第9話 傍にいたい。理由はそれだけだ
三日間、わたしたちの間に会話はなかった。
ケイルは護衛の任務を降りなかった。ギルドからの正式な護衛依頼はまだ生きていて、ケイルはそれを全うする姿勢を崩さなかった。
ただ、距離が変わった。
以前は五歩後ろにいた。今は十歩。わたしが立ち止まるとケイルも止まり、わたしが歩けばケイルも歩く。影のように。何も言わず、何も求めず。
遺跡の調査は続けた。壁画の記録、古代語の翻訳、魔法陣の紋様の写し。手を動かしていれば、余計なことを考えずに済む。
羊皮紙にインクを走らせる。ペン先が石のような音を立てる。古代語の一文字一文字に集中する。文字は嘘をつかない。千年前に刻まれた言葉は、千年後も同じ意味を持つ。人間とは違う。
三日目の午後、遺跡の奥で碑文を見つけた。
壁の窪みに嵌め込まれた石板。他の碑文より小さく、装飾が施されている。花の彫刻が縁を飾り、文字は他の碑文より丸みを帯びていた。
読み始めて、顔が熱くなった。
恋愛詩だった。
古代アル・カナの民は、遺跡の壁に恋文を刻む文化があったのか。学術的に興味深い。興味深いのだが、今この状況で読むものではない。
古代語で書かれた、誰かの誰かへの恋文。
『わたしの言葉は足りない。いつも足りない。あなたの前では、覚えた言葉がすべて逃げていく。だからせめて、この石に刻む。千年後にも消えない文字で。わたしはあなたの傍にいたかった。それだけが、確かなことだった』
千年前の誰かの、生の感情が刻まれている。
「なんでこんなものを今……」
頬が熱い。革紐をいじる手が止まらない。
「何が書いてある」
ケイルの声。十歩離れたところから。近づいてこない。三日間の距離を保ったまま。
その距離が、今は少しだけ惜しい。いや、違う。学術的に重要な碑文の発見に際して、解読のパートナーが近くにいないのが不便だというだけ。
嘘だ。自分でもわかっている。
「あ、いえ。その。学術的に価値のある碑文です。恋愛に関する。文化史的な資料として」
早口になっている。自覚がある。止められない。
「古代アル・カナの民の恋愛観を示す一次資料で、碑文の書体から中期の貴族階級の人物が書いたものと推測され、花の装飾は当時の婚姻儀礼で使われたものと一致していて」
ケイルが黙ってこちらを見ていた。
「……つまり、ラブレターです」
「ああ」
それだけ。この人の語彙は本当に少ない。でも、その「ああ」の声色が、いつもと微かに違っていた。低いのは同じだが、どこか柔らかい。気のせいかもしれない。
沈黙が流れた。松明の火が揺れて、壁に影が踊る。千年前の恋文の前で、わたしたちは黙って立っていた。
◇◇◇
遺跡を出て、タルニスへの帰路。
夕暮れの森の中を歩く。木々の隙間から赤い光が差し込んで、地面に長い影を落としている。鳥の声が、日中より少しだけ穏やかに聞こえた。
ケイルが足を速めた。十歩の距離が、八歩になり、五歩になり。
落ち葉を踏む音が近づいてくる。革のブーツが地面を踏む音。この人の足音を、いつの間にか覚えていた。
そしてわたしの前に回り込んで、立ち止まった。
「話がある」
灰色の目が、まっすぐにわたしを見ていた。
首の後ろに手を当てている。照れているのだろうか。この人が。
「任務で近づいたのは事実だ」
知っている。
「お前の古代語の能力が目的だった。それも事実だ」
知っている。
「だが、今は違う」
ケイルの声が、ほんの少し掠れた。
「今は、ただ……」
言葉が途切れた。目が泳いだ。左手の手袋の手首を引っ張っている。何かを言おうとして、文の組み立てが追いつかない。
「傍にいたい。理由はそれだけだ」
声が低い。絞り出すような。
わたしの心臓が、胸の奥で跳ねるのではなく、ぐっと沈んだ。重力が増したような。足の裏が地面に吸いついて動かない。
信じたい。
信じたいと思っている自分が怖い。また利用されるかもしれない。また裏切られるかもしれない。五年間一人で準備してきたのは、誰にも頼らないためだったのに。
でも。この人は「信じろ」と言わなかった。「見ていてくれ」と言った。言葉ではなく行動で、と。それはずるい。ずるいくらい、わたしの弱いところを突いてくる。
「……信じていいの」
声が小さい。自分でも聞き取れないくらい。
ケイルが答えた。
「信じなくてい 。見ていてくれ」
その言葉が、不思議と胸の奥に落ちた。
信じろとは言わない。証明するから、見ていてくれと言う。言葉ではなく行動で示すのが、この人のやり方なのだと。いつもそうだった。荷物を持とうとしたこと。干し林檎を黙って入れたこと。背中で岩を受けたこと。
全部、行動だった。
言葉が信じられないなら、行動を見ろ。この人はそう言っている。口下手な人間の、不器用な、でもこれ以上ないくらい誠実なやり方。
返事をしなかった。
代わり 、歩き出した。
いつもより、少しだけ速度を落として。
ケイルが追いつける速度で。
五歩後ろにケイルの足音が聞こえた。十歩ではなく、五歩。もとの距離に戻っている。
◇◇◇
宿に戻って、自分の部屋で一人になった。
机の上に羊皮紙を広げて、今日の碑文の写しを清書し始めた。古代語の恋愛詩を学術的に正確に転写する作業。
『わたしはあなたの傍にいたかった。それだけが、確かなことだった』
ペンが止まった。
千年前の誰かと、今日の誰かが、同じことを言っている。偶然にしては、出来すぎている。
口元が、少しだけ緩んだ。
自分でもわからない。信じていいのか、まだ怖い。でも、ケイルの「見ていてくれ」という言葉が、胸のどこかに小さな灯りをともした。
消すのは簡単だ。でも、もう少しだけ、灯しておいてもいいかもしれない。
窓の外に星が見える。タルニスの夜空は、いつも通りに広い。
干し林檎を一つ齧った。甘酸っぱい。歯に当たる感触が心地よい。あの人が買ってきたもの。それを知っていて、捨てなかった自分のことは。
捨てられなかったのだ。正直に言えば。
まあ、いいか。今は、考えない。考えないと決めたのに、口元が緩んでいるのは、古代の恋愛詩のせいだ。千年前の誰かのせいだ。わたしのせいではない。断じて。
ペンを置いて、窓の外の星を見た。明日も遺跡に行く。明日もケイルが五歩後ろにいるのだろう。五歩。十歩ではなく、五歩。




