9.見ず知らずの君に
「あのさ」
挑むようにハイルと呼びかけたリリに、リュカは苦く笑いかけた。聞き分けのない子供に言い聞かせるみたいにして、優しく言葉を紡ぐ。
「前にも言ったけど、僕の名前はリュカだ。間違えないで」
リリは正装に身を包んだハイル——いや、リュカを観察した。“ミリア”様の召使で、薬師のリュカ?そんなわけがない。こうして近くで見れば見るほど、ハイルだと確信できる。声の出し方、背丈、顔、全てがハイルと酷似していた。
「あの時の怪我は大丈夫だった?やっぱりここで働いてたんだね」
「話を変えないで」
リリはそっと立ち上がった。リュカが警戒するようにその動向を見守る。
「どうして嘘をつくの?何かわけがあるのなら教えて」
「……嘘なんて」
否定しながらもまごついた彼は、そっと視線を逸らした。後ろめたいことでもあるのだろうか。リリは「何を隠してるの?」と距離を詰める。
「お願いよハイル。あたしずっとあなたが心配だった。探してた。生きててくれて本当に嬉しかったの。今も、元気そうでほっとしてる。だからお願い、事情を話して。ハイル——」
「いい加減にしてくれ」
伸ばした手は届かなかった。リュカが一歩、リリを避けるために後退したのだ。
「ハイル……?」
三度目の呼びかけにリュカはすっと不愉快そうに眉を寄せた。
声も、姿も、形も、ハイルそのものなのに。
「どうして見ず知らずの君に僕のことを話す必要が?」
低く冷たくリュカは言い放った。
「見ず知らずじゃないわ」
リリは反論しながら、逃げ出したくなっていた。表情の作り方を忘れてしまったみたいに、顔がこわばる。
「あたしはあなたの妻だったもの」
リュカは青ざめた。
「その証拠はどこにある?揃いの指輪でも?」
「そんなもの」
証拠なんて何もない。教会に行けば、婚姻届けと署名が残っているだろうけれど、それがなんだと言うのか。リリはきりきりと痛む胸をおさえる。
「本当に、あたしのこと知らないのね」
確認するように言うと、しかしリュカは強く否定はしなかった。
「知らない……と思う」
「……おも、う?」
横を向いたリュカは、きつく顔を歪めている。
「思うって?……その理由も、聞いちゃいけないの?」
あともう少しでもリュカに冷たくされれば、リリは立ち直れなかっただろう。しかしリュカは諦めたように息を吐いた。小さく悪態をつき、せっかく整えていた髪に片手を差し入れ、がしがしと乱暴にかきまわしてしまう。そうして苦悩を滲ませた瞳をリリに向けた。
「どうして今頃」
呟いたリュカは頭から手を離し、リリがしていたように花壇の縁に座り込んだ。
「……僕をずっと探していたと言ったね。それって、二年くらい?」
リリははっとした。
「ええ、そうよ。あなたが仕事で外へ出てからそれきり帰らなくなって」
「ああ」
リュカは投げやりに頷いた。
「だったら僕は“ハイル”だったかもしれない」
「だった?」
どうして過去形なのだろう。
次の言葉を待つリリに、リュカは不適な笑みを浮かべた。
「残念だったね。僕には、二年前以前の記憶がない」
「……え?」
「自分が誰かも、それまでどこにいたのかも、何をしていたのかも、わからない。……どうにも崖から落ちたらしくね。その時に頭を強く打っていて、たぶん、その衝撃で記憶をなくしたんだろうと医者には言われた」
ひどい怪我だった、とリュカは呟いた。
「ミリアが見つけてくれなかったらあのまま死んでいたと思う」
「そんな」
リリはリュカの前にひざまづいた。
「そんなことがあったなんて」
「僕が今生きてるのも、こうしていられるのも、全部ミリアのおかげだ。彼女は記憶がない僕を助けてくれて、名前も仕事もくれた……優しい人なんだ」
その言い方ひとつで、リュカがどれほどミリアを信頼しているのかが伝わってきた。
「ミリア様の、薬師をしてるのよね」
「ああ。彼女は生まれつき身体が弱くて体調管理をさせてもらってる」
こんなことがあるのだろうか。
「ハイルも薬師だったわ」
リリの発言にもリュカは驚いた様子はない。
「だろうね。薬の知識だけは残ってたから、そうだろうと思ってた」
リリは力をなくした。
「君には悪いけど」
リュカは立ち上がる。
「そういうわけだから。“ハイル”はもういないと思って欲しい」
ここにいるのに?
リリは立ち去ろうとするリュカの背を追う。
「思い出すことは出来ないの」
呼びかけた声に、リュカは立ち止まった。
「僕には今の生活がある。仕事もある」
「……もう戻れないの?家に帰ったら、なにか思い出すかも」
リリはどうにか彼を引き留めたくて話を続ける。今にも歩き去ってしまいそうなリュカの腕をつかんだ。
「ね。一度うちにきてみてよ」
「無理だよ。時間が経ちすぎた」
リュカはそっとリリの腕を解く。
「遅すぎることなんてないわ。あたしも、村の人たちもあなたをずっと待ってた。今も」
「君たちはそうかもしれない。でも僕は違う。記憶をなくした直後だったら……思い出したかったかもしれない。でも今は、ミリアに恩返しすることでいっぱいなんだ。充実もしてる。だから」
リュカは困ったようにリリを見下ろした。
「ごめん。僕のことは忘れて、新しい幸せを見つけてほしい」
「……いや」
リリはかぶりを振った。
「君に乱暴はしたくない。どうか、出来るだけ早く出て行ってくれ」
「聖夜祭まで」
リリは言った。
「聖夜祭までに、思い出してくれなかったら帰るわ。でもそれまでは——」
言葉は、そこで途切れた。
リリとリュカの鼻孔を摘みたての花のような香りがふわりとくすぐり、不安気な細い声が響いたからだ。
「リュカ?」
リュカが出てきたテラスの方から、真っ白なドレス姿の女性が歩みよってくる。リュカは身をひるがえして、その女性に大股に歩み寄った。
「ミリア」
リュカの愛情のこもった声に、リリは息が止まりそうになった。
“お互いを想いあってらっしゃるというか。見つめ合われる瞳がとてもお優しいんですもの”
スージーの話していた言葉がよみがえり、このことかと思い知らされる。
二の腕まで絹の手袋に覆われたミリアのほっそりとした指先を、リュカのそれがそっと支える。
「こちらにいたんですね」
「ああごめんね。外の風に当たりたくて。戻ろうミリア。君の身体に夜風は冷える」
「はい……あら、どなたかいらっしゃるの?」
と、庭園の影に隠れていたリリをミリアが見つける。
ミリアはまだ幼さの残るとても可愛らしい娘だった。白い肌に薄桃色の小さな唇。長い睫毛に縁どられた目は丸く、暗がりのため断定はできないがきっと黒い瞳をしていた。その小さな顔を覆うのは薄茶の長い髪だ。ゆるくカールをした毛先が、鎖骨の上で揺れている。
ミリアは、リリがドレスでないのを見て使用人だと思ったらしい。
不思議そうに首をかしげて、リュカを見上げる。
「お知り合い?」
「——いや……ほら、こないだ落馬したって言ったお嬢さんだよ」
「まあ」
ミリアは窺うようにリリを見つめた。
「馬から落ちるなんて、大丈夫でしたの」
「え、ええ」
ミリアはリリの答えにほっとしたようだった。
「ジーンが失礼なことを言ったんですってね、ごめんなさい。でも悪い人じゃないのよ、言葉が少しきついだけで……」
「かなりきつい方だと思うけど」
言ったリュカをミリアが軽くにらむ。
「リュカったら」
「ごめんごめん」
許して、とリュカはミリアの腕と肩を寒さから庇うように添えた。親密な雰囲気のふたりに、リリの入る余地はない。
「それじゃあ、お大事に」
リュカが言って、ふたりはそのまま明るい城内へと戻っていく。
テラスに入る直前、ミリアになにかを指摘されたリュカが立ち止まり、腰をかがめる。くしゃくしゃになってしまっていた髪をミリアが微笑みながら、仕方がなさそうに直してやっていた。
リリは庭園の中でひとり、その姿を見つめることしかできなかった。