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面会  作者: 長谷川慶三
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透明な記録

 事件から七年が経っていた。


 人は、七年も経てば癒えると言う。時間が痛みを薄めるのだと。人間は忘れるように出来ているのだと。


 三島は、その言葉を一度も信じたことがなかった。

 忘れたことなど、一度もない。


 妻の美奈子が最後に着ていた薄青のカーディガンも。

 娘の菜緒が朝、食卓に残した半分の目玉焼きも。

 警察官が言葉を選びながら告げた「即死ではありませんでした」という説明も。


 すべて、昨日のことのように脳裏へ貼り付いている。


 だから七年とは、癒えた時間ではない。


 季節が七度巡り、街並みが変わり、近所の空き地には新しい家が建ち、菜緒と同じくらいの年頃だった子供たちは、もう制服を着て歩いている。


 それでも三島の家だけは、七年前の途中で時計が止まったままだった。


 食器棚には、美奈子が揃えたままの皿が残っている。

 押し入れの奥には、結衣の冬物のコートがまだ掛かったままだ。


 三島は、それらを捨てなかった。整理出来なかったのではない。


 ただ、何一つ「終わったもの」として扱えなかった。


 面会室へ続く通路は、古い病院の裏廊下に似ていた。


 磨かれているはずの床は鈍く曇り、蛍光灯は白いだけの光を落としている。壁に染み込んだ消毒液の臭いが鼻に残り、空調の音だけが、やけに遠くで鳴っていた。


 三島は職員の後ろを歩いていた。


 右手には薄い黒革の手帳。左手には何も持っていない。足音は一定だった。急ぎもせず、遅れもせず、決まった速度で歩いていく。


「こちらです」


 鉄扉が開く。


 職員が視線だけで中を示した。


 三島は小さく頷き、部屋へ入る。


 透明なアクリル板。

 固定された椅子。

 受話器。


 どこにでもある面会室だった。


 だが、三島にとっては違う。


 このガラスの向こう側にいる男が、七年前、自宅へ押し入り、妻と娘を殺した。


 妻はリビングで。娘は、そのすぐ傍で。


 菜緒は最後まで母親を呼んでいたという。


 その声を想像するたび、三島は喉の奥に鉄の味を感じた。椅子へ腰掛ける。


 膝の上に一冊の無地のノートを置く。使い古された黒のボールペンを静かに机へ並べる。


 その手元は驚くほどに静かだった。

 震えもなければ、力みもない。


 ただ、機械が稼働を始める時のように、

 淡々と、正確に。


 数秒後、奥の扉が開いた。


 ガラスを隔てた向こう側に男が座った時、室内の空気は一瞬にして湿った鉛の重さに変わった。


 熊田。


 その男の顔には、二人の人間を撲殺した凶行の痕跡など微塵も残っていない。薄い唇、生気のない肌、そして何よりも、すべてを他人事のように見つめる、あの軽薄な眼球。


 熊田は三島を見ると、一瞬だけ眉を上げ、それから笑った。


「へえ」


 座る。


 受話器を取る。


「体調は、どうだ」


 三島の声は、面会室の冷たい壁にぶつかって、硬質に響いた。


「普通。飯も出るし、寝るだけだしな」


 熊田は背もたれに体重を預け、薄笑いを浮かべた。


 まだ一審判決を控えた身だ。

 死刑が確定すれば、こうして他人である三島と会うことすら叶わなくなる。


 熊田はその法制度の隙間を、まるで自分が勝ち取った特権であるかのように楽しんでいる風ですらあった。


「そうか。では、始めよう」


 三島はペンを右手で拾い上げた。


 人差し指の側面が、ノートの白い紙面をそっとなぞる。


「何から話せばいい? “旦那”」


「あの日、お前が我が家の門をくぐってから、すべてが終わるまでの詳細だ。なぜ、妻の美奈子と、娘の菜緒でなければならなかったのか。お前の口から、その動機を聞きたい」


 熊田は天井を仰ぎ、わざとらしいため息をついた。


「動機ねえ……。何度も警察に話したんだけどさ。まあいいや。要するに、むしゃくしゃしてたんだよ。誰でもよかった、って言ったら怒る?」


 三島は答えなかった。


 カチリ、とペンのノックを一度だけ鳴らし、ノートの一行目へ書き込む。


『動機:突発的な鬱屈』


 文字は歪みなく、美しく整っていた。


「あの日はさ、朝から運が悪かったんだ。パチンコは負けるし、アパートの大家には家賃の催促をされるし。で、歩いてたら、お宅の綺麗な家が見えたわけ。庭に花なんか植えてあってさ、いかにも“幸せです”って顔した家。それ見てたら、なんか腹が立ってきて」


 熊田は身を乗り出し、ガラスへ顔を近づけた。


 その瞳に、嗜虐的な光が灯る。


「インターホン押したら、奥さんが出てきた。あいつ、警戒心がないんだよな。“どちら様ですか”ってさ。だから“近くで工事をやってる者ですが、水道の確認を”って言ったら、簡単にドア開けた」


 三島の手が、わずかに止まった。だが彼がしたのは、怒りに拳を握ることではなかった。


 ページの余白を、親指の腹でゆっくりと擦る。


 摩擦で熱を持つまで。皮膚が赤くなる。


 その痛みを、彼はただの信号として受け止めていた。


「それから?」


「それから? 入っちゃえばこっちのもんよ。奥さん、キッチンまで案内しようとしたから、後ろから首絞めた。あ、殺してないよ、その時は。気絶させただけ。旦那、奥さんのあんな声、聞いたことないだろ? “やめて”ってさ、蚊の鳴くような声で」


 熊田は三島の表情を探るように覗き込む。


 三島は動かない。


 ただ、ボールペンの先を紙へ押し当て、点を一つ打った。インクがじわりと滲む。


「続けてくれ」


「ふん、つまんねえ奴。……でさ、奥さんをリビングに引きずり込んだら、奥の部屋から子供が出てきたんだ。あのチビ、名前なんだっけ、結衣ちゃんだっけ。お母さんが倒れてるの見て泣き出しちゃってさ。うるさいのなんのって。だから、近くにあった置物で、頭をガツンと」


 熊田は手を振り下ろすジェスチャーをした。


 三島の左足のつま先が、

 床を一度だけ、静かに叩いた。


 トン。


 それは怒りではなく、彼の中で何かのカウントダウンが一歩進んだ音だった。


「菜緒は、即死だったのか」


「さあ? でも二回目殴った時はもう動かなかったな。そしたら、気絶から覚めた奥さんが、這いつくばって子供のところに駆け寄ろうとするわけ。自分の体も動かないくせにさ。あの執念、ちょっと引いたわ。だから奥さんのことも同じ置物でさ……。あ、何回殴ったかは覚えてない。手が滑って、壁まで血が飛び散っちゃって、片付け大変そうだなーって、他人事みたいに考えてた」


 熊田はケラケラと笑った。


 面会室の狭い空間に、その乾いた笑い声が反響する。


 三島は黙々とペンを走らせていた。


『妻:美奈子。娘を庇う意図を持って接近。被告人により、鈍器にて頭部を複数回打撲』


 その筆跡には、怨嗟も涙の跡もない。


 冷徹なまでの事実の羅列。


 三島はノートを閉じると、それを丁寧にスーツの内ポケットへ収めた。


 その動作は、大切な宝物をしまうかのように慎重だった。


(続く)

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