第13話 さあ、次の遺跡へ
タルニスの朝は、もう慣れたものだった。
宿の窓から差し込む光で目が覚める。鳥の声。通りを行く荷馬車の車輪の音。階下からパンの焼ける匂い。辺境の匂いだ。小麦と薪と、少しだけ林檎酒。
寝台から起き上がって、顔を洗って、髪を革紐で束ねた。鏡に映る自分の顔が、半年前より日に焼けている。頬の丸みが減って、顎のラインが出てきた。冒険者の顔になっている。
机の上に、手紙が一通。
昨日の便で届いたもの。コルヴェン侯爵家の封蝋。父の字。
『マレーネへ。学術会議の一件、こちらにも報告が届いた。お前の研究が正当に評価されたこと、父として誇りに思う。家のことは心配するな。お前の好きに生きなさい。侯爵家はこちらで何とかする。母がお前の好きだった焼き菓子を送りたがっているが、辺境まで届くか怪しいので、次にタルニスの近くを通る商人に託す。体を大切に。父より』
短い手紙だ。父はいつもそうだった。多くを語らない。ただ、必要なことだけを書く。
「お前の好きに生きなさい」の一文を、二度読んだ。
目の奥が熱くなった。鼻の奥がつんとする。
まあ、いいか。誰も見ていない。少しだけ、泣いてもいい。
◇◇◇
ギルドに降りると、いつもの風景が待っていた。
ガレスがカウンターの向こうで書類仕事をしている。ブリジットが隅のテーブルで弓の弦を張り直している。窓際に朝食の冒険者が三人。
「おはよう」
「おう」
ガレスが顔を上げた。
「王都から書簡が来た。お前宛じゃない、ギルド宛だ」
「内容は」
「学術会議の結果を受けて、お前の研究が王立学院に正式に登録された。『古代浄化魔法の構造的解析と応用』、著者マレーネ・コルヴェン。学院の記録から盗用論文は抹消される」
声が出なかった。
三年間。三年間、あの論文はリアーヌの名前で登録されていた。わたしの名前はどこにもなかった。
それが、戻ってきた。
「それから」
ガレスが続けた。
「エドモン王太子は学術会議での事態を受け、王の命により宮廷での発言権を制限された。リアーヌ・ベルタンは聖女の称号を剥奪。浄化魔法自体は使えるが、補助構造なしでは効果範囲が限定的であることが公表された」
ブリジットが弦を張る手を止めた。
「ざまあ」
一言。ブリジットらしい。
「ブリジット、品がない」
「本音でしょ」
本音だった。否定しない。
ただ、胸がすっとするのとは違う感覚がある。エドモンもリアーヌも、破滅したわけではない。二人は婚姻し、宮廷の片隅で静かに暮らすことになるのだろう。
それでいい。わたしが望んだのは復讐ではなく、自分の研究を取り戻すことだ。それは果たされた。
「もう一つ」
ガレスが封筒を差し出した。
「パルマス王国から。ギルド宛の外交文書だ。パルマス学術院がお前との共同研究を提案してきている。古代遺跡の国際的な調査プロジェクト」
「パルマスと?」
「ケイルの元同僚がお前の研究を評価しているらしい。正式な外交ルートを通じた提案だ。受けるかどうかはお前次第」
研究の道が、広がっている。
四ヶ月前、わたしは一人で辺境に来た。荷物ひとつ。金貨二百枚。古代語が読めるだけの、元侯爵令嬢。
今は違う。ギルドの仲間がいる。研究が認められた。隣国との共同研究の話まで来ている。
「考えます」
「ああ。急がなくていい」
◇◇◇
昼前に、古代語教室を開いた。
タルニスの子供たちが五人。前は三人だったが、隣の村から二人増えた。
「先生、この文字なんて読むの」
「これは『門』という意味です。古代の人は建物の入口にこの文字を刻みました」
「じゃあ、遺跡の入口にもある?」
「ありますよ。今度見に行きましょうか」
「行きたい」
子供たちの目が輝いている。この輝きを見ると、教えることが好きだった前世の自分を思い出す。大学のゼミで後輩に考古学の面白さを語っていたときの感覚。
教室が終わった後、ブリジットが近づいてきた。
「ねえ」
「何」
「あんたとケイル、付き合ってるの」
「は」
「昨日、丘の上で抱き合ってたの見たって、夜回りのトマスが言ってた」
頬骨のあたりが火照って、視界の端がぼやけた。
「それは、その」
「やっぱり。顔に書いてある」
「何が書いてあるんですか」
「幸せそう、って」
ブリジットが笑った。意地悪そうに。でも目元が柔らかい。
「よかったね」
「……ありがとう」
「あたしに礼を言うな。気持ち悪い」
言いながら、ブリジットの手がわたしの背中を軽く叩いた。
◇◇◇
午後、ギルドの掲示板に新しい依頼が貼り出された。
『南方未踏遺跡の探索調査。古代語読解能力を持つ冒険者を優先。護衛込みの二名以上のパーティー推奨。報酬:金貨十五枚。期間:一ヶ月』
ガレスが掲示板の前に立っていた。わたしと目が合って、にやりと笑った。
「面白そうな依頼が来たぞ」
「見ています」
南方の未踏遺跡。アル・カナの民の記録にも記載がない、最近発見された遺跡群。学術的価値は計り知れない。
背後に気配を感じた。振り返らなくてもわかった。
「行くのか」
ケイルの声。
「もちろん」
「そうか」
「あなたも?」
「当たり前だ」
この「当たり前だ」が、三ヶ月前とは違う響きを持っている。三ヶ月前は、任務の一環だった。今は、隣にいたいから隣にいる。それだけ。
ブリジットが横から割り込んできた。
「あたしも行く」
「え、いいの?」
「弓手がいないパーティーで未踏遺跡とか自殺行為でしょ。あんたの方向音痴も心配だし」
「方向音痴は関係ないでしょう」
「大ありだよ」
ガレスが笑った。
「三人か。いいパーティーだ。出発は来週。準備しておけ」
◇◇◇
夕方、荷造りを始めた。
革の鞄を開けて、中身を確認する。羊皮紙の束、インク壺、予備のペン。古代語の辞書。短剣の手入れ道具。干し肉の携行食。水筒。
干し林檎の袋を多めに入れた。
ケイルも好きだということを、最近知った。市場で買うところを見て「自分用じゃなかったのか」と聞いたら、「半分はお前の分だ」と言われた。半分。律儀な人だ。
荷物を詰め終えて、窓の外を見た。
タルニスの夕焼け。赤と紫と、薄い金色。半年前に初めて見た景色。あのときは綺麗だとか、そういうことを考える余裕がなかった。
今は、綺麗だと思える。
五年前、わたしは婚約破棄を待っていた。前世の知識で未来を先読みして、五年かけて準備して、あの日を待った。
今は、明日が楽しみだ。
何が起きるかわからない。遺跡に何があるかも、道中で何が待っているかも。方向音痴は治らないし、ケイルの言葉は相変わらず少ないし、ブリジットは口が悪い。
でも、それでいい。
明日のことは、明日のわたしが決める。
鞄の口を閉じた。革紐を結んで、肩にかけてみた。重さがちょうどいい。
「よし」
声に出して言った。前世からの癖。行動を起こす前の、いつもの一言。
さあ、次の遺跡へ。




