第8話 そうですか
「副団長」と呼ばれたとき、ケイルの肩が一瞬だけ強張ったのを、わたしは見逃さなかった。
遺跡の外周を調査していた午後だった。国境に近い丘陵地帯。低い灌木の間を縫うように歩いていたとき、南の街道から馬蹄の音が聞こえた。
三騎。揃いの鎧。胸当てに刻まれた紋章は、リスタニア王国のものではなかった。
パルマス王国の騎士団。
先頭の騎士が馬を降り、ケイルに向かって歩いてきた。若い男だ。二十歳前後。ケイルを見つけた途端、顔が明るくなった。部下が上官を見つけたときの、あの安堵と喜びの混じった顔。
「副団長。お探ししました。帰還の時期が」
ケイルが片手を上げて、男の言葉を遮った。
遅かった。
副団長。
その二文字が、空気の中で凍りついた。
わたしはケイルを見た。ケイルはわたしを見なかった。視線を騎士に固定して、低い声で何かを告げている。パルマスの言葉だろうか。聞き取れない。
騎士が三人、離れた場所で待機した。
ケイルがこちらを向いた。灰色の目。いつもの無表情。だが、その下に何かが渦巻いているのが、今のわたしにはわかった。
「説明する」
「ええ、お願いします」
自分の声が平坦すぎることに気づいた。感情の蓋を閉めた音だ。
ケイルが言った。淡々と。感情を排した声で。
パルマス王国の騎士団副団長であること。古代遺跡の調査と、リスタニア王国の古代魔法研究の動向を探る任務で辺境に潜入していたこと。マレーネの古代語読解能力は、パルマスにとっても重要な情報だったこと。護衛の依頼を受けたのは、近くにいるためだったこと。
一言一言が、石のように喉の奥に落ちていった。
任務で近づいた。能力を確保するために。
また、か。
王宮はわたしの古代語を利用した。エドモンはわたしの研究を自分の手柄にした。そして今度は、隣国がわたしの能力を確保するために、護衛の仮面を被って近づいた。
何が「仕事だ」。何が「お前が無事ならそれでいい」。
全部、任務の一部だったのか。
干し林檎も。頭の土を払った手も。遺跡で崩落から守ってくれた背中も。
わたしはまた、能力だけを見られていたのか。マレーネ・コルヴェンという人間ではなく、「古代語が読める道具」として。
「そうですか」
声が掠れた。それだけしか出なかった。
任務。能力の確保。護衛の仮面。言葉が頭の中で渦を巻いている。整理しようとした。冷静に。論理的に。いつもそうしてきたように。でも駄目だ。文の組み立てが追いつかない。喉の奥で何かが詰まって、言葉が砕けて、形にならない。
「マレーネ」
ケイルが一歩踏み出した。
わたしは踵を返した。
何も言わずに、歩き出した。右足、左足。交互に動かす。それだけのことが、ひどく難しかった。足の裏が石畳を踏む感覚が、遠い。背中にケイルの視線を感じた。追いかけてこない。追いかけてこないことが、正解なのか間違いなのか、今のわたしにはわからなかった。
◇◇◇
宿に戻った。
部屋の椅子に座って、窓の外を見た。夕暮れの空。いつもと同じ色のはずなのに、くすんで見える。
荷物を整理し始めた。意味はない。ただ手を動かしたかった。前世でもそうだった。辛いことがあると部屋を片付ける。物を整理すれば、頭の中も整理されるような気がする。気がするだけだが。革袋の紐を結び直し、羊皮紙の束を揃え直し、インク壺の蓋を確認する。同じ作業を二回繰り返して、三回目に手が止まった。
インク壺の横に、干し林檎の袋があった。ケイルが市場で見つけて、黙ってわたしの荷物に入れていたもの。
それを見たとき、目の奥が熱くなった。
いや。泣かない。泣く理由がない。任務で近づかれた。それだけのこと。王都で経験済み。今更、傷つく方がおかしい。
おかしいのに。手が震えている。
扉を叩く音。
「マレーネ」
ブリジットの声だった。
返事をしなかった。扉が開いて、ブリジットが入ってきた。わたしの顔を見て、何も聞かなかった。
黙って隣に座った。何も聞かず、何も言わず。ただ、そこにいる。
しばらくして、腰の水筒を差し出した。林檎酒。
「飲む?」
受け取って、一口飲んだ。甘くて、少し苦い。喉の奥を通る温かさが、目の奥にじんと染みた。
「ケイルのこと、聞いた?」
「聞くもなにも。ギルドの前で堂々と『副団長』って呼ばれりゃ、嫌でも広まるよ」
ブリジットは怒ってもいないし、驚いてもいない顔をしていた。辺境の冒険者にとって、素性を隠すのは珍しいことではないのかもしれない。
「あたしが聞きたいのは、あんたが大丈夫かってこと」
大丈夫。
そう言おうとして、口が動かなかった。
大丈夫ではないのだろう。たぶん。胸の奥に鈍い痛みがある。怒りなのか悲しみなのか、区別がつかない。両方かもしれない。
「……わからない」
正直に答えた。わからないことをわからないと言えるのは、ブリジットの前だからだ。この人は取り繕わなくていい。
ブリジットが頷いて、もう一口林檎酒を注いでくれた。それ以上は何も聞かなかった。
窓の外が暗くなっていく。前世で好きだった日本酒の味を思い出した。冬の夜に、一人で飲む熱燗。あれも、こういう味だった。甘くて、少し寂しい。
いや、違う。日本酒と林檎酒は全然違う。
何を考えているんだ、わたしは。
ブリジットが立ち上がった。
「あたし、隣の部屋にいるから。何かあったら壁叩いて」
「ブリジット」
「礼は要らない。あんたが明日も遺跡に行くなら、それでいい」
扉が閉まった。足音が遠ざかる。
一人になった。窓の外に星が出始めている。タルニスの夜空は、いつもと同じだ。同じはずなのに。
◇◇◇
翌朝、いつも通りの時間に起きた。
顔を洗い、髪を革紐で束ね、荷物をまとめて宿を出た。
手が震えていた。指先が冷たい。春の終わりなのに、指先だけが冬のような温度をしている。
革のブーツの紐を結び直す。短剣を腰に差す。荷物を背負う。一つ一つの動作を丁寧に。前世の剣道の試合前と同じだ。動作に集中すれば、余計なことを考えずに済む。
遺跡に向かう道を歩いた。一人で。
ケイルの姿はなかった。ギルドの前にも、街道にも。
それでいい。
朝の風が草を揺らしている。街道の脇に白い野薔薇が咲いていた。昨日まで蕾だったのが、一晩で開いたのだろう。花の匂いが鼻をかすめる。
足を止めない。遺跡に行く。古代語を読む。報告書を書く。わたしの冒険は、誰のためでもない。
誰のためでもないのだと、自分に言い聞かせながら歩いた。
一歩一歩が、昨日より重たかった。




