第10話 辺境の子供たちのためなら
辺境の村から、泣き声が聞こえてきたのは、夜明け前だった。
タルニスの宿で目を覚ましたとき、窓の外が騒がしかった。松明の光が揺れ、怒声と子供の泣き声が混じっている。
階下に降りると、ガレスがもう起きていた。カウンターに地図を広げて、険しい顔をしている。
「何があったんですか」
「国境付近の古代魔法陣が機能不全を起こした。結界が弱まって、魔獣が辺境の村に侵入し始めてる。ミルヴァの村が被害を受けた。子供が二人怪我をしたらしい」
胃の奥が重くなった。
ミルヴァの村。タルニスから半日の距離にある小さな集落。先月、古代語教室の出張版を開いたとき、子供たちが集まってくれた場所だ。小さな教会の裏庭で、地面に古代語の文字を棒で書いて教えた。
「先生、この文字なんて読むの?」と目を輝かせていた男の子。「わたしも遺跡に行きたい」と言っていた女の子。靴を脱いで裸足で走り回っていた、元気の塊のような子供たち。
あの子たちが。
「魔法陣の修復は可能か」
ガレスの問いに、考える前に口が動いた。
「可能です。わたしが遺跡で解読した情報があれば」
言ってから、自分の言葉の重さに気づいた。
古代防衛魔法陣の修復。それはつまり、王宮の防衛網に関わる仕事だ。ギルド経由の外部委託という形とはいえ、実質的に王宮のために働くことになる。
ブリジットが酒場に入ってきた。弓を背負ったまま、わたしの顔を見た。
「マレーネ。行くなよ」
「え?」
「また利用される。あんたの能力だけ吸い取られて、用が済んだらポイだ。王都のときと同じになる」
ブリジットの声は硬かった。この人なりの心配だと、わかっている。
ガレスが腕を組んだ。
「ブリジットの言い分もわかる。だがな、辺境の人々のためには必要なんだ。魔獣が村に入り込んでる現状を放置はできない」
二人の言葉が、頭の中でぶつかっている。
ブリジットは正しい。利用される危険はある。王宮は一度味をしめれば、何度でも要求してくる。
ガレスも正しい。辺境の村に魔獣が入り込んでいる。子供が怪我をしている。放っておけるわけがない。
どちらも、わたしのことを考えてくれている。
「少し考えさせてください」
部屋に戻った。寝台に座って、壁を見つめた。壁の木目に小さな節穴がある。前からあったのか。気づいたことがなかった。
ブリジットの言う通りだ。また利用される危険はある。「辺境のため」という名目で始まった協力が、いつの間にか「王宮の道具」に戻っている。そうなるかもしれない。
でも。
ミルヴァの子供たちの顔が浮かぶ。「先生」と呼んでくれた声が耳に残っている。
わたしの知識が、あの子たちを守れるなら。
わたしの能力を道具として使われることと、わたしが自分の意志で能力を使うことは、違うはずだ。使うか使わないかを決めるのは、わたし自身でなければならない。
一晩、というより、明け方まで考えた。寝台の上で天井の木目を数えながら。
五年前のわたしなら、迷わず断っていただろう。王宮のために働くなんて。利用されるだけだ。逃げろ。一人で生きろ。
でも、今のわたしは五年前のわたしではない。
辺境で半年を過ごした。仲間ができた。子供たちに「先生」と呼ばれた。ギルドで「おかえり」と言われた。
一人で生きることだけが自由ではない。自分で選んで、誰かのために動くことも。それが自分の意志であるならば。
窓の外が白み始める頃、答えが出た。
◇◇◇
朝、ギルドに降りた。ガレスとブリジットが待っていた。
「辺境の子供たちのためなら、やります」
二人が黙ってわたしを見た。
「ただし条件は変えません。わたしの研究成果はわたしの名前で発表される。王宮への帰還はしない。この修復はギルドの依頼として処理し、報酬はギルドの基準に準じる」
ガレスが頷いた。ブリジットは納得していない顔だったが、何も言わなか た。
「それと」
言いかけたとき、ギルドの扉が開いた。
ケイルだった。
「一人で行くな」
朝の光を背負って、ケイルが立っていた。革の胸当て、長剣、左手の擦り切れ 手袋。いつもの装備。
「来るの?」
「当たり前だ」
その「当たり前だ」の響きが、以前とは違った。
以前は「仕事だ」だった。任務としての同行。今は違う。「当たり前だ」。個人の意志としての同行。
ケイルの胸当てから、パルマス騎士団の紋章が消えていた。
外したのだ。紋章を。任務ではな 、自分の意志で、ここにいることを示すために。
胸の奥で、何かが軋んだ 嬉しいのか、怖いのか、両方か。
言葉にならなかった。
この人にとって、騎士団の紋章がどれほど重いものだったか。わたしが侯爵家の紋章を捨てたのとは、意味が違う。わたしは逃げるために捨てた。この人は、留まるために外した。
「じゃあ、行きましょう」
それだけ言って、歩き出した。
ギルドの前で、タルニスの子供たちが三人、不安そうな顔で立っていた。古代語教室の生徒たちだ。
「先生、行っちゃうの?」
「行くけれど、帰ってきますよ。教室の続きをしないといけませんから」
男の子がわたしのチュニックの裾を掴んだ。
「約束?」
「約束です」
膝をついて、目線を合わせた。小さな手を握った。乾いた、温かい手。わたしの手より随分小さい。この手が、遺跡の古代文字を棒で地面に書いていたのだ。あの不器用な線を、わたしは覚えている。
立ち上がったとき、ケイルが横に立っていた。子供たちを見る目が、いつもとほんの少しだけ違っていた。柔らかいというのではない。何かを守ろうと決めた人の目。
ブリジットがため息をついた。
「行ってきな。あたしは留守番してる」
「ブリジット」
「子供たちの教室、あたしが代わりにやっとくから。弓の使い方なら教えられる」
不器用な優しさだ。弓の名手で、口が悪くて、でも誰より仲間想い。目元が少し赤い。
「ありがとう」
今回は、その言葉がすんなり出た。
タルニスの門を出て、国境の遺跡に向かう道。ケイルが隣を歩いている。五歩後ろではなく、隣に。
肩が触れそうな距離。この人の体温が、空気を通して伝わってくる。
辺境の風が、南から吹いていた。夏の匂いがする。草と土と、遠くの水の匂い。
前を向いた。国境の遺跡がある方角。あの方角が南であることは、さすがにわかる。隣にケイルがいるから。
まあ、いなくても。たぶん。
たぶん、わかる。




