第十三幕 婚約破棄は、おもしろいのでしょうか
光を弾いて、海面がキラキラと輝く。
美術品のような劇場は首都ハイランジアのすぐそばにある島の一つに建っている。遠目には、まるで海の上に建物が浮かんでいるように見えるのが特徴とか。
「島に掛かる橋はなく、劇場に行くには舟に乗らなくてはならないそうだ」
「ここでも舟を使うのですか!」
「観光客が多い季節は船着場が着飾った人々でとても華やからしい」
アンジェリーナの手を握ったジルベルトは劇場のある方角を指した。今は海沿いの道を歩きながら、目的の店に向かっているところだ。
カモメが鳴いて、寄せては返す波の音が響いている。
アンジェリーナは軽やかな足取りで、弾むような声を上げた。
「驚きました。こんなおだやかな時間が流れる場所があるのですね!」
「ラグイアーナ王国は出会う人物も、起きる出来事も。なんだかあわただしいものな」
ジルベルトと顔を見合わせて、アンジェリーナは苦笑いを浮かべる。そして数歩遅れて背後を歩くアレスティオを振り向いた。
「これから行くお店はアレス様のご紹介なのですよね」
「おう、我が国の出荷する宝石を使った貴金属を扱う店だ。ついでにルベルにも、大好きなピカピカした石を見せてやろうと思って連れてきた!」
ルベルがうれしそうにアレスティオの腕の中で鳴いた。頭を一つなでて、アレスティオは隣を歩くジャミルに視線を向ける。
「そういえばジャミルも同じ店に用があるとは偶然だな!」
「本日の商談相手は装飾品も所望されているのですよ。スワラティ産の宝石は質が良いと評判なので、いくつか候補を選んでほしいというお話でした」
ゆったりと笑って、ジャミルは手に持った冊子を掲げる。
「今日行く店は隣接する店舗が服飾専門でドレスも扱っているのです。新作もあるそうなので、アンジェリーナは見るものがたくさんありそうですね」
ジャミルの言葉に、美しいものしかない世界を想像して胸を弾ませる。
宝石に、ドレス。
きっとこれまでアンジェリーナが見たことのないものばかりだ。
ーーーー
店に到着すると、物腰の柔らかな女性の店員さんが一人ついた。
どんな商品が並んでいるのか、ガラスケースを指しながらアンジェリーナに教えてくれる。
「こちらが装飾品の売場です。最近はこちらのスワラティ竜王国産のダイヤモンドや紅玉などを使用したものが評判ですわ」
アンジェリーナの背後から、アレスティオが顔を出した。
「おー、これか。ほら、これがルベルの好きなピカピカした石だ!」
アレスティオはルベルと一緒にガラスケースをのぞき込む。アンジェリーナは一人と一匹の背中を見つめて、ふふっと笑った。
異色の組み合わせなのに、しっくりと店内になじんでいるのが不思議だ。
アンジェリーナはジルベルトの耳元に顔を寄せてささやいた。
「不思議だと思いません? ああやってのぞき込んでいるときのアレス様とルベルは、同じように背中を丸めるのですよ!」
「本当だ、曲げた背骨の角度が良く似ている」
ジルベルトは小さく笑って視線を合わせると、アンジェリーナの手を引いた。
「アンジュ、こちらに違う種類の商品もあるみたいだ」
指輪を置いてある区画へと、さりげなくアンジェリーナを誘導する。
「アンジュはどの指輪が好きだ?」
「どれも素敵です、種類も色も形も。本当にいろいろあるのですね!」
アンジェリーナは瞳を輝かせた。
大きな石のついた豪奢な商品から、小ぶりの石を使ったかわいらしい雰囲気の物までそろっている。興味津々という顔でアンジェリーナがガラスケースをのぞいていると背後からジャミルの声がした。
「では私はこのまま別室へ打ち合わせに行きますね」
ジャミルは小箱に鈍い光を放つ紫色の小瓶をしまうと店の奥へと消えて行った。
慣れた様子にアンジェリーナはふと不安になる。
お店の格調が高いというか、私だけ場違いではないかしら?
店内は独特の雰囲気があってアンジェリーナは気後れしてしまう。居心地が悪そうに揺れる背にジルベルトは手を添えた。
「まずはドレスを選ぼうか」
「ドレス、ですか?」
「劇場に入るにはドレスコードがある。アンジュの気にいる物があったら私に贈らせてほしい」
ジルベルトは視線を合わせたまま、アンジェリーナの指先に唇を寄せる。
態度も、視線も甘やかに。指先にまで敬意を払って。
大人の女性として扱われたことに気がついたアンジェリーナの胸の奥が緊張のせいで震える。初々しく頬を染めたアンジェリーナに女性店員は品よく笑った。
「お嬢様、愛されていらっしゃいますわね。でしたら装飾品は男性の色に合わせて銀細工にいたしましょう。ルシャの工房で製作された新作もご用意しております」
「それと私には彼女の色のものを」
「かしこまりました、紫を基調とした男性用の小物もご用意いたしますわ」
「紫は、私の好きな色なのです」
止めとばかりに柔らかな口調でジルベルトに言われたら、もう無理だった。真っ赤な顔をしたアンジェリーナは高鳴る胸を押さえる。
やる気みなぎる女性店員に好みを聞かれて、アンジェリーナが気づいたときにはドレスと装飾品一式がそろっていた。
しかも流れるように支払いまで済んでいるらしい。
とまどうアンジェリーナに女性店員は真面目な顔をする。
「こういうときは、男性にお礼を言って素直に受けるのが淑女です」
うん、世界が違いすぎる。
そう思ったアンジェリーナはそれ以上深く考えるのをやめた。
「ラグイアーナオペラの鑑賞に行かれるお客様は、サービスでお召し替えの手伝いをしておりますの。さあ、こちらへどうぞ」
「よ、よろしくお願いします?」
「髪は結い上げましょうか、それともハーフアップにしたほうが素敵かもしれませんわね。お化粧は色を最低限にして、艶と輝きを足しましょうか。それとも普段はなさらないようなくっきりとした化粧にして……ああもう、磨きがいがありすぎて想像力が無限に広がりますわ!」
あまりにも獲物……アンジェリーナが素人感満載なので、それが逆に女性店員のやる気に火をつけたらしい。店を出るころには「いつ魔法使ったのかな」と驚愕するくらいに隙なく準備万端だった。
アンジェリーナに視線を合わせると女性店員は微笑んだ。
「馬車を呼んでおります。お連れの方の準備も終わってお待ちになっていらっしゃるので、お呼びしてもよろしいですか?」
「はい」
「私が保証します、今のお嬢様は完璧です。自信をお持ちくださいね!」
「ありがとうございます!」
女性店員に促されて、アンジェリーナは鏡に映る自分の姿を確認する。
髪は片側にまとめて、銀細工で飾った。イヤリングとネックレスはお揃いの物、ドレスは淡い紫色で、動くたびに裾のひだが優雅に揺れる。
思えば、アンジェリーナはドレスを着たのが初めてだった。
やはり専門家は違う。自分で着ても、きっとこううまくはいかない。
「アンジュ」
カーテンが開いて、アンジェリーナは振り向いた。目の前には盛装をしたジルベルトがいる。差し色に紫を取り入れて、銀の瞳と髪には艶のある黒い生地を使った盛装がよく映える。差し色の紫は自分の色だと思うと余計にうれしくなって、アンジェリーナの顔がパッと輝いた。
「素敵です、とてもよく似合っていますね!」
アンジェリーナの声が聞こえたはずなのに、軽く目を見開いたままジルベルトが固まっている。首をかしげると髪に飾った銀細工の飾りが揺れて、シャラリと繊細な音を立てた。
「どうしました?」
「すまない、アンジュが想像を軽く超えてきたから。可憐な妖精みたいだ」
じわじわとジルベルトの目元が赤くなる。
アンジェリーナは微笑んだ。
「ドレスも、装飾品も。素敵な物を贈っていただいてありがとうございます」
「気に入るものがあってよかった。こちらこそ、ありがとう」
アンジェリーナがお礼を言ったら、なぜかお礼で返された。
くすぐったいような甘い空気が流れる。
「馬車が到着しました。ご一緒に来店された方々はお帰りになっております。お二人でどうぞごゆっくりラグイアーナオペラをお楽しみください」
笑顔の女性店員に見送られて馬車に乗り込む。
ジルベルトはいつものように、アンジェリーナへと手を差し伸べた。
「どうぞ」
「ありがとうございます!」
アンジェリーナはジルベルトの手に自分の手を重ねる。
こうして馬車に乗るのもはじめてだ、ラグイアーナオペラを見るのもはじめて。
今日はきっと忘れられない日になる、そんな予感がした。
ーーーー
支度に時間をかけていたから気づかなかったけれど、アンジェリーナが劇場に到着したときすでに日が落ちかけている。柔らかな午後の日差しが劇場を一層きらびやかに輝かせた。
馬車から降りたアンジェリーナは劇場を目の当たりにして言葉を失った。
「本当、宝石みたいに美しい場所ですね」
「この劇場はラグイアーナ王国が誇る美の粋を集めたと言われている」
見とれていたアンジェリーナは、深く息を吐いた。
「ラグイアーナ王国はとても不思議な場所ですね。悪い面しか見えていなかったけれど、美しいものを生み出す才能は別格です」
悪徳商人の国とも呼ばれているのに、これほど美しいものがある。そして聖なる果樹が育ち、精霊が暮らしていた。
腹立たしいことが多いけれど、ないがしろにもできない。人を守るには聖なる果樹も精霊も必要で、失われてしまえば二度と取り戻せないものだった。
アンジェリーナが船着場で船を待っていると、入れ替わるように馬車へ乗り込む人々が午前の部で見た喜劇の内容を話している。
「婚約破棄のお話は何度見ても本当におもしろいわよね!」
「ええ。特に悪役令嬢が断罪される場面は心がスッとするし、深く感動するの」
「実話が元になっているというのも興味深いですわ。きっと件の公爵令嬢は、今ごろ後悔されているのではないかしら」
軽やかに笑って、人々は馬車に乗って立ち去って行く。
その後ろ姿を見送ったアンジェリーナはポツリとつぶやいた。
「……婚約破棄は、おもしろいのでしょうか」
「絶対に違う。現実にそんなことがあってはならない」
ジルベルトはアンジェリーナの手を固くつかんだ。
「破棄した後で傷つく人がいる。実話で当事者もいるのに、おもしろいわけがない」
「よかった、私の感覚がおかしいのかと思ってしまいました」
アンジェリーナは、深々と息を吐く。
そして傷ついたような、あきらめた顔で笑った。
「ジルにも聞かれたでしょう。最近は、婚約破棄と聞いても気にならなくなりました。ですが『おもしろい』とまで言われてしまうと、さすがに動揺します」
「アンジュ……」
「私はもう、無理やり結ぶような婚約はこりごりです」
淡く笑って、それから思い出したようにアンジェリーナは首をかしげる。
「そういえば、ジルは私に聞きたいことがあるのですよね?」
小さく息を吐いてジルベルトは首を振った。
「……いや、もう大丈夫だ」
聞けるわけがない。ジルベルトはそう思った。
ーーーー
舟に乗って劇場のある島へと渡る。
そこから階段を上がってすぐのところに入口があった。
両開きの扉が大きく開いていて、着飾った紳士淑女がにぎやかに笑いながら次々と扉の奥へと消えていく。
アンジェリーナは壁に飾られた浮き彫り細工の前で足を止めた。泡と水の意匠と一緒に髪の長い端正な顔立ちの女性が彫られていた。そして女性の下半身は魚のように鱗と、尾びれがある。
浮き彫り細工に触れながら、アンジェリーナは首をかしげた。
「これがセイレーンの姿でしょうか。だとすれば、やはり人間とは違いますね」
「だが異国では腕の代わりに翼が生えているとか、鷲のような鋭い爪があるともいう。そう考えると、この姿も想像でしかない。もしかすると我々と変わらない人間の姿で、今もこの場所に潜んでいる可能性があるかもしれないな」
建物を見上げながら、ジルベルトは鋭い眼差しを入口の奥へと向ける。
二人で劇場の入口を一歩くぐると、その先には別世界が広がっていた。
いたるところに華やかで格調高い調度品が並び、シャンデリアのガラスから落ちた光が窓ガラスにキラキラと反射している。
白く長い階段が優美な曲線を描き、赤い絨毯がどこまでも続いている。優しく典雅な音楽の調べが、どこからともなく響いていた。
圧倒されたアンジェリーナは思わず声を上げる。
「迫力がありますねー」
「この建物は、もともと貴族の別荘だったらしい。それを改装して劇場にしたら大当たりだったと」
「だからこんなに豪華なのですね、っと」
「ほら上ばかり見て、よそ見するな。足元に気をつけて」
ジルベルトにエスコートされてアンジェリーナは階段をゆっくりと上がっていく。特別席は最上階にあるそうで、だんだんと人の姿がまばらになる。
そこからさらに廊下を進んだ先にある扉が特別席へとつながるようだ。
「ようこそおいでくださいました」
特別席の入口には支配人がいて、一礼すると扉を開ける。扉の先には観覧席があって、そこから見える景色もまた美しかった。
舞台の周囲を花であふれるほどに飾って、一際大きなシャンデリアが舞台を照らす。天井の中心部に下がったシャンデリアは太陽のように輝いている。
「もう間もなく公演が始まります。終わりましたら歌姫があいさつに参りますので」
「歌姫が、こちらに来てくださるのですか?」
「はい、それではどうぞ最後までお楽しみください」
扉が閉まると同時に客席の照明が落ちて、比類なきラグイアーナオペラがはじまった。




