に輝いていた。百日紅の花が散り始めていた。
椿の植わる交差点を左に折れ、寺脇の路に入った。鎌倉より続く古い路だった。葉を枯らした柊木犀の垣が続いていた。垣には蜘蛛の巣がかかっていた。鐘楼の擬宝珠は深みのある影を帯びて円く、手水鉢は水を湛えて静かだった。
風が吹いて竹林の葉をさらさらと鳴らし、光を散らした。夏の終わりの涼やかな風だった。墓地の裏にはもうじきいっぱいの曼珠沙華が咲く。頭の中にふっと、黒い画用紙とパステルの色彩が浮かんだ。
もう一度風が吹き、卒塔婆がからりと鳴った。ヤベがなにかを訊ね、さあね、と僕は首を振った。道の先には一街区の棟が垣間見えていた。その手前には二階建ての保育園があるはずだった。駐車場の車窓に夕の雲が流れ、足元では自転車のウィールがチキチキと静かな音を立て続けていた。
幼稚園の風見鶏は東南東を指していた。風鈴が遠くでちりんと鳴った。蝉の声がじりじりと大きくなり、神社からの三匹獅子舞の笛と太鼓の音が近づいてきた。僕たちは自転車を押しながら、ゆっくりと「母校」へ向かっていた。




