第三幕 セイレーンの噂と、忍び寄る影
スワラティ竜王国からラグイアーナ王国に到着した後のこと。
転送装置のある建物の出口は国境検問所のすぐ近くだった。検問所に到着したアンジェリーナはいつものように入国の手続きをしようとしたのだが。
「何かものすごく見られている感じがしますねー」
「感じどころか、しっかり監視されているぞ」
「ジルが兵士の立場だったとして『安心してください、怪しい者ではありません』と力説したら納得してくれます?」
「絶対にやるなよ、そっちのほうが怪しい」
「おかしいですよね。今回は嘘もついていないし、ごまかしてもいないのですが……正々堂々と乗り込んだほうが疑われるというのはどういう理屈なのでしょう」
想像していた展開と違ったことにアンジェリーナは首をかしげる。
検問所の入国審査で玉璽の押された手紙を兵士に見せたら、あわてた顔をしてどこかに連絡を入れていた。それからずっとこんな感じだ。
ちなみにラグイアーナ王国側には今日入国することを事前に魔道具の手紙で知らせている。転送装置を使ったせいで想像以上に早く着いたから驚いて、という理由でもなさそうだ。
周囲を見回したジルベルトは兵士達の刺すような視線を軽く受け流した。
「アンジュは国に依頼された仕事を受けただけだし、ここまで警戒される理由はないはずなんだがな」
「入国できなければ頼まれた仕事もできませんしね」
そういえばアンジェリーナがスワラティ竜王国に呼ばれたときは、こんなふうに検問所で止められることはなかった。それどころかセザイア帝国のときなんかもう、入国から公館に招かれるまで疑問に思う隙もなく流れるように……流れるように?
ここでハタと我に返ったアンジェリーナはジャミルを振り向いた。表情からアンジェリーナの心の声を読んだのか、彼はここぞとばかりに麗しい笑みを浮かべる。
「何かご質問でも? 懇切丁寧にご説明いたしましょうか?」
「あはは、いりません!」
アンジェリーナはあわててジャミルから視線をそらした。
彼のあの表情。セザイア帝国の待ってましたとばかりに完璧な受け入れ態勢は、使えるなら囲い込もうとする意図が裏にあったから。
あのときは、あまりにも自然で気がつかなかったよ!
ただセザイア帝国もスワラティ竜王国も。仕事を依頼する立場ということで、こういう手続きでこちらの手をわずらわせることはなかった。
そう考えるとなぜここまでアンジェリーナを警戒するのかがわからない。
状況を知るためにまずは情報収集からということでアンジェリーナは周囲を散策することにした
「ジル、ちょっと散歩してきますね」
「あまり遠くに行くなよ?」
「おまかせください!」
何も言わないが、ジルベルトの顔には心配という文字が浮かぶ。
露店で商品を見ながら、アンジェリーナはウロウロとさまよう。すると離れた場所で同じように足止めされた旅装姿の女性達がひそひそと噂話に花を咲かせているのに気がついた。横を通り過ぎたアンジェリーナの耳に、偶然彼女達の会話が聞こえてくる。
「なんでもセイレーンが現れたらしいわ」
「ああ、だからいつも以上に入国審査が厳しいのね」
「行方不明になった人もいるそうよ」
すると女性のうち一人が、声をひそめる。
「ねぇ、そういえばラグイアーナ王国の第一王女は、セイレーンのように美しい声の持ち主だと言われているみたいじゃない。もしかして王女が実は……なんてことはない?」
「ちょっと! この状況で人に聞かれたらさすがに不敬よ」
アンジェリーナは一瞬足を止めた。
物騒な会話だ、特にセイレーンという言葉が妙に気にかかる。
ジャミル様はラグイアーナ王国にはそう呼ばれる人気の歌姫がいると教えてくれたけれど、彼女達の会話を聞く限りではその歌姫のことではないようだ。
もしかして歌姫とは別に、本物の魔物――――セイレーンが出現したとか?
急いでアンジェリーナは鞄からおばあさまの知恵袋を取り出した。
セイレーンは元々、河を守護する精霊だった。美しい容姿と類まれなる歌の才能に恵まれた、神に愛されし乙女。けれどあるときセイレーンのは神の怒りに触れ、魔物へと堕とされた。
極上の歌で船乗りを惑わし、船を難破させて人を襲う悪しき魔物に。
魔物に変えられたセイレーンの容姿は上半身は人間でありながら下半身は硬い鱗におおわれた魚だと言われている。水中で呼吸しながら尾びれを使い、自由に動き回って船乗りを海に引きずりこむ。
ただし、容姿の特徴はそう言い伝えられているだけ。出現率が低く、伝説上の生き物とされているくらいだから本当のところはわからない。
おばあさまの知恵袋を閉じてアンジェリーナは顔を上げた。離れた場所から検問所の様子を探る。
魔物を警戒しているだけにしては兵士の尋問が厳しい。それを見守る周辺の住民も不安そうだ。殺伐とした空気に、落ち着きを欠いたような態度。
アンジェリーナはなんとなく察した。
伝説のように尾びれがあるとか、魚のような鱗があることはもはや関係なく。国の外から来る人間は誰でも疑わしいという精神状態になっているのではないだろうか。
彼らの根っこにあるのはセイレーンという未知なる存在への恐怖。
散策を終えたアンジェリーナはジルベルトの隣に戻るとつぶやいた。
「そこまで追い込むなんて、噂のセイレーンは何をしでかしたのかしら?」
「どうした、アンジュ」
「いや、それがですね」
つぶやく声を拾って、怪訝そうな顔をしたジルベルトにアンジェリーナが内緒話をするように顔を寄せる。
そのときだった、手紙を携えた兵士があわてた顔で駆け戻ってきた。
「大変失礼しました。確認が取れましたので公館にご案内します!」
緊張が解けて、アンジェリーナはほっと息を吐く。
無事に入国できそうだ。
そんなふうに気を抜いたのがたぶん良くなかった気がする。このときアンジェリーナの記憶から、きれいさっぱりセイレーンの情報が抜け落ちてしまった。
ーーーー
検問所からは人の操る舟に乗って移動するのが定番らしい。
ドキドキしながらアンジェリーナはジルベルトに手伝ってもらって舟の最後部にある席に座った。船頭の出発の声を合図に、舟は水の上を揺れながらゆっくりと進んでいく。
目指すはラグイアーナ王国の首都ハイランジア。
ハイランジアとは古語で水の花という意味だ。
ラグイアーナ王国は、大きな島を中心として花びらのように散らばる小さな島を橋で繋げてできている。国中を水路が走り、陸同士をつなげる橋の数がとても多い。船頭は器用に舟を操って、せまい橋の下をくぐり抜ける。
はじめて見る光景に興奮したアンジェリーナはできるだけ控えめ(本人比)、はしゃいでいた。
「すごい、手を伸ばすと橋げたに触れますよ!」
「突然ふわっと動くな、危ない落ちる!」
こんな感じで。
ジルベルトは絶妙にふわふわ動くアンジェリーナを片手で座席に固定しながら、もう一方の手で自分の痛む胃を押さえている。
運河を滑るように進む舟の両側には河川の水をせき止める石が積まれ、その上に花壇を作って花を育てていた。
レンガを組み合わせた建物が並び、道を歩く女性達の服装にはレースやリボンなどの飾りがふんだんに使われていて華やかだ。
周囲を見回したアンジェリーナは、うっとりとため息をついた。
「宝石のように美しい街並みですね」
「ああ、そうだな」
想定よりもずっと近い場所でジルベルトの声がする。景色に夢中になっていたアンジェリーナはようやくそのことに気がついた。
小さな舟では隣に座る人との間隔が驚くほど狭い。しかも先ほどからずっとジルベルトの片腕はアンジェリーナの腰に回されている。アンジェリーナが視線を上げると、こちらを見つめるジルベルトの眼差しが甘くて思わずドキッとした。
いつも以上に近いいいいー!
逃げ場はないし、体が完全に密着している。
声にならない悲鳴を上げて、アンジェリーナは顔を真っ赤にして固まった。
船頭が舵を切って舟を大きく動かすと、船体が揺れて小さな波が起きる。跳ねた水からかばうようにジルベルトはアンジェリーナの腰に回した腕を強く引いた。
揺れのせいもあって、抱きつくような格好になる。受け止めたジルベルトの吐息が首筋に触れてアンジェリーナの鼓動が大きく跳ねた。
ジルベルトは目線を船首に固定したまま顔を近づけて、アンジェリーナの耳元でささやく。
「大きく揺れたな、濡れなかったか?」
「平気です。で、ですがあのジル」
「ん、どうした?」
「少しばかりくっつき過ぎではありません?」
ちょっとばかり、アンジェリーナの声が震えているのは舟が揺れたせい。
うっかり動揺してしまったのを笑ってごまかす。すると動揺を見透かしたようにジルベルトの口角が引き上がった。
「揺れる舟の上なら、誰も文句は言わないだろう」
「そんなことは」
「私だって皆にアンジュを自慢したいからな」
「まさかいつかの仕返し!」
「ちょうどいい、ついでに誰のものかはっきりさせておくか」
周囲の人、特に男性陣へと視線を投げるとジルベルトはアンジェリーナのおでこに柔らかな口づけを落とす。
ちょっと待って、こんなたくさんの人がいる前で!
とっさに声が出なかったアンジェリーナは心の中で叫んだ。
ジルベルトは腕の中に捕らえた獲物、アンジェリーナと視線を合わせてくくっと笑った。
「これはいいな、アンジュがおとなしくなる」
「お……覚えてなさいよ」
苦しまぎれの捨て台詞くらいしか、今のアンジェリーナは言えない。
溺愛を隠さないジルベルトの姿に、道を歩く若い女性達のひかえめな歓声が聞こえてくる。水路沿いから注がれる興味津々という熱い視線を感じてアンジェリーナは赤くなった顔を両手で覆った。
ーーーー
水路沿いの道を走る一際華やかな馬車が止まった。
傷一つない指先が窓にかかるカーテンを軽く上げる。
御者に合図を送ったのは女性で、彼女は御者の手を借りて降り立った。引き寄せられるように視線を向けた人々は思わず息を呑んだ。
そこにいるのはラグイアーナ王国が誇る美を極めたような女性だった。
陶器のように滑らかな白い肌、複雑に結い上げられた赤褐色の髪。腰は驚くほど細く、すらりとした体つき。惜しむことなく手間と時間をかけて磨き抜いた美しさだ。
その女性は豊かな胸元を強調する華やかなドレスを身につけて、羽飾りのついた目立つ帽子をかぶっていた。
まるで大輪の花のように、人目を引きつけて離さない圧倒的な存在感。さらに数台の馬車が続けて止まると貴族然とした男女が何人も降りてくる。権力を誇示するように彼女の周囲を男女が取り巻いた。無言の圧力に負けて、人々は場を譲る。
一気に開けた女性の視界に、水路を走る舟が見えた。なんとなく目の前を過ぎる舟の上を眺めていた視線が、ある一点で止まる。
研ぎすまされた剣のような銀の髪と瞳をした男性に視線が引き寄せられる。
端正な顔立ちに、真っ直ぐに伸びた背筋。旅装で隠していても、一般人とはあきらかに異なる存在感を放っている。しなやかでありながら筋肉がついている体つきは、おそらく騎士だ。
あの顔、どこかで……。
一瞬、男性と女性の視線が交差する。射抜くような強い眼差しに女性は口角を上げた。通り過ぎた男性の背を追うように、女性の白魚のような指が伸びる。
「あの男性……どこかで見たことがあるわね」
「調べてまいりましょうか?」
取り巻きの男がすかさず彼女に声をかける。
すると女性の薔薇のように赤い唇が弧を描いた。妖艶でありながら、純粋さも感じさせる微笑み。そして誰もがうらやむ美しい声が言葉をつむいだ。
「ええ、お願い」
「かしこまりました」
この美しい声で願えばすべて叶う。例外は一度もなかった。
調べると言った男性は軽く一礼すると、ふたたび馬車に乗り姿を消した。女性は小さくなっていく舟を視線で追いながらつぶやいた。
「美しいものは大好きよ。ぜひ蒐集品に加えたいわね」




